2013年3月3日日曜日

様々な富士の「富」

「富士(山)」という表記は平安時代には既に確認されており、つまり現在我々が自然に表記する「富士山」というものは、平安時代まで遡ることができるということになる。

そこで考えることに、「富士」の「富」は一体どのようなものがあるかということである。一度こういうページを設けて、徐々に実例を掲載していきたいと思っています。明らかに「富士」と表記された例の「富」、または「フジ」を示した際の「富◯」(例:『日本霊異記』に見られる「富岻」)について掲載したいと思います。

  • 「平城京二条大路木簡」(天平7年(735年))

これは「富士郡」の初見であり、駿河国のこの地が古来より「富士郡」と呼ばれていたことを明確にすると共に、富士郡の内側を示す大変重要な木簡である。

「駿河国富士郡古家郷」「富士郡久弐郷」「駿河国富士郡嶋田郷」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 『日本霊異記』(成立は九世紀初めとされる)
『日本霊異記』、「興福寺本」より

『日本霊異記』の成立は九世紀初めとされる。富士山に関する記述としてはかなり古い部類である。また富士山における信仰面が伺える記録でもあるため、極めて重要な記録である。「冨」の「一」のない表記である(興福寺本で最古の写本とされる)。

  • 『今昔物語集』(平安時代と推定)

『今昔物語集』の「駿河国ノ富士ノ神主、地蔵ヲ帰依スル語第十一」にある、浅間大社を指す語である。「富士(の)宮」の初見かと思う。

「冨」の「一」のない表記である(鈴鹿本、原本の可能性アリ)。

  • 後醍醐天皇綸旨(正慶2年9月3日)


正慶2年(1333年)の書状である。宛には「富士大宮司館」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)

「富士河」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国/一期一腰応永廿四年二月日(1425年)


「一期一腰 応永卅二年二月日」と彫られている部分があり、この刀が打たれたのは応永32年(1425)であると思われる。「冨」の「一」のない表記である(写真中の文字は便宜上「富」としている)。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月27日条

満済筆の「富士大宮司」である。「冨」の「一」のない表記である。

  • 『勝山記』(1521年の記述、筆写時期は不明、冨士御室浅間神社所蔵本)

「富士勢負玉フ」とある。武田信虎軍に富士氏が負けたことを記しているとされる。『勝山記』の「冨士御室浅間神社所蔵本」の筆写時期は不明。

  • 「今川義元判物」(天文8年1月18日、画像は宛の「井出駒若」の部分が切れている)

「井出文書」

「富士上野関」とある。富士上方の上野の関所のことである。

  • 『富士野往来』(天明4年(1784)、都留文科大学蔵

「冨」である。しかしこの題簽は後簽である可能性が高い。当写本中の表記は普通に"「冨」の「一」のない表記"である。『富士野往来』の最古本は文明18年(1486)の写本であるといい、こちらは18世紀の写本である。

  • 時代の比定

これら史料に鑑みるに、おそらく「冨」の文字はおおよその時代比定作業にも役立つと考えられる。『六所家総合調査報告書 古文書①』における菊池邦彦氏の『富士山大縁起』(東泉院所蔵)に関する解説で

「富」の文字に点があることなど、本史料は一見すると明治期かそれ以降に書写されたように見える

という一文があるが、まさに同意するところであり、1つの参考になってくるであろう。

  • まとめ

古来より富士の「富」は"「冨」の「一」のない文字"で表記されることが慣例であったと言う事ができる。また一説には「冨」は画数でいうと11画であり奇数となるが、陰陽の考え方で奇数は陽となるため縁起が良いとされる(参考:富士山の豆知識)。「富士」という表記は大きく時代が下ってからであろう。

2013年1月1日火曜日

浅間大社と富知神社

「富知神社」は富士宮市朝日町に位置する神社である。この神社の特筆すべきはその「名称」と「伝承」である。まず「名称」についてであるが、「富知」という名称は「富士」との関連性を考えなければならない。大きく2つのパターンが考えられ、①「富士」の元の表記・呼称②「富士」の派生の2つが考えられる。どちらかは不明であるが、どちらかであろう。

「富知神社」の伝承を間接的に示す資料はいくつかあるが、まず『古史伝』を挙げてみたい。『古史伝』は国学者として著明な平田篤胤が記したものであるが、そこに「フクチ」への考察が記載されている。



ここでは富士と「フクシ(ジ)」との関係について細かく記している。その流れの中で「富知神社」が出てくる。


「福地権現」と言われる所以として、富士氏に伝わる古記に「福地明神」とあるからだとしている。富士氏はもちろん浅間大社の富士氏のことである。その富士氏の「富士民済」が書いた『富士本宮浅間社記』の記述は重要である。富士民済は第四十一代富士氏当主であり、時期的には江戸時代中期である。「安永の論争」に関わる人物であり、富士山本宮浅間大社の富士山頂の管理・支配はこのとき揺るぎないものとなった。

『古史伝』にある「富士氏の家なる古記」と『富士本宮浅間社記』は同一、または『富士本宮浅間社記』の記述の元となる史料と同一と思われる。双方とも江戸時代によるものなので、そこで「古記」と記すということは、その記述の元となる史料はあったと考えるのが自然である。



『富士本宮浅間社記』では「福地神社の位置した場所に浅間神社が遷宮した」としている。この記述に従えば、元は現在の浅間大社の位置(富士宮市宮町)に富知神社(富士宮市朝日町)が位置していたことになる。たしかに距離的には隣接していると言える。しかしながらあまりに異なる時代の話であるので伝承の域は出ず、真偽は全く不明である。ただしこの記述は、浅間大社の成立を考える上で大変興味深いものである。

追記:
富士山本宮浅間大社の建立を伝える史料として『富士本宮浅間社記』があり、また大同元年(806)に坂上田村麻呂が建立したと記されている。この記述は同社記が初出であると思われていたが、そうではないようである。

元禄10年(1697)の富士山大縁起(富士市立博物館企画展図録『富士山縁起の世界―赫夜姫・愛鷹・犬飼―』のうちNo.41)に

平城天王御宇大同元年丙戌年、樓金銀、建立社頭、奉請浅間、今大宮是也

とある。これは大同元年の富士山本宮浅間大社の建立を指す。そして同記録が成立したのは元禄10年(1697)であるので、それより遡ることができると言うことが出来る。

  • 参考文献
  1. 遠藤秀男,「富士山信仰の発生と浅間信仰の成立」『富士浅間信仰 』P7-11,雄山閣出版,1987年
  2. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(1973年版)P609,名著出版
  3. 平田篤胤 ,『古史伝』三十一
  4. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995