2025年9月19日金曜日

大田南畝が見た静岡県富士市とその周辺、忘れられた交通史を辿る

最近「紀行文」や「道中図」を十数点読む機会に恵まれたので、うち富士市の箇所について述べてみようと思う。今回は「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも登場する大田南畝による紀行文『改元紀行』を中心とし、補足として他史料を引用する形で説明していきたいと思う。

昨今の状況を見るに、例えば吉原などは完全に歴史を喪失してしまっているように思う。もっと分かりやすく言えば、地域史を理解している人が皆無となっている。吉原宿の歴史・性質なども、殆ど忘れ去られたように思う。相当な人材不足であることが察せられる。従って、紀行文や道中図から当時の認識を掘り起こし、何かしらの提起に繋げたいと考える。


大田南畝

享和元年(1801)『改元紀行』の富士郡の箇所(+田子の浦)を以下に引用する。これらはすべて南畝が実際に目にしたものである。


これまで駿東郡にして、富士郡江尾村のあたりは、富士山の正面ときくに、雲霧はれてあざやかにみゆ。あし鷹山の横たはれるも、いつしか右の方にみやられ、ふもとに野径の草むら木だちものふりしは、かのうき島が原にして、原といふ宿の名もこれによれるなるべし。男嶋・女島などありときけど、さだかにもみえわかず。 
白隠禅師のすみ給ふときく松隠寺は宿の中なれば、輿よりおりてあゆむ事あたはず、左のかたに見すぐしつ。柏木の立場は鰻鱺よしときて、ある家にたちいりて味ひみるに、江戸前の魚とはさまかはりて、わづかに一寸四方ばかりにきりて串にさし、つかねたる藁にさし置り。長くさきたる形とは大に異なり、味も又佳ならず。 
元吉原のあたり、松林のうちをゆくに、しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし。川合橋をわたりて吉原の宿にいる。宿の人家賑ひなし。これより富士をしりへにして、また右に見つゆく。 
元市場の立場あり。右に富士大宮の口の道あり。富南館と額かけし茶店あり。うかい川をわたりて、右に富士の白酒とてうる家多し。富士山の図もひさぐ。富士沼のほとりをゆくに、浦風高く松の梢にむせびて、 かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる。 
海道一の早き瀬なりと聞く富士川にのぞめば、右に水神の森あり。おり船役のもの舟を並べて、輿ながら舁き乗せつ。けに棹さしわぶる流れなれど、とかくして向の岸に著く、巫峽の水のやすき流れといひし人の心も空おそろし。 
ふけふそらそてつ岩淵の庄屋常盤屋彌兵衛といふ者は、もとより知れる者なり、庭に大きなる蘇鉄あり、立寄りて見給ひてよといふに任せて立寄り、かけまくもかしこき神の駿河に御在城の比よりありし樹也などかたる。此あたりの家々、栗の子もちをひさぐ。 
蒲原より由井までは家つきにして近し。みなあまの子の家にして、夜のやどなまぐさしといひけんたぐひなるべし。左は田子の浦つき、藻塩やく煙たちのぼるけしきなど、いふもさら也。


前半部分は直接的には関係しないため、元吉原の箇所から取り上げていく。

(①)元吉原のあたり、松林のうちをゆくに、しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし。川合橋をわたりて吉原の宿にいる。宿の人家賑ひなし

「しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし」は「左富士」のことである。その後川合橋(河合橋)について述べる形ではあるが、実際の道順としては元吉原→河合橋→左富士→吉原宿である。

川合橋も紀行文によく登場する橋であるが、これは吉原宿へ至る場合は必ず通過する必要性があったためである。別名「柏橋」とも言い、『東海道名所記』(以下、『名所記』)には「もとよし原。かしは橋。ふじのすそ野 」とある。『東海道巡覧記』(以下、『巡覧記』)の河合橋の項には以下のようにある。

川下三俣と云所有、池贄の謠に作りし所なり

河合橋は沼川に架かる橋で、その川下に三股淵があるとする。三股淵は沼川と和田川の合流地点である。そして池贄の謠(うたい)とあるように、能〈生贄〉の題材となった場所であるとする。富士市と言えば「生贄」であるが、はやり紀行文でも登場する。

また「宿の人家賑ひなし」と吉原宿の賑いの無さを述べているが、他の紀行文においても吉原の記述が異様にさっぱりしている例がある。貝原益軒『壬申紀行』(1692年成立)に「廿四日。吉原をいづ。此町はちかき世三たびたちかはる故に、もと吉原中吉原とてあり。十年あまり前、津波のたかくあふれあがりて民家をひたせる事あり」とある。『改元紀行』はここから100年以上後の記録であるが、はやり津波の影響は大きいということなのだろうか。

吉原宿から見て東の「原宿」においても、基本的には大宿とされることは無い。しかし吉原宿が原宿等と決定的に異なるのは、「脇街道」(中道往還)の起点であるという事実である。これは吉原宿が重要たり得る理由としては十分である。この部分が現在の人々に全く伝わっていないのは、寂しい話である。吉原宿の重要性は、東海道の宿であることとは別の所にこそあるのではないだろうか。


(②)これより富士をしりへにして、また右に見つゝゆく。元市場の立場あり右に富士大宮の口の道あり。富南館と額かけし茶店あり。うかい川をわたりて、右に富士の白酒とてうる家多し。富士山の図もひさぐ。

ここも少し解釈が難しいのであるが、①吉原宿→本市場の道②吉原宿→大宮の道の説明をしているのではないだろうか。上の例からも分かるように、完全に道順に沿って著しているわけではない。例えば「うかい川(潤井川)」は本市場より手前に位置するはずである。

様々な道中図を見るに、吉原宿の箇所に「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」等とあることが確認される。(堀1997;p.46)は「大宮迄の道有」と翻刻しているが、これは誤りだろう。この定型文の初見について調べを進めているが、はっきりとしない。

例えば元禄3年(1690)の『東海道分間絵図』(以下『分間絵図』)には上の文言(宿の内…)は見られない。しかし同絵図を参考としたとされる『東海木曽両道中懐宝図鑑 』には上の文言が見られる。また宝暦2年(1752)の『東海道五十三次図』には上の文言が確認される。であるから、18世紀には少なくとも確認され、継承されていったように見える。どこまで遡れるのかは分からない。

そして"宿の内"とあることから、やはり吉原宿から大宮へ伸びる大道があることを示している。これは中道往還のことであると思われるが、『改元紀行』もそれを述べた形であると推察される。

  1. 吉原宿→うかい川(潤井川)→本市場
  2. 吉原宿→富士大宮 ※つまり中道往還

この二筋の説明をしていると理解したい。本市場は吉原宿と蒲原宿の「間宿」にあたる重要地で、その拠点性から後に身延線の駅も建設されたが、富士市の方針で廃された。

歴史的には「加島」(≒旧富士市)における中心地は本(元)市場であったのである。この辺りも今の人々には完全に忘れられているが、その移行期の様相を示した論稿に(関1958)があり、極めて興味深いものとなっている。

うかい川は『名所記』で「鵜かひ川」と見える。該当箇所を引用する。

鵜かひ川につく。こゝは渡しのふねあり。冬は、勧進橋をかくる也。川田郷。もと市場。又はかしまともいふ

かしま、つまり加島一帯の中心地が本市場であった。

(③)富士沼のほとりをゆくに、浦風高く松の梢にむせびて、 かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる。

富士沼ないしそのほとりは吉原宿より東なので、やはりここでも前後している。また「かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる」であるが、これは源平合戦の「富士川の戦い」のことである。実はこの富士川の戦いも、実際は何処で起こったのかは不明とされるが、個人的には富士市域と考える。


(④)海道一の早き瀬なりと聞く富士川にのぞめば、右に水神の森あり。おり船役のもの舟を並べて、輿ながら舁き乗せつ。けに棹さしわぶる流れなれど、とかくして向の岸に著く、巫峽の水のやすき流れといひし人の心も空おそろし。


水神森は『巡覧記』の富士川の項に「東川岸に水神森あり」とあるように、富士川東岸にある。また『分間絵図』にもやはり東岸に「水神森」とあり、『東海道木曽海道之図』も東岸に「水神」とある。頻繁に目にすることから、ランドマークであったのだろう。

(⑤)ふけふそらそてつ岩淵の庄屋常盤屋彌兵衛といふ者は、もとより知れる者なり、庭に大きなる蘇鐵あり、立寄りて見給ひてよ、といふに任せて立寄る。かけまくもかしこき神の駿河に御在城の比よりありし樹也などかたる。此あたりの家々、栗の子もちをひさぐ。

南畝は岩淵まで至る。『名所記』に「吉原の町はづれより、左の方へ行道あり。岩淵といふ所に出ぬれば…」とあるから、このような道を用いたのだろう。そして庄屋常盤屋彌兵衛について記す。

(⑥)蒲原より由井までは家つきにして近し。みなあまの子の家にして、夜のやどなまぐさしといひけんたぐひなるべし。左は田子の浦つ、藻塩やく煙たちのぼるけしきなど、いふもさら也。

蒲原-由比間の説明を簡素にしており、またその海沿いを「田子の浦」としている。歴史的に田子の浦は庵原郡とされてきたことは周知の事実であるが、ここでもその例に漏れずである。

田子の浦が蒲原・由比のどちらか、またはどちらも含めるのかといった議論もあるが、結局のところ庵原郡ということは変わらない。ただ「寺尾村」の存在は注目される。例えば『巡覧記』をみると「興津-由比間」において「西倉澤」「東倉沢」「寺尾村」と続く箇所がある。この寺尾村の項には以下のようにある(興津→由比と移動)。

右田子の浦ふじの山左手に見ゆる

(今井1966;p.204)では「左田子の浦」「ふしの山右手」と翻刻しているが、確認した限りでは逆であると思われる。実際の地理としてもそうだろう。つまり以下の浮世絵のような風景を言っているわけである。




この西倉澤や東倉沢が属するのが寺尾村と思われ(要確認)、ここを田子の浦とする史料が多い。寺尾村は広義では「由比」であるから、田子の浦は由比を含める認識が広くあったと考えられる。勿論蒲原も一般に田子の浦とされた地であり、赤人祠が存在したことでも知られている(井上2017;p.11)。

  • まとめ

紀行文や道中図から、富士市の交通史の重要な性質を以下のようにまとめることができる。


  1. 東海道の吉原宿が位置したが、ただの通過宿ではなく、中道往還の起点/終点でもあった
  2. 「生贄」伝承の地/能〈生贄〉舞台の地として知られていた
  3. 東海道の間宿として本市場宿があった
  4. 「田子の浦」は庵原郡を指すことが多かった(近年「クリストファー・コロンブス」が良い例であるように再評価やその過程までもが取り沙汰される傾向にある。それと同じように、過去の展開の仕方などが等閑視されない時期に到達してきていると見られ、姿勢を見直すべき時が来ているように思われるのである。つまり史料実証的で、それに伴った動きに切り替えていく現代性・文明性があっても良いと思うところである。)

これが富士市のスタンダートな歴史的側面であり忘れられた交通史であるが、この部分に素直に着目した展開を期待したい。

  • 参考文献

  1. 関英二「兼業と農家の機械化」『農林統計調査 1958年4月号』、1958、10-17
  2. 今井金吾『東海道五十三次-今と昔-』(現代教養文庫561)、社会思想社、1966
  3. 堀晃明『広重の東海道五拾三次旅景色』(古地図ライブラリー⑤)、1997
  4. 井上卓哉「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報 第32号』、2017

