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2013年4月6日土曜日

源頼朝の富士の巻狩

「富士の巻狩」は、源頼朝により建久4年(1193)5月8日から6月7日の1ヶ月にわたり行われた行事である。この「富士の巻狩」は、政治的背景からも重要な位置づけにあったことが分かっている。単なる行事としての巻狩ではないのである。

「月次風俗図屏風」(16世紀とされる)
「富士の巻狩」については『吾妻鏡』に詳しい。世に出ている「富士の巻狩」についての解説は、普通『吾妻鏡』に拠るところである(『吾妻鏡では「富士の巻狩」とは言っていない』)。

  • 富士の巻狩の経過

建久4年(1193)5月8日、頼朝は多くの武将を率いて藍沢(現在の裾野市・御殿場辺りとされる)へと出発した。同15日には藍沢での狩を終え、富士野の御旅館(富士宮市付近)へと移動した。鎌倉は東に位置するために「裾野・御殿場-富士宮市」と移動していたのである。15日は六斎日(殺生を忌む日)であったため、狩りを行わなかった。頼朝一行はご旅館で体を休めた。

翌16日には巻狩に興じた。このとき頼朝の嫡子「源頼家」が鹿を射止め、頼朝は大いに喜んだ。そしてその場にいて事をうまく運んだ「愛甲季隆」を賞賛した。夜には頼家の獲物に対して山の神に感謝する「矢口祭」が行われた。このとき千葉常胤・北条泰時・三浦義澄らが同席した。

曽我物語 富士巻狩・仇討図屏風



また巻狩の際に功労があった者として工藤景光・愛甲季隆・曽我祐信が呼び出された。矢口祭の形態としては、「黒・赤・白」と三色の矢口餅を神に捧げて三口餅を食べ、矢たけびの声をあげるといったものであったという。頼朝はこの三人に賞として馬・鞍・直垂などを与えた。また頼朝は梶原景高に命じ、頼家が獲物を見事射止めたことを妻の北条政子に報告するよう命じた。しかしその知らせを受けた北条政子は「武将の嫡子が鹿や鳥を仕留めることなど当たり前のことです。そんなことで急使をよこす必要性などない」と、冷淡な反応を示している。

5月27日には終日狩を行った。そこで工藤景光が「この鹿は自分に射させてほしい」と願い出て、鹿を射ようとした。しかしあたらず、その後もあたることはなかった。景光は頼朝に手をついて謝り、「私はこれまで獲物を逃すようなことはありませんでした。この鹿は山の神の化身に違いありません」と述べ、その後発病してしまったという。工藤景光は自らが射ようとしていた鹿が「山の神」だと悟り、罰当たりな事をしてしまったと悔いていたのである。有名な「曽我兄弟の仇討ち」については、この後からでてくることとなる。

  • 富士の巻狩の意味

「富士の巻狩」の意味として、多くで「権威の誇示」といった部分が挙げられている。では何故この時期にこのような大規模な催事を行う必要性があったのだろうか。その理由として、頼朝が征夷大将軍となりこれから本格的な統治を行うという段階であったためである。またこの巻狩の目的として「頼家の後継者としての確立」が挙げられている。そのために、多くの有力武将の前で武勇的な側面を象徴させる必要があったという指摘もある。

同じく後継者としての可能性を持ち合わせていた源範頼(頼朝の弟)がまさにこの後に殺されていることから、頼家の後継者としての位置づけをはっきりとさせる意図があったと思われる。つまりこの巻狩は、今後の幕府運営の上で重要な転機となったといえるのである。この象徴的行事の中で、粛正に対する意識が強まったと考えてもおかしくはない。また源範頼のような凋落の運命を辿った武将は他にも存在している。今後の幕府運営のためか粛正が行われており、安田義定などがそれである。

また巻狩自体が周到に準備されていたことも指摘されている。実は富士の巻狩以前に「三原野」と「那須野」で同じく巻狩が行われているのである。つまり「巻狩」という意味では、特に目新しいものではない(規模的にはかなり差がある)。しかしながらこの直前の巻狩と富士の巻狩は、性質的に異なる意味をもつ。それは富士の巻狩でより政治的に直結するような動きがみられることである。それが上の粛正につながっている。

  • 富士の巻狩の人物

那須野の巻狩の後、頼朝は北条時政を富士の巻狩の準備のために駿河国へ赴かせている。この巻狩は駿河国で行われたため、伊豆・駿河の御家人が多く参加していることも特徴である。また他に「甲斐源氏」なども多く参加している。

規模は相当のもので、『吾妻鏡』でも名だたる武将を羅列した後「そのほか射手たる輩の群参、あげて計ふべからずと云々」とある。数えられない程の群集であったようである。また西洋人の記録としてジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』があるが、そこでは「昔、将軍の頼朝が、ここでかの有名な野獣狩を、三万人の狩人をもって行った」とある。三万人という数字がどこから出たのかは不明であるが、そのように表記するだけの規模はあったと言える。

  • 参考文献
  1. 石井進,『日本の歴史 12 中世武士団』P60-70,小学館,1974年
  2. 木村茂光,『初期鎌倉政権の政治史』P133-164,同成社,2011年
  3. 小和田哲男,『日本を変えたしずおかの合戦~駿河・遠江・伊豆~』,静岡県文化財団,2011年
  4. ジョアン・ロドリーゲス,『日本教会史 上』(大航海時代叢書第I期),1967年

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