2011年9月24日土曜日

東泉院と下方五社

今川氏真判物(五社別当東泉院宛)
下方五社
浅間大社の末社のうち、富士下方(庄)にある浅間神社五社を総称した呼び名。東泉院はこの下方五社の別当として五社を統括していた

その五社とは
  • 富知六所浅間神社 
  • 瀧川神社
  • 今宮浅間神社
  • (入山瀬)浅間神社
  • 日吉浅間神社
他に「五社浅間宮」(今川氏真朱印状による)などとあるのも印象的である。

  • 東泉院と富士山興法寺
東泉院(富士市今泉)は元は「富士山興法寺」における一寺であったとされる。「富士山興法寺」というのは大日堂や大棟梁権現社などの施設群の総称であり、つまりそれらの建築物の1つと認識されていたということである。これらは村山三坊の支配下にあり、村山三坊もある意味興法寺の1つとも言える(ここは解釈が分かれる)。例えば大日堂は三坊のうちの池西坊が担当し、大棟梁権現社は大鏡坊が管理するなどそれぞれ直轄は分担されていたものの、東泉院はどういう位置づけであったかはよくわかっていない。

富士山興法寺というのはこういう位置づけであり、仮に東泉院を含めるとこんな感じになる。(>は分類化)
富士信仰>村山修験>富士山興法寺(村山三坊はここに含めてもよい)>大日堂・大棟梁権現社など(主な施設)他、東泉院など
解説すると…まず村山修験は富士信仰の1種であり、その村山修験の中心地が富士山興法寺である。富士山興法寺や登山道を管理したのが村山三坊であり、富士山興法寺を構成する大日堂・大棟梁権現社などの直轄なども三坊により分担されていた。これら施設の1つであったと考えられるのが東泉院である。

大永6年(1526)、「今川氏親書状」
村山三坊は、それまでの各宿坊がしだいにまとまっていき、最終的に三坊になったものである。上の「今川氏親書状」は日吉浅間神社の造営に関する文書であるが、それが東泉坊に宛てられている。この時代、浅間神社を統括する性格があったと考えられる。

それらを考えると、そもそも東泉坊なるものが存在していて、三坊にまとまっていく中で別の方向性を歩んでいったのではないか(あくまで個人的な見解)。富士山興法寺の位置づけから外れ、現在の富士市の各浅間神社を管理する立場に変わったのかもしれない。だから富士信仰との関わりは深くは見いだせないが、村山の流れを汲んでいると考えられる。

  • 別当として
別当としての存在などから、東泉院は現在の富士市の地区において重要な位置づけをされていた。慶長9年(1604年)には富士下方の192石が東泉院領となっていたという。しかし神仏分離により東泉院は廃される運命となる。下方五社のうち日吉浅間神社のみを残す形となった。

2011年8月31日水曜日

忍野八海と八湖信仰

忍野八海は山梨県の忍野村にある富士山の湧水群です。出口池、底抜池、銚子池、濁池、湧池、お釜池、鏡池、菖蒲池の総称で、天然記念物に指定されています。文化との接点もあり、富士山の文化の歴史を考える上で重要です。

  • 形成
これら八海、いや忍野村一帯というのはかつては山中湖と続いていた湖でした。それが富士山の噴火による溶岩流により分断され、干上がって平地になったことにより形成されたと考えられています。桂川という川の水源だそうです。

  • 八湖信仰
忍野八海は「富士御手洗元八湖」といわれ、富士信仰の霊場でもありました。角行の修行になぞらえたもので、角行を拝めることから形成された習慣であると推測されます。それぞれの池を巡礼する八湖信仰(江戸時代以降)というものが存在していました。内八海・外八海とはまた違うものであり(これになぞらえた)、これらに比べ範囲が狭まれていることから個別のものとして存在したのではないでしょうか。江戸末期には消失したものでしたが、再興に動いた友右衛門なる人物により浅間神社などが修復されたりしたようです。


  • 富士八海とは
混同しやすいのですが、いわゆる八湖信仰(忍野)と富士八海(内八海・外八海)は異なります。八海巡りは富士講信者による巡回のようなもので、時代によりその場所が多少異なります。当初は現在の沼津市と富士市との間に存在したという「須戸(すと)海」を含めて富士八海と言っていました(厳密にいうと富士八海のうち内八海)。しかし後に須戸海の替わりに「泉津湖」を加えて富士八海というようになりました。『甲斐国志』には「富士八海-山中海、明見海、川ロ海、西海、精進海、本栖海、志比礼海、須戸海」とあり、 須戸海が含まれています。このことから、比較的後に「泉津湖」が加えられたのだと考えられます。

このように、富士八海というものは特に甲斐国に準じていたわけではありません。また富士講信者が人穴などを訪れていたことを考えても、富士講の一連の現象は甲斐国固有の現象とは言えなさそうです。

  • 参考文献
  1. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№8』
  2. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№19』
  3. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№20』