2025年9月7日日曜日

『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ

以下に3年前のXの投稿を引用したい。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関するものである。


この「今回」とは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回(6月26日)「 天が望んだ男」放送回のことである。『文武二道万石通』とは、朋誠堂喜三二(平沢常富)作の滑稽本であり、知名度が高い作品である。右の采配を振るう人物が畠山重忠であり、左の洞穴は「人穴」(静岡県富士宮市)である。人穴は極めて知名度が高く、『文武二道万石通』だけでなく様々な作品に登場する。

さて重忠であるが、「梅鉢」の紋の直垂を着用していることが分かる。しかし重忠の紋は本来梅鉢ではない。実はこれは、本当は別の人物を示しているのである。つまり重忠という体にしてはいるが、別の人物であると喜三二は暗に伝えているのである。その人物とは、時の老中「松平定信」である。


朋誠堂 喜三二

この場面は人穴に鎌倉の御家人が入り、ふるいに掛けられる場面である。結果「文」「武」「ぬらくら」の3つに選別される。「文雅洞」から出てきた武士が「文」、「妖怪窟」から出てきた武士が「武」、「長生不老門」から出てきた武士は「ぬらくら」である。

勿論喜三二の意図は別にあり、実際は鎌倉の御家人ではない。「長生不老門」から出てきた武士らは田沼意次ないし意次派の武士を暗に示す形となっている。つまり『文武二道万石通』は、定信の「寛政の改革」を風刺した作品なのである。具体的なストーリーについては『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)を御参照頂きたい。



大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第36回(9月18日)「武士の鑑」放送回で重忠は死する。ここで述べたように、当時の人穴のイメージを考えることは重要であると考える。

この「武士の鑑」というタイトルであるが、重忠は歴史の中でそのような像で実際に語られている。『文武二道万石通』で重忠が題材となったのは、やはり近世において「武士の鑑」というイメージが流布されており、それが「ぬらくら武士」を見極める役として適当と喜三二が考えためではないだろうか。重忠がなぜ武士の鑑とされたのかについては本稿では触れないが、理由としてはまさにここにある。

そして本稿では"何故喜三二は人穴を題材としたのか"という点を考えていきたいが、背景としてまず『吾妻鏡』の存在を挙げなければならない。富士の洞穴「人穴」を探索するという内容の初見が『吾妻鏡』なのである。(五来1991;p.79)は"地獄破りの初見"であるとしている。ではその箇所を以下に引用する。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。


源頼家


頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

(西野1971;p.40)にあるように、人穴を浅間大菩薩の御在所とする信仰が当時すでに認められるという事実は重要であろう。(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである

大前提として、大元の題材はここにあるということは把握しておきたい。


『文武二道万石通』


さて『文武二道万石通』という作品自体に目を通すと、物語の舞台を鎌倉時代で統一できるところに、当時の文化人の知見の深さが現れているといえる。またぬらくら武士選別の舞台を「人穴」に設定するという斬新さも面白い。やはり作家として抜きん出たものがあると思う。

しかしこのアイディアは喜三二固有のものであったのだろうか。(小山2005;p.43)によると『文武二道万石通』と同年の山東京伝作『仁田四郎 富士之人穴見物』においても、表題にあるように人穴を題材としているし、また今度は仁田四郎が松平定信であるという。小山氏は仁田四郎=松平定信説を支持しているが、論稿内ではこれに意を唱える論の存在も示されているということを付け加えておく。


山東京伝

しかしここで考えていきたいのは、松平定信に対する揶揄のその舞台として、異なる作品であるのにも関わらず人穴が登場することである。であるから、ここには何か特別な背景があると考えられるのである。この点に関してはもう少し調べを進めてみないと分からない。もっとも小山氏もその点を疑問に思ったようである。

そして『文武二道万石通』と『仁田四郎 富士之人穴見物』両作品は、ある御伽草子の影響を受けているとも考えられている。それこそが、引用文で見えた『富士の人穴草子』(以下、『人穴草子』)である。『人穴草子』は小山氏の一連の報告に詳しいが、あまり読めていないので詳細は別で機会を設けたいと思う。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていたとされる。これは『吾妻鏡』の記述を下敷きにした作品である。多くの写本が残るが、物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては写本によって差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。

人穴を取り上げた別の史料を見ていこう。以下は万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳である。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していたのだろう。

人穴は能作品にもなっている(芳賀・佐佐木1915;p.201-203)。また延宝4年(1676)の芭蕉一座の連句作品には「人穴ふかきはや桶の底」とある(阿部1965;p.173)。

このように人穴は一通り様々な表現の中に組み込まれたと言ってよいだろう。ただ能〈人穴〉に関して言えば、歴史の中でそれほど上演されていたようには思えない。仮に『人穴草子』が語り物であったとした場合、もう少し能〈人穴〉の演能記録が伴っても良いように思えるが、どうだろうか。

また人穴探索を題材とした作品群を単純に"『人穴草子』を典拠として/影響を受け"としていいものだろうかという疑問もある。例えば『富士野往来』も『曽我物語』と一致する部分はごく僅かで、独立した部分の方が圧倒的に多い。だから『富士野往来』の典拠は『曽我物語』ではないのである。

このように人穴探索を題材とする作品の中に、『人穴草子』に全く影響を受けていないものも存在したのではないかという疑念はある。しかし人穴の知名度の高さの背景に『人穴草子』は関係するだろうし、『驢鞍橋』にあるように"穴の奥に試練があり"、"試される場"であったというイメージが広く流布されていたものと考えられる。そのイメージが、朋誠堂喜三二や山東京伝の筆を動かしたと言える。

  • まとめ

富士宮市の歴史が江戸文化の中に深く入り込んでいたことは疑いの余地がない。絵画化の題材にもなったため、富士宮市を描いた浮世絵も枚挙に暇がない。芸能も「曽我物」が良い例である。

これらが「富士の巻狩り」「富士の狩倉」から由来することは間違いないが、流布される過程をもう少し細かく考えていく必要性はあると思う。そして"一通り様々な表現の中に組み込まれた"それら一群を、詳細に分析していくことが求められるだろう。

  • 参考文献
  1. 芳賀矢一・佐佐木信綱(1915)『校註 謡曲叢書 第3巻』、博文堂
  2. 阿部正美(1965)『芭蕉連句抄』、明治書院
  3. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  4. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  5. 五来重(1991)『日本人の地獄と極楽』、人文書院
  6. 棚橋ら(1999)『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)、小学館
  7. 小山一成(2005)「彙報 平成17年度特別講演要旨 黄表紙 『仁田四郎 富士之人穴見物』をめぐって」『立正大学人文科学研究所年報 43』、立正大学人文科学研究所、42-44
  8. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  9. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2025年8月17日日曜日

富士山本宮浅間大社の和歌と湧玉池

最近近世の和歌に接する機会に恵まれたので、本稿では中世の和歌を数首取り上げ、検討していきたいと思う。対象は富士山本宮浅間大社(以下、浅間大社)としたいと思う。

まず浅間大社を題材とした和歌は、潜在的にはかなりの数が認められる。しかし和歌の性質上、断定できないものが多い。以下では確実性が高いものに絞り、内容を検討していきたい。



平兼盛『兼盛集』より。

詞書:
駿河に富士とふ所の池には、色々なる玉なむ湧くと云。それに臨時の祭しける日、よみて歌はする
和歌:
仕ふべき 数に劣らん 浅間なる みたらし川の そこに湧く玉

詞書から感じとれるのは、浅間大社の賑やかさである。臨時の祭りが催される程、人々にとって重要な存在であったのだろう。古い時代の富士大宮の様相を示す一史料と言える。

みたらし川は、現在の湧玉池である。歴史的には上池のみが湧玉池で、下池を御手洗川と呼称されたが、(髙橋2025;p.71)にあるように当初から上池を湧玉池と呼んでいたのかは分からない。

『新勅撰和歌集』の北条泰時の歌には以下のようにある。

詞書:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける
和歌:
ちはやぶる 神世のつきの さえぬれば みたらしがはも にごらざりけり

「ふじの宮」は浅間大社のことであり、市名の由来である。(中川2025;p.28-29)によると、「神世のつき」は九条良経の『新古今和歌集』収録歌に拠ったものと推察されている。またその特徴を述べている(中川2025;p.117)。

御手洗川については、紀行文にも確認される。飛鳥井雅有『春の深山路』には以下のようにある。

富士河も袖つくばかり浅くて、心を砕く波もなし(中略)宿の端に河あり。潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とかや。

浅間大明神宝殿、つまり浅間大社の御手洗川の末を潤井川としている。これは現代においても相違ないのであるが、この解像度の高さには驚きを隠せない。

以下は『続後撰和歌集』に収録される、隆弁の和歌である。

詞書:
四月廿日あまりのころ、するがのふじの社にこもりて侍りけるに、さくらの花さかりに見えければ、よみ侍りける 

和歌:
ふじのねは さきける花の ならひまで 猶時しらぬ 山ざくらかな 

(中川1984;p.22)では同集に収録されるもう一首を含め、以下のように論じている。

前者は典型的釈教歌、後者も詠作機会が寓土浅間神社参籠の折である。これよりして、この時期の隆弁は、歌人としてよりも、法印にして鶴岡若宮社別当の法力豊かな僧侶としての側面から人々に認識されていたのではないかと推測され、より直接的には、先述の後嵯峨天皇中宮御産の加持などが、同集への入集を果す機縁の1つとなっているのではないかとも憶断される。

また「時しらぬ」の成語から当歌を取り上げ背景を論じたものに(石田2011)があり、重要な視点である。このように『勅撰集』に浅間大社を題材としたものが複数首確認されるわけであるが、この事実1つとってしてみても、浅間大社の位置づけの高さが垣間見えると言える。

このように相当に認知度が高く、そして特別に神聖視され、この地にて拝することに重要な意味があったのである。湧玉池・御手洗川は「水垢離」を行う場でもあった。慶長13年(1608)の『寺辺明鏡集』には以下のようにある。

同六月九日ヨリ、駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ。先ソコニテコリヲトル。コリノ代六文出シテ大宮殿ヘ参也

『春の深山路』でも「殿」とあったが、「大宮殿」は浅間大社のことである。この「コリ」は湧玉池での垢離であるが、富士登山開始時において垢離をとる風習が明確に示されている。「先」とあることから、本殿に向かう前に垢離を行うことが慣例であった可能性がある。

というのも、同じく近世初期の作とされる御物絵巻『をくり』には以下のようにあるのである。

吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離を取り、大宮浅間、富士浅間、心しずかに、伏し拝み

「富士川で垢離を取る」とあるが、吉原から大宮へ移る/移った場面における内容であることを考えると、これは御手洗川を指しているのではないだろうか(潤井川という可能性もある)。

であれば「垢離→伏し拝み」という手順が確認され、『寺辺明鏡集』と同様の流れと見ることもできる。この一帯での垢離を示す古い部類の史料と言える。

天保10年(1839)『東海道中山道道中記』(諸国道中袖鏡)には以下のようにある。

高しま出口にうるい川かち渡り、冬は橋あり。此川大宮浅間のみたらしより流る。

潤井川が御手洗川より始まるとする記録はかなり多く見られ、またその流れを指して「凡夫川」とするものもある。であるから、上の「富士川で垢離を取り」は凡夫川である可能性もある。

