「一和尚」とか「○和尚」というのは供僧に付属する者の名称として見られ、例えば1240年に東寺に常住供僧が設立されたとき一和尚から三和尚でまであったという(網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版)P169-170)。
- 一和尚職と四和尚職
「一和尚」と「四和尚」は神職名である。つまり富士氏が「富士大宮司職」というところのそれである。
この文書には「一和尚四和尚御炊職之事」とあり、原来は一括されていたと考えられている。
この文書では「一和尚」と「四和尚」の職が「長源坊」の処務としている。つまり一和尚と四和尚は兼任されるのが常であり、それを「長源坊」が務めていた。
この文書は注目されることが多い。何故なら「清長=一和尚職/春長=四和尚職」の形態を明確に示す文書であるからである。
つまり天文8年(1539)には長源坊が務めていたそれが、天文21年(1552)には清長坊が一和尚職を務め、春長坊が四和尚職を務めるようになっているのである。『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』には以下のようにある。
天文14年6月、長源は一和尚職系の権利のみを子息長泉(のちの清長)に譲り、これを受けて20年2月には、この一和尚職系の権利が清長に安堵される。(中略)そして21年正月、清長には一和尚職系の権利が、春長には四和尚職系の権利がそれぞれ安堵され、ここに両職の分掌関係が確定する。
またこの文書では清長坊が御炊職を処務し、また春長坊は風祭神事を処務していたことが分かっている。
- 風祭神事
風祭神事は、本宮の祭事の中でも比較的よく取り上げられる。
上述の通り風祭神事は春長坊が処務しており、「冨士大宮風祭事米之事」とある当文書の宛も「春長」である。それ故に風祭神事に関わる勧進も春長坊に拠るところであった。この文書は祭資(米)の徴収範囲に「西は潤井川・東は伊豆国境」が該当する事を示し、また徴収において不入地(奉納義務が拒否できるなど外部からの介入が制限されるエリア)までもが含まれる事を示し、またそれらの名目としては「神慮」にあるとしている。
「神慮」というのは現代でこそ想像できないものであるが、当時は当たり前に存在する概念であった。「「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰」では同文書について以下のように説明している。
この徴収は「為神慮之間」とされ、勧進にあたっては浅間社の神の意志を背景にしていることがわかる。また「在所之代官」の案内で毎年請け取ることが記されており、恒常的な負担となっていたことを想定させるが、徴収を行った春長が「本願」に相当するような役割を本宮内で担っていたということもあって、風祭神事米の徴収も「神慮」を背景にした春長自らの力量に負うところが大きかったものと思われる。
「神慮」という名目を借りて、祭事を成立させようという意図が感じられる。先の文書は弘治3年(1557)であるが、実はそれ以前の天文21年(1552)にも風祭神事の勧請(米の徴収)に関わる文書が出されている。それについて『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』では以下のように説明している。
この文書が重ねて出されなければならなかった理由は、勧進エリアにおける「不入」権(奉加拒否の権利)の否定を徹底することにあった。まず第一に、春長坊が勧進を行なう際に障害となる「不入」の地とは、史料(※天文21年の文書のこと)では「寺庵の門前・在家」とされるに過ぎなかったが、右の史料(上の弘治3年の文書)では、「寺庵の門前」が「諸寺・諸社門前」に拡大され、「在家」に相当する部分が「諸給主、鍛冶、番匠、山造、その外の輩」として、今川氏給人や諸職人にまで敷衍されている。
このように、本来徴収できない層にまで介入できる権利を得ていた春長は特質的なものがある。この特質性の背景に、「富士大宮司」という存在があったと同文献は指摘し、「大宮司との対抗上、意図的に創りだされた関係であった」としている。
また清長(一和尚職)は本宮における不入権を行使・主張できる立場にあった。つまり本宮を中心に考えると、以下のように言える。本来不入の地(アジール)は不入権により守られているが、春長には国主により不入の地への介入権が認められているため、本宮はそれら地域からも勧請を行える立場にあった。一方本宮自体も不入権を有しているが、本宮は勧請を進める側であったので不入権が破られることは無かったのである。このシステムは同族(春長・清長)に行われることによって成されていた。これがなぜ春長・清長であったのかと考えるとき、本宮筆頭の富士大宮司の状況が絡んでいると考えられる。つまり戦乱の中で富士大宮司は留守であったことも多く、富士大宮司以外にこれらの権利を与えたと考えられるのである。
- 参考文献
- 東島誠,『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』P79-85,東京大学出版会,2000
- 大高康正,「神慮」にみる中世後期の富士浅間信仰,帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要8, 2006
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