2012年2月23日木曜日

富士信仰と末代上人

末代上人(まつだいしょうにん)は、富士信仰を語るにおいて外せない人物である。ある意味、民衆による富士信仰の起源的な部分にあたる重要な人物である

『本朝世紀』に「末代上人が山頂に大日堂を建立した」とあり、信仰施設を富士山に建てたことで知られる人物である。その部分が以下の箇所である。


これにより、以下のことが分かっている(書かれている)。

  • 修行僧である
  • 富士山に数百回も登っている
  • 鳥羽法皇にすすめ『大般若経』を書写するよう図り、富士山に埋経しようとした
  • 一切経を写した

このことから、律令国家が浅間神社を建立することとは異なる富士信仰の形態が認められることとなる。古来、経典などを奉納なり埋経する風習があった。有名な『平家納経』などもそうである。清盛は他に海に経典を沈めたりしていた。富士山中でもこれらの類が見つかっている。『本朝世紀』以外で代表的なものに『地蔵菩薩霊験記』の記録がある。

  • 『地蔵菩薩霊験記』(平安時代~鎌倉初期)
「中古不測の仙ありき。末代上人とぞ言ける。彼の仙、駿河富士の御岳を拝し玉ふに、三国無双の御山峯は、…」このように続く。ここの後も非常に重要な部分がある。

「その身は猶も彼の岳に執心して、麓の里村山と白す所に地をしめ、伽藍を営、肉身斯に納て、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」

ここの部分では「末代上人が村山に寺を建立して、そこで肉身仏となり、山の守護神となった」とある。この部分でいう「村山」は現在の富士宮市村山と一致しているのであるが、ここで村山修験の起源と結びつけることができるのである。またその後に、伊豆日金山の地蔵信仰と関連することが記されている。

これらが代表的な記録であるが、他はこのようなものがある。


  • 『実相寺衆徒愁状』(富士宮市北山本門寺蔵、文永5年)

第一最初院主上人(中略)鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也
岩本(静岡県富士市)の実相寺を開いた「智印」の行学弟子であったという内容である(末代が実相寺に属していたわけではない)。鳥羽院は熊野詣を繰り返した人物であり、(浄土)信仰に篤かったとされる。この記録には智印は「阿弥陀仏上人と称されいた」ともあり、そういう意味で通じやすい部分があったのかしれない。しかし末代と智印は、方向性が大きく異なるようである。事実、末代は実相寺を継いでいない。

ちなみにこの『実相寺衆徒愁状』は女人禁制文書の1種でもあり、これは富士山信仰を考える上で関わりがあるかもしれない(参考:牛山佳幸,『平安時代の 「女人禁制文書」 について』,2001)。

  • 『駿河国新風土記』

此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり。地蔵霊現記に見えたる、この山の神の本地大日目覚王と云ること、ふるく云へることにや。

末代は伊豆の日金山に住んでいたという。実相寺の弟子であったことと絡ませても、「駿河出身」というのは信憑性が高いと思われる。

またこのようにもあるという。

大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。

これは村山に残る社伝などからと思われる。他、このようにある。

富士山大縁起に、興法寺は末代上人の営むとことろいひ「興法寺縁起、有別状。村山之上、経野移山、木立堺也」とみえたる是なり。頂上東の方に経ヶ岳といふ所あり。一切経を納し所なりと云は、此末代が関東の民庶に勧進し、仙洞に調進せし一切経を納し所なり。

これも村山関係である。


  • 富士山頂の「経筒」と「経巻」

実際に富士山頂に埋経された経巻類から「末代聖人」と記されたものが見つかっている。

私たちから見れば、『地蔵菩薩霊験記』も『駿河国新風土記』も共に古い記録ですよね。しかし『駿河国新風土記』を著した当時からみれば、『地蔵菩薩霊験記』が遠い古い時代の記録だったんです。『地蔵菩薩霊験記』の項にて「またその後に、伊豆日金山の地蔵信仰と関連することが記されている」と書きましたが、その記録をみた当時の人は編纂中の『駿河国新風土記』の中で"今に伊豆日金山にその旧跡あり。地蔵霊現記に見えたる"と書いているのです。歴史は繋がっているのです。

  • まとめ

信憑性が高い『本朝世紀』の記録や、富士山頂の経巻類に「末代聖人」とあることで、末代の存在は確実である。数百回登ったかは分からないが、それでも信仰に関わる重要な人物であることは間違いない。また末代と「村山(富士宮市村山)」を結びつけることができる点も非常に大きな事であろう。村山の浅間社などに伝わる社伝とかではなく、史料上からその関係を見いだせることがあまりにも大きい。

『本朝世紀』に記されたその時代、民衆による富士信仰(の始まり)は認められ、その中心が村山と一致するとみて良いだろう。この時既に、「修験」としての性格が認められ始めるということである。この時代の富士信仰の2大要素は「律令国家により浅間社の祭祀という意味での富士信仰」と「民衆が中心となる富士信仰」であると考えて良い気がする。

  • 参考文献
平野栄次,『富士浅間信仰』P25-48, 雄山閣出版,1987年

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