  • 参考文献
  1. 荒木繁・山本吉左右編注『説経節』、平凡社、1973
  2. 中川博夫「大僧正隆弁 : その伝と和歌」『藝文研究 46 』、1984、1-32
  3. 石田 千尋「富士山像の形成と展開ー上代から中世までの文学作品を通してー」『山梨英和大学紀要 10』、2011、1-32頁
  4. 中川博夫「北条泰時の和歌を読む」「北条泰時の和歌の様相」『鶴見大学紀要 62』、2025、25-81・83-131頁
  5. 髙橋菜月「特別天然記念物「湧玉池」の歴史」『富士山学 第5号』、2025、71-79

2025年8月13日水曜日

近世近代移行期の富士氏とその文化環境について

『徳川実紀』のうち「昭徳院殿御実紀」に、富士氏として以下の名が見える。

駿州富士本宮浅間太神大宮司 富士又八郎 

内容は、富士本宮浅間惣社(富士山本宮浅間大社)の修理費捻出のための勧進(三カ国)を富士又八郎に許可するものである。時は安政6年(1859)8月のことである。

この富士又八郎とは、「富士重本」のことである。つまり重本は浅間大社の大宮司であった。富士重本と言えば、駿州赤心隊の隊長であったことでも知られる。(小野1995;p.189)から引用する。

2月(註:慶応4年(1868))に入ると、東海道において戦略的に官軍の重要な一翼を占める尾張藩が、「勤王誘引係」を遠江に送り込んで政治工作を行い、その結果浜松藩の帰順を確定的なものにしたが、この誘引係は浜松の諏訪大祝杉浦大学・宇布見付神主中村源左衛門貞則・桑原真清らにも面会し、神職の協力をも取り付けることに成功した。桑原・大久保・鈴木および日坂宿神主朝比奈内蔵之進は、この尾張藩誘引係に随行して駿河神職の説得工作に従事し、このとき説得に応じた神職を中心として、報国隊と強調して活動する駿河赤心隊が結成されることになる

そして同文献から赤心隊に関係するものを引用し、以下に一覧化する。あくまでも同文献は報国隊に連動したもののみ掲載しているため、赤心隊自体の事跡は別途調べる必要性があることは留意する必要性がある。

出来事
慶応4年(1868)4.25赤心隊と一同に吹上・紅葉山警衛を務める。
          4.29報国隊より27人・赤心隊より10人、御守衛大炮隊=御親兵に抜擢される。
            6.2城中大広間にて招魂祭執行。(中略)報国・赤心両隊神供役を務める。
             6.27 富士亦八郎(赤心隊長)・朝比奈内蔵進等、天朝のため終身奉公を願い出る。
          7.29 大炮隊員,報国隊・赤心隊への復隊を命じられる。
明治元年(1868)9.22 赤心隊員駿河草薙神社神主森斎宮,襲撃され負傷。
明治2年(1869) 6.29 東京九段に招魂社創建

東京招魂社については、以下のようにある(小野1995;p.190)。

6月2日には、戦没者の慰霊を目的として招魂祭が城中大広間で行われているが、この祭祀は、主として駿遠の神職たちが担っており、軍事面以外にも隊員は起用されていたといえよう。このことが、後の東京招魂社創建の前提をなしている


また同文献を読むと分かるように、報国隊の面々は歌会等を通してネットワークを形成していたことが分かる。また古典の口釈などが頻繁に行われていることから、それが国学を背景とするネットワークであったように思われる。

実はこのような国学ネットワークというのは、富士本宮においても脈々と受け継がれてきたものではないのかとするのが、私の見解である。

(小野1995;p.161)に吉田家遠江国執奏社家として「浜松五社大明神」の「森家」が記される。この森家であるが、富士本宮と縁が深い。『浅間神社の歴史』より引用する。

第三十七代信章は遠江浜松五社明神神主森民部少輔の弟で数馬という。正徳5年10月選ばれて信時の第三女に配し、大宮司の職を継いだ。

つまり富士信章は森家の人間なのである。そして妻は富士信時の娘である。ちなみに富士大宮の富士氏は、途中で血脈を維持できていない。一方で関東の富士家は富士信忠以来の血脈は維持している。

この信章であるが、国学者の荷田春満の門人であったことでも知られる。そしてやはり歌を通してネットワークが形成されていたようである。それが分かる史料に『かのこまだら』がある。

『かのこまだら』は享保8年(1723)の奉納歌集であり、北風村盈の発案で沼津の住吉社/沼津浅間宮へ奉納したものである。その冒頭は信章のものとなっているため(上野1985;p.603)、信章は中心的存在であったと考えられる。ここに国学ネットワークを見出すことはできないだろうか。

というのも、北風家にそのような傾向を認めることができるのである。村盈がそうであったのかは分からない。しかながら、国学としての繋がりは見いだせるのではないだろうか。それが前提となったネットワークであったように思われるのである。

以下に信章の和歌を掲載する(上野1985;p.603)(上野1985;p.607)。

さまさまの 山はあれとも 雪白き ふしの姿に くらへむはなし/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

白雪の かのこまたらの ふる言も 残るかひある けふのふしのね/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

そして信章の国学エッセンスは後の大宮司にも受け継がれた。例えば後代の富士民濟は『荷田御風五十算詩歌』に名が見える。つまり民濟は荷田派に属していたように見受けられるのである。それが更に後代の富士重本にも受け継がれていったと見るのは、やや飛躍しているだろうか。いや、むしろ大きくなっていったと見てもよいかもしれない。

  • まとめ

荷田春満門人であった富士信章は国学を推奨し、それは数代後の大宮司にも受け継がれ、その証左として民濟は荷田派であった。更に数代後には重本の代となるが、駿州赤心隊長を務めた背景として、国学的思想または従来よりのネットワークの関与が想定された。

  • 参考文献
  1. 宮地直一・広野三郎『浅間神社の歴史』
  2. 上野洋三編『近世和歌撰集集成第1巻地下篇』、1985、603-611頁
  3. 黒板勝美編『新訂増補国史大系 続徳川実紀 第三篇』、1991、618頁
  4. 小野将「幕末期の在地神職集団と「草奔隊」運動」『近世の社会集団―由緒と言説』、山川出版社、1995、153-208頁

2025年7月27日日曜日

蔦屋重三郎版元で葛飾北斎画の狂歌本から富士宮市の歴史を考える

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では"狂歌"が1つのキーワードとなっている。そして狂歌本を出版する描写も大河ドラマ内で確認できる。

そこで考えていきたいことに、狂歌に富士宮市を題材としたものは無いのだろうか、ということがある。『往来物』のタイトルにもなっている地であるから、あるに相違ない。

そこで少し探してみたところ、それらしきものが確認されたので、少し検討してみようと思う。その狂歌集は寛政11年 (1799)『東遊』(『狂歌東遊』)である。

葛飾北斎


『東遊』は葛飾北斎画で浅草菴市人撰の狂歌集である。蔦屋重三郎刊であるが、これは二代目である。そして今回挙げたいのは以下の収録歌である。

みくらゐに のほるや不二の 山さくら 大宮口の 花さくやひめ/末広菴長清

狂歌師「末広菴長清」は正木桂長清とも言うようである。(石川2008;p.66-67)には以下のようにある。

小林ふみ子氏のご教示によれば、桂長清は伯楽連、後に浅草連の主要人物の一人として富士見連を率い、末広庵とも称したという。

その小林氏の論稿である(小林2008)にて挙げられている「♦9」「♦10」「♦32」の作品にも名が見える。

では狂歌を見ていきたい。みくらいは=御位で、「さくら」と「花咲く」と「サクヤヒメ」をかけている格好である。17世紀には富士山の垂迹神は木花之佐久夜毘売となっていたため、それが素直に反映されている。

またここでいう「大宮口」とは、大宮・村山口登山道で言うところの大宮口であると思われる。「大宮口」は歴史用語であり、様々な史料に認められる。では近い年代の史料を数点挙げてみたい。

三方に道あり駿河よりのぼる方を大宮口といふ。 相模路より登かたを須走口といふ。(中略)甲斐より登るかたを吉田口といふ。 ー文化14年(1817)/小山田与清『國鎮記』


国学者の小山田与清による著である。富士山の登山口を「三口」で表す、往古よりの王道パターンである。

甲州より登るを吉田口といひ駿州ゟ登ルを大宮口といひ相州より登ルを繕走口 ー文政7年(1824)/十返舎一九『諸国名山往来』

蔦屋重三郎は十返舎一九とも懇意にしていたことでも知られている。これも富士山の登山口を「三口」で表すパターンである。

十返舎一九

勿論もっと古い時代の記録は存在しているが、比較的近い時代のものを挙げてみた。須走口が各史料で「相州」とあるのは、御厨地方(小山町から御殿場市一帯、裾野市の一部)は小田原藩領であったためである。なので宝永大噴火による被害で御厨地方救済に動いていたのは、小田原藩二代目藩主の大久保忠増だったわけである。

ところで『國鎮記』や『諸国名山往来』には「村山口」の文言が見えない。では村山口は存在していなかったのだろうか?…もちろん否である。

つまりこれらの記述は大宮口(村山口)という意で記しているのである。この事実そのものが、現代において「大宮・村山口登山道」と呼称される根拠となるものと言える。勿論、大宮→村山→富士山という登拝様式が登山記等から認められる事実からもそう言えるのではあるが。

また絵図においてもこの現象は同様であり、小泉斐『富岳写真』の「冨士山南面従吉原馬到十里木村全図」は麓から山頂にかけて「正面大宮口」の文字で埋められている。これは当の本人が富士登山を行っている。これも村山口が存在していなかったというわけではなく、大宮口(村山口)という意で記していることになる。

この『富岳写真』であるが、文献により解説が異なり判然としない。(羽黒町1994;p.9)には以下のようにある。

小泉斐は寛政7年、立原翠軒ら水戸藩士5人とともに富士登山を行っている。このとき登山の有り様を写生して『富士山画巻』をものにした。(中略)小泉斐が弘化2年、80歳の時に上梓した『富岳写真』一巻は、天覧に供された『富士山画巻』より数十図を選んだもであった。

このようにあり、『富岳写真』の作品は寛政期まで遡る潜在性を有しているように見受けられる。一方(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.136)には以下のようにある。

寛政6年(1794)、水戸藩士大場維景は富士山登頂を果たした。それに触発された同藩史局の総裁立原翠軒ら5名は、翌7年(1795)、『大日本史』編纂の史料調査のため関西方面に赴くが、その江戸へ帰る途上に富士登山を試みた。(中略)その登山過程の風景をスケッチしたものが《富岳真状》(東京都中央図書館蔵)であり、それを浄写したのが本図(註:富士登岳図巻)である。

また(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.138)の『富嶽写真』(富岳写真)の解説は以下のようなものである。

斐が富士登頂を果たしてから50年が経過して出版された版本である。(中略)本図の他、府中市美術館本、東京都立中央図書館本、東京国立博物館本など複数の異本が存在し、それぞれに出版の際の事情が反映されている。奥書には、斐の門生島崎玉淵ら4名が中心となり刊行を企画したことが触れられている。

このように「富士登山の際スケッチしたもの」と「それを浄写したもの」、「後に選定し出版したもの」の存在が明かされており、やはりそれぞれの関係が判然としない。少なくとも、富士登山が行われた18世紀の風景・考えが反映されたものと考えて良さそうである。

19世紀前半になると多くの地誌が著されたので、大宮口や村山口という文言を見る機会が急激に増えてくる。『駿河記』は1820年、『駿河国新風土記』は1834年、『駿国雑誌』は1843年、『駿河志料』は1861年という具合である。

これら駿河国の地誌だけではなく且つ時代が遡る史料においても多く「大宮口」の文言が確認されることから、大宮口の存在は広く認識されていたものと考えられる。狂歌に歌われるに十分な背景があるというわけだ。

