富士山麓の地域が分からない方へ

2012年7月28日土曜日

徳川忠長の富士山における政策と富士氏

江戸時代以降、正確にいうと1779年以降は富士山より八合目以上は浅間大社の境内として管理されてきました。1779年の件は正確に文書上で記されたという転機であって、それ以前も事実上管理はしてきていたのです。

このように浅間大社により管理されてきたという歴史はひたすら長い間継続されてきたわけですが、神社本体が動くわけではありませんよね。実際は中の人間が動くわけです。そこで重要な考え方として、「浅間大社の誰がタクトを握っていたのか」ということがあります。

それは「富士氏」です。浅間大社の中の人が富士氏であり、浅間大社の頂点にいた存在です。そして浅間大社に管理権が与えられていた中でそれらを実際に利用してきたのも、富士氏です。ですから富士山の八合目以上を支配していたのは、言ってみれば「富士氏」なのです。この表現は、歴史に忠実に沿った表現といえます。なぜそのように言えるかというと、実際文書上でそう表現されているからです。



これは寛永年間(1624~1643)の文書ですが、ここに「大宮司しはい之所」とあります。これは富士山頂についての話をしているのですが、つまりは富士山頂は大宮司支配の地と考えられていたわけです。大宮司というのは富士大宮司のことで、富士氏を指します。これは当時の支配者である徳川忠長の付家老により出された文書であるため、支配者により正確にそのように考えられていたということになります(当時徳川忠長は富士山一帯を支配していた立場である)。

「みくりや(御厨)・すはしり(須走)の者共」は、現在の御殿場と小山町の人たちを指します。「永原慶二,富士山宝永大爆発」によると、御厨という名称は伊勢神宮領の鮎沢御厨があったことに由来するというそして「むさと勧請」を禁じられていることから、勝手に金銭徴収することを禁止されたわけです。富士山頂での権限や行動範囲が縮小されたことになります。須走・御厨というのは、比較的権限を保持している方です。吉田(甲斐)より権限自体は保持していたと思います。それでも、表立ったことはできなかったのです。


また、徳川忠長が立てた制札にこのようなものがある(制札自体は地方奉行である村上三右衛門が出している)。


二条目にて、大宮司の指示で内院散銭を拾うように義務づけられています。このように、基本的に大宮司が富士山頂において権限を保持していました。これら複数の文書などで、判断できます。

では、それ以後はどうであったかという検討に入ります。須走村の役人の書付(1686年)にこのようにあります(右)。三カ条の1つに「四人之衆御支配二御座候」とあります。つまり須走からみても、浅間大社の神職四人の支配とされていたのです。

なぜ富士氏が徳川家と関わりが深いと言われるかというと、徳川家康により庇護されただけでなく、後の徳川家の人間にも庇護された事実があるからである。これら権限に反発する動きとして後に争論が起き、須走とぶつかっていくこととなります。須走は噴火の影響を大きく受けたため、生活のためにも必要な争いであったのでしょう。

参考文献
  • 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』P174-191, 角川書店,2002
  • 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  • 『浅間文書纂』P241






2012年7月25日水曜日

天皇及び皇族の富士登山

天皇及び皇族の方々も富士登山を行っています。今回、それらについて取り上げようと思います。

  • 昭和天皇 
皇太子時代に富士登山を行なわれている。詳細は以下の通りである。
大正12年(1923年)7月27日の午前4時に須走(現在の小山町)に到着。そこから乗馬にて八合目に至る。八合目からは徒歩にて登られ、11時20分に久須志神社に到着。またそこから奥宮に歩かれ、浅間大社宮司(林治一)らと合流した。林宮司の先導により参拝を済まされた後、休憩を置く。そして天皇が持参していた金剛棒に焼印を行なったり、林宮司と話や食事をしながら時間を過ごされた。そして伝書鳩十数羽を放たれたという。午後1時に奥宮を出発され、お鉢巡りをされる。午後2時30分には御殿場口より下山された。
このように須走口から登られ、御殿場口より下山されたようである。またこの際参拝もされているため、これは浅間大社の参拝歴として数えられる。先代の大正天皇も明治29年(1896年)に富士山本宮浅間大社に御参拝の経験があるため、浅間大社は天皇陛下に参拝を繰り返された神社とも言える。

  • 秩父宮雍仁親王
秩父宮雍仁親王は大正13年(1924年)に富士登山を行われている。御殿場口より夜出発し、早朝には頂上に到着した。浅間大社奥宮を御参拝なされ、休憩を取った後お鉢巡りをなされ下山している。

  • 皇太子徳仁親王
徳仁親王は、昭和63年(1988年)に一度御殿場口から富士登山を行なっている。しかし天候の関係で断念なされ、それから20年後の2008年に再度行い登頂された。2008年の富士登山では富士宮口から登られ、その後御殿場口に入り登頂している。

以下は皇太子徳仁親王のお歌である。

雲の上に太陽の光はいできたり富士の山はだ赤く照らせり
-皇太子徳仁親王-

徳仁親王の登山は資料を探し次第詳しく掲載したい。

  • 参考文献
『浅間神社の歴史』,「第五章 崇敬」