富士山麓の地域が分からない方へ

2013年11月1日金曜日

河東の乱時の富士氏

駿河国富士郡領主としての富士氏」にて「富士九郎次郎証状」を掲載しました。同文書では小泉久遠寺について「及十ケ年大破候」と記し、天文15年から遡ること10年前頃、何らかの理由によって大破したことがわかります。


そこで「10年前」を考えてみますと、丁度「河東の乱」の頃なのです(「河東の乱」については「駿甲相三国同盟」を御参照下さい)。しかもこの富士上方(≒富士宮市)付近は河東の乱の主戦地に該当する。池上裕子,「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」には以下のようにある。

天文6年2月26日、氏綱は駿河に出陣した(『快元僧都記』)(中略)『妙法寺記』のいうように、北条軍は富士川を越えて興津まで進み放火したかもしれない。しかし、右(注:『快元僧都記』)の3月4日条にあるように、富士川以東=河東の富士郡・駿東郡を掌握することに実のねらいがあったとすべきであろう。(中略)しかし、3月8日付今川義元感状に、浅間神社大宮司家の富士宮若が小泉上坊に盾籠って敵を逐い払ったとみえること、4月20日条の記事などからみて、富士氏や富士上方の井手氏、下方の者による抵抗があったことがわかる。(中略)しかし、富士郡でも名職をもつクラスの者たちの中から北条方につく者が出たし、天文7年8月6日に氏綱が富士上方の北山本門寺に対し、寺中安堵と狼藉を禁止する判物を出していることから、北条に結びつく勢力がいたことがわかる

とある。そこで一回話題を変えますが、文書や年代記といった書物をみると、「〇〇殿」という表記が頻繁にみられます。例えば『勝山記』には「武田殿」と頻繁に出てきます。つまりは武田氏(特に当主)を指しているわけです。富士氏にそれを当てはめた際、当然「富士殿」となる。

北山本門寺
一方「富士殿」と表記されると、誰を指しているのかがわからないのも事実である。そこで以下の史料を掲載したい。


「日我置文」(天文18年11月16日)である。ここで「富士殿」とあり、富士氏が出てくる。そしてその内容が重要であり、「天文6年丁富士殿謀叛(むほん)之時、日是有同心而還俗之後、久遠寺御堂・客殿等焼亡」とある。これについて「世東国日蓮宗寺院の研究」では以下のようにしている。

日是の行動は、妙本寺に限定されない広がりをもっていたのである。それを象徴するのは、日是がその後の天文6(1537)年の駿河富士氏の叛乱に同心し、その還俗後、久遠寺御堂・客殿などを焼亡させ、「世出悉破滅」させたという事実である。この富士氏とは、大宮浅間社(静岡県富士宮市)大宮司家のことで、当時後北条氏と今川氏間での「河東一乱」勃発に際し、大宮司家内部で分裂が生じ、今川氏に属する若宮(後の信忠)に敵対し、後北条氏に与した富士氏(実名などは不詳)がいたのであった。それに日是が同心したのである。それ故に、今川氏への謀叛と位置付けられたのであった。

つまり河東の乱時、富士氏の誰かが謀反を起こしている。「何に対する謀反か」と言えば、おそらく富士家の当主、もっといえば富士大宮司に対する謀反であろう。今川氏側につく富士氏筆頭の富士大宮司と、それに従わない富士家の者との間で争いがあったと思われる。

この「富士殿」が誰なのかは分からない。ただ河東の乱時の天文6年3月、今川義元から富士信忠宛ての軍功を賞賛する旨の書状が発給されており、やはり「日我置文」の「富士殿」は「富士信忠ではない富士家の誰か」という理解にはなる。謀叛を起こした富士家の者は今川氏の意図にそぐわない者と思われるし、謀叛を起こした者に天文6年に感状が発給されるはずがないためである。

この頃の情勢を考えるに、おそらくこの「河東」の地を誰が有することになるかは誰も予測がつかなかった。一方どちら側(今川氏・後北条氏)に付くかを明確にしなければならないという情勢でもあった。その情勢の中で富士家の中でも意見が分かれ、後北条氏に付くことを主張する者もいた。ただ富士大宮司はこれまでの今川氏との関係を断つことは望ましくないと考え、今川氏側につくとこで帰結した。しかし後北条氏に付くことを主張する層は反発した、と考えられる(その層が後北条氏と通じていた可能性もある)。

一方時代が下り、武田信玄の「駿河侵攻」の頃になると、北条氏康より以下の文書が発給されている。

宛てが「富士殿」となっており、当時大宮城城主であった富士信忠へ宛てたものと推察される。「富士殿」とか「富士勢」といった表記を細かく確認する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 佐藤博信,「日我の妙本寺入寺と駿河久遠寺再建・西国下向」『中世東国日蓮宗寺院の研究』,東京大学出版会,2003
  2. 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991

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