2026年11月1日日曜日

シリーズ富士市制施行60周年を振り返る、富士市の特筆すべき論稿類

まず、富士市政制施行60周年おめでとうございます!


昭和41年(1966)11月1日の旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併から本日で60周年となります。当ブログではこれまで"シリーズ富士市市制施行60周年"と題して「25」の記事を投稿してきました(AI未使用)。

本当は「30」くらいまでを想定しておりましたが、通常記事よりアクセス数が担保されていないため、「25」となりました。本記事では各記事を総括し、本来引用したであろう論稿類を一覧化したいと思います。


【記事一覧】


【総括】

内容としては、"富士市の地域づくりや観光化の提唱"をテーマとしてきたつもりです。そのために過去を振り返る…概観としてはそのように言えるでしょう。

内容は「観光化」「民俗学」「歴史学」「自然」「産業」「地域性」など多岐に渡っています。記事の中で気になったものがありましたら、是非その引用文献を手に取り読んでみて下さい。

ただ富士市の図書館は、富士市を特別に取り上げている良質な刊行物を意外にも置いていません。しかし図書館には「図書館間相互貸借」というサービスがありますから、利用して手に取ることも可能です。

皆様が富士市について詳しくなる一助となれば幸いです。


【引用が想定された論稿類】

以下では25の記事群では引用していないものの、参考となる資料を一覧化していきたいと思います。


  1. 中川昇・永野征男(1997)「市域合併にともなう都市核の変容 ―静岡県富士市の事例―」『 日本大学文理学部自然科学研究所紀要 32』、 31-51
  2. 片柳勉(2002)『市町村合併と都市地域構造』、古今書院
  3. 石川良文 ・中村 良平 (2017)「所得消費の帰着構造を考慮した地域間産業連関モデルによる地方創生政策の経済効果分析」『RIETI - Discussion Papers 17-J-061』

「1」および「2」、そして既に出典として用いている以下の文献。


  • 福士哲生(2004)「昭和期の市町村合併と地域経済・地方財政-静岡県富士市を例に-」『資本と地域1』、地域経済研究会
  • 青木敏隆(2010)「市町村合併と都市構造の課題(その6)」『経済調査研究レビュー』、経済調査会

これらは、富士市の都市構造変化を考える上では必読のものとなります。過去を回顧し、これからの富士市にどう繋いで行くのかを見届けたいと思っています。

2026年10月26日月曜日

本当は存在していなかったはずの富士市、国から複数回拒否された「富士町」案

富士地区(富士市・富士宮市)の人間の中でやんわりと存在する、いや強く内在しているとも考えられる"ある感覚"がある。


富士宮市が"富士市"じゃないんだ…


このような意見はチラホラと聞こえたりするが、その理由は想像に難くない。富士宮市の領主は永きに渡り「富士氏」であったし、軍事的拠点として富士城(大宮城)が存在したし、北部には富士金山があり、名物として富士海苔が存在した。また曽我兄弟の仇討ちの地は「富士野」であった(このうち「大宮」は富士氏・富士城)。

ちなみに富士城も富士金山も富士海苔も富士野も、実際の呼称であり古文書等で確認できる名称である。つまり「富士」とは昵懇なのである。

対して現在の富士市域はというと、このような史料上確認されるようなものもあまり思い浮かばない。あまり思い浮かばないまでも、「富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは」等で富士山との関係性自体は模索する試みをしている。とはいってもこれも「吉原」ではあるのだが。吉原で「富士」との関係を見出すのは可能だが、旧富士市域は難義である。

このような、確かに土着しているだろう一連の感覚から考えるに、そもそも現在の富士市という地域が"富士市"という名称に至った理由は一体何であろうか、と考えるのも一興ではないだろうか。実はここに驚くべき真実が隠されている。

現在の「富士市」という自治体名のルーツは、旧加島村の町制施行で「富士町」となり、その後市制施行した「富士市」にある。つまり「富士町」となった経緯を知る必要性があるのである。

まず「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にあるような加島村の様相の変化から、当地では町制施行を望む声が高まっていった。これは当然のことであろう。(富士市1982;p.596)には"空前の繁栄"とあるが、その言葉に違わぬものと言える。

大正10年(1921)3月1日のこと、富士郡役所から加島村長に宛てて文書が送付された。内容は、加島村にて町制施行の機運が高まっているため、郡役所として状況を知りたいところである。9つの項目について知りたいので、それらを調査し、報告を求めるようにという旨であった。対して加島村は同15日には報告を行った。

(富士市1982;p,596-597)から引用する。


先にみたように、富士製紙、富士駅、身延線といった条件を部落内に有した平垣は、大正5年にはこれら優位であった部落を凌駕して断然1位におどりでたことが明らかであり、(中略)これによっても、先にみた諸条件の中でとりわけ駅周辺地区の発展、つまり都市化が急速であったかが理解できるわけである。


加島村の勢いは、物凄いものがあった。そして報告から郡役所も町制施行は妥当であるとし、更に議論は加速していったのである。しかしここで奇妙な現象が発生する。(富士市1982;p.605)より引用。


にわかに町制問題は活発化していったのである。ただ町制を施行するだけではなく、町名もこれまでの加島から富士と変え同時に変更したいという議もあったので、大正10年3月31日、加島村長松永正名は議第10号をもって「加島村ヲ富士町トナス」という案件を村議会に提出、この原議案は同日原案どおり可決したので、この議決謄本を付して、大正10年4月4日、村長は郡役所を通じて内務大臣床次竹次郎に対して、加島村庶甲第387号を以て「村ヲ町トナシ併セテ改称ノ儀許可申請」を提出したのである。


つまり加島村は同時に富士町への改称を望んだのである。「加島」という名称に相当愛着が無かったのか、議会に議案を提出し、同日可決している。つまり3月に富士郡役所より状況を知らせるよう伝達をうけ、同月には富士町への変更を議会で可決していることになる。あまりにも動きが早すぎる。

「加島」という名称は歴史的なものであり、『吾妻鏡』にも登場する古い地名である。初見でいえば、「吉原」よりもずっと古い。これを容易く変更することに戸惑った村民も居たことであろう。ここまで自らの地名に愛着が無い地域も珍しいのではないだろうか。(富士市1982;p.608)から引用する。


以上町名変更と町制施行の2つの許可を求める理由についてみると、その底流に脈々として流れているものは、第一に町制をしき、町名の変更を求めるのが、実に600人余りに達する梨生産者の一致した要請であったことであり、これら梨生産者が彼らの取り引き上の便宜から、村名では信用にかかわり、不利にもなるから、停車場名と町名を一致させ、しかもだれでも知っている富士山の富士であれば益々好都合であるとしていることであって、実に加島村民の大部分の一致した生活の次元の中からこの問題の提起され要求されたことに注目すべきであり、第2には明治末年まで何の変哲もない加島村が、明治末年以来大正期にかけての激しい変化、変動を意識した上に立っての、問題の提起であり、要求であったことに注目すべきであろう。


このようにとんでもなく美化した説明であるわけであるが、少し違和感がある。というのも、富士駅は元々は「加島停車場」と言っていた。しかし(おそらく)直ぐに変更されているので、詰まるところネームバリューであろう。停車場名と町名を一致させるのであれば、富士駅を加島駅とすれば良い話ではないか。

また梨業者の意見=「加島村民の大部分」としているが、勿論そんなはずもない。むしろ梨業者こそ"加島五千石"の恩恵に預かった身ではないのか。加島五千石のその"加島"に、誇りはないのか?と問いたい。




つまりこの加島村の一連の主張は、ひとえに「ネームバリューがあるから」というものであった。

そして加島村はまだ国より正式な決定が下されていないにも関わらず先走ってしまい、祝賀会の日程や記念碑建立の話まで進めていた。(富士市1982;p.609)には以下のようにある。


町制施行の祝賀会の日程を定め、また富士駅開発功労者の記念碑を立てること、および祝賀会当日招待する人員を、(中略)…の代表を招くということで、その人選まで完了していた。ところが、実際許可の方は町制施行の準備がすべて完了しても音さたなかった。ここに至って関係者はにわかにあわてだし、中でも村長松永正名は、東京麻布に住む政友会議士岩崎勲にあて、「廃願の上御願いしたい事があるので、在京の有無を御知らせ願い度い」としたためて面会を求めていた。(中略)実に7月6日のことであった。


なんだか寄合処の感覚で町制施行を進めているような感じであるが、ここでやっと異常事態に気がついたのである。おそらく村長と梨業者だけで殆ど話を進めていたのであろう。

村長は実際に面会が叶ったようで、14日には書状で執り成しを要請している。その答えも『富士市史』に記載されている。(富士市1982;p.610)より引用。


つまり村名を変更し、新町名が富士市(註:富士町の誤り)と議決町名変更を申請したけれども、あのままでは絶対に許可されないとの様であるから、書類は一応返すので受取って欲しいという内々の連絡があった。


雲行きがだいぶ怪しいことに気づいたわけである。その詳細な理由は、富士郡役所から加島村長宛の文書より明らかとなる。(富士市1982;p.610)より引用する。

議第一一三号

大正十年八月五日 加島村長殿

村ヲ町トシ其名称変更ノ件照会

標記ノ件ニ付 曩ニ稟請書御差出ノ処 改称セントスル町名ハ 隣郡富士川町ト類似シ 其ノ結果種々不都合ヲ来スノ處有之候様被認候ニ付(以下略)


つまり富士川町が隣接しており、紛らわしいという内容である。従って、詮議の対象にすらならないという回答であった。つまり国より拒否されたわけである。

それを見て加島村は再度国に町制施行を申請し、今度は「加島村ヲ富士町ト改称ノ理由書」を申請書に添付した。(富士市1982;p.611-612)より引用する。


この理由書には、明治41年鉄道停車場が富士駅という名称であり、これは富士山に因ったものである。そうした事実に加えて、加島村で生産の盛んである梨果は富士梨と唱えて全国に移出されていて、富士の名称は全国に知られ、すでに富士駅の名称は手紙の裏側にもかかれて、実際につかわれていること。しかもこの地に所在する会社、工場はいずれも富士の名称をつかっていることから、富士町と改称するのが最適であるとして、再考どころかいよいよその確信を深めながら申請を提出していた。


それをいうのなら、加島停車場は実際に使われていた名称であったが変更したものなのである。それはいいとして、これらは殆ど近代以降のものであるから、弱い。これは大宮町の例と比べると如何にも弱い。近代以降ということは、当時からすれば最近といえば最近なのだから。ただもう、引けに引けなくなってしまったのであろう。

