2025年1月5日日曜日

田沼時代に活躍した富士・井出・大鏡坊名跡の血を継ぐ者、須原屋茂兵衛板『武鑑』等から考える

今回は田沼時代(田沼意次が権勢を振るっていた時代)に活躍した富士宮市に縁のある人物について取り上げていきたい。特に江戸幕府旗本であった井出延政・政峯親子について考えていきたい。

田沼意次


親子の生没年、役職は以下のようなものである。

人物生没年役職
井出延政正徳2年(1712)- 寛政6年(1794)6月18日「桂昌院御方広敷番頭」等
井出政峯享保18年(1733)- 不詳 「小姓組頭」等


延政の息子が政峯である。

  • 井出家(正易系)について

井出家は分家が多くあり、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)にも多くの家が記されているのであるが、延政・政峯親子は井出家(正易系)の系譜である。つまり井出正易が興した家である。

ではその正易がどのような血筋であるのかというと、まさしくサラブレッドというべきものであり、かなり興味深いことになっている。その系譜を以下に記す。



大鏡坊頼賀に後妻などがいなければ、このような系図となる。正易の先祖は錚々たる面々であり、曽祖父が大宮城主であった「富士信忠」、祖父は母方が大鏡坊名跡であった「頼賀」、父方の祖父が代官であった「井出正信」、父は代官であった「井出正勝」といった具合である。

正易自身は小十人→小十人組頭→腰物奉行→桂昌院御方広敷番頭の役職を歴任している。つまり順当に出世していることが分かり、「頭」を勤めていることからも身分も高い事がわかる。

『寛政譜』は用語が統一されており、また明確な意図を持って区別されているので、分かりやすい。例えば「富士時則」の項に「實は某氏が男」とあるが、これは実子ではないという意味である。またこの場合の「男」とは「息子」を指す。従って井出正勝の項に「妻は富士山別当大鏡坊頼賀が女」とあるのは妻は頼賀の娘であるということを意味する。

また井出延政の項に「布衣を着する事をゆるさる」とあるが、布衣を許されていないと任じられない役職があり、その役職相当以上になったことを意味する。正六位に任官されたことを意味すると説明される。他に例えば富士信良の項に「遺跡を継」とあるが、これは家督を継承したことを意味し、「班をすすめられて」とあるのは、御目見以上の身分となったことを意味する(「御目見未満」であると旗本ではなく御家人身分となる)。

そして「山役銭之事、富士山伝記并興法寺暦代写、興法寺々務之事、池西坊伝記写、外」によると(富士宮市2005;pp.115-116)、頼賀について「妻富士兵部少輔信忠之女君子」とあり、頼賀の妻が富士信忠の娘であることが分かる。村山に残る記録を参照しても他に妻の存在が確認されないため、やはり上のような系図で考えて良いように思う。

 
  • 家紋
井出家(正易系)の家紋は『寛政譜』に「稲穂の丸に井桁」「丸に井桁」とある。須原屋茂兵衛板『武鑑』(この場合所謂『文化武鑑』)に井出政峯の家紋が記されており、そこには「稲穂の丸に井桁」が描かれている(石井1981;p.11,109)。少なくとも政峯の代では「稲穂の丸に井桁」を用いていたようである。

文化年間の井出政峯の情報は、『武鑑』から以下のようにまとめられる。

井出政峯内容
家紋稲穂の丸に井桁
役職御小姓組御番衆
屋敷牛込わか宮
鞘の色青漆
槍の形状たたき
江戸城乗物時の乗り物


この後政峯は順当に出世していくこととなる。井出家(正易系)は出世頭が多いが、むしろ本家ともいうべき井出家(正直系)があまり出世していない。正直系は正直 - 正次 - 正成 - と続く家筋であるが、正成以降要職に就いている様子が見られない。