また面白い史料がある。文政13年 (1830)の喜多村信節『嬉遊笑覧』に以下のような箇所がある。

「これをかたらひ山の頂にて終らんことをはかるに須山口大宮口等の者ども…」

これも富士山中の描写であって、やはりそこでも大宮口の文言を用いている。このように見ていくと、当時の慣例として富士山頂までを包括して「大宮口」としている例が多く認められることが分かる。

一方、両方の文言を用いて説明している場合もある。例えば以下のようなものである。

此山〔南口 須走口村山口大宮口三道あり〕を表とし… /嘉永4年(1851)『甲斐叢書』

このように駿河国の登山口は「表口」とも称されていた。各史料を見ると、大宮・村山口だけでなく須走口も表口と称されていたことが分かる。「大宮口」「村山口」「須走口」すべてが表口である。

江戸の文化人が、富士山の祭神として木花之佐久夜毘売を認識しており、そして富士山の登山口として大宮口を知り得ていたことを示す一史料といえる。近年、学術面ではない部分で大宮口の認識を急速に失わせようとする活動が確認されるのは、明確に誤った方針であると言える。


  • 参考文献
  1. 黒羽町教育委員会『黒羽が誇る 小泉斐回顧展(図録)』、1994
  2. 栃木県立美術館・滋賀県立近代美術館編『江戸絵画にみる画人たちのネットワーク 小泉斐と高田敬輔』、2005
  3. 小林 ふみ子「江戸狂歌の大型摺物一覧(未定稿)」『法政大学キャリアデザイン学部紀要 5巻』、2008、227-264
  4. 石川了「三世浅草庵としての黒川春村(補遺)」『大妻国文 巻39』、2008、53-67

2025年4月27日日曜日

天子ヶ岳の瓔珞つつじ、炭焼長者伝承と田貫次郎の娘延菊の伝承について

TVにて富士宮市の民話が放送されるようなので、今回取り上げていきたいと思う。 



この天子ヶ岳の瓔珞ツツジの民話は、典型的な「炭焼長者」系統の民話である。全国に残る炭焼長者の民話は、概ね以下のような筋書きを有する。


炭焼を生活の糧とする男が居て、その男に関する風説または夢の中での登場などによって遠く離れた女性に男の存在が認識される。その女性は高貴な立場である。女性は実際男に会いに来る。女性は小判を男に授けるが、男はお金に関心がなく、池に投げ入れてしまう(鳥に放つ)。その無心さに女性は驚く。二人は無事結ばれる。炭焼きの炭が黄金と化し、男は長者と呼ばれるようになる。


炭焼長者の民話には「池/淵」と「小判」が登場することが殆どである。これがこの民話の原型である。池は小判を投げ入れる存在であったり、女性が自身の姿を映す鏡として登場することもある。炭の黄金化は、民話を読む限りでは女性と出会う前から既に発生していた現象であったと読み取れる。男はそれが価値のあるものと分かっていなかった、というように読み取れる。

同民話は様々な解釈が可能である。男性側で言えば無欲・無心さの推奨であったり、文明を知ることの重要性を示唆しているようにも思える。女性側で見れば、身分に拘らないことなどを示唆しているようにも思える。どう解釈するかは、人によっても分かれるだろう。

天子ヶ岳の民話は炭の黄金化の要素が薄まり(黄金が出る等に変化)、ここに女性の最期を含めているという点で、棲み分けができるように思う。天子ヶ岳は静岡県と山梨県に跨るとは言っても、山頂一帯は静岡県富士宮市に所在している。天子ヶ岳の民話はそれぞれ異動があるが、富士郡(つまり静岡県)が軸となっていることが多い

また山中共古『吉居雑話』によると、富士郡大宮(富士宮市)の俗謡として天子ガ嶽の瓔珞つつじが歌われていたとある(『諸国叢書』No.1、1984年)。山中は明治40年(1907)から明治45年(1912)まで吉原(現在の静岡県富士市)におり、その折に『吉居雑話』は著された(広瀬1987)。

この一帯に伝わる民話は、以下のような筋書きである(中山1933;p.939)。


ヤウラクツツジ〔瓔珞躑躅〕

富士山の裾野に炭焼の松五郎が住んでみたが、或時王女が訪れ来て夫婦となり、松五郎は有名な炭焼長者となった。其後王女は病を得て永眠されたが、遺言により王女の瓔珞の冠を都見える天子ヶ嶽に埋めた。其翌年の春埋めた冠から芽が出て美しい隣躅が咲いた。此躑躅の枝を折ると、必ず大嵐があるとて里人は恐れてゐる(裾野の伝説)。炭焼長者伝説の一變型である。


そして文政3年(1820)の『駿河記』には以下のようにある。


天子ヶ嶽 或きりう山といふ 
富士山より西にあたる高山なり。此嶽は駿河甲斐二図に跨る。西南は嶺まで上稻子村に隷す。同村入山より登凡三拾餘町許、丑寅は猪頭・内野・佐折・原・半野五ヶ村に隷す。西北は甲斐國上佐野郷に隷せり

この山の頂に古塚あり。俗傳云むかし天子の皇女を葬し奉る所。故に天子獄と唱ふ。丑寅の麓に長者ヶ原と稱する廣き邱あり。中に池沼あり。むかし炭焼をのこ此處に住す。某の皇女あやしき所謂ありてこの國に下り、彼賤男の妻となり、また富士の麓に黄金出で、これを得てをのこ俄に富貴の身となり彈南長者と呼ぶ。

皇女薨御の後、高貴人なればとて此山上に登せて葬し奉る。今御塚の傍に瑤珞躑躅とて生じたる木、次第に大木となり實を結びて今は其種落ち、苗木多く生ずといふ。其外長者のことに賴朝卿富士御狩を率合附會して種々の俗談あれどもここに漏す。

但しこの野説を按に、竹取物語等によつて俗の混じ傳へたることにやあらん。然れども弾南長者の事跡、總て芝川通の諸村の俗頻に語傳へ、猪頭遠照寺七面堂に彈南が位牌を置ことなど縁あるべし。(以下略)

以下に地図を掲載する。



地図を見ると分かるように、天子ヶ岳から向かって西は南部町・身延町(山梨県南巨摩郡)、北は長者ヶ岳・毛無山等を経て本栖湖(身延町および富士河口湖町)が位置する。その関係からか、天子ヶ岳の民話は富士宮市だけでなく南部町や富士河口湖町にも伝わっている

以下に富士宮市以外の地で伝わっていたものを一覧化する。また芝川町に伝わっていたものもここに記す。

伝承地(芝川町以外は現在の自治体名)女性の設定男性の設定(居住地)出典
山梨県南都留郡富士河口湖町京の長者の娘藤次郎(静岡県富士宮市猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148)
富士河口湖町京の公卿の娘藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148-149)
富士河口湖町都の姫藤二郎(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町京の天子の姫藤二郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町天皇家の操の姫 藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149-150)
山梨県南巨摩郡南部町皇女松五郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
南部町醜い都の姫君長次郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
旧富士郡芝川町皇女様松五郎(柚野、生まれは甲斐の明日見)(渡辺昭五1982;p.232-233)
旧芝川町お姫様駿河国の富士の麓の長次郎(渡辺昭五1982;p.233-234)
旧芝川町富士姫富士のふもとの藤次郎(渡辺昭五1982;p.234)

つまり富士宮市の民話が隣接する地にも伝搬していたのである。男の名前が変化するのは、口承故だろう。富士河口湖町の伝承が男の居住地を猪之頭とするのは、同町の人も頻繁に利用したと推測される中道往還がこの周辺を通過するため、同地が仮託されたためではないだろうか。

一方で南部町の伝承では「富士の麓」等とあって、猪之頭ではない。これは南部町から富士宮市に行く場合、中道往還を経ることはないためである。また南部町の方が富士宮市と文化圏が近く、天子ヶ岳も近い。であるから、南部町のそれは富士宮市固有の伝承により近いものになっていたはずである。芝川町・南部町のものは、炭の黄金化が組み入れられていないという傾向がある

南部町には上佐野という地域がある。南部町も富士宮市同様に佐野姓が多くおり、富士宮市の稲子地区を根拠地とした佐野氏との関係性は従来より良く指摘されている。(服部1980;p.290-291)には以下のようにある。


上佐野の歴史は佐野備後守綱好から始まる。「佐野備後守綱好ハ文明3(1471)年関東大乱ノ砌リ当地ニ引籠り天子ヶ嶽ノ麓ヲ開基トシ、ソノ名字ヲ以テ所ノ名ヲ佐野村ト号ス」という銘が、崩れた塔にあったということが寛延元辰(1748)年10月の文書にあり、村人の悉くがそれを信じている。名字を以って佐野の村名ができたということは疑わしいが、備後守の存在は歴史的事実であろう。

このように、天子ヶ岳との文化圏の近さを感じさせるものがある。そして全国に多く残る炭焼長者系統の民話の1つに過ぎないのにも関わらず、この天子ヶ岳の民話は特別な魅力を放っている。それは天子ヶ岳頂上に伝承を所以とする史跡が残るためである。(小檜山俊1970:p.67-71)には以下のようにある。

天子岳の頂上は、ちょっとした林間広場である。そのはずれに、小さな、古びた石の祠。その両側にサルスベリのようなツツジの大樹が二本。祠の前から、かすかにくだる道がある。(中略)その夜、ノブさんからこんな話をきいた(註:山梨県南巨摩郡南部町上佐野小草里に住む女性)。

天子岳にちっちゃなお宮さんがござったげな…。あれはなあ...むかし、富士のすそ野に松五郎という炭焼きがおじゃってな、毎日毎日炭を焼いていなさっただ。その炭を焼く煙をみて、天子様のお姫様が都からはるばるたずねてござしゃった。なんでも、煙の立つほうにお姫様の良縁があると神様のお告げがあってなあ…。

そして松五郎とめでたく夫婦になられただ...じゃが、間もなくお姫様は病気でなくなってしもうた...。松五郎はきっと都の天子様が悲しんでおられるだろうと、姫の形見の瓔珞の冠を、都からみえるあの高い山へ埋めた…そして冠を埋めたあとに、あの石のお宮さんをたてたんじゃ。天子様がお姫様のことを思い出されたら、いつでもこの山を見てくだされ…。そしたらここには姫の形見があります...と天子様に申し上げたい気持ちで松五郎はあのお宮さんをおったてたんじゃろ。そいであの山を天子岳と呼ぶようになったんじゃて。

お宮のそばに大きなツツジの木があったじゃろ...村ではみんな瓔珞ツツジといってなあ、あのツツジの枝を折ると必ず雨が降ったもんじゃて…、お姫様がが泣きなさる涙雨じゃ…いうてなあ、わしらちっせえころ、長雨が続いたりすると、だれじゃ、天子様のツツジを取ったのは…よう叱られたもんじゃて…。小草里という名にふさわしい、草深い山村のロマン伝説である。


やはり昔の人は話し方が上手い。おそらく民話を口で伝えるということに慣れているのだろう。それはいいとして、この石祠と瓔珞ツツジは現存している。しかし2本あったという瓔珞ツツジのうち1本は枯れてしまったという。

皇女の死後まで含めた物語の美しさと民話に仮託された史跡が現存するという要素が、この天子ヶ岳の民話をより魅力的なものに変化させている。

またこれの派生形として田貫湖周辺に伝わる尹良親王伝説と一体化した民話も存在する(渡辺昭五1982;p.234-235)。こちらは炭焼の男という設定ではない。しかしこれは明らかに従来の伝承にさらに附加する形で形成された民話である。これは『浪合記』『信濃宮伝』に見られる伝記(史実ではない)に影響を受けた形だろう(近藤1906)。『浪合記』は近世に多く書写されたというから、それが地方に伝搬し、形成されたのであろう。筋書きは以下のようなものである。

田貫湖辺りの内野の地に田貫次郎という者が住んでおり、そこに東国から遠征してきた尹良親王一行が訪れてきた。田貫次郎の娘である延菊は親王の世話を行った。やがて親王は上野国に向かうが、道中で戦死してしまう。富士郡の人々はこれを悲しみ、天子ヶ岳の頂上に祠を設け弔った。

戦死の知らせが延菊の耳に届くと、これを深く悲しみ、食べることも寝ることもしなかった。ある日の夜、延菊はひっそりと家を抜け出し、天子ヶ岳の頂で頭に冠を載せ手に瓔珞を捧げて殉死してしまう。郷人はこれを哀れみ、天子ヶ岳に合葬した。翌年、その地から1株のツツジが生えてきて美しい花を咲かせた。

郷人はその花の形が瓔珞に似ていることから延菊が霊化したものと考え、その木を瓔珞ツツジと名付けた。その枝を折ると晴天であってもたちまち黒雲を生じ、大雨を降らすという。人によっては雨乞神として敬ったともいう。


実は田貫湖周辺というのは、このような雨乞いの要素を含む民話が多く残っている。それは何故だろうか?