そして大正13年8月のこと、国から伝達が届いた。つまり「加島村ヲ富士町ト改称ノ理由書」を含む申請書に対する正式な見解が判明したのである。その結末について(富士市1982;p.612)より引用する。


結果は大正10年のそれと同様、富士川町と富士町では紛らわしいので再考してほしいという事であった。


つまり、再度拒否されたのである。しかし加島村はまだ折れなかった。"加島という名を捨てる努力を惜しまなかった"という言い方は少々辛辣かもしれないが、なんだかサバサバしている印象は拭えない。次の一手として、加島村は静岡県知事に働きかけるという手段を取った。(富士市1982;p.612-613)より引用する。


昭和4年7月9日、富士郡加島村々長時田弘太郎は、庶甲第668号をもって、静岡県知事白根竹介にあて、次のような申請書を提出した。すなわち

村ヲ町トナシ併セ改称ノ義許可願

一、村ヲ町トナシ併セテ富士町ト改称。

本村ヲ町トナシ併セテ前記ノ通リ改称ノ義 別紙理由ニ依リ 村民一般ノ熱望ニ付キ御許可相所度 村会議決書謄本及参考書相添ヘ此段申請候也

昭和4年7月9日                   富士郡加島村長 時田弘太郎 印

  静岡県知事

    白根竹介殿

というものである。


時代の移り変わりによって、町制施行関連の認可は大臣処理事項ではなくなり、知事に移管されていたようである。(富士市1982;p.613-614)より引用する。


松永、吉沢両村長時代と、時田村長の時と異なる点は、前者においては内務大臣に対してであり、時田の場合は知事に対してということである。つまり昭和になると間もなく、こうした案件の処理は大臣処理事項から、知事の処理事項に移管された機をみて以上の申請が提出されたものである。


村長は上の申請書を提出する前に「加島村々会」を招集し、意見の一致を確認するなどしている。そしてそれを基に「議決謄本」を作成、これに議事録、理由書、参考資料を附したものを県知事に提出した。

その理由書には「駅名ニ倣ヒ富士町ト改称スルヲ適当ナリト思考ス」とある。(富士市1982;p.615)より引用する。


まず「村ヲ町トナス」の理由書によると、(中略)つまり加島村の実態からして、どの角度から検討しても町としての資格を十分備えているから、町制を布きこれによって一般生産物の増加と、商工業者の取引上の有利性を確立したいとしていた。また町名の変更については、富士山麓の門戸であることから、これによって富士と駅名が付せられると、以来ここに建設される会社、工場の名称はすべて富士の名を用い、またこの村の生産者たる梨も富士梨として全国に知られている。


つまり「富士駅」「富士製紙(といった工場名)」「富士梨」の三点セットである。富士駅を富士山麓の門戸としているが、これは「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」で記したように交通結節点であることを誇示したものであろう。つまり往古(以下の「宿」とは「吉原宿」)は


  • 「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」宝暦2年(1752)『東海道五十三次図』
  • 「宿の内右に富士参詣大宮口への道有」明和2年(1765)『東海木曽両道中懐宝図鑑』
  • 「此宿に富士参詣大宮へ道あり」寛政7年(1795)高力猿猴庵『東街便覧図略』


とあるそれらが吉原町→大宮町と引き継がれていったものが、加島村→大宮町へと変移したことを示すものと思われる。これは大宮町側から見てもそのような認識になっていたことだろう。また以下のように続く(富士市1982;p.616)。


このような事実もあって(中略)富士町はも早大方の常識であって、改称しないにもかかわらず、あらゆる分野で公的にも私的にも通用していることを指摘し、加島村の名称についても触れ、「由来本村ノ名称ハ 昔富士川ノ東岸ニハ完全ナル防備ナク増水ノ場合河身縦横ニ変転シ 各所ニ瀬ヲ築キ 島ヲナシタルガ故ニ 加島ト称セシが如くニシテ特ニ深遠ナル謂アルニアラズ」と加島の名称にこだわる気持ちの毛頭ないことを述べ、ひたすらに富士町への変更を希望していた。


このようにあるが、これは全部デタラメである。加島という名は『吾妻鏡』にも登場する、古くから継承された地名である。であるからむしろ"深遠なる謂れあり"なのだ。こんなことを地域の人間が言うとは、なんとも情けない。"空前の繁栄"の中でも、文化性は置いてけぼりだったのである。


「武衛令到駿河国賀嶋給」(『吾妻鏡』治承4年(1180)10月20日条)


武衛は「源頼朝」のことである。また『家忠日記』などにも登場するから、旧富士市域を代表する地名と言える。


これが何と書いてあるかおわかりであろうか?「かしまの舟て」である。つまり「加島の舟手」で、松平家忠一行の渡しを手伝ったわけである。本当に永い間、用いられてきた地名なのだろう。

教養が無いといったようなことは言いたくはない。しかしこの時代から既に、この地は地名を大切にしないのだな…と思わされるエピソードである。むしろ『吾妻鏡』の記録を誇って欲しいくらいのものである。

そして事態は大きく変化する。ついに富士町への改称が許可されたのだ。(富士市1982;p.617)より引用。


以上のような加島村長の申請をうけた静岡県知事、白根竹介は慎重に検討した結果、昭和4年7月30日静岡県指令地第2258号をもって、富士郡加島村に対して加島村を富士町と改称することを許可する旨の指令を送ってきた。


つまり大臣処理事項の時代に富士町の路線を諦め町制施行していたら、富士町は存在していなかったということになる。加島町となっていたのだ。加島村の粘り勝ちと言ったところであろうか。元々富士郡役所に資料を提出したのが大正10年(1921)3月のこと、そこから昭和4年(1929)7月であるから8年以上経過してのことであった。

つまり"本当は存在していなかったはずの富士町"なのであって、転じて"本当は存在していなかったはずの富士市"と言えるわけである。これらの動向は、以下のようにまとめることができる。


主に「富士梨」を旗印とし、「富士町」を擁する

↓

国より拒否される

↓

再度願い出る

↓

却下される

↓

時代の変移で町制施行案件が県知事に移管されたため、静岡県知事に請願

↓

許可される


そして最終的に「富士市」「吉原市」「鷹岡町」とで新市の名称が検討され「富士市」で決したというわけである。つまり以下のように言うことも出来る。


富士町と改称されていなかったら、今現在「吉原市」は健在であった可能性は高い


そして富士宮市との関係でいえば以下のように推測できる。


現在の富士宮市が「富士市」であった可能性もそれなりにある


この「富士町誕生」はかなりの影響を与えた動向であったと言えるわけである。


  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

25:「本当は存在していなかったはずの富士市、国から複数回拒否された「富士町」案」

  • 参考文献
  1. 富士市史編纂委員会編『富士市史 下巻』、1982

2026年10月2日金曜日

東京近郊で富士市・富士宮市の歴史を体感できるスポット

今回は東京近郊で富士市・富士宮市の歴史を感じることが出来るスポットをご紹介したい。富士市や富士宮市の方が東京近郊へ遊びに行った際、是非訪れて頂きたいと考える。



【富士市】

①根津美術館蔵『曽我物語図屏風』

富士市の歴史を俯瞰して見た時、キーワードとしては勿論「生贄」等が出てくるわけであるが、もう少しピンポイントで且つ重要であると思える事柄として、曽我関連で確認される「鷹が岡」を挙げることができる。

曽我兄弟の物語は、概観としては以下のような流れを得ている。


曽我兄弟仇討ちが発生

↓

(この間流布され、一部を『吾妻鏡』が取材)

↓

真名本『曽我物語』の成立

↓

仮名本『曽我物語』の成立

↓

能の曽我物の成立(※「能」については仮名本の成立より先行するという指摘も)

↓

幸若舞曲の曽我物の成立(A)

↓

絵入本『曽我物語』等が成立

↓

歌舞伎の曽我物の成立


(A)以降に成立した、つまり創作性がふんだんに認められるストーリーとして、曽我時致が鷹が岡で処刑される筋書きを有するもの(舞の本)がある。例えば毛利家本には「鷹が岡にも付しかば、九品の松の下に敷革しかせ、(中略)…と申こふてぞきられける」とある。

この九品の松が位置する「鷹が岡」は、現在の富士市鷹岡に比定されている。私もその説を採っているのであるが、その絵画化例を認めることができる。また『曽我物語図屏風』だけでなく、(大月2009;p.44-45)にあるように絵巻の例もある。

東京近郊で観れるものとなると、根津美術館蔵『曽我物語図屏風』であろう。ただこれが常設展のものであるのかは不明。

同場面を含める『曽我物語図屏風』の代表としては、やはり渡辺美術館(鳥取)のものが有名である。(井戸2015;p.84)の図7および(三戸2020;p.34)のVが該当する。この辺りは(泉2006;p.5)も詳しい。

ちなみに「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」で指摘しているのは、本来上でいう「真名本『曽我物語』の成立」だけで説明できるところを、(富士市2017;p.3)は時代が大きく下る(A)以降を無理くりに混ぜているので、学術的態度としてはよろしく無いという内容である。こういうことをやり始めると何でもありになってしまうし、信用も失うだろう。



【富士宮市】

富士宮市の場合、当地の歴史を題材としたものがあらゆる表現に組み込まれたため、枚挙に暇がない。特に絵画化例に恵まれており、東京でも多く確認できる。その一方で、研究は全く進んでいない。静岡県富士山世界遺産センターは、美術史のポストが設けられていたはずなのだが…。美術史ではなくて歴史学だ、ということなのだろうか?

