しかしこの垂迹神というのは単一ではない。例えば「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料)に「赫夜姫ハ浅間大菩薩是也」とあるように、赫夜姫(かぐや姫)であったり、周知のように「木花開耶姫命」であったりしたのである。木花開耶姫命とするのは近世以降であるから、「赫夜姫→木花開耶姫命」という流れがあったと言うこともできよう。
そしてこの富士地区(富士宮市・富士市)にはかぐや姫説話を含む「富士山縁起」が伝わっているのであるが、この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある。本稿ではその部分、つまり富士宮市とかぐや姫の関係について考えていくものである。
- はじめに
「富士山縁起」に含まれるかぐや姫説話は「かぐや姫ゆかりの地」(富士山かぐや姫ミュージアムHP)にて詳細に解説されている。詳しい内容はこのページを参照して頂きたい。
その成果を照らし合わせれば、かぐや姫説話舞台の地の比定地を明らかにすることも難しくはない。上記の富士山かぐや姫ミュージアムHPの解説から地名を抜き出し、そこに比定地を記したものが以下の表である。
比定地 | |
---|---|
乗馬の里 | 富士市 |
憂涙川 | 富士宮市・富士市 |
中宮 | 富士宮市 |
冠石の所在地 | 富士宮市 |
富士山頂 | 富士宮市 |
ご覧のように、赫夜姫説話の舞台の地を見ていくと、富士宮市が深く関与していることが分かる。かぐや姫ミュージアムの解説では「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)という史料を基にかぐや姫説話が解説されている。以下では同じ史料を引用する形で解説を進めていきたい。
- 乗馬の里
乗馬の里が具体的に何処なのかについては、「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)では実は触れられてはいない。そして縁起を見てみると「東階道駿河国乗馬里、有夫婦老人」とある。ここに「東海道」とあることから、比定地としてはまず富士市が考えられるであろう。
また同じタイトルの「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1560年)という史料もあるが、そこには「新宮 辰日 愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある。この「新宮」は滝川神社のことであり、原田に位置する。また原田に隣接する比奈も由縁の地である。
このように原田や比奈が比定地とされることが多いが、地理的にも矛盾しない。従って「乗馬の里」は富士市域と考えて問題ないと個人的には考える。
- 憂涙川
「憂涙川」は潤井川のことであるが、流域は広大であり、縁起が特定の場所を指しているのかは分からない。富士山大縁起(1697)には「誰不惜之乎、徐至深々山河辺、諸人挙聲落涙、于今書憂涙云憂涙河」とある。
- 中宮八幡堂
ここで「駿河国富士山絵図」(富士山興法寺三坊蔵板 19世紀初め)を見てみよう。
「原田村・比奈村」「潤井川」「中宮八幡堂」「冠石」の箇所を色付けしてみた。一見して分かるように、中宮になると一気に視点が上に移動することが分かる。
さてこの中宮であるが、現在石祠が建立されている地点が中宮八幡堂跡とされる。これは富士宮市粟倉に位置する。
- 冠石
冠石は現在地が不明であるが、比定作業は可能である。江戸時代後期になると各登山道へ至る道程を示した富士山登山絵図が作成されるようになり、それらは現存する。以下は投稿主が絵図を目視する形で確認できた分を一覧化したしたものである(すべての「富士山登山絵図」を確認したわけではない)。
番号 | 富士山縁起 | 作成主体 | 時代 | 表記 |
---|---|---|---|---|
① | 富士山表口絵図 | 富士山興法寺か | 18世紀以降 | カンムリ石 |
② | 冨士山禅定図 | 駿州富士郡元吉原 | 18世紀後半 | 冠石 |
③ | 三国第一冨士山禅定圖 | 大鏡坊 | 18世紀後半 | 冠石 |
④ | 駿州吉原宿絵図 | 吉野保五郎板 | 1827年 | 冠石 |
⑤ | 駿河国富士山絵図 | 富士山興法寺三坊蔵板 | 19世紀初め | 冠石 |
⑥ | 駿河国富士山絵図 | 富士山興法寺三坊蔵板 | 19世紀初め | 冠石 |
⑦ | 富士山表口真面之図 | 富士山興法寺三坊蔵板 | 19世紀中頃 | 冠石 |
⑧ | 富士山表口真面之図 | 太田駒吉 | 明治13年(1880) | 冠石 |
