2020年5月8日金曜日

鳴沢村の基本情報及び富士山との関係

このページは「鳴沢村の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

鳴沢村域


  • 富士山との関わり

鳴沢村は「富士山体との近さ」「自然との関わり」という点でいえば、山梨県では随一の存在と言って良いだろう。



上の図は富士山を山頂から見た図であり、財務省のHPにあるものに加筆したものである。黄色の箇所はすべて鳴沢村である。この円をピザに見立てて考えると分かるように、かなりの範囲である。

    南都留郡鳴沢村
また国立公園のうち最重要地のみ指定される「特別保護地区面積」が、山梨県だけでなく静岡県を含めて考えても規格外に広大なのである。

自治体特別保護地区面積(ha)
山梨県富士吉田市533
山梨県西八代郡上九一色村(現在は富士河口湖町となる、一部は甲府市)1,113
山梨県南都留郡山中湖村57
山梨県南都留郡富士河口湖町(後に旧上九一色村域を大部分編入)6
山梨県南都留郡鳴沢村1,500
静岡県富士宮市463
静岡県富士市38
静岡県御殿場市287
静岡県駿東郡小山町220
富士山本宮浅間大社奥宮境内地405

つまり「自然との関わり」という点で、鳴沢村はとても重要な地なのである。

  • 特別名勝の範囲
黄:特別名勝の範囲

富士山は「特別名勝」でもある。黄色の箇所が特別名勝の範囲であるが、一見して分かるように鳴沢村は広大である。山梨県では一番面積が広いと言ってよいだろう。


  • 富士山域




鳴沢村は世界文化遺産富士山の構成資産の1つである「富士山域」の面積も非常に広大である。


  • 鳴沢村と道路

鳴沢村が富士山体と接しているということは、言い換えれば登山に関わる施設が鳴沢村に多く存在しているということになるはずです。

例えば「富士スバルライン五合目」は、「山梨県富士吉田市」と「山梨県南都留郡鳴沢村」にかかっています。これは、国の公文書を見ても分かります。

http://www.env.go.jp/park/fujihakone/intro/files/park_kanri_1.pdf
富士箱根伊豆国立公園 (富士山地域)



また「山梨県道路公社 富士山有料道路管理事務所」によると、富士スバルライン「終点」は鳴沢村だといいます。

「山梨県道路公社 富士山有料道路管理事務所」HPより

このように登山者の皆さんは、車で鳴沢村を目指して移動しているのです。


  • 鳴沢と和歌

「鳴沢」と言えば、室町時代の聖護院門跡「道興」の和歌が知られる。道興は旅路の途中須山口(静岡県裾野市)から村山(静岡県富士宮市)まで至り、その後鳴沢(山梨県南都留郡鳴沢村)へと足を進めている。少々変わった道順と言える。その際に詠んだ和歌が『廻国雑記』に記される。

詞書: 富士の鳴沢をよめる
和歌: 久方の天の川瀬の声なれや 雲間にむせぶ富士の鳴沢

文明18年(1486)のことである。以上が、「鳴沢村と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2020年4月27日月曜日

富士氏の系図から近世の富士家庶流について考える

この記事は「富士氏の系図から戦国時代の富士家について考える」の続編である。今回は「近世の富士家庶流」について考えていきたい。まず前回述べたように富士家は戦国時代に系統が大きく2つに分かれているので、まずこれらを区別して捉えなければならない。つまりは


  1. 富士大宮を本拠とした「本流」の富士氏
  2. 関東に拠点を持った「庶流」の富士氏


という区別である。当記事では「2」について考えていきたい。

『寛政重修諸家譜』

『寛政重修諸家譜』

近世における庶流の富士家についてであるが、まず『寛政重修諸家譜』(以下、寛政譜)には信重の子として「信友」「信久」「信吉」「信成」が記され、このうち信成が継いでいるとみられ、その後は


信成-信宗-信良-信久-信清


と継承されており、すべて嫡男が継いでいる形である。信清には子として「信成」「信乾」が居たものの、信清の代で絶えているようである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図」については、信重は当主でないので子息等は記されていない。なので以下では基本的に寛政譜と『寛永諸家系図伝』(以下、図伝)等が検討の材料になってくる。

  • 富士信成

まず、近世初頭に活躍したと思われる富士信成について考えていきたい。信成に関して興味深いのは、『干城録』に「正保三年、遺跡をつく」とあることである。寛政譜にも信成の説明にて「正保三年遺跡を継」とある。本来家を継ぐべき位置にあった長男信友は17歳で死しており、二男・三男は「別に家を起し」とある。そのため信成が継ぐ形となったのであろう。



