2026年8月21日金曜日

吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス

『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」にて吉原衰退の要因を以下のように表現した。


吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。


本稿ではこの部分を深堀りしていきたい。まずは吉原の核とも言える「吉原宿」から考えてみよう。吉原宿の歴史は、"大宮方面に近づいていった歴史"とも言える。


「冨士三十六景 廿五 東海堂左り不二」(歌川広重)

享保6年(1721)の『吾嬬路記』には以下のようにある。


吉原の町、延宝八年八月六日、海水あふれ、民屋ことごとく崩る。是世俗に津波といふ也。町の人は、富士のすそ野のかたへにげて、命をのがれぬ。其後天和二年もとの町ありし所地ひきくして、かさねて水災あらん事を恐て、十町斗北へよりて、今の町を立てしなり。其ゆへに、原の方へは十町斗遠くなり、神原へは十町斗ちかくなるといふ

十町斗北に移り、神原(蒲原、吉原から見て西方面)に十町斗近くなったとあるように、つまりは北西の大宮(富士宮市)に大きく近づいたわけである。しかしこれは新吉原宿のみの話であり、吉原宿は過去に移転歴がある(吉原宿の前身を含めればもっと多いとも言えるが)。

  1. 寛永16年(1639年)の高潮で移転→中吉原宿の誕生で、大宮に近づく
  2. 延宝8年(1680年)閏8月6日の高潮で移転→新吉原宿の誕生で、更に大宮に近づく

つまり、どんどん大宮に近づいているわけである。元々中道往還の間柄、関係が深かったことは言うまでもないが、更に強固となったのは間違いないだろう。実際吉原宿は大宮との関係性の上で語られることが多かった。

「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」宝暦2年(1752)『東海道五十三次図』
「宿の内右に富士参詣大宮口への道有」明和2年(1765)『東海木曽両道中懐宝図鑑』
「此宿に富士参詣大宮へ道あり」寛政7年(1795)高力猿猴庵『東街便覧図略』


ここで言う「宿」とは吉原宿のことであるから、吉原宿は富士参詣における経由地として認識されていたわけである。

東海道五拾三次之内 吉原 左富士(歌川広重)

これは、以下のようにも言い表せることができる。


吉原は単なる東海道の通過地点としてではなく、脇往還の起点であり、むしろそちらの方面で重要な意味を持った宿であった。

吉原宿の素晴らしさは、街道の起点であったことにあると言える。そしてこの関係が明治-大正と継続されていく中で、吉原に異変が起こった。


  • 吉原の玄関口および交通結節点の地位消失

(青木2010;p.117)には以下のようにある。

さらに、特筆されるのは、富士駅の開業及び富士製紙第八工場の操業にともない、明治42年10月に富士駅から長沢(鷹岡町)への富士馬車鉄道の支線が敷設されたことである。この馬車鉄道に変わる蒸気鉄道としての富士身延鉄道(現JR身延線)が建設され、富士町と大宮町(現富士宮市)間が大正3年(1914年)に(註:同論稿で他箇所に大正2年とあり、そちらが正と思われる)、さらに甲府への延伸が昭和3年(1928年)に完成した。これにより、富士町は、甲州への玄関口として、交通の結節点という地位を獲得し、更なる発展の鍵を手に入れたことになる(A)。

富士町が先の時代を見据え動いていたその時、吉原はあまり動けていなかった。本来甲州への玄関口は、吉原であったのである。そして交通の結節点も、吉原であった。その地位は他の地に譲ることになったのである。

以下に、旧加島村が町制施行して「富士町」となった年である1929年に出版された日本地図を掲載する。

『新地図』日本之部、文学社、1929年

○で記される地が主要地であるが、吉原が交通結節点であったことは疑いようがない。そしてまだ「富士(加島)」は記されていない。しかしこの時、徐々に台頭してきていたのである。

