そこで考えていきたいのがここに当地(富士宮市)の要素は無いのかということであるが、富士宮市の地名を冠した史料に『富士野往来』があり、江戸時代においても繰り返し出版されてきたことが挙げられる。例えば大河ドラマにも登場する西村屋与八も『富士野往来』を出版している。つまり、要素は大いにあると言える。
『富士野往来』自体を論じるとテーマが大きくなってしまうため、本稿では西村屋与八が関与する天明4年版の『富士野往来』を中心に考えていきたいと思う。また天明4年版は富士山史を考える上でも重要な意味を持つので、その意義もあると思われる。
- 『富士野往来』とは
『富士野往来』の「富士野」とは、富士宮市の地名である(「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照)。まずこれは大前提として把握しておきたい。富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるが、これはその一端と言える。
『富士野往来』はいわゆる「往来物」というジャンルの史料の1つである。(村上2006;pp107-108)は往来物を以下のように説明する。
書名にある「往来」とは、書翰の「往復」の意で、広義には人々の往還、書信の往復に始まる。(中略)古くは、成人や童子の初歩教育用として使用されていたようであるが、室町時代辺りから、こうした往来物は、寺院における稚児教育の格好の教科書として弘く用いられるようになっていく。
『富士野往来』の場合、(遠藤1986;pp.392-394)にあるように数十例が確認されている。その中でも古例は文明18年(1486)のものである。しかしこれも書写であって、成立時期は更に遡る。
成立時期は諸家によって様々提唱されているが、明の元号である成化5年(1471)『経国大典』に存在が記されていることから、少なくとも15世紀以前で且つそれを大幅に遡る潜在性があるという考えが支配的である。南北朝時代の終わり頃には成立していたとみる向きもある(村上2006;p.119)。(村上2006;pp109-110)には以下のようにある。
『富士野往来』は、基本的には、「廻文」・「副文」・「着到」・「配分」・「執達令状」・「陳情書」・「問い合わせ状」等の公用文体を踏襲するもので、残りは公用を兼ねた消息文的なものとなっている
以下にその詳細を記す((村上2006;p110)より)。
通し番号 | 内容 |
---|---|
1状 | 廻文状 源頼朝より梶原平三へ 卯月十一日附(宛名ナシ) |
2状 | 副文状 平景時より左近大夫将監へ 卯月十二日附(蔵人大夫朝輔より右近大夫将監へ) |
3状 | 着到状 五月十三日附 |
4状 | 配分状 五月日附 |
5状 | 巻狩りの規模・実況を報ずる状 藤原正行より梶原景時へ 五月日附(藤原正行より平景時へ) |
6状 | 小次郎・禅師房召捕りの執達令状 五月晦日附 平景時より曽我太郎へ |
7状 | 小次郎等逮捕不能の陳情状 五月晦日附 曽我太郎より平景時へ |
8状 | 曽我兄弟の狼藉についての問い合わせ状 五月廿八日附 平景時より安達盛長へ |
9状 | 曽我兄弟仇討ちの状況並びにその成敗を報ずる状 五月廿八日附 安達盛長より(平景時へ) |
形態としては写本や版本、また頭書絵抄(注釈書)が現存しているが、版本は1つの板木から作成・出版されており、同年の『富士野往来』が何本も存在するということが生じる。であるから、必然的に版本の現存例が多い(とは言っても、(遠藤1986;p.410)によると版本の異本もあるという)。
- 天明4年版『富士野往来』の構成
版元であるが、私蔵のものには以下のようにある。
御江戸地本九軒問屋東都 元祖 西村屋傳兵衛書肆 馬喰町二丁目角 同 與八開版
これは書肆を「同 与八開版」、つまり西村屋与八開版としている。上述のように西村屋与八は『富士野往来』を出版しているのである。
天明4年版『富士野往来』 |
しかし中には追加の文言を確認できるものもある。例えば(遠藤1986;p.406)に
筆者蔵の一本には、みぎのあとに今川橋新革屋町亀屋文蔵版といふ一行がくははつてゐる。
とあるように、書肆に追加が確認できる本もある。この部分については「西村屋からもとめた板木に入木してすりたてたものとおもはれる」という見解を示している。また追加部分が「亀屋文蔵版」ではなく「出雲寺萬次郎版」(三次市立図書館蔵)とするものもあり、遠藤の見解に従えば、板木の貸し出し先は複数であったと思われる。