山梨県立博物館が2022年にシンボル展「曽我物語図屏風」を開催した。本来なら「曽我兄弟の仇討ち」の舞台の地である静岡県側が先んじて行なうべきものであるのだが、何とも情けない。富士山世界遺産センターが開館してからこの種のものを待ち続けているのであるが、一向に開催されないのも不思議である。いよいよ"不思議"という感覚から"疑義"に変化してきたところである。

今回は絵図類以外から厳選して紹介してみたい。


①柴又帝釈天(題経寺)の仏像

富士山下山仏が安置されている。(富士山世界遺産センター2021;p.275-276)にあるように、富士氏の「富士親時」が造立に関与した。背面の銘文に「□大宮司親時」とある。

これは実際に眼の前で確認できるものであるため、是非その銘を目に焼きつけて頂きたいと思う。東京で最もおすすめしたい場所である。


②富士家記念碑(東京都新宿区住吉町の安養寺)

『寛政重修諸家譜』の「富士信重」の項に「市谷の安養寺に葬る。のち代々葬地とす。」とある。この安養寺は後に現在地へ移転されたのであるが、境内に「富士家先祖代々之墓」の銘を持つ記念碑がある。

ちなみに長谷寺(横浜市栄区長尾台町)には「富士信成」の墓碑があるが、この寺は無住持になってから久しいと見え、荒れ果てている。墓碑は最奥部に所在する。長尾台は富士氏代々の知行地であった。この信成は信重の子であり、『寛政重修諸家譜』には「采地鎌倉郡長尾台村の長谷寺に葬る」とある。


③次大夫堀公園(東京都世田谷区喜多見)

駿河国富士郡小泉郷(現在の富士宮市小泉)の出身とされる歴史的人物に「小泉次大夫」が居る。関東では治水代官の歴史的人物として著名で、公園の名はその業績の1つである「次大夫堀」から採ったものである。治大夫橋(世田谷区瀬田4丁目)も同じ理由だろう。

次太夫の業績を顕したものは関東で多く確認される。妙遠寺(川崎市川崎区宮前町)には像が安置されているし、台和橋(川崎市多摩区生田)には次大夫のレリーフが複数埋め込まれている。当地ではかなり敬われている人物である。

富士宮市の歴史とは言えないわけであるが、「小泉橋」(多摩区登戸1968番地先)はやはり小泉姓(小泉利左衛門が普請したという)から由来するだろうから、ここに含めた(※同族であるか要確認)。「小泉郷→小泉氏→小泉次大夫→小泉利左衛門→小泉橋」という流れが想定される。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

24:「東京近郊で富士市・富士宮市の歴史を体感できるスポット」

  • 参考文献
  1. 泉万里(2006)「曽我物語、源平合戦屏風絵等について」、『渡辺美術館所蔵品調査報告書』
  2. 大月千冬(2009)「明星大学所蔵『十番切』絵巻の図様について」『物語絵画における武士』
  3. 井戸美里(2015)「幸若舞曲の絵画化と受容空間に関する一考察 : 「曽我物語図屏風」を例として」,『美学』66号
  4. 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』
  5. 三戸信惠(2020)「曾我物語図屛風に関する一考察―新出本と渡辺美術館本を中心に―」、『國華 第1496号 第125編 第11冊』
  6. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2026年9月14日月曜日

須藤秀忠富士宮市長と富士市、富士登山規制とメガソーラーと博物館

今回は番外編として、今期での引退を表明した須藤秀忠富士宮市長のこれまでの取り組み及び富士市との関係について考えていきたい。本稿では主に就任から2期目までを取り上げていきたい。


  • 富士市との合併拒否

まず富士市との関係についてであるが、これはやはり以下の事柄が象徴的であろう。


富士市と富士宮市の合併を拒否したこと


「富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る」にあるように、当時の富士市は富士宮市との合併を強く推進していた。須藤市長は就任して直ぐ、これを退けた形である。須藤市長と富士市との関係という意味では、他にそれほどトピックは無いように思われる。


  • メガソーラー規制

以下では富士宮市長の事跡について見てみよう。須藤市長独自の取り組みとしては、以下の事柄が象徴的であろう。


メガソーラー規制を全国の自治体に先駆けて訴えたこと


私の中では"須藤市長=メガソーラー規制の人"というイメージすらある。ではそれらを見ていこう。


富士山、景観優先です 大規模発電自粛要請へ(2012/08/30 共同通信)
メガソーラーより富士山の景観が優先です―。世界文化遺産登録を目指す富士山の景観を守るため、静岡県富士宮市は30日、太陽光や風力発電の大規模設備の新設を自粛するよう、9月1日から事業者に要請していくことを明らかにした。富士山の登録をめぐっては、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関による調査が始まったばかり。須藤秀忠市長は「世界文化遺産としてふさわしい富士山の景観を後世に伝えていく責務がある」としている。

この時代、メガソーラー規制を訴える自治体は比較的珍しく、かなり先駆的な取り組みであったと言えるだろう。

メガソーラーの自粛要請=世界遺産で富士山景観保護-静岡・富士宮市(2012/08/30 時事通信)
静岡県富士宮市は30日、世界文化遺産登録を目指している富士山周辺の景観を守るため、大規模太陽光発電所(メガソーラー)や風力発電設備の新設を自粛するよう事業者らに要請すると発表した。9月1日から市域の約75%を「抑止地域」と定め、協力を求める。同市によると、既にメガソーラー新設の問い合わせが20件近くあるという。太陽光発電設備は法律上建築物と見なされず設置が容易なため、市は「このまま手をこまねいていれば富士山の眺望が阻害される」(須藤秀忠市長)と懸念。ただし、条例による規制は検討していない。(抜粋)

明確に、須藤市長は"メガソーラー規制の人"なんですよね。

メガソーラー施設:規制対策、国に要請へ 富士宮市、富士山の景観保全で /静岡(毎日新聞WEB版 2013年05月23日 地方版)
富士山の世界文化遺産の登録を控え、山麓(さんろく)の景観を保護するため、富士宮市は22日、設置要望が相次ぐ大規模太陽光発電(メガソーラー)などを規制する対策を国に求めることを明らかにした。須藤秀忠市長が23日、経済産業省などを訪れて陳情する。市内には朝霧高原など広大な草原が広がり、日照時間も長いためメガソーラー設置の適地とされていた。しかし、発電施設が増えると世界遺産にふさわしい景観や眺望が阻害されるとして、同市は昨年9月、市域の75%に当たる計約290平方キロを「抑止地域」に定めた。太陽光パネルが1000平方メートルを超える発電施設と、高さ10メートルを超える風力発電施設を設置しないよう求めている。現在、市内に大規模な発電施設は建設されていないが、この1年間、市に寄せられた設置の問い合わせは135件に上った。(抜粋)

また須藤市長は経済産業省を訪問し、要望書を提出するなどしている。

「大規模発電」新設抑制 富士宮市が国に要望(中日新聞WEB版 2013年5月24日)
富士山の世界文化遺産登録に向けて、富士宮市は二十三日、太陽光や風力などの大規模発電施設の増加は山麓の景観を悪化させるとして、新設を抑制する対策を国に求めた。今後乱立する可能性があり、より踏み込んだ対策を訴えた。須藤秀忠市長が、経済産業省や環境省を訪問し、要望書を提出。再生可能エネルギーの必要性は認めつつ、太陽光パネルや風車の無秩序な設置を防ぐため、事業者に対して、地元自治体からの同意を義務づける制度の構築などを要望した。大規模発電施設の新設をめぐり、市は昨年九月、富士山の構成資産周辺や牧草地が広がる朝霧高原を含め市域の75%に当たる二百九十平方キロメートルを対象として、新設の自粛を呼び掛け始めた。再生可能エネルギーの創出以上に、一帯の景観や自然を守る姿勢を鮮明にする狙いだった。現状では太陽光パネルや風車の設置を制限する法律の規定はないといい、今回の要望が実現すれば、実質的に市が新設の“拒否権”を持つことになる。(抜粋) 

経済産業省や環境省を訪問しているということですから、相当の熱意が伺われる。

メガソーラー暗雲 売電申請の7割、門前払いも(MSN産経ニュース 2013.5.26)
買い取り制度が始まったのは昨年7月。再生エネの普及に向けて大型投資を呼び込もうと、事業者がもうかる仕組みにした。中でも割高の価格設定となった太陽光では、用地が確保できれば、建設期間が比較的短くて済むため、メガソーラーへの参入が急増した。エネルギー政策に詳しい21世紀政策研究所の沢昭裕研究主幹は「北海道の問題は買い取り価格を決めて、量をコントロールしない制度の限界を露呈した。まずは各地域で必要な量を決めて、安く発電する事業者から電力を買う仕組みに見直すべきだ」と指摘している。太陽光発電は天候次第で出力が変わる。電力の需要と供給の均衡が崩れると停電が発生する恐れもあるため、電力会社は火力発電の出力を増減させて需給バランスをとっている。資源エネルギー庁によると、昨年12月末現在のメガソーラーの認定状況を都道府県別でみると北海道がトップで、全体の25.9%を占める。広い土地が安く手に入りやすいためだ。(抜粋)

"「大規模発電」新設抑制 富士宮市が国に要望(中日新聞 2013年5月24日)"の記事にあるように、市が完全な拒否権を発動するのは当時の法的環境では難しい。須藤市長は法的根拠を獲得したかったのであろう。

富士山閉山期の規制を提唱しただけでも一般(実際は一部登山愛好家)における拒否反応が強いことからも分かるように、自治体が何らかの規制をしようとすると対抗勢力は必ず出てくる。勿論、メガソーラー賛成という人の声も聞く必要性はあるが、個人的には規制には反対しない。

富士登山規制関連で言えば「法的根拠が無い」という批判はあまり意味がない。これは「〇〇についての定義が無いので〇〇といったような形の定義を作ろう」と言っている人に「定義がない」と批判しているのと同じであるからだ。本質的に重要なのは、冬期登山で発生する課題との折り合いをどうつけるのかという点にある。

つまり課題がそこにあるのだから、表立って批判する場合「代替案」くらいは提示すべきなのだ。それが無いのなら、無関心である方がよっぽど良い。無ければそこに来るべき人ではないのだ。少なくとも話し合う相手としての優先順位は相当低くなるだろう。

ちなみに私は、冬期に富士登山したい派である。ただ詳細な代替案を持ち合わせているわけでもないから、批判はしない。代替案を持ち合わせていないのに批判する人に対しての批判は、やぶさかではない。


  • 博物館構想

次に取り上げたいのは「博物館構想」である。須藤市長は2015年の時点で既に「歴史館」の建設を模索していた。しかしそれは任期中に成就していない。

博物館構想の障壁となったのは①市民性の問題(ここに市議会議員も含まれる)②従来の文化課の問題の大きく2つが関係すると考えられる。③として「巷の意見」も挙げておこうと思う。それらは既存の記事において詳細に記しているので、御参照頂きたく思う。

私はYouTubeが好きで様々な動画を観ているのであるが、この数日の間で衝撃的な動画に出くわした。それが以下の動画である(2026/09/02公開)。



内容は聞くに耐えないものとなっているのであるが、それは良いとして、動画内の男女のうち男性の方は富士宮市出身であるという。そして実際に動画を視聴したところ、衝撃的な事実が判明した。