以後吉原は交通結節点としての地位は諦め、異なる方面を模索したようである。しかし鉄道の必要性に駆られ、1949年(昭和24年)という遅きに岳南鉄道の鈴川駅 - 吉原本町駅間が開業した。

吉原に鉄道を敷設する場合、旧往還のルート再構築を目指すべきであることは言うまでもない。実際、身延線に接続することを模索したようであるが、資金難で頓挫したようである。

  • 吉原の精神的衰退と市名論争

吉原の"精神的な衰退"の強力な要因の1つとして"港の命名における「吉原」除外"がある。昭和36年(1961)に開港した「田子の浦港」であるが、往古は「吉原湊」と呼称されていた港(湊)であった。ちなみに(青木2001;p.119)には山部赤人の歌が掲載されているが、誤っている上に、富士市は当歌の詠地ではないとされているので注意されたい。

歌川広重・歌川国貞「双筆五十三次 吉原 左り不二縄手」


つまり歴史的に言えば「吉原港」と命名されるのが筋なのである。しかし(旧)富士市民と吉原市はこれを採らなかった。(青木2001;p.118)には以下のようにある。

田子の浦港の区域が吉原市と旧富士市にまたがることもあり、鷹岡町を含む2市1町の広域都市計画を制定し、両市域にわたる122haを臨港区域に指定している(昭和34年)。

これは、「吉原」という名を消滅させていくという意味では十分であった。これが決定打となったと言っても良いだろう。

吉原という名のプレゼンスが大きく弱まっていく中で、1965年頃から市名論争が勃発した。そもそもこの合併は「吉原市・富士市・鷹岡町」による新設合併であるから、鷹岡町の立場についても言及しておこう。

  • 鷹岡町の立場

まず鷹岡町は、「富士」と「吉原」とで言えば、「富士」との関係の方が強い。明治23年(1890)に富士馬車鉄道鈴川-大宮間が営業を開始したが、これは「鈴川-吉原-伝法-入山瀬-大宮町」というルートであった(≒中道往還)。ここだけ見れば吉原と関係が深いと言えるだろう。

しかしその後、大正2年に富士身延鉄道の富士駅-大宮町駅間が操業開業し、馬車鉄道廃止された。これにより完全に南北との関係性が強くなっていったのである。それ以降も、南北の道路が優先的に開発された。(青木2010;p.117)から引用する。

(Aに続いて)また、道路の整備も進み、東海道、鈴川蒲原往還、岩松鷹岡往還の道路網により、大正工業第二工場、富士繊維工業が誘致され、富士町、田子浦村、岩松村が一つの生活圏となる一因にもなったとされる。

このような歴史と、現在でいう「富鷹線」といった存在から、鷹岡は「富士」と生活圏を近くしていったという歴史がある。この先鞭となったのが、上でいう富士町の交通結節点という地位確立にあることは言うまでもない。

  • 市名論争

まず吉原市と(旧)富士市の経緯を以下にまとめる(主な合併のみ)。

「末広五十三次 吉原」(二代目広重)


【吉原市】
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行で吉原町誕生。
1942年(昭和17年)6月14日:吉原町と今泉村が合併。名称は吉原町。
1948年(昭和23年)4月1日:吉原町が市制施行し吉原市となる。

【富士市】
1929年(昭和4年)8月1日:加島村の町制施行で富士町となる。
1954年(昭和29年)3月31日:富士町・田子浦村・岩松村が合併。富士市となる。

1961年(昭和36年)には田子の浦港が開港、そして1966年(昭和41年)11月1日に吉原市と富士市と鷹岡町が合併し、新富士市が発足した。この過程で市名論争が発生したことはよく知られている。(富士市1967;p.51)には以下のようにある。