井出家で特に出世したのは井出家(正易系)と井出家(正員系)と井出家(茂純系)である。この三家は役職もなかなかのものである。

『武鑑』(文化武鑑)によると、井出家(正員系)の「井出太左衛門」の名も見える(石井1981;p.57,155,253,352)。井出太左衛門は井出正武のことであり、「御進物御番」の項に記されている。正武は500石を采地としていた。

同じく田沼時代に活躍した同族の者として井出家(茂純系)の井出政甫がおり、布衣を許され、小納戸の身であった。その役職からおそらく政甫も500石であったと思われるが、その後「寄合」に列したとあるので、ここで石高に変化があった可能性もある。つまり田沼時代だけで見てみても、同族でそれ相応の石高を有していたことになる。

  • まとめ

政峯までの血筋を遡ると「井出正直 – 正俊 – 正信 – 正勝 – 正易 – 政武 – 延政 - 政峯」と続いていることが分かるが、正俊は不明な部分も多く正直の実子ではないように思われるので、その点は注意を要する。しかし正易が駿河国富士上方の有力者らの血脈を受け継いでいるのは確かである。

富士宮市上井出の地を根拠地とする井出氏の分かれが、江戸時代を生き抜き、要職を担ってきたわけである。中世から考えてみると、駿河侵攻以降、富士宮市周辺の勢力は皆悲惨な目に遭っている。

駿東郡の葛山氏は、駿河侵攻後に当主の葛山氏元が武田氏によって処刑されており、同じく大宮城を攻撃した穴山信君も本能寺の変後の伊賀越の最中に死している(落ち武者狩りとも)。勿論武田氏も滅亡した。つまり大宮城を攻撃した面々は全滅したことになる。戦国時代を生き抜くことは、これ程までに難しいのである。

そのような中で井出氏と富士氏は生き残っており、富士上方の勢力の生存力には驚きを隠せない(井出正直は駿河侵攻で討死している)。ここで生き残っていなければ、井出家(正易系)などは無かったのである。また旗本となった関東の富士家なども無かったのだろうし、現在富士宮市に佐野姓は無かったのかもしれない。この地で生き残ったことによって、後に複数の旗本家が生まれたことは間違いない。


血筋を表したもの(一本線は親子関係、二重線は婚姻関係)


仮に博物館が建設される場合、この2つの旗本家の軌跡を追うものであって欲しいと願うばかりである。

  • 参考文献
  1. 石井良助監修(1981)『編年江戸武鑑 文化武鑑 2』、柏書房
  2. 富士宮市教育委員会(2005)『村山浅間神社調査報告書』

2025年1月1日水曜日

富士宮市とかぐや姫、富士山縁起と富士山登山絵図から考える

富士山は神仏習合の世界観の中では基本的には「本地仏=大日如来」「垂迹神=富士浅間大菩薩」となっている。『曽我物語』が富士山の本地仏を千手観音としているが、これはあくまでも例外的なものである。

しかしこの垂迹神というのは単一ではない。例えば「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料)に「赫夜姫ハ浅間大菩薩是也」とあるように、赫夜姫(かぐや姫)であったり、周知のように「木花開耶姫命」であったりしたのである。木花開耶姫命とするのは近世以降であるから、「赫夜姫→木花開耶姫命」という流れがあったと言うこともできよう。

そしてこの富士地区(富士宮市・富士市)にはかぐや姫説話を含む「富士山縁起」が伝わっているのであるが、この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある。本稿ではその部分、つまり富士宮市とかぐや姫の関係について考えていくものである。

  • はじめに

「富士山縁起」に含まれるかぐや姫説話は「かぐや姫ゆかりの地」(富士山かぐや姫ミュージアムHP)にて詳細に解説されている。詳しい内容はこのページを参照して頂きたい。

近年は大宮・村山口登山道に関する研究成果が重なり、従来に比して格段に量・質が高まっている。史料的な分析だけでなく地理的な側面からの成果も報告され、遂に大宮・村山口登山道の全容が明らかとなった。それをまとめたものが『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)である。