このように天明4年版に関しては書肆の末尾を「與八開版」「亀屋文蔵版」「出雲寺萬次郎版」とするものを今のところ確認できているが、広く確認作業をしているわけではないので、他に存在するかもしれない。しかし多く流布されたということであり、富士野の名がそれだけ認識されたことを意味しよう。(遠藤1986;p.419)の「版本の展開」の解説は、現存例だけで考えすぎているきらいがある。
また『富士野往来』は「須原屋茂兵衛版」を所蔵している機関も複数以上確認され、文政7年(1824)のものなどが確認される。但しここでいう須原屋茂兵衛は「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である「蔦屋重三郎」や、上でいう「西村屋与八」と同時代の須原屋茂兵衛ではない。
- 富士山登山絵図
天明4年版『富士野往来』には「富士山登山絵図」(以下、登山絵図・当登山絵図)が含まれていることが注目に値する。天明4年(1784)というと、(中西2015)の報告を見ても、登山絵図の中では比較的早例である。であるから、富士山研究そのものにおいても極めて重要な史料と言えるだろう。
しかしその絵図を見てみると、川口口を描いたものとなっている。『富士野往来』は駿河国で催された源頼朝の富士の巻狩りを題材にしたものであるから、甲斐国の川口口の絵図を掲載するのは本来であればそぐわない。
その理由を考えてみたときに、版元が富士山に関する歴史を理解していなかったということが考えられるし、江戸からすれば甲斐国の方が心理的にも地理的にも距離が近かったということも関係するだろう。
他の登山絵図と比較してみると、「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にかなり近しいものがある。「富士山神宮麓八海北口正面略絵図」も近いが、より前者の方が近しい。ただ詳細に各登山絵図を見ていくと、地名や富士山中の地点の取り方や道程だけで見れば、「北口本宮御師宿坊図」(1860年)も近いように思える。同図は川口御師により作成・流布されたものであるから、当登山絵図も同様の背景が考えられる。それがどういう経緯で『富士野往来』に組み込まれたのかは全くもって不明としか言いようがない。しかし川口御師の関与は想定される。
また当登山絵図には説明文も見受けられ、(遠藤1986;p.405)でも記されているが、やはり中世以来の『富士野往来』の系譜というよりは、江戸時代当時の価値観が反映されたものとなっている。
では天明4年版『富士野往来』にみられる登山絵図の地点(富士山中)を見ていこう。途中分岐しているが、分岐以前で見た場合
遊境→馬返し→鈴が原→鈴原大日→小室浅間宮→行者→金剛杖→御座石→中宮
また「向ヤクシ」(「富士参詣須走口図」等にも確認される文言)から続く山頂部分には鳥居が描かれている。これらには後世も作成され続ける登山絵図の基本構成が備わっており、既に18世紀後半にはそれが認められることを意味する。
絵図西側には「須走口」とあり、左上部の説明文には
流水ハ源頼朝公当山御狩のとき御弓をもってさぐり祈ねんし給ふときにわき出し名水也
とある。これは裾野市の「頼朝の井戸の森」のことか、それに類するものかと思われる。何の脈略もなく唐突に富士の巻狩りに関する伝承を記す形となっているが、やはり『富士野往来』を意識したことによって生じた現象・エラーだろう。そして上述した「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にも近似する記述が見られる。それは「富士山神宮并麓八海略絵図」が当登山絵図の系譜上にあるためだろう。
つまり北口の登山絵図で富士の巻狩りの伝承を記しているものは、『富士野往来』の影響を引き継いでいるという見方ができるのである。
富士山研究という意味では詳細に見ていった方がよい史料であるけれども、本稿ではここまでとしておきたい。
- 本文の検討
私は「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」でいうところの①幕府の実録的記録②「原初的な「曽我」の物語」 ③「曽我記」 および後世に成立した史料を「イデ」の表記から考えるということをしているが、この『富士野往来』はどうだろうか。
イデ | |
---|---|