新市名の決定
 合併後の新市名は昭和40年7月28日に開催された総務委員会において公募の方法によることなく、2市1町の協議によって定め、具体的には2市1町の代表者(市町長、議長)により話し合うことになり、その結果について協議会に報告することとなったが、各市町とも旧市町名を主張してまとまらず、継続審議となった。
 その後総務委員会について鷹岡町から大局的立場にたって考えるならば霊峰「富士」もあり、又、昔の行政区画の「富士郡」からお互い市に発展して来た。合併ということによって消滅していく「富士郡」の名称を永久に残すためにも「富士」という名称が一番当を得ているのではなかろうか、という意見が出されたが、結論は保留にされた。

この鷹岡町のスタンスを見れば分かるように、明確に「富士市」を推していたことがわかる。しかし一読すれば直ぐ分かることであるが、鷹岡町の主張はかなり無理がある



まず「霊峰「富士」もあり」とあるが、実は旧富士市や鷹岡町には富士山は所在していない。富士山が所在するのは、実は吉原市だけなのである。その吉原市は「吉原市」を推している。それを分かっていての面前での発言であるから凄まじい。


しかも「富士郡の名称を永久に残す」とあるが、富士宮市が存在する他、富士郡としては芝川町も残っているため、実は全く説得力の無い言い分なのである。

つまり富士山が所在する吉原市に向かって、それを有さない地が「富士山もあるし富士が良いよね」と述べた構図である。これは皮肉としか言いようがない(そもそも「富士市」という名称の由来も一癖ある)。しかしよくよく考えてみると、吉原市には手立てがあった。

吉原市には強力な助っ人が存在した。それは富士宮市である。富士宮市からすれば意図せずの助っ人の形であるが、つまりは「富士宮市」が隣接し、「富士市」では名称が一部重複するので、これを避けんとする論調も可能であったわけである。



つまり「富士山を有する我々が吉原市を推している」とか「富士宮市や富士郡芝川町が存在するから「富士」の消滅は考えづらい」とか「むしろ市名の重複ではないだろうか」等の主張は十分可能であった。これらは、かなり筋の通った言い分と言えるだろう。

しかし吉原市はこのような論調をとることはせず(内々ではあったのかもしれないが)、むしろ富士市に近い鷹岡町への仲介を願い出ることになる。以下に(富士市1967;p.51)の続きを記す。

 その後の委員会においても吉原市、富士市の意見の一致が見られず、再び継続審議に付されたが、その後の委員会において鷹岡町から前述の発言は当時と時点のずれもあるのでこれを取り消して、白紙の状態に戻し、改めて審議したい旨の発言がなされた
 吉原市側からは今後の進展を図るための道を講ずるよう鷹岡町議会議長並びに鷹岡町長にその仲介の労を願いたいとの意見があり、富士市側もこの提案を了承した。この問題については委員会とその関係筋においても庁舎の位置と関連して協議することが好ましいとする空気が極めて強いと推量されることから、鷹岡町側の最終的な調整案が次のように示された。

鷹岡町の急転は、上記の総務委員会での主張が破綻していることを察してのものであろうか。そしてこの時点で吉原市は新市名「吉原市」の線は捨てていたと私には見えてしまうが、どうだろうか。また以下のように続く。

①新市の名称
 2市1町は新市の名称を決定するにあたっては富士市と鷹岡町において意見の一致する名称を尊重するものとする
②新市の事務所の位置
 2市1町は新市の事務所の位置を決定するにあたっては、合併促進協議会において決定されている図面に示す区域内において吉原市と鷹岡町の意見の一致する位置を尊重するものとする。

(中略)その後開かれた総務委員会において調整案は2市1町の全員協議会において承認された旨の報告があり、更に慎重審議した結果、新市の名称は「富士市」とすることを総務委員会にの決定事項とすることで了承が得られ、次回の促進協議会に報告し了承を得ることとなった。ここに愈々大詰を迎えた当問題も9月8日鷹岡町公民館において開催された第14回促進協議会に総務委員会の決定事項となっている新市の名称は「富士市」とすることが諮られ、正式に新市の名称が「富士市」と決定した。