その成果を照らし合わせれば、かぐや姫説話舞台の地の比定地を明らかにすることも難しくはない。上記の富士山かぐや姫ミュージアムHPの解説から地名を抜き出し、そこに比定地を記したものが以下の表である。

比定地
乗馬の里富士市
憂涙川富士宮市・富士市
中宮富士宮市
冠石の所在地富士宮市
富士山頂富士宮市

ご覧のように、赫夜姫説話の舞台の地を見ていくと、富士宮市が深く関与していることが分かる。かぐや姫ミュージアムの解説では「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)という史料を基にかぐや姫説話が解説されている。以下では同じ史料を引用する形で解説を進めていきたい。


  • 乗馬の里
乗馬の里が具体的に何処なのかについては、「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)では実は触れられてはいない。そして縁起を見てみると「東階道駿河国乗馬里、有夫婦老人」とある。ここに「東海道」とあることから、比定地としてはまず富士市が考えられるであろう。

また同じタイトルの「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1560年)という史料もあるが、そこには「新宮 辰日 愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある。この「新宮」は滝川神社のことであり、原田に位置する。また原田に隣接する比奈も由縁の地である。

このように原田や比奈が比定地とされることが多いが、地理的にも矛盾しない。従って「乗馬の里」は富士市域と考えて問題ないと個人的には考える。

  • 憂涙川 
「憂涙川」は潤井川のことであるが、流域は広大であり、縁起が特定の場所を指しているのかは分からない。富士山大縁起(1697)には「誰不惜之乎、徐至深々山河辺、諸人挙聲落涙、于今書憂涙云憂涙河」とある。


  • 中宮八幡堂
中宮は縁起にて「諸人姫君惜名残、忘山怖、今中宮是也、従其上女人不登也、然姫立帰対諸人言」とある。富士山は元々は人が分け入るような場所ではなかったのであるが、人々はそれを忘れたように赫夜妃を追いかけたのである。そして赫夜妃が人々に別れを告げる地も中宮である。「女人不登也」とあり、女人禁制を示している。

ここで「駿河国富士山絵図」(富士山興法寺三坊蔵板 19世紀初め)を見てみよう。


「原田村・比奈村」「潤井川」「中宮八幡堂」「冠石」の箇所を色付けしてみた。一見して分かるように、中宮になると一気に視点が上に移動することが分かる。

さてこの中宮であるが、現在石祠が建立されている地点が中宮八幡堂跡とされる。これは富士宮市粟倉に位置する。

  • 冠石
冠石は現在地が不明であるが、比定作業は可能である。江戸時代後期になると各登山道へ至る道程を示した富士山登山絵図が作成されるようになり、それらは現存する。以下は投稿主が絵図を目視する形で確認できた分を一覧化したしたものである(すべての「富士山登山絵図」を確認したわけではない)。

番号富士山縁起作成主体時代表記
富士山表口絵図富士山興法寺か18世紀以降カンムリ石
冨士山禅定図駿州富士郡元吉原18世紀後半冠石
三国第一冨士山禅定圖大鏡坊18世紀後半冠石
駿州吉原宿絵図吉野保五郎板1827年冠石
駿河国富士山絵図富士山興法寺三坊蔵板19世紀初め冠石
駿河国富士山絵図富士山興法寺三坊蔵板19世紀初め冠石
富士山表口真面之図富士山興法寺三坊蔵板19世紀中頃冠石
富士山表口真面之図太田駒吉明治13年(1880)冠石

このように見ると①のみ「カンムリ石」とあって珍しいのであるが、残存例に比しても高頻度で冠石は描かれていることが分かる。つまり冠石は富士山登山絵図には必要な要素であった。

この「冠石」の位置は何処であったのだろうか?1つ言えることは、現在の富士宮市域を指しているということである。各富士山登山絵図を見てみると、冠石の位置は「御室大日堂」を北上した地点から西へと大きく延びた道の先に位置していることが分かる。