富士宮市出身で且つ歴史好きであるのに、「富士氏」を知らないらしい


そんなことが有り得るのだろうか…とも思ってしまうのであるが、事実なのだ。富士宮市の歴史の1丁目1番地が富士氏であろうから、なかなか衝撃的である。どうやら男性が富士宮市出身であることを知り得ていた女性側が、気を利かせて富士氏をテーマに選んだという経緯のようだ。

動画の流れをみるに女性側は、男性側が当然富士氏を知っているものだと考えていたように見受けられる。私は富士宮市出身で富士氏を知らない人はモグリだと思っているのであるが、むしろそちらの方が大多数という実情は富士宮市の悲劇と言える。それを許した、またはその状況を形成したのは何処の誰だろうか。

ちなみにこれまた最近の別動画で、富士氏が取り上げられていた(2026/09/04公開)。作成者に富士氏が認知されたプロセスは、ネットそのものにあると思う。そしてそこに行政・自治体の媒体は関与していない可能性が高い。

しかし新『市史』の刊行および公開はこの状況を変えていく可能性がある。公開したことにより、AIに拾われていく可能性も高い。これまではネット展開がほぼ皆無であったから、大きく進展したと言える。AIはPDFの情報等も食べているように見受けられる。

ちなみに③「巷の意見」であるが、当ブログの10の博物館構想関連記事の総アクセス数は「6158アクセス」(9月14日現在)となっている。これ程の特定の内容の記事となると、最初から博物館構想に関心があって辿り着いた形だろう。

6158アクセス=6158人が訪問とはならないが、それでもかなりの人数が目を通したことは間違いない。うち意見確立に影響を与えた数も相当数だろう。それらが「賛成」「反対」どちらの帰結となったのかは分からない。

相当厳しく見積もって総アクセス数のうち10%としても600人以上に上るから、それなりの影響を与えられたものであると考えている。


  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

23:「須藤秀忠富士宮市長と富士市、富士登山規制とメガソーラーと博物館」

2026年9月8日火曜日

身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆

今年は吉原市・旧富士市・鷹岡町の合併から60周年にあたる。うち旧富士市および鷹岡町を運行エリアとする鉄道に「身延線」がある。富士地区において身延線は、学生御用達の鉄道線というイメージが強いだろう。

  • 富士駅の最寄り学校:私立富士見高校
  • 竪堀駅の最寄り学校:県立富士高等学校
  • 源道寺駅の最寄り学校:県立富岳館高校、県立富士宮東高等学校

本稿ではこの身延線について考えていきたい。時を遡ること1960年代後半の富士市。この時代、富士市の公共交通機関に極めて大きな変化が生じたことを御存知だろうか?

それは"身延線の西回り化"である。

『広報ふじ』平成28年9月20日 1132号より

以下では、その西回り化事業とその後の身延線が辿った運命を取り上げていきたい。

  • 西回り化

元々身延線の富士市区間(現在の富士市域に該当する駅)は、以下の駅を有していた。

富士駅 本市場駅 竪堀 入山瀬 富士根 

この状況を変えたのが、西回り化である。この不可解な西回り化については、『富士市二十年史』に詳しい。(富士市1986;p.258)より引用する。


この身延線は一日の運転本数も多く、国道1号線と本市場で平面交差をしていたから、国道の交通量増加とともに、身延線の遮断器は交通渋滞の原因となった。また、単線運転であったから、通勤・通学の身延線利用や、加えて創価学会員の上野大石寺登山者の激増など、身延線の改良はこの地区住民の切望するところであった。


計画は以下のようなものであった。

  1. 本市場駅の廃止
  2. 柚木駅新設
  3. 竪堀駅を移転新設(旧竪堀駅は現在の「緑道公園」辺り)
  4. 富士駅を出て西へ向かい橋下で北にカーブ、松本地先で旧線と結ばれる
  5. 工事区間はほぼ全区間を高架化

つまり西回り化事業により、富士市区間は以下のようになった。


富士駅 柚木駅(新設) 竪堀(移転) 入山瀬 富士根


松本地先は竪堀駅の少し先に位置する。西回り化自体は昭和44年(1969)に完了した。その後昭和46年(1671)に富士宮駅-富士根駅間が複線化され、翌47年(1972)に入山瀬駅-富士根駅間も複線化された。


  • 公共交通機関の地位低下

上の計画を読むと分かるように、西回り化以降、明らかに人口が少ない地域を鉄道が走行する形となってしまっている。つまり駅の所在地も、人口が少ないエリアへと変更されたことになる。特に、本市場駅の廃止は悪手としか言いようがない。であるから、不可解な計画と言わざるを得ない。(富士市1986;p.260-261)には以下のようにある。


こうして待望の複線化、西廻りによる合理化は完成したのであったが、前にも触れたように鉄道の交通にしめる地位は、他の公共交通機関に比して相対的に揺ぎ始めるのであった。その一例として、身延線各駅の乗車人員の推移を、次の表によってみよう。

各年次とも1月から12月までの人数である。柚木駅では1日平均約304人から204人へ、竪堀駅は,887人から826人に、入山瀬駅は2,339人から1,190人へ、また富士根駅では、1,425人が722にというように減少しているのである。


つまり身延線の利用者が減少し始めているのである。以降、その流れに歯止めがかからなかったことは言わずもがなである。

勿論この現象がすべて西回り化に由来するとは言わない。(富士市1986;p.261-262)ではこの原因をモータリゼーションのみで説明しようとしている。しかしその説明に説得力は感じられない。その内容の一部を見てみよう。


なぜこのような鉄道ネットワークの敗北現象が現れたのか。それは自動車交通のもつ最大のメリットとして、出発地の戸口から目的地の戸口までを直結することが比較的容易であるのに対して、鉄道交通は駅というターミナルの存在が、移動(旅行者)の連続性の障害となり、移動の連続性を保証しなかった付け、あるいはそれについての努力を欠いた決算書として、利用者の徹底的減少ということにつながったと思われるのである。


何度読んでも意味がよく分からないのであるが、理由は本来以下のようなものが挙げられるべきであろう。


  1. 集積地に所在した駅を移転したこと
  2. 歴史的にみても、鉄道路線と鉄道路線の接続を成してこなかった

この2つがあまりにも大きすぎる。つまり上述したように、普通であれば集積地に所在する駅を移転する事自体が論外であるのに、それをしてしまったこと。また「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」にあるように、岳南鉄道が富士地区間の周遊を念頭に置いて鉄道路線を敷かなかったことが大きな理由であろう。

つまり岳南鉄道が身延線と接続ないし近接していれば、もっと鉄道を介した移動が根付いていたわけである。公共交通機関は「駅 to 駅」が原則なのである。東海道本線の駅というのは沿岸部に所在するから、そこから南に人口密集地は成立しにくい。現在の様相がその証左と言えるのであるが、つまり下の□のエリアの周遊を生むことが肝要なのだ。それが全く出来ていない。


例えば岳南鉄道が吉原本町駅から青葉通りを横断して竪堀駅(旧線、現在の緑道公園辺り)に接続されていたとする(普通はこのようなルートを選択する)。その間に1駅は設けられるだろう。

そういう場合、青葉通り一帯の人々は吉原などに電車で買い物に行くことが容易になったであろうし、富士宮市の人々も富士宮→竪堀→吉原というアクセスが可能となるから心理的にも近くなっていたことだろう。集積地に向かって、ないし集積地より鉄道だけで様々な場所に移動できないから、鉄道が利用されないのである。なぜそれに気が付けないのか。

このような歴史からも分かるように、富士市の鉄道軽視傾向が感じられ、そのような風土が後の新富士駅と富士駅未接続という状況を生んだのではないだろうか。また公共交通分担率の低下を招いたと言うことも出来る。

結局公共交通機関の問題を直視してこなかった地域は、新幹線を誘致できたとしても、その先の未来は描けないのである。これは富士宮市の問題でもある。なぜ富士宮市は叱咤しなかったのか。自分たちの税収から約5億円も建設費を捻出しているというのに、危機感が足りないのである。しっかり尻を叩いてやる必要性があったのである。


  • これからの身延線

私はむしろこの10年くらいは、身延線を利用する機会が増えている。理由は、東京に行く際に在来線で三島駅まで行き、そこから新幹線に乗車しているからである。今は完全にその形態に移行している。

では平日のダイヤにて、新幹線三島駅乗車パターンを見てみよう。今回は富士市内の駅からより遠い富士宮駅を最寄り駅(スタート地点)に設定してみる。


富士宮駅発(9:02)
↓
三島駅着(9:49、680円)
↓
新幹線三島駅発、品川駅着(9:58発 10:35着、計4070円、ひかり乗車)


以下、同じく平日のダイヤで新幹線新富士駅乗車パターンを見てみよう。

車で新富士駅着
↓
新幹線新富士駅発、三島駅着(9:41発 9:49着、ひかり乗車)
↓
品川駅着(10:35着、計5170円)

新富士駅周辺は車が混雑するため、駐車場に停める時間も考慮すると30分前には出たい。場所にもよるが、富士市・富士宮市問わずそういう人も多いだろう。そうなると9:00過ぎには出ないといけない。つまり行きだけで考えれば在来線の例と大して変わらないのである。それでいて駐車料金(大体1,000円くらい)も不要であるから、あまり新富士駅に拘る必要性は無いのである。また急遽東京に残ることになった場合も、柔軟に対応できる。

将来的には、リニア山梨県駅を用いるパターンも想定される。リニア山梨県駅であるが、実は富士宮市からそこまで遠くはない。


富士宮市中心部からリニア山梨県駅まで約1時間。そこから大阪や東京に行くことも可能である。私は東京に行く場合は東海道新幹線、大阪に行く場合はリニア中央新幹線も選択肢に含めるという方向で考えている。

観光客の場合、リニア山梨県駅で降り、レンタカー等で富士五湖や朝霧高原を観光するといった遊び方がまず想定されるであろう。近年の猛暑化を考えても、益々北部は重要となっていくことだろう。

しかし身延線の利用者は減少の一途を辿っている。身延線は、このままでは将来的な廃線もやむ無しとすら思える。JR東海は、頑張って維持してくれているのである。岳南鉄道が廃線となったその時は、いよいよ将来的にあり得ると考えたほうが良い。こうなったのは、ひとえに選択の誤りによる。潜在的に有りえなかった需要を求めているのではない。その時その時に実際にあったその選択を尽く間違えた、ということなのである。

