しかしながら大きな誤解や語弊のある表現も多く見られ、その表現に驚いてしまうことも少なくありません。今回、世間で多く勘違いされていることや勘違いされやすい部分を重点的に取り上げ、説明していこうと思います。5本立てです。
- 「富士」が富士山から由来すると示す根拠が実は全く無い
「富士山の語源」にて「そもそも地名と山の名称どちらが先につけられると思いますか?」と投げかけました。普通に考えて、地名と山名では地名の方が先に付くわけです。『平城京二条大路木簡』の天平7年(735年)の木簡3点に「富士郡」とみられ、非常に古来から富士郡が存在したことが証明されています。そしてそんな中、平安時代の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあり、富士山という名は富士郡から由来すると記されているわけです。ですから学術的には、富士山は富士郡から由来すると考えられています(少なくとも史料上からそう言わざるを得ない)。氏族名が富士である「富士氏」も、富士山から来ているか分からないわけです。むしろ「富士郡」から由来していると考えるべきでしょう。そもそも富士氏が誕生した時代、「富士山」という名称が存在していたかすら分かっていないのである。逆もそうです。
- 富士講は江戸時代より前はそもそも存在していない
これをすごく勘違いしている人が多い。もっというと、富士講の隆盛は1730年以後と言われているので、江戸時代初期などほとんど成立していなかったものと考えて良い。角行が富士講を成立させたわけではないのに、そのように勘違いしてしまうからでしょう。最近の本や論文では(昔からそうだけれども)、富士講が江戸初期から成立していたと記すものはほとんどありません。また、江戸時代以後富士信仰が盛んになったという表現もおかしい。たしかに民衆により広く定着したのは江戸時代以後であるが、歴史書などから古来より富士信仰が定着していたことは知られています。
- 歴史的に「静岡vs山梨」という構図が成り立っていたわけではない
これは本当に悪意しかないように思えるのですが、別に「静岡vs山梨」であったわけではない。山梨の地域同士も道者を奪いあったり、静岡の地域同士も争ったりしていたわけです。そして富士山の争いといったら普通これを指すというものに「元禄・安永の争論」があります。これは須走(駿河)からの動きにより須走と大宮(駿河)間とで勃発した騒動なのですが、その争いの中で吉田(甲斐)も少し言動を加えたりしています。この駿河の地域同士が中心であった争いを、大きくドラマ化させ「山梨と静岡が争っていたぞ!」と言っているわけです。実際根拠として示されるのはこの「元禄・安永の争論」なのですが、蓋を開ければそのような事実ではないのである。なぜそんなにも争っていたことにしたいのかがよく分かりません。
- 富士山の神=コノハナノサクヤビメという考えは江戸時代以降
この誤解が非常に多い気がします。よくあるのは「〇〇年に浅間神社が建立され、コノハナノサクヤビメが祭神とされてきました」というものである。でも実際は江戸時代にコノハナノサクヤビメが富士山の神として祀られるようになったのであって、これは近世以後の現象にしか過ぎないのです。つまり平安時代とか鎌倉時代とか戦国時代の話のときに、コノハナノサクヤビメを持ち出すのはおかしいわけです。
- 村山の時系列の把握がなされていない
村山は富士信仰の各拠点の中でも修験道の地として有名である。そしてその関係で聖護院との関係が深い。しかしながら村山というのは、『地蔵菩薩霊験記』にもみられるように富士山麓の各地域の中でも早期から深い信仰が成立していた地域でもある。ですから時系列別の把握が重要となってくるが(富士講のように近世以後ではない)、そこがごっちゃになってしまう。よくあるのは「村山は◯世紀から修験の地として栄えてきた…」といい、「聖護院が〇〇を行なっていた…」と関連付け、なぜか「◯世紀から〇〇が行われていた」と結んでしまうことである。聖護院の例は一例であるが、例えばこの場合で言ったとき、村山が聖護院と関係を持ったのは15世紀以後なので、◯世紀からそれらが行われてきたわけではないのである。これはコノハナノサクヤビメの例と似ていて、近世の出来事を古来からの現象と間違えて考えてしまうことでもある。村山は近世以後形態を大きく変化させているため、棲み分けする必要性がある。
あと「表富士・裏富士」などの件も世間では昔から言い争っていたことにされていますが、史料からどちらが裏富士と称されていたかは既に知られています。学術的にはそんなことは分かりきっていて、議論するまでもないというのが事実なのです。