その答えとして「水不足が問題となることが多かった」ということが考えられる。以下は富士宮市・富士市の河川分布図である。



これを見ると分かるように、富士宮市は全域に河川が分布している。古代から考えてみよう。縄文時代草創期の集落跡を示す国指定史跡「大鹿窪遺跡」がそうであるように、富士宮市域は古から発展していた地域であった。大規模集落跡は河川の付近に所在する例も多く、大鹿窪遺跡もその例に漏れない。つまり文明の条件として河川は極めて重要な存在なのである。

同遺跡からは伊豆神津島産や信州産の黒曜石が出土しており、他地域との交流があったことが分かっている。しかしこれら大規模な遺跡は多くあったわけでは決してないのだから、それがある地域はオアシスであり、ある意味では大・大・大都会であったわけである。

しかし天子山地付近というのは、河川の空白地点となっていた。それは古代を経て中世・近世も不変であった。富士山の麓と異なり相対的に標高が低いこの一帯は、人も居住していたことであろう。しかし河川がなければ、水の入手は降雨に頼るしかない。そのような環境下で「雨乞い」の民話が成立したのは、想像に難くないだろう。


  • 参考文献
  1. 近藤瓶城(1906)『史籍集覧 第3冊』,近藤出版部
  2. 中山太郎(1933)『日本民俗學辭典』,昭和書房
  3. 小檜山俊(1970)『東海自然歩道』,養神書院
  4. 服部治則(1980)『農村社会の研究―山梨県下における親分子分慣行 』,御茶の水書房
  5. 小澤俊夫・稲田浩二(1981)『日本昔話通観 第12巻 山梨・長野』,同朋社
  6. 渡辺昭五(1982)『日本伝説大系 第7巻』,みずうみ書房
  7. 『諸国叢書』(1984),成城大学民俗学研究
  8. 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244

2025年3月17日月曜日

富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く

近年、災害等を契機として災害伝承・民話から地域史を見つめ直そうとする試みが増えてきている。例えば(小川・藤井2024)がそうであり、先行例も論文内で記されている。

それによると、伝承自体がジオパーク指定における構成資産となっている例や「妖怪安全ワークショプ」といった事例、名古屋市港防災センターによる展覧会「妖(あやかし)と自然災害~あいち・なごやの妖怪伝承~」などが事例として紹介されている。

ところでこの富士地区(富士宮市・富士市)においても妖怪伝承に類するものが存在する。それは富士市の三股淵の大蛇(竜女)に関する伝承である(「怪異・妖怪伝承データベース」)。「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」で記しているように、また一般的にもそうであるように、富士市の歴史を語る上で「生贄」はキーワードとしては外せない。(小川・藤井2024)に"災害伝承を顕在化させる象徴"として要石が紹介されているが、富士市でいえば「保寿寺の大蛇の鱗」がこれに該当するであろう。

一方で富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)の過去の企画展を確認してみると、それらをテーマにした企画展は一切無いことが分かる(同博物館の企画展の刊行物はこちら)。史料も極めて多く残存しているのにも関わらずである。

過去約40年分を遡って調べてみても、そのようなものは確認できない。この事態を平たく換言すると、市立博物館の展示だけでは富士市の主な歴史すら見えてこないということになる。不思議なことである。

実は富士市における一連の生贄伝承を取り扱うとき、少し注意点が必要となってくる。というのも近代以降の歴史の中で、どうもこれらを強く忌避する動きがあったように思われるためである。その上でおそらく禁忌を犯してしまったのではないかと、私は捉えている。

この記事では富士市の生贄伝承の1つである「お菊田」を取り上げ(「怪異・妖怪伝承データベース」)、そこから富士市の刊行物を引用する形で近代以降の動きについて見ていきたい。


  • お菊田の伝承

1918年の柳田國男の論考「農に関する土俗」の中で、富士市のお菊田について触れられている。


日本では田植に伴ふ儀式及び言ひ伝へに古いものが多い。其中でも不思議なのは、最も清かるべき田植の日に、女が死んだと言ふ言伝への各地にあることである。(中略)其最も普通の形式は斯うである。昔或長者があまり早乙女をひどく使ひ、大きな田を強ひて一日に植させようとした為に、其女は疲れて死んだ云々。其女は疲れて死んだ云々。駿州吉原庄須津村の「おきく田」などは其一例である


この"女性と田植え"に関する柳田の論考は現在でも大きな影響力を持っており、各所で取り上げられている。例えば(小野地2006)(関沢2022)などはその一例である。お菊田の伝承は広い意味では生贄に該当する。

そしてこの柳田の論考に当時触発されたのが、同じく民俗学の大家である中山太郎であった。中山は1925年の「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」という論考でお菊田に言及した。


同國富士郡須戸村にお菊田と云ふがある。これも強欲の姑のために無理な田植を命ぜられ悶死した故地である(吉居雑話)。


民俗学者の巨塔らに語られたことで、現在に至るまでこのお菊田はよく知られた伝承となっている。

中山の記述には出典として『吉居雑話』とある。実は『吉居雑話』は柳田國男と交流のあった民俗学者「山中共古」による著である。同著は『諸国叢書』(No.1、1984年)に集録されており、興味深い内容であったため、私も後に蔵書とした。

ここには大宮(富士宮市)の事象も記されており、大宮や吉原の方言も集録されている。また『吉居雑話』自体の背景を論じたものに(広瀬1987)がある(『諸国叢書』No.4、1987年)。つまりこの伝承は、山中共古をはじめとして柳田國男・中山太郎といった面々が言及した有名な伝承であると言えるわけである。



さて、その『吉居雑話』には以下のようにある。


須津村比奈ノ学校より下ノ方二、御菊田ト称スル一町六反ノ田地アリ、此地二就テ伝説アリ、田ノ持主二強欲ノ者アリテ、田植女ヲムゴク使用シ、一日ニテ此田植ヲ為セト命ジタリ、苦シサヲ忍ビテ致セシガ夫ガ為二死セリ、其後此田ヲ作ルト不幸アリテ災害ツゝキ、持主モコレヲ人二渡セリ、此女ノ名ヲ菊トイフヨリ、おきく田ト称シ作ル者恐レ居ルトノコト


私が『吉居雑話』を読んだ際、触りとして分かり安く興味を引きやすいような記述にばかりに目がいってしまう傾向があった。しかし柳田は、このお菊田の伝承に強い関心を示した。普通に読んでいたら読み過ごしてしまうであろうこの短い文章に注目する辺りも、柳田の凄さを感じるところである。

柳田は山中がそうであったように手紙等を通じて全国から民俗学的な情報を得ていたようであり、それらの中からこの伝承との関連性を見出したのであった。この点1つだけとって見ても、柳田の凄まじさを感じる所である。柳田の有名な考察に「一つ目小僧」があるが、こういうものも背景に膨大な資料があり、民俗学者としての目を通したからこそ発生し得たものなのだろう。

お菊田については他に(田中1961;p.30)でも言及されるなどしている。このように引き継がれていったのも、後世に正しく伝承を残そうとした先人が居たからに他ならない

しかしこの伝承は突如として変異した。その転機が昭和57年(1982)2月5日号の『広報ふじ』「菊さんと一町六反」である。そこには以下のようにある(後に平成9年(1997)5月5日号にも掲載)。


東国の「お菊さん」は、若いころ遊ぶことが大好きで、毎日毎日遊びほうけていました。でも、ある晩死んだ父親の夢を見て、今迄のことを深く反省し働かなくてはいけないと決心しました。東海道を西に下って比奈村まで来たお菊さんは、景色のよいこの村が気に入り住むことにしました。百姓の手助けをして朝から晩まで村人が篤くほどよく働きました。いつしかお菊さんは、村人にかわいがられ、そのうち自分でも田を買って1町6反の田を作るようになりました。その日もお菊さんは、朝早くから田植えをしていました。もう少しで終ろうというとき、太陽が西の山に沈もうとしていました。「ああ!おてんとうさまが、もう少し待ってくれたらなあ。」するとどうでしょう。沈みかかっていた夕日は、西の山から顔を出したではありませんか。「ありがたや、ありがたや」田植えが終ったお菊さんはそのまま倒れて死んでしまいました。それからのち、この付近の田を、誰いうとなく1町6反というようになり、お菊塚が建てられました。

このように、もう全く別のお話となってしまっている。長い年月の過程で変化したという可能性も否定できないわけであるが、そう単純ではない。そしてそもそも「昔ばなし」として全く成立していないということも、一読して気づくことだろう。これでは「昔遊び呆けていた人が本腰を入れて頑張ったら亡くなりました」という話でしかない。言わずもがなであるが、こんなストーリーが伝承されるはずもないのである。「自分でも田を買って」という部分も、いかにも取って付けたようである。

皆さんも察することができると思うが、これは明らかに改変した節がある。そしてこの連載のものを一纏めにして出版したものが1989年の『ふるさとの昔話』である。そこには以下のようにある。


この妙な現象を確認してから、私は時系列でこの伝承を追ってみた。それらの材料から推察するに、この突然変異には作為的なものがあったのではないかと考える。

というのも『広報ふじ』の連載には1982年12月5日号「石坂の鶏頭豆」に『吉居雑話』について言及があり、また1983年7月5日号に「山中共古「吉居雑和」より」が、同年8月5日号には「山中共古「吉居雑和」お盆の行事」とあるように、『吉居雑話』から引用された話が掲載されている。

にも関わらずお菊田の伝承に関しては『吉居雑話』のものをあえて紹介していない。同著の存在は連載当時にも知り得ていたはずである。そして真の郷土史家であるならば、一旦立ち止まらなければならないだろう。

お菊田の地には「お菊塚」という塚が建てられている。無論、犠牲となったお菊を鎮めるために建てられたものであろう。そして現在は昭和幼稚園の園内に位置している。その背景を考えると、園関係者が意図的に改変した可能性もある。郷土史家でなくともその可能性を容易に感知できるはずであるが、感知して動いた様子もない。やはりここには何かあると考えるのが自然だろう。



しかも平成3年(1991)には案内板まで設置され、最終的にはこの女性は「おばあさん」ということになってしまっている。この数年でまたまた話が変わるのもおかしいのであるが、内容を見ていこう。

