「富知神社」の伝承を間接的に示す資料はいくつかあるが、まず『古史伝』を挙げてみたい。『古史伝』は国学者として著明な平田篤胤が記したものであるが、そこに「フクチ」への考察が記載されている。
ここでは富士と「フクシ(ジ)」との関係について細かく記している。その流れの中で「富知神社」が出てくる。
「福地権現」と言われる所以として、富士氏に伝わる古記に「福地明神」とあるからだとしている。富士氏はもちろん浅間大社の富士氏のことである。その富士氏の「富士民済」が書いた『富士本宮浅間社記』の記述は重要である。富士民済は第四十一代富士氏当主であり、時期的には江戸時代中期である。「安永の論争」に関わる人物であり、富士山本宮浅間大社の富士山頂の管理・支配はこのとき揺るぎないものとなった。
『古史伝』にある「富士氏の家なる古記」と『富士本宮浅間社記』は同一、または『富士本宮浅間社記』の記述の元となる史料と同一と思われる。双方とも江戸時代によるものなので、そこで「古記」と記すということは、その記述の元となる史料はあったと考えるのが自然である。
『富士本宮浅間社記』では「福地神社の位置した場所に浅間神社が遷宮した」としている。この記述に従えば、元は現在の浅間大社の位置(富士宮市宮町)に富知神社(富士宮市朝日町)が位置していたことになる。たしかに距離的には隣接していると言える。しかしながらあまりに異なる時代の話であるので伝承の域は出ず、真偽は全く不明である。ただしこの記述は、浅間大社の成立を考える上で大変興味深いものである。
追記:
富士山本宮浅間大社の建立を伝える史料として『富士本宮浅間社記』があり、また大同元年(806)に坂上田村麻呂が建立したと記されている。この記述は同社記が初出であると思われていたが、そうではないようである。
元禄10年(1697)の富士山大縁起(富士市立博物館企画展図録『富士山縁起の世界―赫夜姫・愛鷹・犬飼―』のうちNo.41)に
平城天王御宇大同元年丙戌年、樓金銀、建立社頭、奉請浅間、今大宮是也
とある。これは大同元年の富士山本宮浅間大社の建立を指す。そして同記録が成立したのは元禄10年(1697)であるので、それより遡ることができると言うことが出来る。
- 参考文献
- 遠藤秀男,「富士山信仰の発生と浅間信仰の成立」『富士浅間信仰 』P7-11,雄山閣出版,1987年
- 宮地直一,『浅間神社の歴史』(1973年版)P609,名著出版
- 平田篤胤 ,『古史伝』三十一
- 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995
入山瀬浅間がもとは「新福地」名乗っていますよね。
返信削除三日市場の浅間も「富知六所」です。
この式内社の話は今までの研究が古代の話から一気に江戸時代後期以降の話に飛んで議論されていると思うので、中世にどう捉えられていたのかをきちんと整理することで本質がみえてくるような気がしています。
あなたの疑問を文章化すると、おそらく「富知・福地神社の話のとき、なぜ入山瀬浅間神社などがでてこないのか」ということだと思います。その場合「ではなぜ古史伝には大宮の富知神社の話が挙げられているのか」ということを考えると、答えが出るかもしれませんね。
削除『古史伝』の中での説明として『延喜式神名帳』という史料を挙げています。『延喜式神名帳』には富士郡三座として「富知神社」が記されています。この神社が富知神社と同一視されています(論社あり)。『延喜式神名帳』はたいへん古い記録でなおかつ一級史料です。ですから『古史伝』も、この存在を無視出来なかったというわけです。富知・福地神社の話のとき先ず大宮の富知神社の存在を持ち上げることの重要性が理解でき、『古史伝』に記述されているのも頷けます。そして焦らずゆっくり解釈すれば、このエントリが「古代の話を江戸時代に記しているが、それを鵜呑みにはできないよ」と言っているということが、伝わると思います。