ちなみに『富士市二十年史』刊行の2年後に開業したのが、新富士駅である。市全体で20年を振り返る中で、将来への教訓は活かされなかった。いや、"同じ様な轍を踏まない"という空気自体が全く醸成されていなかったと言ったほうが良いだろうか。この警告は、リニア山梨県駅にもそのまま当てはまるわけであるが…。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

22:「身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆」

  • 参考文献

  1. 富士市(1986)『富士市二十年史』

2026年8月24日月曜日

吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子

まず、新富士市の市庁舎の位置選定の経緯は(富士市1967;52)に記されており、以下のようにある。


新市の事務所の位置
 新市の事務所の位置については総務委員会において審議することとなっており、委員会としては選定資料として航空写真をとることとなった。その後委員会、協議会において慎重審議がなされたが、ただ意見交換のみに終止した。委員会としては各市町毎に希望する候補地及び選定の理由を持ち寄って検討し、又、或る程度煮詰めた上で現地踏査等も行なうことに決定され、各市町において独自に選定した候補地の提示が図面によりなされ、選定理由の説明がなされた。各市町の提示した候補地は

吉原市 吉原市津田地先国道1号線沿、現吉原市営球場敷地
富士市 吉原市永田県道御殿場-富士線沿、潤井川左岸、岳南総合運動場計画予定地附近
鷹岡町 吉原市片宿、鷹岡町との境界2級国道139号線(大月-吉原線)沿、東名高速道路北側

であるが、この提案理由の説明に対する質疑があり、引き続き審議に入ったが結論は出ず、再び各市町において各々提示した候補地に対して更に十分なる検討を加えることとなった。

ここで注目されるのは、三自治体すべてが吉原市域を選定していることである。やはり町の中心は吉原市であるという共通認識があったらではないだろうか。「旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果」にもあるように、吉原市の方が人口は多かった。

 その後開かれた委員会においても具体的な歩みよりが見られず、最終的には各市町の首長及び副議長等の首脳会議により検討することとされた。この首脳会議において事務所の位置は吉原市伝法地内約40万坪の円内に求めることに意見の一致をみた。更にこの40万坪をいかにして集約を計るかについて討議されたが、その結果約20万坪に集約すべきだとの極めて積極的な意見の一致をみるとともに尚慎重審議を要するとして継続審議に付されることとなった。更にこの20万坪をいかにして選定するかについては円内の弥生線以南においてなるべく地価の安いところを出来るだけ広く求められるよ様な場所ということに決定された。尚この20万坪の圧縮、用地取得の方法として庁舎用特別委員会の設置についての意見の一致をみ、41年7月17日開催された第13回促進協議会において正式に承認され、具体的審議に入ることになった。

この種の話でいつも思うのであるが、正直、都市開発の知見の無いおじさん達で選定するというリスク自体は当事者たちは感じないのだろうか。

デベロッパーであれば、開発失敗で場合生じた不利益はそのまま自分たちに降りかかる。こういう緊張感が全く発生し得ない状態で選定すること自体がリクスと思うのであるが、如何であろうか。また以下のように続く。

 この特別委員会において集約の方法として各市町で適当と考えられる地点を2案ずつ提出し、その第1案を中心に市名の問題も含めて協議することとなったが、協議の過程において吉原市、富士市の意見の一致が見られない為鷹岡町が調停役になり、調整が図られたが結論が得られず結局しばらく冷却期間をおくこととなった。その後鷹岡町より

①庁舎の位置については図面に示す範囲において吉原市と鷹岡町が意見の一致する位置を尊重する。
②名称については富士市と鷹岡町の意見の一致する名称を尊重する。

という超提案が出されたが調整が得られず、結局各市町とも同一歩調で全員協議会に諮ったうえ、継続審議に付すこととなった。その結果、新市の事務所の位置は吉原市側と話し合い、意見の一致をみた吉原市提案の第1案即ち吉原市大字永田地先と決定されるとともに総務委員会に諮り、更に41年9月8日開催された第14回促進協議会において正式に承認され決定された。

この文献における文章は時系列等が示されず分かりづらいのであるが、つまり吉原市と鷹岡町とで市庁舎の位置が検討され、新市名の決定と同時に正式決定に至ったということであろう。

そして建設中および完成当時の市庁舎の写真が残っているので掲載する。




このように緑地がふんだんに残る地に市庁舎は建てられた。写真の左手下に現在の青葉通りがみえる。実は青葉通り一帯は、富士市の中でも田舎の場所で、建物1つないような場所だったのである。とはいっても、当時の富士市はかなりの面積が緑地であったわけであるが。

この青葉通り沿いの「青葉町」が、現在富士市において地価最高点となっている。この事実そのものが大問題で、富士市の問題点を如実に表すものとなっているわけであるが、この部分については余裕があれば記事化したく思う。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

21:「吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』

2026年8月21日金曜日

吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス

「『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」にて吉原衰退の要因を以下のように表現した。


吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。


本稿ではこの部分を深堀りしていきたい。まずは吉原の核とも言える「吉原宿」から考えてみよう。吉原宿の歴史は、"大宮方面に近づいていった歴史"とも言える。


「冨士三十六景 廿五 東海堂左り不二」(歌川広重)

享保6年(1721)の『吾嬬路記』には以下のようにある。


吉原の町、延宝八年八月六日、海水あふれ、民屋ことごとく崩る。是世俗に津波といふ也。町の人は、富士のすそ野のかたへにげて、命をのがれぬ。其後天和二年もとの町ありし所地ひきくして、かさねて水災あらん事を恐て、十町斗北へよりて、今の町を立てしなり。其ゆへに、原の方へは十町斗遠くなり、神原へは十町斗ちかくなるといふ。

十町斗北に移り、神原(蒲原、吉原から見て西方面)に十町斗近くなったとあるように、つまりは北西の大宮(富士宮市)に大きく近づいたわけである。しかしこれは新吉原宿のみの話であり、吉原宿は過去に移転歴がある(吉原宿の前身を含めればもっと多いとも言えるが)。それを含めると、以下のようになる。

  1. 寛永16年(1639年)の高潮で移転→中吉原宿の誕生で、大宮に近づく
  2. 延宝8年(1680年)閏8月6日の高潮で移転→新吉原宿の誕生で、更に大宮に近づく

つまり、どんどん大宮に近づいているわけである。元々中道往還の間柄、関係が深かったことは言うまでもないが、更に強固となったのは間違いないだろう。実際吉原宿は大宮との関係性の上で語られることが多かった。

「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」宝暦2年(1752)『東海道五十三次図』
「宿の内右に富士参詣大宮口への道有」明和2年(1765)『東海木曽両道中懐宝図鑑』
「此宿に富士参詣大宮へ道あり」寛政7年(1795)高力猿猴庵『東街便覧図略』


ここで言う「宿」とは吉原宿のことであるから、吉原宿は富士参詣における経由地として認識されていたわけである。

東海道五拾三次之内 吉原 左富士(歌川広重)

これは、以下のようにも言い表せることができる。


吉原は単なる東海道の通過地点としてではなく、脇往還の起点であり、むしろそちらの方面で重要な意味を持った宿であった。

吉原宿の素晴らしさは、街道の起点であったことにあると言える。そしてこの関係が明治-大正と継続されていく中で、吉原に異変が起こった。


  • 吉原の玄関口および交通結節点の地位消失

(青木2010;p.117)には以下のようにある。

さらに、特筆されるのは、富士駅の開業及び富士製紙第八工場の操業にともない、明治42年10月に富士駅から長沢(鷹岡町)への富士馬車鉄道の支線が敷設されたことである。この馬車鉄道に変わる蒸気鉄道としての富士身延鉄道(現JR身延線)が建設され、富士町と大宮町(現富士宮市)間が大正3年(1914年)に(註:同論稿で他箇所に大正2年とあり、そちらが正と思われる)、さらに甲府への延伸が昭和3年(1928年)に完成した。これにより、富士町は、甲州への玄関口として、交通の結節点という地位を獲得し、更なる発展の鍵を手に入れたことになる(A)。

富士町が先の時代を見据え動いていたその時、吉原はあまり動けていなかった。本来甲州への玄関口は、吉原であったのである。そして交通の結節点も、吉原であった。その地位は他の地に譲ることになったのである。

以下に、旧加島村が町制施行して「富士町」となった年である1929年に出版された日本地図を掲載する。

『新地図』日本之部、文学社、1929年

○で記される地が主要地であるが、吉原が交通結節点であったことは疑いようがない。そしてまだ「富士(加島)」は記されていない。しかしこの時、徐々に台頭してきていたのである。

以後吉原は交通結節点としての地位は諦め、異なる方面を模索したようである。しかしそれでも鉄道の必要性に駆られ、1949年(昭和24年)という遅きに岳南鉄道の鈴川駅 - 吉原本町駅間が開業した。

吉原に鉄道を敷設する場合、旧往還のルート再構築を目指すべきであることは言うまでもない。実際、身延線に接続することを模索したようであるが、資金難で頓挫したようである。

  • 吉原の精神的衰退

吉原の"精神的な衰退"の強力な要因の1つとして"港の命名における「吉原」除外"がある。昭和36年(1961)に開港した「田子の浦港」であるが、往古は「吉原湊」と呼称されていた港(湊)であった。ちなみに(青木2001;p.119)には山部赤人の歌が掲載されているが、誤っている上に、富士市は当歌の詠地ではないとされているので注意されたい。

歌川広重・歌川国貞「双筆五十三次 吉原 左り不二縄手」


つまり歴史的に言えば「吉原港」と命名されるのが筋なのである。しかし(旧)富士市民と吉原市はこれを採らなかった。(青木2001;p.118)には以下のようにある。

田子の浦港の区域が吉原市と旧富士市にまたがることもあり、鷹岡町を含む2市1町の広域都市計画を制定し、両市域にわたる122haを臨港区域に指定している(昭和34年)。

これは、「吉原」という名を消滅させていくという意味では十分であった。これが決定打となったと言っても良いだろう。

吉原という名のプレゼンスが大きく弱まっていく中で、1965年頃から市名論争が勃発した。そもそもこの合併は「吉原市・富士市・鷹岡町」による新設合併であるから、鷹岡町の立場についても言及しておこう。

  • 鷹岡町の立場

まず鷹岡町は、「富士」と「吉原」とで言えば、「富士」との関係の方が強い。明治23年(1890)に富士馬車鉄道鈴川-大宮間が営業を開始したが、これは「鈴川-吉原-伝法-入山瀬-大宮町」というルートであった(≒中道往還)。ここだけ見れば吉原と関係が深いと言えるだろう。