案内板によると、お菊さんは百姓の手伝いだけで一町六反という広大な田んぼを手に入れたようである。一町六反といえば、およそ4,800坪である。そしてなんとこの広大な土地をおばあさんは一人で切り盛りしてきたという。そして死後、働き者であったという理由で塚まで建立されたとある。この地はそんなにも働き者が少なかったのであろうか。このように筋書きが見るからに破綻してしまっているのである。

初見(『吉居雑話』)の伝承と比べた際明らかに異なるのは、"犠牲の要素"がごっそりと削ぎ取られているということである。"強欲な地権者(一町六反の田んぼの持ち主)が田植えを1日で終わらせるよう命じ、お菊はその犠牲となり死に至った"という部分を完全に削ぎ取っている。これが改変であった場、犠牲の要素を忌避する意図が考えられる。

(小川・藤井2024)は静岡県内の伝承を見ていく中で、以下のような帰結を示している。

静岡県における災害伝承を概観したところ、災害伝承には災害への警告を発するハザード機能と安全を伝えるセーフティ機能とがあることが確認された。また、全国的に沼に関する伝承には、自然災害への警鐘機能だけでなく、水難事故を予防する啓発機能も認められた。また民俗学的な視点に立脚すると、災害伝承に登場する妖怪や神といったものは、人間社会に対して超越的な存在者として、人間の心性や社会のあり様を映し出す鏡としての役割を果たしている。したがって伝承が語り継がれることで、それぞれの時代の課題も投影され、伝承の価値変化が生み出されるところとなる。

このようにあるわけであるが、お菊田の伝承は本来ならば"人に無理難題を強いてはならない、結果不利益を被ることになるだろう"という教訓の意味があったはずなのである(この場合の不利益とは田んぼが使用できなくなったことにある)。しかし富士市の案内板をそのまま読み取ると"頑張ると死にます"という意味となる。何故そんなメッセージを伝えようとするのか、私には理解できない。

私は官公系のコンテンツというものは、専門家自身ないしその監修下の元で世の中に公開されるべきであると考えている。つまり学問的な教育を経た者がコンテンツを作成すべきであると考えている。そうすることで倫理性が担保される面もある。

富士市の広報を見るとかなり郷土史家ないし愛好家が幅を利かせてきた歴史があり、狭いコミュニティでの見識が公式で謳われるようになってしまっていたことが見て取れる。比較検討のため、以下では他の連載も見ていこうと思う。

  • 他の連載から見える明らかな創作の跡

念の為『広報ふじ』の他の生贄関係の連載も確認してみよう。『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号に「いけにえ淵」が紹介されている。そこには以下のようにある。

わたしたちのふるさとには、先人が残してくれた数多くの伝説があります。そこでこの号から1年間、鈴木富男さん(駿河郷土史研究会長)にお願いして、伝説の紹介をしていきます。

ここから、郷土史家による監修であるということが分かる。その内容の要約を以下に記してみる。

天正の頃、7人の巫女が上京する途中、毘沙門天前の茶屋に寄った。するとにわかに騒がしい。茶屋の者が申すところでは「ここから北側にある三ツ股には何年も前から大蛇が住んでいて、民衆が行事を行うことで鎮めている。しかし12年に1度の年は若い娘を生贄にすることになっている。今まさにその生贄を鬮で決めている」と。巫女らは青ざめ、引き返すことを考えるが、役人に鬮引きを強制される。すると巫女のうち7人目の「おあじ」がそれを引き当ててしまった(以下略、後半に「保寿寺」が登場する) 。


このような筋書きとなっているが、地誌等を確認しても一致するものが見当たらない。例えば、毘沙門天が登場するケースも見当たらない。そこで毘沙門天(妙法寺を指す)を調べてみることとした。『駿河記』には以下のようにある。


此院始め田嶋村にありしが(中略)元禄十年今井村の住民彦左衛門渡邉父法義と云もの開基して、香久山に移し


つまり現在地に移転・建立されたのは、元禄10年(1697)のことであるという。その前身すら寛永4年(1627)建立とされ、天正(1573-1592)の頃にはそもそも毘沙門天は存在すらしていないのである。また中世の古文書にも確認できない。

また延宝年間(1673-1681)の『東海道巡覧記』に「今の吉原駅、初はここにあり。砂山地蔵、香久山、妙法寺といふ日蓮宗の寺あり。又毘沙門あり」とある。

したがって、この肉付けは明らかに創作の結果と言えるものである。郷土史家は妙法寺の建立年までは調べず、物語の創作の中に入れ込んでしまったのだろう。ここに明確な創作の跡がある。「天正期にはあっただろう」と思い込み、うっかり入れ込んだのである。また保寿寺住持による調伏譚自体には阿字は登場しないので、この点も理解が及ばず混ぜ合わせてしまったものと考えられる。つまり阿字と住持がセットとなるのは、郷土史家オリジナルの脚本である。

このように物語を分かりやすくするために表現を崩しているというよりは、完全に新しいものに改変してしまっている。こういうことが、かなりの昔から行われてきたのである。

同じ筋書きのものは『広報ふじ』昭和55年(1980)5月5日号「いけにえ渕の毒蛇」および昭和55年(1980)6月5日号「いけにえ渕の毒蛇②」に掲載されている。そしてこれらは同一人物によるものである。この創作話を詳しく読み進めてみると、なんとなく筆者の意図が見えてくる。以下に抜粋する。


この北側の三ッ股(また)渕には何年も前から大蛇(だいじゃ)が住んでいて、毎年6月28日の大祭日に村人は、小舟につんだ三俵分のお赤飯を渕のまん中に沈めて、大蛇(だいじゃ)の怒りを静める行事をやります。ところが、12年に1度の巳(み)の年には、若い娘をいけにえにすることになっていまして、もしそれをやらないと、大蛇(だいじゃ)は怒ってこの土地に大難を与えるというのです。そこで、いけにえになる娘をくじ引きで決めているのです。(中略)突然入ってきた宿場役人に問屋場の前まで連れていかれ、無理にくじを引かされました。(中略)吉原宿の人たちは、おあじの霊をなぐさめるため、鈴川の砂山に阿字(あじ)神社をたてました。


筆者は人身御供が里人・土民等によって行われてきたとする筋書きをおもしろくないと捉えたのであろう。大蛇の怒りを鎮める行事自体は「村人」とするが、生贄の話となると「宿場役人」なるものを登場させ悪人とし、その上で吉原宿の人たちの善意と取れる文面を前面に押し出した筋書きを採用した。明らかに、生贄を行う主体を地域の人から遠ざけようとする試みが認められる。

勿論「宿場役人」などというものは伝承では登場せず、創作の結果である。どの史料にも出てこないのである。実際は以下のような伝承である。

史料内容
謡曲〈生贄〉ワキ(神主)「今夜此の宿に旅人の三人泊りて候ふが、夜の中に立ちたる由申し候。急いで留め候へ」トモ(神主の従者)「畏まつて候。如何にあれなる旅人、御留り候へ」(つまり当地の神主らが生贄を主導)
『駿河記』里人これを捕え生贄に備むとす
『駿国雑志』此宿に泊りけるを、土民捕へて牲にせんとす(巻之廿四上「毒龍受牲」)
『田子の古道』(野口脇本陣本)広き淵となりて悪れい住み、年々所の祭として、人身御供を供えて
『田子の古道』(森家所蔵本)爰に悪レイ往年々所の祭りとして人御殻(供)

すべての史料で「地域の祭り・慣例」として記されている。また地誌においては生贄を捕らえるのは「里人」「土民」等と記される(地域の人々)。

筆者は上のような伝承に沿った筋書きを意図的に避けたわけである。そして部外者的な人物を創作し、その者が1人で酷い行いを進めようとしたという筋書きを作るに至った。これらの材料等から考えるに、同じく"おもしろくない"と捉えられてしまったお菊田の伝承は、何の配慮もなく改変を断行されてしまった可能性が高い。

一地方の伝承などはその地の出版機関や郷土史家が取り上げることはあっても、大きな媒体で取り上げられるのは難しい。しかしそのような中でもお菊田はよく取り上げられてきており、知名度も高かった。しかしそのような中でも、案内板はそれとは異にする内容で記している。教育委員会の姿勢についても疑問符をつけざるを得ない。普通の感覚でいえば、『吉居雑話』のものを取り上げるべきなのである。こうなると歴史の復元作業は容易ではない。

私はこのような恒常的姿勢が、後々までに富士市の歴史を巡る環境を著しく汚染させたのではないかと考えている。それら事象についても、以下で述べていきたい。


  • 富士市の風潮

そもそも富士市の刊行物はこの伝承に関わらず、歴史叙述は酷いものとなっている。そこに現代的プロセス、つまり史料実証的な姿勢は無い。とてつもなく遅れているのである。例えば以下はその一例である(『広報ふじ』平成4年6月20日)。




ご存知の通り富士市説の方がよっぽど異説なのであるが(誤認万葉歌碑についてはこちら)、感情だけで事を述べており、実証主義的アプローチを間接的に否定している。「唯一残る地名」という文言も、意味が不明である。田子の浦という地名があったわけでもないし、自治体名として「田子の浦村」というものが後に形成されたに過ぎない。このような言説が広報で繰り広げられてきた事実はおぞましくすらある。

石碑建立の背景については(富士市1986;p.843)にて言及されている。

この、田子の浦で詠んだ富士山の歌を石に刻み、多くの人に愛誦されて、後世に伝えたいという声があり、それら市民の願いを結集して、昭和59年8月、歌碑建立の陳情書が市民団体から市当局に提出された。(中略)文化財審議会は「郷土の貴重な歴史文化遺産を理解させ、広く市民に文化を顕彰、普及させるもの」との答申を提出した。そこで昭和60年度当初予算に計上されたのである。

本来ならこのとき、詠地ではないとされることを伝え、留保しなければならないのである。しかしながら富士市は極端に人材に恵まれず、建立への運びとなってしまったという背景がある。私はこの市民団体の動きにも郷土史家の関与があったのではないかと考えている。

(高埜2017)には以下のような文章がある。

リース以来の実証主義歴史学が日本の主流になったことは、アーカイブズ制度にとって幸いでした。国威発揚を目的とした民族主義の歴史学は戦前の日本にも外国にも存在しましたが、それらは史実に根拠を置きませんから、歴史史料の収集や保存を重要とは考えません。しかも戦前の歴史史料収集の対象には、庶民史料などは含まれませんでした。この限界を改め幅広い史料収集を訴えたのは当初は歴史研究者たちで、文部省史料館や国立公文書館の設立に結実し、都道府県立の文書館による歴史史料収集につながりました。


これを地方に落とし込んだ上で換言すれば、富士市は"地元顕彰と歪んだ地元愛により実証主義が二の次となってしまった"と言えるだろう。

長い歴史の中、これら(広報といった公式資料が酷く感覚的であること)に異を唱える人が居なかったとは到底思えない。しかしとてつもない同調圧力がそれを無にしたのではないだろうか。先の広報が良い例である。そもそも万葉歌碑も、疑義を唱える人が皆無であったはずがない。

このようなスタンスを何十年と続けてきた結果、完全に腐敗しきってしまったのである。私は歴史の復元作業を進めているが、富士市のそれは手に負えないものであると感じている。

  • 歴史学の敗北

文化庁委託事業「博物館ネットワークによる 未来へのレガシー継承・発信事業」における 「博物館の機能強化に関する調査」 の報告書が公開されている。有識者を対象としたアンケートであるが、やはり「文化課」と「それ以外」とで生じる認識の相違は問題となるようである。