このように見ると①のみ「カンムリ石」とあって珍しいのであるが、残存例に比しても高頻度で冠石は描かれていることが分かる。つまり冠石は富士山登山絵図には必要な要素であった。
この「冠石」の位置は何処であったのだろうか?1つ言えることは、現在の富士宮市域を指しているということである。各富士山登山絵図を見てみると、冠石の位置は「御室大日堂」を北上した地点から西へと大きく延びた道の先に位置していることが分かる。
②をみると「行者堂」から西へと道が延びており、その先に冠石が図示される。④をみるとその「西へと延びる道」を指す形で「行者道」とある。しかし⑤および⑥は異なる箇所も「行者道」としているようで良く分からない部分もある。少なくとも御室大日堂とは距離を隔てており、そして大幅に西に位置しているということは確実であろう。
つまり御室大日堂の位置が目安となってくるわけであるが、御室大日堂は大宮・村山口登山道の調査により位置が判明している。(静岡県富士山世界遺産センター2021)には以下のようにある。
石列の区画に三間四面の規模をもつ建物を重ねた結果、石列内に建屋本体が収まった。このため、同石列は文書にある堂に伴う基礎部と考えて矛盾はなく、本建物跡(註:SX9)を御室大日堂として問題はないと考える(69頁)。SX9地点が天保5年(1834)以降の経路における「室大日堂」であったことは、第四節の考察によってもほぼ間違いないだろう(100頁)
このSX9地点というのは富士宮市粟倉である。つまりそれより大幅に西に位置する冠石も、富士宮市域であろうと言うことができる。(井上2013;p.28)にあるように、この西へ延びる道は「御中道」であると考えられている。
また(井上2019;p.10)によると、大宮・村山口登山道の木版刷り登山案内図で一番古いものは、延宝8年(1680)の「富士名所盡」であるという。そして殆どは18世紀・19世紀世紀に発行されたものであるとする。報告にあるように少なくとも1834年以降はSX9地点が御室大日堂であったわけであり、その時代以降に作成された登山絵図等を鑑みても、冠石の地点は富士宮市の地点であるということができるだろう。
- 富士山頂
「富士山大縁起」(六所家旧蔵資料、1697年)は上記のように富士山南麓(富士宮市・富士市)を舞台としており、同縁起における富士山頂とは南面を指しているものと考えられる。該当箇所を以下に記す。
王至山頂、赫夜姫帝奉見、天王歓喜契諾、相共入巌
つまり帝は富士山頂で無事赫夜姫と対面したのである。ところで山頂とは何処が該当するのであろうか。山頂というからには、少なくとも大日堂(現在の富士山本宮浅間大社奥宮)より上ないしその付近ということにはなるだろう。
そこで大日堂(奥宮)の標高を見てみると(静岡県富士山世界遺産センター;p.25)に3,710mとある。富士山の標高は3,776mであるが、少なくとも3,710mより上に設定しなければならない。
そして富士山南麓において3,710m以上の地点を有するのは富士宮市のみであるので、必然的に富士宮市が舞台の地ということになる。
- まとめ
今回は六所家旧蔵資料の『富士山縁起』と各富士山登山絵図から、富士宮市とかぐや姫説話の接点を考えてみた。すると、富士宮市がかなり深く関与しているということが分かった。冒頭で「この話になると何故か富士宮市と富士市が切り離されてしまうきらいがある」と述べたが、やはり奇妙な現象であると思う。
また富士宮市の大岩子安神社の祭神は「犬飼明神」である(『広報ふじのみや』には「犬神明神」とあるが誤記)。富士山縁起においてもかぐや姫はおじいさんとおばあさんに育てられているが、おばあさんは「犬飼明神」が姿形を変えていたものであったと縁起では説明されている(おじいさんは「愛鷹権現」)。祭神を「犬飼明神」「愛鷹権現」とする点も、富士市と共通したものがあると言えるだろう。
また富士山登山絵図に冠石が頻出する一方、富士山縁起全体を見ると意外に冠石の出現頻度は多くないという注意点はある。しかし富士宮市が紛れもなくかぐや姫説話舞台の地であるということに変わりはないのである。
- 参考文献
- 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
- 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間」『静岡県博物館協会研究紀要』第37号、22-29
- 井上卓哉(2019)「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山口登山道を中心に-」『環境考古学と富士山』3号、9-21
- 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』
0 件のコメント:
コメントを投稿