しかしその後、大正2年に富士身延鉄道の富士駅-大宮町駅間が操業開業し、馬車鉄道は廃止された。これにより完全に南北との関係性が強くなっていったのである。それ以降も、南北の道路が優先的に開発された。(青木2010;p.117)から引用する。

(Aに続いて)また、道路の整備も進み、東海道、鈴川蒲原往還、岩松鷹岡往還の道路網により、大正工業第二工場、富士繊維工業が誘致され、富士町、田子浦村、岩松村が一つの生活圏となる一因にもなったとされる。

このような歴史と、現在でいう「富鷹線」といった存在から、鷹岡は「富士」と生活圏を近くしていったという歴史がある。この先鞭となったのが、上でいう富士町の交通結節点という地位確立にあることは言うまでもない。

  • 市名論争

まず吉原市と(旧)富士市の経緯を以下にまとめる(主な合併のみ)。

「末広五十三次 吉原」(二代目広重)


【吉原市】
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行で吉原町誕生。
1942年(昭和17年)6月14日:吉原町と今泉村が合併。名称は吉原町。
1948年(昭和23年)4月1日:吉原町が市制施行し吉原市となる。

【富士市】
1929年(昭和4年)8月1日:加島村の町制施行で富士町となる。
1954年(昭和29年)3月31日:富士町・田子浦村・岩松村が合併。富士市となる。

1961年(昭和36年)には田子の浦港が開港、そして1966年(昭和41年)11月1日に吉原市と富士市と鷹岡町が合併し、新富士市が発足した。この過程で市名論争が発生したことはよく知られている。(富士市1967;p.51)には以下のようにある。

新市名の決定
 合併後の新市名は昭和40年7月28日に開催された総務委員会において公募の方法によることなく、2市1町の協議によって定め、具体的には2市1町の代表者(市町長、議長)により話し合うことになり、その結果について協議会に報告することとなったが、各市町とも旧市町名を主張してまとまらず、継続審議となった。
 その後総務委員会について鷹岡町から大局的立場にたって考えるならば霊峰「富士」もあり、又、昔の行政区画の「富士郡」からお互い市に発展して来た。合併ということによって消滅していく「富士郡」の名称を永久に残すためにも「富士」という名称が一番当を得ているのではなかろうか、という意見が出されたが、結論は保留にされた。

この鷹岡町のスタンスを見れば分かるように、明確に「富士市」を推していたことがわかる。しかし一読すれば直ぐ分かることであるが、鷹岡町の主張はかなり無理がある。



まず「霊峰「富士」もあり」とあるが、実は旧富士市や鷹岡町には富士山は所在していない。富士山が所在するのは、実は吉原市だけなのである。その吉原市は「吉原市」を推している。それが分かった上での面前での発言であるから凄まじい。


しかも「富士郡の名称を永久に残す」とあるが、富士宮市が存在する他、富士郡としては芝川町も残っているため、実は全く説得力の無い言い分なのである。

つまり富士山が所在する吉原市に向かって、それを有さない地が「富士山もあるし富士が良いよね」と述べた構図である。これは皮肉としか言いようがない(そもそも「富士市」という名称の由来も一癖ある)。しかしよくよく考えてみると、吉原市には手立てがあった。

吉原市には強力な助っ人が存在した。それは富士宮市である。富士宮市からすれば意図せずの助っ人の形であるが、つまりは「富士宮市」が隣接し、「富士市」では名称が一部重複するので、これを避けんとする論調も可能であったわけである。



つまり「富士山を有する我々が吉原市を推している」とか「富士宮市や富士郡芝川町が存在するから「富士」の消滅は考えづらい」とか「むしろ市名の重複ではないだろうか」等の主張は十分可能であった。これらは、かなり筋の通った言い分と言えるだろう。

しかし吉原市はこのような論調をとることはせず(内々ではあったのかもしれないが)、むしろ富士市と心理的に近い鷹岡町へ仲介を願い出ることになる。以下に(富士市1967;p.51)の続きを記す。

 その後の委員会においても吉原市、富士市の意見の一致が見られず、再び継続審議に付されたが、その後の委員会において鷹岡町から前述の発言は当時と時点のずれもあるのでこれを取り消して、白紙の状態に戻し、改めて審議したい旨の発言がなされた。
 吉原市側からは今後の進展を図るための道を講ずるよう鷹岡町議会議長並びに鷹岡町長にその仲介の労を願いたいとの意見があり、富士市側もこの提案を了承した。この問題については委員会とその関係筋においても庁舎の位置と関連して協議することが好ましいとする空気が極めて強いと推量されることから、鷹岡町側の最終的な調整案が次のように示された。

鷹岡町の急転は、上記の総務委員会での主張が破綻していることを察してのものであろうか。そしてこの時点で吉原市は新市名「吉原市」の線は捨てていたと私には見えてしまうが、どうだろうか。また以下のように続く。

①新市の名称
 2市1町は新市の名称を決定するにあたっては富士市と鷹岡町において意見の一致する名称を尊重するものとする。
②新市の事務所の位置
 2市1町は新市の事務所の位置を決定するにあたっては、合併促進協議会において決定されている図面に示す区域内において吉原市と鷹岡町の意見の一致する位置を尊重するものとする。

(中略)その後開かれた総務委員会において調整案は2市1町の全員協議会において承認された旨の報告があり、更に慎重審議した結果、新市の名称は「富士市」とすることを総務委員会にの決定事項とすることで了承が得られ、次回の促進協議会に報告し了承を得ることとなった。ここに愈々大詰を迎えた当問題も9月8日鷹岡町公民館において開催された第14回促進協議会に総務委員会の決定事項となっている新市の名称は「富士市」とすることが諮られ、正式に新市の名称が「富士市」と決定した。

市名は「富士市と鷹岡町で決定する」という方針を取った。逆に新市の事務所、つまり市庁舎の位置は「吉原市と鷹岡町」とで決定するという方針をとっているから、折衷案のような意味合いが強い。しかし圧倒的に影響力があるのは市名の方であることは言うまでもない。現に今、市庁舎が旧富士市・吉原市のどちらに位置するのか分からない人の方が多いのだから。



この市名決定の経緯は(富士市1978;p.757-760)にも同様の内容が記されている。また『昭和41年10月31日合併特集号(吉原市の広報よしわら)』には以下のようにある。


新市名は新市が永遠に飛躍発展する姿にふさわしく、しかも郷土的な色彩を反映し、地域住民はもとより広く国際間においても親しまれている「富士」を新市の名称としました。


これは「第14回促進協議会」においての文言である。ここで少し考えてみよう。田子の浦港の名称が歴史に則って「吉原港」であったらどうであっただろうか。少なくともその象徴性は無視はされなかったであろう。

そしてやはり吉原市側からは反発もあったようである。『広報ふじ』平成8年10月5日673号の元富士市助役のコメントから引用する。

特に問題となったのが、新しい市の名称と、市庁舎の場所、新市施行後の事業計画などでした。まず、市の名称は、それぞれが現行の市名を主張する中、旧富士市は、世界の名峰富士山の「富士」、旧富士都の「富士」を最良とし、旧吉原市は、歴史ある「吉原」という名は捨てられないと、特に商店街の皆さんは「富士市」に大反対でした。そこで、いろいろな面で対等の立場にあった旧富士、旧吉原の2市の間に立って旧鷹岡町が仲介役となり、新市名と市庁舎の場所を抱き合わせた調停案が示されました。それは、新市の名称は旧富士市と旧鷹岡町とで協議、新しい市庁舎の場所は旧吉原市と旧鷹岡町とで協議した結果を、それぞれ尊重するというものでした。

商店街の方々は富士市に大反対であったとあるが、正直名を残そうとしていたようには思われない。"吉原港"運動と言えるような痕跡も見当たらない。

今日では、吉原が街道の起点であったことすらも忘れ去られている。岳南鉄道を敷く際、普通の感性であれば旧街道ルート(中道往還)の再構築に勤しむべきであるのに、それが第一義的なものとして設定されていない。


吉原に歴史の記憶が存在していたのであれば(また当時の世相を鑑みれば)、近世を通して脇往還であった中道往還を軸とする富士地区の交通形態を、鉄道にて再現することを推し進めていたはずである。

勿論、駿豆鉄道との関係で異なる引力が発生したということはあるだろう。しかし普通に経済性を鑑みれば、それは修正されていたのではないだろうか。今日まで私は、須戸方面に敷設したことを支持する人に出会ったことが無い。これが答えではないだろうか。

合併後の都市開発方針によって衰退した面もあるが、むしろそれまでの動向の方が圧倒的に関係していると考える方が普通である。

  • おわりに

本稿では吉原の基本的な性質と新市名決定の経緯を主に記した。吉原の変遷を探るにおいては、もう少しデータから考えていくことも可能である。富士市は都市開発関連の論文が豊富なのだ。余裕があれば、今後記事の作成も考えたい。

  1. 吉原の、玄関口および交通結節点の地位消失
  2. 吉原市と旧富士市を跨る港(往古の「吉原湊」)の命名において「吉原港」を採用しなかったこと

この2つが致命傷となり、プレゼンスが大きく低下し、後の市名論争でもリード出来なかったものと思われる。もっと言えば②の時点で地名論争の前哨があったと見るべきであろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

20:「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』
  2. 富士市史編纂委員会(1978)『吉原市史 下巻』
  3. 青木敏隆(2010)「市町村合併と都市構造の課題(その6)」『経済調査研究レビュー』、経済調査会

2026年7月31日金曜日

『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化

本稿では、「富士市60周年シリーズ」でも度々言及している山中共古『吉居雑話』について取り上げていく。以下に、その内容と(山中1984)に応じた頁数を一覧化する。

また「吉原」だけでなく「大宮」についても多く取り上げられているので、冒頭に「大宮」が登場するページの頁数を示しておく。


「大宮」が登場するページ7,9,13,22-23,28-29,68,73,81-82,88,91-93,96-97,102,104,107,120,123,124