ここでは博物館を軸とした話となっているが、ミクロな視点を持てば「文化課」と「文化課以外」という軸で見ることも可能ではないだろうか。

富士市にも文化課に該当するものはある。しかし専門家たる文化課が機能していなかった場合、それによってどういう顛末を迎えるだろうか。私は「非文明化」だと思う。富士市は民話の舞台の地も安易に拡大解釈する姿勢が認められ、また各所で裏付けもなく「発祥」という言葉を用いている。例えば『竹取物語』がそうである。そうやって既成事実のようにして人々を惑わして良い結果が生まれるのだろうか?…よくよく考えなければならないと思う。

そしてこれらの状況が等閑視され野放しにされている状況そのものが「歴史学の敗北」と言えるのではないか、と思うのである。

富士市には市立博物館もある。私は、学芸員の役割の1つに「(歴史学で言えば)歴史学的観点から望ましくないことがあればそれを抑止・是正する」という役割もあるのではないかと考えている。これは「史学」であろうと「考古学」であろうと「民俗学」であろうと同じである。文化庁のHPによると、学芸員は以下のように定義されている。

学芸員は,博物館資料の収集,保管,展示及び調査研究その他これと関連する事業を行う「博物館法」に定められた,博物館におかれる専門的職員です。(中略)学芸員になるための資格は,1.大学・短大で単位を履修することや,2.文部科学省で行う資格認定に合格すれば得ることができます。


つまり専門性を持った調査研究が基本的役割に組み込まれ、また「展示」といったアウトプットの部分も求められていることになる。

自らが所属する組織が作り出したものが歴史学的観点からみて疑義があるのにも関わらず、それを専門性を持った学芸員が何の抑止行動もしないのであれば、それは明らかに「歴史学の敗北」ではないか

このように私は考えるところであるが、一方で医学研究でいうところの「利益相反(COI)」のような事態に晒されやすいという背景も否定できない。「利益相反」とは、ある研究において営利団体等から資金提供などがあり、そのために公平な判断に影響をもたらすことが懸念され得る状態を言う(COIが全て悪いわけではない)。従って、発表の冒頭でわざわざ「COIはありません」と言及される例も多い。つまり営利団体から資金提供があれば、やはりその団体の思惑に沿った研究結果を発表してしまう潜在性があるのである。

これを自治体職員にあてはめて考えた場合、自治体から与えられた給与で生活を営んでいる職員は、それが倫理的に問題があったとしても、やはり自治体の意見に沿ったものにしてしまうことは否定し難いということなのである。一方でその自治体に縁もゆかりもない人間であれば、専門家として素直な意見が表出できるというわけである。ここに利益相反との近似性がある。ここには仕方がない力学もあるように思う。

また「大学における学芸員養成課程の科目のねらいと内容について」(令和6年3月25日 文化審議会第5期博物館部会)には以下のようにある。




「多様な主体との連携等」とあるように、より活動範囲の拡大が模索されている中、内側を是正できないようでは話にならないと言える。またこれらの問題は「地域課題への対応」とも捉えられる。学芸員が地域の水道の問題を考える必要性はなくとも、「歴史学の敗北」を地域課題として捉えれば、それは学芸員の役割に含まれるだろう。

例えば富士宮市の観光課、つまり学芸員が属さない課が「富士宮市は『竹取物語』発祥の地である」という喧伝を公式HPのページ等で行っていたとする(富士宮市は行っていません)。それを見て専門家たる学芸員が「歴史学に関係することだけれども、他の課のことだから感知するところではありません」というスタンスを取り続けて良いのだろうか、という話なのである。立派な地域課題と言えるわけである。

そういうスタンスを取ると、容易に以下のような状況が生まれ得る。以下、『甲斐路』創立三十周年記念論文集より引用する。

ただ一言、信州諏訪湖畔の小坂観音院にある武田勝頼生母由布姫の墓が、もはや真実の如くに一般的にみられ、その名も由布姫で通用していることを考えると、小説、映画の影響力がいかに大きいものであるかが痛感される。十数年前、小説『風林火山』が世に出たとき、地元観光関係者が”観光用”に建立したというのに…。

地元観光関係者が行政と全く関係を持ち合わせていないということもないだろう。また建立の過程で行政が全く感知しないということもないだろう。倫理観を持つ人間がいれば、どこかで止める動きも生じ得よう。しかしあったとしても、何かしらの強大な引力がそれを無にすることもある。形は少々違うとはいえ、「山部赤人万葉歌碑」も同様である。"行動力のある無知"は、後世に遺恨を残す可能性に気づくことすら難しいのである。

こういうものは大抵伝搬の過程で"語るには足りない者"が介入することで異変を生じさせるのである。例えばネットで天子ヶ岳の名前の由来を「天守閣」とするものが複数以上散見される。その出典元を探ると、環境省の関東地方環境事務所であることが分かり、"「少し離れたところから見ると、山の形が天守閣に似ているから」ということが由来のようです(原文ママ)"と説明している。

しかし少し考えてみると分かるのであるが、天守閣の形に似ていることが由来であるのならば天守閣成立以後ということになり、どんなに早くとも16世紀後半ということになる。16世紀後半に山の名称が定められたと言っているのに等しく、考えづらい。そもそも鎌倉時代の日蓮の文書などに既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来であるはずがないのである。

しかし何故同事務所はこのような説明を行ったのか。その答えとして、武田久吉氏の1948年の論考が関係するように思う。同氏の論考「天子ヶ嶽の瓔珞躑躅」には「如何にも城の天守閣に似てゐる。それで元来は天守ヶ嶽と命名せられたのが、いつか天子と訛り、やがては皇女埋葬説が生れたのではあるまいか」とある(武田1948;p.131)。おそらくこれを読んだ結果の産物だろう。

これらの材料が揃った上で言えるのは、武田氏の論考が問題なのではなくて、それを見た人物が一個人の見解に留まっていたものを"山の形が天守閣に似ているからということが由来のようです"という文言で出典も無しに説明してしまうこと自体が問題ということである。これが駄目だということが分からない人間は、書き物をしてはいけないのである。この場合影響は最低限で留まるが、もっと大きな媒体で且つ数カ年に渡るものであったとしたら、それは迷惑極まりない。

この事例では「武田氏の論考→読み手の問題→天守閣説の流布」という過程が判明し、日蓮遺文から説自体を否定する形となった。富士市は歴史の復元作業が1つ1つの事柄で必要な状況となっており、それは混迷を極めると見受けられる。作為的改変があったことによって、(小川・藤井2024)にあるような防災教育としての活用も円滑にはいかないだろうし、企画展を行うにしてもまずは復元作業を要するだろう。私はこの事態に警鐘を鳴らしてきたが、その地域自身が変わろうとしない限り、未来は見えてこないだろう。

  • 参考文献
  1. 武田久吉(1948)『民俗と植物』、 山岡書店
  2. 田中清(1961)「長柄橋(人柱伝説雑考)」『土木学会誌 46号』、土木学会、27-33
  3. 『諸国叢書』(1984)、成城大学民俗学研究所
  4. 富士市(1986),『富士市二十年史』
  5. 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244
  6. 小野地健(2006)「「日招き伝承」考」『人文研究』158号、神奈川大学、99-125
  7. 高埜利彦(2017)「日本のアーカイブズ制度を回顧する」『アーカイブズ学研究 No.27』
  8. みずほ総合研究所株式会社(2020)、令和元年度「博物館ネットワークによる 未来へのレガシー継承・発信事業」における 「博物館の機能強化に関する調査」 事業報告書
  9. 関沢まゆみ(2022)「田植えと女性 民俗学からの一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』25、国立歴史民俗博物館、508
  10. 小川日南・藤井基貴(2024)「災害伝承と防災教育(1) 静岡市における民話「沼のばあさん」を事例として」『静岡大学教育実践総合センター紀要 34巻』,56-64

2025年1月5日日曜日

田沼時代に活躍した富士・井出・大鏡坊名跡の血を継ぐ者、須原屋茂兵衛板『武鑑』等から考える

今回は田沼時代(田沼意次が権勢を振るっていた時代)に活躍した富士宮市に縁のある人物について取り上げていきたい。特に江戸幕府旗本であった井出延政・政峯親子について考えていきたい。

田沼意次


親子の生没年、役職は以下のようなものである。

人物生没年役職
井出延政正徳2年(1712)- 寛政6年(1794)6月18日「桂昌院御方広敷番頭」等
井出政峯享保18年(1733)- 不詳 「小姓組頭」等


延政の息子が政峯である。

  • 井出家(正易系)について

井出家は分家が多くあり、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)にも多くの家が記されているのであるが、延政・政峯親子は井出家(正易系)の系譜である。つまり井出正易が興した家である。

ではその正易がどのような血筋であるのかというと、まさしくサラブレッドというべきものであり、かなり興味深いことになっている。その系譜を以下に記す。



大鏡坊頼賀に後妻などがいなければ、このような系図となる。正易の先祖は錚々たる面々であり、曽祖父が大宮城主であった「富士信忠」、祖父は母方が大鏡坊名跡であった「頼賀」、父方の祖父が代官であった「井出正信」、父は代官であった「井出正勝」といった具合である。

正易自身は小十人→小十人組頭→腰物奉行→桂昌院御方広敷番頭の役職を歴任している。つまり順当に出世していることが分かり、「頭」を勤めていることからも身分も高い事がわかる。

『寛政譜』は用語が統一されており、また明確な意図を持って区別されているので、分かりやすい。例えば「富士時則」の項に「實は某氏が男」とあるが、これは実子ではないという意味である。またこの場合の「男」とは「息子」を指す。従って井出正勝の項に「妻は富士山別当大鏡坊頼賀が女」とあるのは妻は頼賀の娘であるということを意味する。

また井出延政の項に「布衣を着する事をゆるさる」とあるが、布衣を許されていないと任じられない役職があり、その役職相当以上になったことを意味する。正六位に任官されたことを意味すると説明される。他に例えば富士信良の項に「遺跡を継」とあるが、これは家督を継承したことを意味し、「班をすすめられて」とあるのは、御目見以上の身分となったことを意味する(「御目見未満」であると旗本ではなく御家人身分となる)。

そして「山役銭之事、富士山伝記并興法寺暦代写、興法寺々務之事、池西坊伝記写、外」によると(富士宮市2005;pp.115-116)、頼賀について「妻富士兵部少輔信忠之女君子」とあり、頼賀の妻が富士信忠の娘であることが分かる。村山に残る記録を参照しても他に妻の存在が確認されないため、やはり上のような系図で考えて良いように思う。

 
  • 家紋
井出家(正易系)の家紋は『寛政譜』に「稲穂の丸に井桁」「丸に井桁」とある。須原屋茂兵衛板『武鑑』(この場合所謂『文化武鑑』)に井出政峯の家紋が記されており、そこには「稲穂の丸に井桁」が描かれている(石井1981;p.11,109)。少なくとも政峯の代では「稲穂の丸に井桁」を用いていたようである。

文化年間の井出政峯の情報は、『武鑑』から以下のようにまとめられる。

井出政峯内容
家紋稲穂の丸に井桁
役職御小姓組御番衆
屋敷牛込わか宮
鞘の色青漆
槍の形状たたき
江戸城乗物時の乗り物


この後政峯は順当に出世していくこととなる。井出家(正易系)は出世頭が多いが、むしろ本家ともいうべき井出家(正直系)があまり出世していない。正直系は正直 - 正次 - 正成 - と続く家筋であるが、正成以降要職に就いている様子が見られない。