市名は「富士市と鷹岡町で決定する」という方針を取った。逆に新市の事務所、つまり市庁舎の位置は「吉原市と鷹岡町」とで決定するという方針をとっているから、折衷案のような意味合いが強い。しかし圧倒的に影響力があるのは市名の方であることは言うまでもない。現に今、市庁舎が旧富士市・吉原市のどちらに位置するのか分からない人の方が多いのだから。



この市名決定の経緯は(富士市1978;p.757-760)にも同様の内容が記されている。また『昭和41年10月31日合併特集号(吉原市の広報よしわら)』には以下のようにある。


新市名は新市が永遠に飛躍発展する姿にふさわしく、しかも郷土的な色彩を反映し、地域住民はもとより広く国際間においても親しまれている「富士」を新市の名称としました。


これは「第14回促進協議会」においての文言である。ここで少し考えてみよう。田子の浦港の名称が歴史に則って「吉原港」であったらどうであっただろうか。少なくともその象徴性は無視はされなかったであろう。

そしてやはり吉原市側からは反発もあったようである。『広報ふじ』平成8年10月5日673号の元富士市助役のコメントから引用する。

特に問題となったのが、新しい市の名称と、市庁舎の場所、新市施行後の事業計画などでした。まず、市の名称は、それぞれが現行の市名を主張する中、旧富士市は、世界の名峰富士山の「富士」、旧富士都の「富士」を最良とし、旧吉原市は、歴史ある「吉原」という名は捨てられないと、特に商店街の皆さんは「富士市」に大反対でした。そこで、いろいろな面で対等の立場にあった旧富士、旧吉原の2市の間に立って旧鷹岡町が仲介役となり、新市名と市庁舎の場所を抱き合わせた調停案が示されました。それは、新市の名称は旧富士市と旧鷹岡町とで協議、新しい市庁舎の場所は旧吉原市と旧鷹岡町とで協議した結果を、それぞれ尊重するというものでした。

商店街の方々は富士市に大反対であったとあるが、正直名を残そうとしていたようには思われない。"吉原港"運動と言えるような痕跡も見当たらない。

今日では、吉原が街道の起点であったことすらも忘れ去られている。岳南鉄道を敷く際、普通の感性であれば旧街道ルート(中道往還)の再構築に勤しむべきであるのに、それが第一義的なものとして設定されていない。


吉原に歴史の記憶が存在していたのであれば(また当時の世相を鑑みれば)、近世を通して脇往還であった中道往還を軸とする富士地区の交通形態を、鉄道にて再現することを推し進めていたはずである。

勿論、駿豆鉄道との関係で異なる引力が発生したということはあるだろう。しかし普通に経済性を鑑みれば、それは修正されていたのではないだろうか。今日まで私は、須戸方面に敷設したことを支持する人に出会ったことが無い。これが答えではないだろうか。

合併後の都市開発方針によって衰退した面もあるが、むしろそれまでの動向の方が圧倒的に関係していると考える方が普通である。

  • おわりに

本稿では吉原の基本的な性質と新市名決定の経緯を主に記した。吉原の変遷を探るにおいては、もう少しデータから考えていくことも可能である。富士市は都市開発関連の論文が豊富なのだ。余裕があれば、今後記事の作成も考えたい。

  1. 吉原の、玄関口および交通結節点の地位消失
  2. 吉原市と旧富士市を跨る港(往古の「吉原湊」)の命名において「吉原港」を採用しなかったこと

この2つが致命傷となり、プレゼンスが大きく低下し、後の市名論争でもリード出来なかったものと思われる。もっと言えば②の時点で地名論争の前哨があったと見るべきであろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

20:「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』
  2. 富士市史編纂委員会(1978)『吉原市史 下巻』
  3. 青木敏隆(2010)「市町村合併と都市構造の課題(その6)」『経済調査研究レビュー』、経済調査会

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