以下に、印象的な内容とその頁数を一覧化する。


内容頁
阿字神社5-6
富士塚12
天子ヶ嶽の瓔珞ツツジ13
花一匁のような遊び14
木之元神社21
浅間大社・村山口登山道・村山三坊22-24
イナゴ食27
大宮方言28-29
富士郡の旧暦文化29
見世物小屋29
石坂の石ノ穴33
かぐや姫49-50
天子ヶ嶽59-60
比奈の浅間社67-68
浅間大社68
鏡石68
米之宮と米72
磔八幡72-73
小泉久遠寺73
鈴木香峰77-78
犬食文化78-79
沼久保の狂人塚・サトリ塚・摩利支天塚81-82
悪王子神社(吉原)87
三股淵・田子の古道89
保寿寺(三股淵)89
富士川舟運90
大宮の羽掛松の古址91
大宮の蔵屋敷稲荷92
福石子育神社92
虎石93
北山の浅間神社96
かぐや姫(大宮・村山・比奈)97
吉原の方言101
浅間大社の湧玉池の石碑(山宮御神幸)102
飯森浅間神社103
玉渡神社・曽我祠・角田一家103-104
御菊田の伝承105-106
死人川106
比奈の名称106
葛山氏107
永明寺・龍ヶ淵107-108
富知六所浅間神社と富知神社114
一比奈、二香貫、三加嶋115
子袋神社と奇祭117-118
日野屋119
鈴木香峰121
曽我八幡宮124
富士の巻狩り由縁の地名124
カケスバタ124
妙法寺125-126
富士道者127,130

  • 『吉居雑話』の分析

同史料は、富士郡の民俗学を考える上で必須の史料と言える。吉原だけでなく大宮の民俗も多く記されている。これは、吉原という地が大宮と関係が深かったからに他ならない。

山中共古の興味は、特に「コトバ」「風習・習俗」「石碑の刻文」にあったと見える。土民から聞いたことに加え、自らが確認したものも豊富に認められる。

ここから当時の地域性を掴むことができるわけであるが、吉原は必然的に「三股淵/生贄」関係の内容は多くなっている。そして富士郡全体として、「浅間神社」「曽我」「かぐや姫」に関する内容が多い。これも必然であろう。

そして、大宮と村山は互いにギクシャクしているような印象を受けなくもない。例えば97頁に、コノシロ(魚)に関連して「此話ヲ大宮ノ人ニ聞クニ村山ノ神官ハカクセリトノ事」とあったり、107頁に「富士浅間ハ村山ガ元ナリシヲ、後ニ大宮ヘトラレシトイフ」とある。

今でも村山の人間はこの調子なのであるが、それはこの時代からの延長線上と見ても良いかもしれない。村山の異様な排他性は不思議である。

そして現代と比較したとき、富士郡において明確に失われた精神性を認めることができる。浅間神社に関しては未だ精神的支柱であるかもしれないが、やはり三股淵の伝承は語り継がれなくなってきていると見える。また近世の道中記等で鷹岡の曽我関連のものは多く見いだせるわけであるが、『吉居雑話』も同様であった。これらも存在感が失われているように思える。

吉原の重要な歴史的性質として、中道往還による人々の往来を指摘できる。それは明治・大正にもそのまま引き継がれた(主要ルート)。しかしこの感覚は現代では大きく削がれているように見える。これこそが、富士郡における最も大きな変化ではないだろうか。それ故に、鷹岡の曽我関連史跡も着目されなくなったのかもしれない(吉原-大宮間に位置する)。

天子ヶ岳も、昔はもう少し意識されていた存在であったようだ(13頁、59-60頁)。実際他の史料でも天子ヶ岳関連の習俗は認められるため、大宮にとって天子ヶ岳は"ホームマウンテン"のような感覚があったと推察される。次第に水に困ることが少なくなったため、雨乞いの必要性がなくなり、人々の意識の中では希薄になっていったと思われる。

  • おわりに

『吉居雑話』から、吉原と大宮の関係性の深さを見ることができた。私は吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。

普通に考えれば、そのまま開発していけば良い話なのだ。言い方を変えれば、富士郡として経済圏を形成することを捨てたがために、迷走していったように見える。結果としてこれは大失敗であった。

東海道本線からより内陸部に鉄道が敷かれる際に吉原は手を挙げるべきであったし、また遅れて岳南鉄道を敷く際も沼津方面に繋げようとすること自体が誤りだったわけである。

吉原宿の素晴らしさは中道往還の起点であることにあるわけであるが、これが完全に忘れ去られているところを見ると、旧来の感覚は完全に失われたと見て良い。これが、富士郡における最も大きな精神的変化であると考える。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

19:「『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」

  • 参考文献
  1. 山中共古 (1984)「吉居雑話」『諸国叢書』(No.1)、成城大学民俗学研究所

2026年7月30日木曜日

富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは

以前「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」にて、富士市民が富士山を馴染みのあるものとは捉えていないことを示唆する事象について取り上げた。本稿ではこの点を深堀りしていきたい。

例えば西富士道路であるが、勿論富士市から見て西方面に走っている。流石に真北に向かっていると誤認する程の方向音痴さんは居ないと思われるので、"西方面に富士宮市がある"くらいのことは分かっていると思われる。それにも関わらず「富士宮市=北」と言う人が一定数居るということは、富士市と富士山が全くリンクしていないのだろう。そう理解する他ない。

この背景について考えてみた所、実際に富士市はそれほど接点が無いのではないか、という視点が浮上してくる。それ故にあまり印象に無いのではないだろうか。

以下は「世界文化遺産の範囲」「史跡富士山」「特別名勝」「国立公園の特別保護地区」といった項目において、どの自治体が関与しているのかということを示した表である。

富士宮市御殿場市裾野市小山町富士市沼津市三島市清水町長泉町静岡市富士吉田市身延町西桂町忍野村山中湖村鳴沢村富士河口湖町
富士山―信仰の対象と芸術の源泉(世界遺産)○○○○○○○○○○○○
富士山(史跡)○○○○○○
富士山(特別名勝)○○○○○○○○○○
富士箱根伊豆国立公園「富士山地域」の「特別保護地区」(国立公園)○○○○○○○○

まずこれら「4つ」が満たされている地域というのは、かなり関係が深いと言える。やはり「富士宮市」「小山町」「富士吉田市」「鳴沢村」「富士河口湖町」は別格という感じがする。

一見すると富士市も関係が深いと言えるのであるが、実は世界文化遺産富士山において、富士市は単独の構成資産を有していない。だから関係を持って語られることも少ない。

明らかに、環富士山地域の中において富士市は、富士山との接点がより限局されたものとなっている。これは誰の目からみても明らかであろう。

しかし私はここで、歴史の方から富士山との接点を見出すことをしていきたいと考える。富士市と富士山の接点を述べる上でまず引き合いに出されるべきものは「能〈生贄〉」(以下〈生贄〉)である。

〈生贄〉は、静岡県富士山世界遺産センターの展示にも含まれている。実は富士市の歴史も世界遺産センターにてしっかりと取り上げられているのだ。


何故〈生贄〉が富士市と富士山との接点を示すものと言えるのだろうか。それはその詞章に富士山に関連するワードが散りばめられているからである。しかもその年代が重要で、室町時代以前であることが確実である。私は相当遡ることが出来ると考えている。(佐藤2021)には以下のようにある。

(一)室町時代後期観世流謡本 観世元頼章句本(元頼本)と観世元忠(宗節)章句本の書誌情報の集成・分類を行った。詞章の筆跡についての分類作業を行う中で、元頼本全体の題簽および『生贄』詞章本文の筆者が戦国期聖護院門跡の道増(1508~1571)であることを明らかにした。道増は足利義輝(1536~1565)の近臣としても知られており、義輝周辺で元頼本が成立した可能性を示唆するものと考える。

先行研究によると、現存する謡本のうち「観世元頼本」は、「道増」による筆であることが明らかとなっている。これは書写であるから、更に遡ることが出来る。詞章の中で富士山に関わる用語としては、以下のようなものがある。

  • 富士権現
  • 日の御子の神
  • 内院
  • 富士の嶽

であるから、富士市にとって〈生贄〉は特別なものである。私は富士山に関わる神事が下敷きとしてあり、それが能となったものではないかとも考えている。

(諏訪1988;p.121)は、〈生贄〉のあらすじを説明している。

「生贄」は4・5番目物の夢幻能で作者未詳とされているが、『自家伝抄』には宮増作とある。『言継卿記』によると、天文14年(1545)3月7日に観世座が上演した記録があるので、これ以前の成立であることは確実である。

都から東へ下る旅人(シテ)と妻(ツレ)、娘(子方)の三人が、駿河の吉原までやってきて宿をかり、富士の生贄の神事に行きあたった。宿の主人(ツレ)はひそかに逃がそうとしたが、神主(ワキ)と従者(トモ)に止められ、数百人の候補者たちの中から旅人の娘がくじに当った。娘は富士の御池の大蛇へ生贄にそなえられることになった。

しかし、娘を乗せた小船が沖へ出て行こうとしたとき、富士権現の御使の火の御子(後シテ)が現われ、富士権現の神徳によって大蛇が退治されたことを告げ、今後、生贄は廃止になるとの神託を伝えて娘の命を助けた。

詞章には、以下のような箇所もある。


招けば招く風情はさながら。松浦佐用姫かくやらんと。汀にひれ臥し泣き居たり


このように「松浦さよ姫」の言及があることで、その方面から言及している論稿もある。柳田國男の論稿「人柱と松浦佐用姫」には以下のようにある。

例えば謡の「生贄」という一曲には、父と娘と二人の旅人、東海道を旅して駿州の吉原に泊った日に、富士の御池の贄に娘を取られて、父ひとり歎き悲しむことを叙してある。其文句の中に殆と何のつきも無しに、
姫も互ひに名残を惜み、
招けば招く風情はさながら、
松浦佐用姫かくやらんと、
汀にひれ臥し泣き居たり。
とあるなどは、単に上代の肥前の女が、つま恋いの船の影を見送るというだけの、連想でなかったことを意味するかと思われる。

またこの辺りは(近藤2010;p.103-104)に詳しい。

〈生贄〉はその広がりも着目されるべきであり、アーサー・ウェイリーによる翻訳およびそれを収めた書物の刊行(1921年)は知られている。他にヴィルヘルム・グンデルトの研究でも取り上げられるなどしている(兼岡2022;p.39)。

結論、富士市が富士山との関わりを示す上で強く引き合いに出されるべきものが〈生贄〉なのである。これ以上の素材は無いと考える。それ故に、全く着目されないことが不思議に思われるのである。