以前解説したように、天正19年(1591)に富士信重は「長尾台」と「飯嶋」の両地、合わせて百石を知行地として得ている。そして寛政譜における信成の説明に「采地鎌倉郡長尾台村の長谷寺に葬る」とあるところを見ると、家督を相続し没するまで同地に居続けたようである。

このように寛政譜には信成の墓が長谷寺にあることが記されているが、この墓は現在も残っている。墓碑銘は以下である(※要確認)。

    元禄二年 
冨士   為歡(異字体)光院殿  喜誉蓮西信士霊  
    巳己九月念一日

とある。これが長尾台の地に残っているという事実そのものが重要であろう。

  • 信成以後の動向

これは仮説であるが、信成より二代後辺りには相模国から拠点を移しているきらいがあるのである。

『下総国各村級分』によると、江戸時代は元禄末期に千葉郡神窪村を「富士市十郎」が知行地としている。また『旧高旧領取調帳』によると、幕末期に千葉郡神久保村(神窪村)の地を「富士弥一郎」が知行地としている。また同じく『下総国各村級分』の元禄末期の記録で、下総国印旛郡鎌刈村を「富士市十郎」が知行地としている。

そこで元禄年間の「富士市十郎」について考えていきたいが、寛政譜を見ると「信良」が「市十郎」を通称としていたことが分かる。寛政譜の信吉の項には以下のようにある。

延宝6年12月6日遺跡を継。時に十歳元禄4年5月28日班をすすめられて桐門番となり、12月2日御次番に轉じ、廩米百俵を加えられ、5年2月7日ゆへありて務をゆるされ出仕をはばかり、5月9日ゆるされて小普請となる。7年閏5月9日小十人に列し、14年11月下総国の采地を同国千葉郡及び武蔵国橘樹郡のうちにうつさる(以下略)

『下総国各村級分』といった史料でも裏付けられるように、富士信良は下総国に采地(知行地)を持っていた。寛政譜の「14年11月下総国の采地を同国千葉郡及び武蔵国橘樹郡のうちにうつさる」という記述は、下総国印旛郡の采地分が千葉郡及び武蔵国橘樹郡に分けて知行されたことを指すようである。

そして『旧高旧領取調帳』に幕末に富士弥一郎が采地としていたところを見ると、これらの知行地は富士家で代々引き継がれていたようである。富士信重の子孫は、場所を変えつつも知行地を得続け、武家として存続し続けたのである。

  • 「富士信久」流の富士家

『干城録』に「二男市左衛門信久・三男七郎左衛門信吉ハ別に家を起し」とありとあるが、この富士信重二男である信久流の「富士家」の系譜が寛政譜には別で記されている

信久-信尚-信貞-信定-時則

と継承されている。これを見るとこのとき富士家は「三ないし四系統あった」と見ることもできなくはない。


富士氏系統
富士大宮の富士家本流
相模国の富士家(信成)富士信重の子、図伝では三男、寛政譜・干城録では四男。寛政譜に系図あり(信重の直系として)。
富士信久(別に家を興すとあり)富士信重の子、図伝では長男、寛政譜・干城録では二男。寛政譜に系図あり。
富士信吉(別に家を興すとあり)富士信重の子、図伝では二男、寛政譜・干城録では三男。独自の系図なし

こうしてみたときに、やはり「信重-信成」の血脈が本流に次いで名門であると考えられる。

『寛永諸家系図伝』

図伝の方がより古くこちらに信友の名が見えても良いはずであるのに、より後世の寛政譜で信友の名が見えるのはおかしな印象を受ける。これには信友の存在を隠そうとした意図もあったであろうか。

  • 現在の「富士姓」

関東にお墓参りに行くとごくたまに「富士姓」が確認できるが、これらの大部分は元を辿れば富士信重からの分かれであると考えられるのである。そもそも「富士」という名字は普遍的な名字では決して無いのである。最後の富士大宮司である「富士重本」は富士大宮(富士宮)から東京に転出しているが、明らかに現在のこの分布は富士重本の流れでは説明できないし、そうではないだろう。

もちろん本拠である静岡県富士宮市でも富士姓が確認できるが、こちらは「公文」「案主」系の富士氏の子孫が主であると考えるのが普通である。つまり「在地し続けた富士家」である。

武家としての立場を貫いた信重の奮闘の結果、現在関東に富士姓が分布していると考えて間違いないと思うのである。当たり前ではあるが、富士氏としては富士大宮司を継承し、富士山本宮浅間大社の神職として存続していくことがまず第一である。その重責は嫡子が全うし、第二子であった信重は富士家の意向かは不明であるが武家としての道を模索したのであろう。

今回はこれで終え、いつか「近世の富士家本流」をまとめる機会を伺いたいと思う。