井出家で特に出世したのは井出家(正易系)と井出家(正員系)と井出家(茂純系)である。この三家は役職もなかなかのものである。

『武鑑』(文化武鑑)によると、井出家(正員系)の「井出太左衛門」の名も見える(石井1981;p.57,155,253,352)。井出太左衛門は井出正武のことであり、「御進物御番」の項に記されている。正武は500石を采地としていた。

同じく田沼時代に活躍した同族の者として井出家(茂純系)の井出政甫がおり、布衣を許され、小納戸の身であった。その役職からおそらく政甫も500石であったと思われるが、その後「寄合」に列したとあるので、ここで石高に変化があった可能性もある。つまり田沼時代だけで見てみても、同族でそれ相応の石高を有していたことになる。

  • まとめ

政峯までの血筋を遡ると「井出正直 – 正俊 – 正信 – 正勝 – 正易 – 政武 – 延政 - 政峯」と続いていることが分かるが、正俊は不明な部分も多く正直の実子ではないように思われるので、その点は注意を要する。しかし正易が駿河国富士上方の有力者らの血脈を受け継いでいるのは確かである。

富士宮市上井出の地を根拠地とする井出氏の分かれが、江戸時代を生き抜き、要職を担ってきたわけである。中世から考えてみると、駿河侵攻以降、富士宮市周辺の勢力は皆悲惨な目に遭っている。

駿東郡の葛山氏は、駿河侵攻後に当主の葛山氏元が武田氏によって処刑されており、同じく大宮城を攻撃した穴山信君も本能寺の変後の伊賀越の最中に死している(落ち武者狩りとも)。勿論武田氏も滅亡した。つまり大宮城を攻撃した面々は全滅したことになる。戦国時代を生き抜くことは、これ程までに難しいのである。

そのような中で井出氏と富士氏は生き残っており、富士上方の勢力の生存力には驚きを隠せない(井出正直は駿河侵攻で討死している)。ここで生き残っていなければ、井出家(正易系)などは無かったのである。また旗本となった関東の富士家なども無かったのだろうし、現在富士宮市に佐野姓は無かったのかもしれない。この地で生き残ったことによって、後に複数の旗本家が生まれたことは間違いない。


血筋を表したもの(一本線は親子関係、二重線は婚姻関係)


仮に博物館が建設される場合、この2つの旗本家の軌跡を追うものであって欲しいと願うばかりである。

  • 参考文献
  1. 石井良助監修(1981)『編年江戸武鑑 文化武鑑 2』、柏書房
  2. 富士宮市教育委員会(2005)『村山浅間神社調査報告書』

2025年1月1日水曜日

富士宮市とかぐや姫、富士山縁起と富士山登山絵図から考える

富士山は神仏習合の世界観の中では基本的には「本地仏=大日如来」「垂迹神=富士浅間大菩薩」となっている。『曽我物語』が富士山の本地仏を千手観音としているが、これはあくまでも例外的なものである。

しかしこの垂迹神というのは単一ではない。例えば「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料)に「赫夜姫ハ浅間大菩薩是也」とあるように、赫夜姫(かぐや姫)であったり、周知のように「木花開耶姫命」であったりしたのである。木花開耶姫命とするのは近世以降であるから、「赫夜姫→木花開耶姫命」という流れがあったと言うこともできよう。

そしてこの富士地区(富士宮市・富士市)にはかぐや姫説話を含む「富士山縁起」が伝わっているのであるが、この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある。本稿ではその部分、つまり富士宮市とかぐや姫の関係について考えていくものである。

  • はじめに

「富士山縁起」に含まれるかぐや姫説話は「かぐや姫ゆかりの地」(富士山かぐや姫ミュージアムHP)にて詳細に解説されている。詳しい内容はこのページを参照して頂きたい。

近年は大宮・村山口登山道に関する研究成果が重なり、従来に比して格段に量・質が高まっている。史料的な分析だけでなく地理的な側面からの成果も報告され、遂に大宮・村山口登山道の全容が明らかとなった。それをまとめたものが『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)である。

その成果を照らし合わせれば、かぐや姫説話舞台の地の比定地を明らかにすることも難しくはない。上記の富士山かぐや姫ミュージアムHPの解説から地名を抜き出し、そこに比定地を記したものが以下の表である。

比定地
乗馬の里富士市
憂涙川富士宮市・富士市
中宮富士宮市
冠石の所在地富士宮市
富士山頂富士宮市

ご覧のように、赫夜姫説話の舞台の地を見ていくと、富士宮市が深く関与していることが分かる。かぐや姫ミュージアムの解説では「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)という史料を基にかぐや姫説話が解説されている。以下では同じ史料を引用する形で解説を進めていきたい。


  • 乗馬の里
乗馬の里が具体的に何処なのかについては、「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)では実は触れられてはいない。そして縁起を見てみると「東階道駿河国乗馬里、有夫婦老人」とある。ここに「東海道」とあることから、比定地としてはまず富士市が考えられるであろう。

また同じタイトルの「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1560年)という史料もあるが、そこには「新宮 辰日 愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある。この「新宮」は滝川神社のことであり、原田に位置する。また原田に隣接する比奈も由縁の地である。

このように原田や比奈が比定地とされることが多いが、地理的にも矛盾しない。従って「乗馬の里」は富士市域と考えて問題ないと個人的には考える。

  • 憂涙川 
「憂涙川」は潤井川のことであるが、流域は広大であり、縁起が特定の場所を指しているのかは分からない。富士山大縁起(1697)には「誰不惜之乎、徐至深々山河辺、諸人挙聲落涙、于今書憂涙云憂涙河」とある。


  • 中宮八幡堂
中宮は縁起にて「諸人姫君惜名残、忘山怖、今中宮是也、従其上女人不登也、然姫立帰対諸人言」とある。富士山は元々は人が分け入るような場所ではなかったのであるが、人々はそれを忘れたように赫夜妃を追いかけたのである。そして赫夜妃が人々に別れを告げる地も中宮である。「女人不登也」とあり、女人禁制を示している。

ここで「駿河国富士山絵図」(富士山興法寺三坊蔵板 19世紀初め)を見てみよう。


「原田村・比奈村」「潤井川」「中宮八幡堂」「冠石」の箇所を色付けしてみた。一見して分かるように、中宮になると一気に視点が上に移動することが分かる。

さてこの中宮であるが、現在石祠が建立されている地点が中宮八幡堂跡とされる。これは富士宮市粟倉に位置する。

  • 冠石
冠石は現在地が不明であるが、比定作業は可能である。江戸時代後期になると各登山道へ至る道程を示した富士山登山絵図が作成されるようになり、それらは現存する。以下は投稿主が絵図を目視する形で確認できた分を一覧化したしたものである(すべての「富士山登山絵図」を確認したわけではない)。

番号富士山縁起作成主体時代表記
富士山表口絵図富士山興法寺か18世紀以降カンムリ石
冨士山禅定図駿州富士郡元吉原18世紀後半冠石
三国第一冨士山禅定圖大鏡坊18世紀後半冠石
駿州吉原宿絵図吉野保五郎板1827年冠石
駿河国富士山絵図富士山興法寺三坊蔵板19世紀初め冠石
駿河国富士山絵図富士山興法寺三坊蔵板19世紀初め冠石
富士山表口真面之図富士山興法寺三坊蔵板19世紀中頃冠石
富士山表口真面之図太田駒吉明治13年(1880)冠石

このように見ると①のみ「カンムリ石」とあって珍しいのであるが、残存例に比しても高頻度で冠石は描かれていることが分かる。つまり冠石は富士山登山絵図には必要な要素であった。

この「冠石」の位置は何処であったのだろうか?1つ言えることは、現在の富士宮市域を指しているということである。各富士山登山絵図を見てみると、冠石の位置は「御室大日堂」を北上した地点から西へと大きく延びた道の先に位置していることが分かる。

②をみると「行者堂」から西へと道が延びており、その先に冠石が図示される。④をみるとその「西へと延びる道」を指す形で「行者道」とある。しかし⑤および⑥は異なる箇所も「行者道」としているようで良く分からない部分もある。少なくとも御室大日堂とは距離を隔てており、そして大幅に西に位置しているということは確実であろう。

つまり御室大日堂の位置が目安となってくるわけであるが、御室大日堂は大宮・村山口登山道の調査により位置が判明している。(静岡県富士山世界遺産センター2021)には以下のようにある。

石列の区画に三間四面の規模をもつ建物を重ねた結果、石列内に建屋本体が収まった。このため、同石列は文書にある堂に伴う基礎部と考えて矛盾はなく、本建物跡(註:SX9)を御室大日堂として問題はないと考える(69頁)。

SX9地点が天保5年(1834)以降の経路における「室大日堂」であったことは、第四節の考察によってもほぼ間違いないだろう(100頁)

このSX9地点というのは富士宮市粟倉である。つまりそれより大幅に西に位置する冠石も、富士宮市域であろうと言うことができる。(井上2013;p.28)にあるように、この西へ延びる道は「御中道」であると考えられている。

また(井上2019;p.10)によると、大宮・村山口登山道の木版刷り登山案内図で一番古いものは、延宝8年(1680)の「富士名所盡」であるという。そして殆どは18世紀・19世紀世紀に発行されたものであるとする。報告にあるように少なくとも1834年以降はSX9地点が御室大日堂であったわけであり、その時代以降に作成された登山絵図等を鑑みても、冠石の地点は富士宮市の地点であるということができるだろう。

  • 富士山頂
「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)は上記のように富士山南麓(富士宮市・富士市)を舞台としており、同縁起における富士山頂とは南面を指しているものと考えられる。該当箇所を以下に記す。

王至山頂、赫夜姫帝奉見、天王歓喜契諾、相共入巌

つまり帝は富士山頂で無事赫夜姫と対面したのである。ところで山頂とは何処が該当するのであろうか。山頂というからには、少なくとも大日堂(現在の富士山本宮浅間大社奥宮)より上ないしその付近ということにはなるだろう。

そこで大日堂(奥宮)の標高を見てみると(静岡県富士山世界遺産センター;p.25)に3,710mとある。富士山の標高は3,776mであるが、少なくとも3,710mより上に設定しなければならない。

そして富士山南麓において3,710m以上の地点を有するのは富士宮市のみであるので、必然的に富士宮市が舞台の地ということになる。

  • まとめ

今回は六所家旧蔵資料の『富士山縁起』と各富士山登山絵図から、富士宮市とかぐや姫説話の接点を考えてみた。すると、富士宮市がかなり深く関与しているということが分かった。冒頭で「この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある」と述べたが、やはり奇妙な現象であると思う。

また富士宮市の大岩子安神社の祭神は「犬飼明神」である(『広報ふじのみや』には「犬神明神」とあるが誤記)。富士山縁起においてもかぐや姫はおじいさんとおばあさんに育てられているが、おばあさんは「犬飼明神」が姿形を変えていたものであったと縁起では説明されている(おじいさんは「愛鷹権現」)。祭神を「犬飼明神」「愛鷹権現」とする点も、富士市と共通したものがあると言えるだろう。

また富士山登山絵図に冠石が頻出する一方、富士山縁起全体を見ると意外に冠石の出現頻度は多くないという注意点はある。しかし富士宮市が紛れもなくかぐや姫説話舞台の地であるということに変わりはないのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
  2. 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間」『静岡県博物館協会研究紀要』第37号、22-29
  3. 井上卓哉(2019)「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山口登山道を中心に-」『環境考古学と富士山』3号、9-21
  4. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』