『吾妻鏡』 | 伊堤(富士の巻狩の場面で「イデ」は登場せず) |
真名本『曽我物語』(妙本寺本) | 伊出 |
仮名本『曽我物語』(太山寺本でない) | 井出 |
仮名本『曽我物語』(流布本、12巻本) | 井手 |
『富士野往来』 | 藺手 |
『保暦間記』 | 井出 |
『運歩色葉集』 | 藺手 |
『北条九代記』 | なし |
幸若舞曲の曽我物 | 基本的に仮名 |
能〈伏木曽我〉 | 井手 |
実は『富士野往来』は珍しい「藺手」である。例えば九状では「駿河国富士山南の東宮原藺手の屋形」といった箇所が認められる。「イデ」は本当に多くの表記が認められるが、管見の限り「藺手」は『運歩色葉集』と『富士野往来』のみである。
また(村上2006;p.119)には以下のようにある。
『富士野往来』は、『曽我物語』或いは、曽我伝説の抄録されたものの1つと考えてよいのではないか
私もこの考えに大いに賛同するところである。
九状の該当箇所 |
『富士野往来』は断続的に制作されてきたが、天明4年版より前にまとまって版行されたのは延宝7年(1679)である(遠藤1986;p.392)(村上2006;p.109)。
(遠藤1986;pp.430-437)によると、延宝7年版と天明4年版を比較した時、本来の意図が削がれてしまっている部分があるという。
- エラーの連鎖
上記のように、川口口と富士の巻狩りの伝承が1つの登山絵図に収まってしまったのは知見のなさ故の「エラー」と言える。史料としてのまとまりは無いといえるわけであるが、このエラーは連鎖した。その連鎖の結果として「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)のような登山絵図が成立したと考えたい。
筆者が調べる環境の問題もあり、各富士山登山絵図を詳細に分析できたわけではない。しかし状況からはそのように考えられ、そのエラーの発端自体も天明4年に求めたい。やはりこの両者をセットとする必要性は特段ないため、そこには『富士野往来』という前提があったから生まれたものと思われる。
つまり『富士野往来』には川口口はそぐわないと理解できずに構成に含めてしまい、更にそこに富士の巻狩りの要素を無理やりねじ込んでしまったという背景が考えられる。
私は当登山絵図は川口御師が主体となって制作されたものであり、御師らの売り込みか版元の要求かは不明であるが版元に伝わり、それが『富士野往来』という形で流布されたと考える。そしてそれが二次的にも利用されたと想定される。
- おわりに
『富士野往来』には富士の巻狩りに関連した挿絵がいくつか確認される。例えば文化元年版(望月文庫(東京学芸大学附属図書館)蔵他)には烏帽子姿で乗馬する源頼朝に傘を指す描写がみられる。
これは(林2020;pp.20-21)にあるように、多くで共通して確認される図柄である。この図柄は、既に富士野入りした箇所である。(遠藤1986;p.407)によると、文化元年版は最も広く流布された『富士野往来』であるという。
「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」で指摘したように、富士野は曽我兄弟の仇討ちを語る上での最重要ワードの1つであるのにも関わらず、名が忘れ去られようとしている。この由々しき事態を富士宮市自らが変えようとしなければならない。
また(村上2006;p.119)が述べるように、『富士野往来』自体の純粋な文学性も注目に値するだろう。本稿を記すにあたり、富士宮市の地名を冠する史料が世に出続けたという事実を再認識できた。そして改めて、富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるのだと感じた。
- 参考文献
- 遠藤和夫(1986)「『富士野往來』小考」『国語史学の為に 第1部 往来物』、笠間書院、389-481
- 村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』、和泉書院
- 中西僚太郎(2015)「絵画に表現された富士山」『地学雑誌 124巻』、東京地学協会、917-936
- 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会、13-32
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