2013年6月27日木曜日

富士山禅定図と村山修験と元吉原

富士山禅定図はいわば「道中案内図」に該当する。以下「富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」をベースに説明していきたい。

江戸時代には夥しい数の版本が流布し、また庶民による旅も盛んになって、道中案内も数々刷られている。(中略)南麓を描いた富士登山案内絵図において絵図中の表題を拾うと、「駿河国富士山絵図」、「駿州吉原宿絵図」、「富士山表口真面之図」と必ずしも一定しない。何種類もの版木があったと考えられ、おそらくは江戸中期以降明治期にかけて刷られたとみられるが、本稿ではこれらを富士山南口案内絵図と称しておく。南麓の場合、登山口として村山口・大宮口の両方が称される。

「駿河国富士山絵図」や「富士山表口真面之図」の作成主体は村山修験である。また富士山南口案内絵図において、以下の特徴を挙げている。

資料数が少ないなかでの比較になるが、富士登山案内絵図のなかで、もっとも登山口に至るまでの行程を詳しく描き込んでいるのが、南口絵図ではないかと思われる

私はこの点は非常に重要な点に思える。つまりは南麓関連の絵図は「大宮・村山口登山道」に至る過程を詳細に記しているということであり、一見してもその印象が強い。例えば田子の浦(富士市)といった登山口から遠い位置からも、登山口までの道程を記している。これは東海道を介して訪れる道者を意識した絵図となっていると言え、その特徴から吉原宿の存在は富士山禅定図を語る上では外すことはできない。

「駿州吉原宿絵図」と「駿河国富士山絵図」の場合、吉原宿から各地への里程が記されていることからみても、当初に述べたとおり、この図は富士山参詣道者のための案内図とみてよいだろう。「吉原宿絵図」には文政十年の「初夏」に開板とあり、初夏といえばこれから夏にかけての道者(富士山参詣者をさす)を対象にしていることが十分想像される。 

ここで吉原宿と富士山禅定図との関係を示す史料を提示したい。

『東街便覧図略』より
これは『東街便覧図略』(1786年)にある図柄であり、元吉原を示したものである。元吉原は「元々吉原宿が位置していた」という経緯から地名となった場所である。そして冒頭には以下のようにある。

此所にて富士山禅定図の図并富士山略縁起を売る店あり。家名を富士見屋といふ。

つまり元吉原には富士山禅定図を売る「富士見屋」という店が存在していたのである。これは重要な点である。また以下のようにもある。

文化8年(1811)、司馬江漢があらわした随筆『春波楼筆記』には、「元市場と云ふ処は、白酒を売る処なり、爰にて富士山の図を板行に彫りて、埒もなく押してあるを、蘭人往来する時、何枚も需むる事なり」とある。元市場は東海道・吉原宿と富士川の中間にある間宿であり、米宮浅間神社をその北に抱く門前のまちともいえる。司馬の文章からして、木版刷りの富士山図がここで頒布されていたことは明らかであり、蘭人だけでなく東海道を行く旅人に求められたであろう。

つまり登山口・登山道に至る地図を販売していた、と理解できる。またこの事実は、吉原周辺において北方への指向があったことを示している。そしてその背景には村山修験があった。

なお南口絵図のうち、明らかに明治以後に刷られたものもある。三坊蔵板の「富士山表口真面之図」と同じ題名・同じような構図だが若干異なり、明治初期の修験道廃止令など神仏分離政策を受けて、村山や富士山頂からほとんど仏教色は消え去っている。この明治以降の真面之図は数点が確認されているが、それらのなかに「□(欠損)山蔵板」と刷られているものが見られ、この表記がない図でもみな同じ構成・同じ内容であることや「表口村山ヨリ諸方ヘ里程」が列記されていることから、すべて村山蔵板の絵図と考えられる。

尚、この種の案内絵図との棲み分けは重要である。また多くの富士山禅定図、または富士山案内絵図を手がけていた村山修験の意図を探ることは最も重要である。

「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(静岡県立中央図書館のコンテンツ)は以下のように説明している。

『明細記』『風土記』の富士山絵図は二次史料であり、ともに村山三坊が版行に係わった「富士山禅定図」(以下「禅定図」)を一次史料として作成したものと考えられる。(中略)『東街便覧図略』には、天明6年(1786)に元吉原で「富士山禅定図并富士山略縁起」を販売した記録があることから 18 世紀後半の東海道筋での販売を確認できる。販売の意図は「道者向けの道案内」と「村山修験の富士信仰案内」が考えられる。

おそらく村山修験は、徐々に衰退していく中で道者誘致の必要性に駆り立てられていた。そして本拠地から下り、元吉原といった場所での絵図販売に何らかの形で関与していた。そしてその一部が現在も残っているわけである。

さて、もう一方の問題は頒布場所と村山修験者との関係である。この絵図の蔵板者が主に村山修験者だとして、これら村山を離れた東海道筋の頒布場所との関係はいかなるものがあったのか。この点を明らかにすることは難しいが、『駿河国新風土記』には、村山が富士川の東岸に役所を建て、西国の道者が大宮村山を経由せずに登山することを止めていたことが記されている

この部分については、「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」にて取り上げている。

  • 参考文献
  1. 荻野裕子,「富士登拝案内絵図-富士村山修験者たちの画策-」『人はなぜ富士山頂を目指すのか』,静岡県文化財団,2011年
  2. 静岡県立中央図書館,「資料紹介 『駿府風土記』の「富士山禅定図」」(pdf),2013
  3. 宮本勉,『東街便覧図略 : 伊豆・駿河・遠江の部』,羽衣出版,1994

2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008