富士親時の花押 |
富士忠時については、「忠」を拝領したと見られることも多い。『中世武家官位の研究』には以下のようにある。
富士忠時・興津忠清共に「忠」の一字を駿河守護今川範忠から拝領したと考えられることから、この任官に今川氏が関わっていたとする見方もできる…(省略)
とある。一方親時については文正元年(1466)の「足利義政御内書」にて既に「大宮司職等申付又次郎親時」とあり、今川氏親の生誕はそれからやや時代が下ることを考えると、(親時については)拝領したとは言えない。
このように文正元年(1466)の「足利義政御内書」の存在を記しましたが、「大宮司職等申付又次郎親時」とあるように、このとき足利義政により富士親時は大宮司職に就任することが決定された。
この文書は注目されるところであり、まず「足利義政が補任している」という事実が非常に大きい。つまり足利将軍家が富士家の当主(といってよいだろう)の決定権を保持していたということになる。この事実は、富士氏が既に中央と深い関わりを持っていたことを裏付けている(取り込まれている、とも言える)。この時期の富士家は家中騒動の最中でもあり、大宮司職の就任に関わる過程は「富士家のお家騒動と足利将軍」にて説明しています。
そして神職としての面で外せないのは「富士山信仰に篤かったこと」である。浅間大社の大宮司であるため篤いことは当たり前なのであるが、仏像類の奉納といった形でそれは明確に見てとれる。以下は文明10年(1478)の仏像である。富士氏と村山修験の合同で製作された仏像であり、現在も村山浅間神社境内の大日堂内にて展示されている。
他に明応2年(1493)の仏像が知られており、富士親時は檀那である。現在、柴又帝釈天の境内に安置されている。
富士山に奉納された仏像類の残存例は数多くあるわけではない。特に中世のものはかなり限られている(「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」が参考になります)。その中で富士親時による奉納例は、複数以上が確認されている。この事実は、富士氏の祭祀面や信仰面を考えるにおいて特筆すべき事例であろう(仏像自体の考察は別項で設けたい)。
中世の富士山信仰を考える上で、富士氏の動向は外せないように思える。
- 参考文献
- 木下聡,『中世武家官位の研究』,吉川弘文館,2011
- 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003
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