  • おわりに
18:「富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは」

  • 参考文献
  1. 諏訪春雄(1988)『聖と俗のドラマツルギー―御霊・供犠・異界』、学芸書林
  2. 近藤直也(2010)『松浦さよ姫伝説の基礎的研究【古代・中世・近世編】』、岩田書院
  3. 佐藤嘉惟(2021)『2019年度実績報告書(能の詞章の文字化に伴う作品・作者概念の成立の研究―世阿弥自筆能本の文字表記から)』、KAKEN
  4. 兼岡理恵(2022)「W.グンデルトの日本学―キリスト教から神道、そして日本学―」『比較日本学教育研究部門研究年報 18』、38-44

2026年7月23日木曜日

富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う

本稿ではWikipediaにおける「富士市」のページを添削していきたいと思う。「・」は原文を引用した。



  • 日本最高峰の富士山南麓に位置し
日本語の誤り。これでは「富士山南麓」が日本最高峰という意味となってしまう。"日本最高峰富士山の南麓に位置し"が正しい。

  • 市域の北端は山頂直下に及ぶ
富士市の最高地点は3,680m。高さ3,776mに対し3,680mは、普通の感覚では山頂直下とは言わないだろう。

  • 海岸線から富士山までを市域とする唯一の自治体となっている
富士山は、厳密に言えば沼津市・三島市も含まれるとされる。疑義のある内容。半分正しくて、半分誤っている。

  • 東は沼津市、西は静岡市に接する
東は沼津市以外にも接している自治体があるし、西は静岡市以外にも接している自治体があるので、正しくはない表現である。

  • 和紙の産地として知られ
ここはやや難しい。「吉原」を産地として記す論稿も確かに存在するが、庵原郡吉原村と混同している節あり。少なくとも富士地区においては、富士市を特筆すべき産地と評価するのは難しい。

  • 現代においても主要産業は、富士山の伏流水や富士川などの豊富な水源を利用した製紙である

これはグラフ等を見れば分かるが、既に主要産業は他に移っているのは明白である。むしろ時代の変化に柔軟に対応できているところが、富士市の強みなのであるが。


  • また、2001年(平成13年)には、施行時特例市に指定された
2001年に「施行時特例市」に指定されたわけではない。当時は「特例市」と呼称されていた。従って"特例市に指定された(現在の施行時特例市)"が正しい。

  • 海岸線に東側に隣接する沼津市から田子の浦港まで千本松原が続き、富士川の最下流域の西側に静岡市清水区が隣接し、北側に富士宮市が隣接する

「田子の浦港」は範囲が定義されているが、そこまで千本松原が続いていると言えるのかは吟味する必要性がある。沼津市HPは「沼津市の中央を流れる狩野川河口より北西の片浜、原方面にかけての松原を呼称する」としている。

また仮に富士宮市を1つの方角で表すのなら、富士市から見て「西」である。


普通の感覚であれば、どう見ても「西」だと思う。簡単に言えば両者は「〼」で表すことが出来るのだから。富士市の北に富士宮市が位置するのであれば、富士市は富士山に接していないことになってしまうが、大丈夫だろうか(本当にこういう方が多くて驚かされています)。

【番外編】

  • マキヤ本社(市内に本社を置く主な企業)

Wikipediaの編集履歴を振り返るとかなりの以前より株式会社マキヤの本社が富士市に置かれていたことにされてしまっているのであるが、これは誤りである。

まず「国税庁法人番号公表サイト」にてR2年度の「株式会社マキヤ」の「本店又は主たる事務所の所在地」を見てみる。



ここから、明確に本社が沼津市であることが分かる。以下では株式会社マキヤの「定時株主総会招待ご通知」を見ていきたい。これはマキヤ側の資料である。




つまりマキヤの本社は沼津市で、マキヤ側の資料にもあるように、本部機能自体は富士市ということになる。本社所在地が富士市でないからこその注記である。

法人税法第16条にて納税地は「その法人の本店または主たる事務所の所在地とする」と定められている。つまり株式会社マキヤの法人税は、沼津市に納められていたのである。

長らく本社は沼津市に置かれていたが、昨年その状況に変化が訪れた。


つまり、本社が富士市に移転したのである。逆に言えば、これまで誤って記していたことになる。ネットの情報というのは、あまり鵜呑みにしないほうが良い。

  • おわりに

富士市民が富士宮市を「北」としてしまう背景を考えてみたい。これは「富士市民にとって富士山は大して馴染みのあるものではないから」ではないだろうか。でなければ、説明できない現象である。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

17:「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」

2026年7月21日火曜日

富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論

「シリーズ富士市60周年」として、当ブログでは現在断続的に記事を投稿している。そのための材料集めは既に完了しているが、基本的には学術誌・論文 ・公式資料などが主たる物である。誰でも原典を参照できるということが、重要であると考える。

つまり世に出ている膨大な資料から富士市について言及するものを炙り出す作業が必要なわけであるが、特に富士市の場合はこれが難しい。私は「ボトムアップ」形式であるため、特に難儀する。

何故かと言うと、「富士」という用語が普遍的なものであるから、"炙り出す作業"の質をかなり高めないと漏れてしまう情報が発生するからだ。また逆に余計な情報も紛れ込みやすい。実はこれはそのままAIにも当てはまる。

AIの方も「富士」という意味の解釈に難義している。簡単に言えば「富士市」と入力すればそれなりの精度になるが、「富士」と入力すると精度がかなり落ちる。つまり、以下のように言える。


口語的な入力では、富士市に関するAIの回答はあまり期待できない(現時点では)


なので「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える」にて"その「富士」が富士市を指すのなら、はっきり富士市と言ってもらいたいものである"と記したのである。もちろんこれはAIに限った話ではない。

ではAIに対する質問に「富士市」と明確に入力すれば問題は解消されるのかと言われれば、そういうわけでもない。AIは情報の海から抽出しているのであるが、そちら側が「富士市」と明確に書いていなければAIの方も難義するだろう。

つまり情報元が、本来はその中で「富士市」と記していなければならないのである。しかしなされていないことも多い。もしその人に特別な拘りがあるのであれば、せめて"富士市(以下「富士」)"という箇所を設けてもらいたい。

勿論AIの質が更に高まれば、「富士」としか記されていなくとも、「富士市」についてのものだろうという理解は可能だろう。しかし当の富士地区の人間が会話していても理解が難しいものを、果たしてAIが理解出来る時は来るのだろうかという疑問もある。むしろAIも判断しかねるという状況の方が、正しいのではないだろうか。それが実世界に近いからだ。

  • 現時点のAIのレベル(一般向けAI)

例えば「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」でも取り上げた「天子ヶ岳の名称の由来」について、AIで調べてみる。


「天守閣説」であるが、鎌倉時代の日蓮の文書に既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来のはずがない。つまりAIは、互いの材料から選択肢の消去を行う能力を平均的に有する段階にまでは至っていない。つまり、まだまだである。

他に「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」でも取り上げた、富士市におけるサリン散布実験について聞いてみる。



こちらも全然駄目である。「公的な記録や事実」が確認されているのだから、話にならない。AIはこれから多くの情報を食べていく必要性がある。現段階では、第一義的に特定の情報を得る対象として、AIは選択肢に入ってこない。まだ圧倒的に質が足りないからである。

ちなみにChatGPTのものはこちら。


このように誤った回答を出しているが、出典が示されており、それを参照すると以下のようにある(判例)。


オウム真理教は、平成五年一一月から同年一二月にかけて、二度にわたりサリンの効果を試すとともに、(中略)さらに、平成六年五月ごろ、静岡県富士宮市内の富士川河川敷でサリン噴霧実験を行ったほか、


つまり、原典が誤っていたわけである。しかしそれを訂正できる能力までは無いようだ。

ちなみにこの「シリーズ富士市60周年」の記事群は、AIを一切用いていない。AIを用いると、誤った解釈になるからである。AIを用いていないという事実が、このシリーズを意味のあるものに引き上げるとすら考えている。


  • シリーズ富士市60周年の記事群のソース


例えば私は「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にて"関英二(1958)「兼業と農家の機械化」"という論稿を引用した。この論稿は、以前はヒットしたが、現在はGoogleの完全一致検索でも引っかからない。正確に言えば、私の記事しか引っかからない。しかしこの論稿は存在する。ネットの海の中で、消えていったものも確かにあるのだ。

何故このようなものを認識しているかというと、AIに頼れない時代に既に情報収集していたからである。特にタイトルに「富士市」等と入っていないものは、抽出が極めて難しい。AIが無いからこそ、地道な作業で抽出作業をした結果、それが私の眼の前に現れたのである。この時間が極めて重要であった。

言い換えれば、AIだけでは、質が高い認知には至らないのである。もっと言えば、当時、上記の論稿はダウンロード/印刷が可能であった。今はそもそも引っかからないから、不可能である。意外と思われるかのしれないが、そういう類のものが案外に多い。

AIに頼れないからこそ、物理的な検索攻勢をかけたために、面白い論稿が手に入っているのだ。私はこれからAIを主体とするかもしれない。しかし現時点で私は、そのAIの回答を精査できる立場にある。だからAIがファーストタッチの場合とは全く異なると考えている。ただ、今から物理的な検索攻勢をかけることが是とは言い難い。時間も貴重であるからだ。


  • AI世界に対応するために


私が「私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しないことにしました」「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」「私が富士宮市郷土史博物館構想に賛成する条件」等で、ネット上で歴史に関する専用ページを設けることを口を酸っぱくして述べていたのは、何を隠そうAI世界を見据えてのことである。勿論現代の慣習から考えてのことでもあるが。

簡単にいえば、スマートフォンといったデバイスで人類がAI検索し、それを基に行動/価値判断する現在において、そもそもネット上に情報が無ければ全く勝負にならないからである。

しかしもう遅い。遅すぎる。富士宮市はもう全くの時代遅れである。私はこの10年くらいは、本の中の世界に留まっていたものをネットの世界に解放するという作業を熱心に行ってきた。何故なら、将来AIが普及するのは目に見えていたからである。


  • 原典にあたろう

以下に、備忘録として情報収集に有益なサイト(公)や良質なサイト(民)を一覧化する(少しづつ追記予定)。

  1. わがマチ・わがムラ(農林水産省)
  2. 類似団体別職員数の状況(総務省)


  • おわりに

何らかの争論があるとき、AIの情報だけで勝負するのは未だ勝ち目がないと思う。論理武装した相手にはまだまだ分が悪い。正直、理論武装した相手からすれば、AIだけで勝負してきた人など容易いのだ。本稿はそういう警告でもあるが、有効活用すること自体は否定しない。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

16:「富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論」