2025年10月5日日曜日

地本問屋仲間の設立と草双紙、元祖の江戸地本九軒問屋とは

往来物といった「地本」を出版する存在である江戸地本問屋の成立については、関連する史料があまり残ってはおらず、よく分かっていないのが実情である。そのような中、少ない史料からも論じられはしてきた。

(大村1943;p.63-64)には以下のようにある。


然るに文化元年五月、喜多川歌麿、勝川春英、歌川豊國等が錦繪の事に由つて刑せられ、その吟味が尙ほ落着せぬ時、町奉行根岸肥前守より左の町觸れがあつた。(中略)これに由れば、これより先にも繪草紙類は、風教に関して屢、行政上の検束を受けたものであらう。文中に見える行事といふ者、その組織職分が詳かでないが、この頃江戸地本九軒問屋といふ者があり、或はこれ等の中より選ばれて、繪草紙類の刊行物を檢せしものか

ちなみにこれを著した「大村西崖」の出生地は(大村西崖稿・大村文夫編)、駿河国富士郡水戸島村である。つまり現在の静岡県富士市出身ということになる。父は甲斐国塩沢村出身の「塩沢茂三郎」である。この塩沢茂三郎こそが、富士梨を現在の富士市域に広めた人物である。であるから富士市にとってこの一家は重要である。富士市は甲斐からの移住者も多いが、その象徴的な例と言えよう。

「草双紙」は歴史的には「地本」として扱われ、地本屋が出版するのが慣例であった。ここで大村が指摘する「江戸地本九軒問屋」は、どこから引用したものなのだろうか。これは西村屋与八板『御成敗式目』の文言を指摘したものと推察される。(佐藤1998;p.46)には以下のようにある。

西村屋与八板の出版物には西村屋伝兵衛から継承したものが多いので、両者の間に密接な関係があったことは明らかである。井上隆明編『改訂増補・近世書林板元総覧』によれば刊年不明の『御成敗式目』に「江戸画草紙地本九軒問屋占西村屋伝兵衛弟子西村屋与八」とあると記されているという。ここに「弟子」と記されているのが初代の西村屋与八であろう。これは西村屋与八が西村伝兵衛から独立した地本問屋であることを示している。

大村は文化元年(1804)頃に江戸地本九軒問屋が存在したという文脈で書いているが、実際はあくまでも西村屋伝兵衛の時代の話であろう。そしてこの「地本九軒問屋」が「元祖」としての位置づけを有していたことが『富士野往来』から知られる。(佐藤1998;p.44)には以下のようにある。

初期地本問屋仲間の実態についてはほとんど資料が残されていない下村賢「版本「古状揃」についてー書誌的考察の試み」には、天明四年に刊行された西村屋与八板『富士野往来』に「御江戸地本九軒問屋元祖 西村伝兵衛」と記されていることが指摘されている。これを信じるならば、設立時の地本問屋の総数は九軒であったことになる

筆者蔵の『富士野往来』から、実際の該当箇所をみてみよう。



確かに「御江戸地本九軒問屋 元祖」とある。この「元祖」とは、「御江戸地本九軒問屋」に対するものであると見える。しかしこの「元祖」がいつの時代を反映したものであるのかは不明である。また(佐藤1998;p43)には以下のようにある。

そのため再板する度に元株に対する注記をしなければならなかったのである。これは従来、株板とは考えられていなかった往来物などが地本問屋においても株板化していったことを示している。

この天明4年版『富士野往来』の場合、西村屋伝兵衛から継承したものであることを示した上で、西村屋与八開板として出版したことを明記したものであり、権利が自らにあることを示したものである。

これら地本問屋においては、享保6年(1721)に「地本問屋仲間」が結成されたとされる。しかし徐々に有名無実化されたとされる(佐藤p.41-42)。同論考においては唐突に既成事実として寛政2年(1790)4月に地本問屋仲間が正式に結成されたと文脈上に現れる。そしてその目的は「寛政改革時に問題となった草双紙の内容の相互監視を目的としたもの」とする(佐藤1998;p.44)。

また(武藤2005;p.384)には以下のようにある。

4番目に、「問屋仲間」の調査である。「おろし」の調査同様、版元印に「といや」の文字が一度でも確認できた版元を拾いあげてみた。すると、奥村屋以外では近江屋、村田屋、伊勢屋、和泉屋、小松屋、相模屋、岩井屋である。 
実はこの版元は、幕府が認めた問屋仲間だったのではないかと考えている。問屋仲間は、権利や利益を守るため享保6年(1721)7月、幕府が書物問屋及び絵草紙問屋の組合(株仲間)設立を許可したものである。具体的には類版および重版などによって版元がうける損害を防ごうとするものであった。この時結成された版元がどこであったのか、資料の紛失で今日では不明だが、西村屋与八版の『富士野往来』の天明4年版奥付に、「御江戸地本九軒問屋元祖西村屋傳兵衛」と記された部分があることから、先の八版元に、今回の調査では「といや」の文字は確認できなかったが、西村屋を加え、これが享保六年に結成された「御江戸地本九軒問屋」だったのではないだろうか。 
問屋の文字が問屋仲間を示すものとは断言できないが、問屋を使用しない版元も多く、またこの問屋の文字の使用が、享保八年から十四年頃に特に多く、問屋仲間結成当初の時期と一致するように思われる。

ここでいう「絵草子問屋」は「≒地本屋」を念頭に置いてのことと思われるが(「草双紙」は「地本」として扱われ、地本屋が出版するのが慣例)、類版および重版を防ぐ目的があったとする。

九軒問屋の構成はやはり不明で、(佐藤1998;p.45)は「『富士野往来』に記された「元祖九軒問屋」とは数が合わない。或は書物問屋のように地域ごとに組数の問屋仲間が仲間内として形成されていたのかも知れない」とする。

  • 参考文献
  1. 大村西崖(1943)『近世風俗画史』、宝雲舎
  2. 佐藤悟(1998)「地本論 江戸読本はなぜ書物なのか」『読本研究新集 第1号』
  3. 武藤純子(2005)『初期浮世絵と歌舞伎』、笠間書院

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