富士山麓の地域が分からない方へ

2013年5月7日火曜日

村山修験と富士郡各地域間との富士野論争

村山修験の衰退の理由の1つとして、そして村山の凋落を物語る出来事として「富士野論争」がある。この論争は比較的知られているが、複雑で掴みづらい所はある。

しかしこの論争が、基本的には「大宮と村山」という二大勢力間で行われたことは間違いない。そしてこの富士郡において大きな動きであったことは間違いないだろう。

※富士野とは富士上方の富士山西南麓一体を指す。古くは『吾妻鏡』などで名が見える
  • 明歴期の論争
以下の15もの地域が村山三坊の大鏡坊を訴えたのが明歴期の論争である。
  1. 富士郡大宮町
  2. 山本村
  3. 星山村
  4. 岩本村
  5. 入山瀬村
  6. 杉田村
  7. 久沢村
  8. 厚原村
  9. 野中村
  10. 中里村
  11. 下小泉村
  12. 若宮村
  13. 源道寺村
  14. 黒田村
  15. 淀師村
この争論は以下のような過程で経過していく。


年代内容差出→宛所
明歴2年6月14日大鏡坊と大宮町の野論について評定所で吟味するも、不明分として、論所の見分や解決を、勧定頭たちは代官に委ねる勧定頭・寺社奉行→代官
明歴2年11月25日誓紙をして立会絵画を作成し、江戸へ出頭するよう、勧定頭たちは直接大鏡坊へ指示する勧定頭・寺社奉行→大鏡坊
明歴3年6月19日論所が留山にもかかわらず草刈したり、公事相手の村へは通常の二倍の富士参詣の役銭を要求するなど、大鏡坊の非法を、村から訴える若宮村他6ケ村→奉行所
明歴3年10月18日論所を見分けした手代とともに、誓紙をしない大鏡坊を速やかに江戸へ出頭するよう、三奉行が代官に指示する三奉行→代官
明歴3年12月17日大鏡坊が堺をつけた論所の3分の1を、大宮町と他の村々へ渡す内済案を、大鏡坊から大宮町へ渡す大鏡坊→大宮町など
明歴4年4月14日墨筋の境目を社領として認める裁許三奉行→大鏡坊・大宮町他14ケ村

史料5の段階では、訴訟側の地域として「天間」「上中野」「若宮村」が追加されているようである。

また寛文9年には別の野論が再燃しており、大鏡坊により富士野への草刈が留められたことを発端に蒲原領・加嶋領・甲府領の39の村が訴えを起こしている。

  • 延宝の争論
明歴期の論争にて確定した(村山三坊支配の)境界外の場所において新規に薪取りを止められ、また鎌取などの被害にあったことを発端とし、延宝2年(1674)に蒲原領・加嶋領・甲府領の37の村が訴状を提出して村山三坊の非法を訴えた論争が延宝の争論である。

延宝の争論は以下の過程で経過していく。


そして延宝7年についに決着することとなる。それが以下の裁許である。



駿河国富士郡大宮町、以下蒲原領・加嶋領・甲府領などの計42の村々が冨奥院・村山三坊を訴えたものである。この裁許状は老中大久保忠朝以下10名の老中と三奉行が連名している。内容は以下のようなものである。

  • 冨奥院の流罪
  • 村山社領とされた地も含めて、論所は「入会地」と新たに認定する
  • 地西坊・大鏡坊の江戸十里四方と駿河国の追放
  • 村山修験と関わる山宮・粟倉・上小泉村の人々の追放

これにより、村山修験の浅間社のある土地などは、富士山信仰の地としての性格は大きく薄れたとみてよいだろう。また村山三坊の追放などから、力・権威を大きく失うこととなった。村山修験衰退の1つの原因であることに間違いないだろう。

  • 参考文献
  1. 宮原一郎,「近世前期の富士村山修験と野論争論」『國學院大學校史学術資産研究(紀要)第3号』,2011

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