2012年11月1日木曜日

富士川の歴史民俗編

富士川は長野県-山梨県-静岡県-駿河湾と続く河川である。富士川の歴史については多面的に考えてみたいが、ここでは主に民俗的な視点で追求したいと思います。

「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川
  • 文明の基点という考え方

網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。

山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している

これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。

笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。

河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している

上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。

  • 富士川水運

富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。

富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。 

とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。

鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。

つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。

『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。

富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。

問屋(富士宮市沼久保)
「富士川-富士川水運-問屋」のイメージは重要である。




実は私は敷地内に入れてもらい、詳しく話を伺っています(ありがとうございます!)。なので、内部からも撮影できています。やはり私は、重要な歴史遺産だと思いますね。

  • 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。

「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。

慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう

としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。

  • 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。

鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。

この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。

富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。

しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。

また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。

  • 水運と客船

東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。

以上、富士川の歴史でした。

  • 参考文献 
  1. 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年 
  2. 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年 
  3. 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年 
  4. 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年 
  5. 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年 
  6. 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年 
  7. 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年 
  8. 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版 
  9. 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年

2012年10月17日水曜日

吉田御師の北口本宮冨士浅間神社掌握の過程

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」にありますように、現在の北口本宮冨士浅間神社については、戦国期において初めて浅間社が建立されたと考えられている。一方江戸時代、とくに江戸中期以降は吉田御師との関係が綿密である。御師によって掌握されていると言って良い。戦国前期においては浅間社が存在していなかったばかりか、吉田御師と神社との関係も薄いものであったというのに、江戸時代中期にはこのような関係が生まれている。つまり、この短期間で非常に大きな変移があったと言える。

といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。

北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。

元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。

なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか

これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。

資料1
明暦2年(1656年)に「御師職分についての訴状」がある。これは浅間社から御師に対して、境内の掃除や灯明番等において怠惰のなきようにと通達したものである。そしてその中で、宮の掃除や番は祢宜の職分であって、御師の職分ではない旨を訴えている。これは、浅間社の神職が御師に対して抵抗を示していたことを表している。時代が下るに伴い御師の介入が大きくなり、それに抵抗感を感じているわけである。御師による北口社支配の初期段階と言ってよいだろう。

宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。

つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。

これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。

ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。

「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。

神位、神幣新規申請についての書状
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。

そして訴訟された側はこのような主張をしている。

答書
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。

そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。

論考の中で

御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである

とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。

「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる

とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。

  • 参考文献
  1. 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年