②をみると「行者堂」から西へと道が延びており、その先に冠石が図示される。④をみるとその「西へと延びる道」を指す形で「行者道」とある。しかし⑤および⑥は異なる箇所も「行者道」としているようで良く分からない部分もある。少なくとも御室大日堂とは距離を隔てており、そして大幅に西に位置しているということは確実であろう。

つまり御室大日堂の位置が目安となってくるわけであるが、御室大日堂は大宮・村山口登山道の調査により位置が判明している。(静岡県富士山世界遺産センター2021)には以下のようにある。

石列の区画に三間四面の規模をもつ建物を重ねた結果、石列内に建屋本体が収まった。このため、同石列は文書にある堂に伴う基礎部と考えて矛盾はなく、本建物跡(註:SX9)を御室大日堂として問題はないと考える(69頁)。

SX9地点が天保5年(1834)以降の経路における「室大日堂」であったことは、第四節の考察によってもほぼ間違いないだろう(100頁)

このSX9地点というのは富士宮市粟倉である。つまりそれより大幅に西に位置する冠石も、富士宮市域であろうと言うことができる。(井上2013;p.28)にあるように、この西へ延びる道は「御中道」であると考えられている。

また(井上2019;p.10)によると、大宮・村山口登山道の木版刷り登山案内図で一番古いものは、延宝8年(1680)の「富士名所盡」であるという。そして殆どは18世紀・19世紀世紀に発行されたものであるとする。報告にあるように少なくとも1834年以降はSX9地点が御室大日堂であったわけであり、その時代以降に作成された登山絵図等を鑑みても、冠石の地点は富士宮市の地点であるということができるだろう。

  • 富士山頂
「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)は上記のように富士山南麓(富士宮市・富士市)を舞台としており、同縁起における富士山頂とは南面を指しているものと考えられる。該当箇所を以下に記す。

王至山頂、赫夜姫帝奉見、天王歓喜契諾、相共入巌

つまり帝は富士山頂で無事赫夜姫と対面したのである。ところで山頂とは何処が該当するのであろうか。山頂というからには、少なくとも大日堂(現在の富士山本宮浅間大社奥宮)より上ないしその付近ということにはなるだろう。

そこで大日堂(奥宮)の標高を見てみると(静岡県富士山世界遺産センター;p.25)に3,710mとある。富士山の標高は3,776mであるが、少なくとも3,710mより上に設定しなければならない。

そして富士山南麓において3,710m以上の地点を有するのは富士宮市のみであるので、必然的に富士宮市が舞台の地ということになる。

  • まとめ

今回は六所家旧蔵資料の『富士山縁起』と各富士山登山絵図から、富士宮市とかぐや姫説話の接点を考えてみた。すると、富士宮市がかなり深く関与しているということが分かった。冒頭で「この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある」と述べたが、やはり奇妙な現象であると思う。

また富士宮市の大岩子安神社の祭神は「犬飼明神」である(『広報ふじのみや』には「犬神明神」とあるが誤記)。富士山縁起においてもかぐや姫はおじいさんとおばあさんに育てられているが、おばあさんは「犬飼明神」が姿形を変えていたものであったと縁起では説明されている(おじいさんは「愛鷹権現」)。祭神を「犬飼明神」「愛鷹権現」とする点も、富士市と共通したものがあると言えるだろう。

また富士山登山絵図に冠石が頻出する一方、富士山縁起全体を見ると意外に冠石の出現頻度は多くないという注意点はある。しかし富士宮市が紛れもなくかぐや姫説話舞台の地であるということに変わりはないのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
  2. 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間」『静岡県博物館協会研究紀要』第37号、22-29
  3. 井上卓哉(2019)「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山口登山道を中心に-」『環境考古学と富士山』3号、9-21
  4. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』