2026年7月23日木曜日

富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う

本稿ではWikipediaにおける「富士市」のページを添削していきたいと思う。「・」は原文を引用した。



  • 日本最高峰の富士山南麓に位置し
日本語の誤り。これでは「富士山南麓」が日本最高峰という意味となってしまう。"日本最高峰富士山の南麓に位置し"が正しい。

  • 市域の北端は山頂直下に及ぶ
富士市の最高地点は3,680m。高さ3,776mに対し3,680mは、普通の感覚では山頂直下とは言わないだろう。

  • 海岸線から富士山までを市域とする唯一の自治体となっている
富士山は、厳密に言えば沼津市・三島市も含まれるとされる。疑義のある内容。半分正しくて、半分誤っている。

  • 東は沼津市、西は静岡市に接する
東は沼津市以外にも接している自治体があるし、西は静岡市以外にも接している自治体があるので、正しくはない表現である。

  • 和紙の産地として知られ
ここはやや難しい。「吉原」を産地として記す論稿も確かに存在するが、庵原郡吉原村と混同している節あり。少なくとも富士地区においては、富士市を特筆すべき産地と評価するのは難しい。

  • 現代においても主要産業は、富士山の伏流水や富士川などの豊富な水源を利用した製紙である

これはグラフ等を見れば分かるが、既に主要産業は他に移っているのは明白である。むしろ時代の変化に柔軟に対応できているところが、富士市の強みなのであるが。


  • また、2001年(平成13年)には、施行時特例市に指定された
2001年に「施行時特例市」に指定されたわけではない。当時は「特例市」と呼称されていた。従って"特例市に指定された(現在の施行時特例市)"が正しい。

  • 海岸線に東側に隣接する沼津市から田子の浦港まで千本松原が続き、富士川の最下流域の西側に静岡市清水区が隣接し、北側に富士宮市が隣接する

「田子の浦港」は範囲が定義されているが、そこまで千本松原が続いていると言えるのかは吟味する必要性がある。沼津市HPは「沼津市の中央を流れる狩野川河口より北西の片浜、原方面にかけての松原を呼称する」としている。

また仮に富士宮市を1つの方角で表すのなら、富士市から見て「西」である。


普通の感覚であれば、どう見ても「西」だと思う。簡単に言えば両者は「〼」で表すことが出来るのだから。富士市の北に富士宮市が位置するのであれば、富士市は富士山に接していないことになってしまうが、大丈夫だろうか(本当にこういう方が多くて驚かされています)

【番外編】

  • マキヤ本社(市内に本社を置く主な企業)

Wikipediaの編集履歴を振り返るとかなりの以前より株式会社マキヤの本社が富士市に置かれていたことにされてしまっているのであるが、これは誤りである。

まず「国税庁法人番号公表サイト」にてR2年度の「株式会社マキヤ」の「本店又は主たる事務所の所在地」を見てみる。



ここから、明確に本社が沼津市であることが分かる。以下では株式会社マキヤの「定時株主総会招待ご通知」を見ていきたい。これはマキヤ側の資料である。




つまりマキヤの本社は沼津市で、マキヤ側の資料にもあるように、本部機能自体は富士市ということになる。本社所在地が富士市でないからこその注記である

法人税法第16条にて納税地は「その法人の本店または主たる事務所の所在地とする」と定められている。つまり株式会社マキヤの法人税は、沼津市に納められていたのである。

長らく本社は沼津市に置かれていたが、昨年その状況に変化が訪れた。


つまり、本社が富士市に移転したのである。逆に言えば、これまで誤って記していたことになる。ネットの情報というのは、あまり鵜呑みにしないほうが良い。

  • おわりに

富士市民が富士宮市を「北」としてしまう背景を考えてみたい。これは「富士市民にとって富士山は大して馴染みのあるものではないから」ではないだろうか。でなければ、説明できない現象である。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

17:「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」

2026年7月21日火曜日

富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論

「シリーズ富士市60周年」として、当ブログでは現在断続的に記事を投稿している。そのための材料集めは既に完了しているが、基本的には学術誌・論文 ・公式資料などが主たる物である。誰でも原典を参照できるということが、重要であると考える。

つまり世に出ている膨大な資料から富士市について言及するものを炙り出す作業が必要なわけであるが、特に富士市の場合はこれが難しい。私は「ボトムアップ」形式であるため、特に難儀する。

何故かと言うと、「富士」という用語が普遍的なものであるから、"炙り出す作業"の質をかなり高めないと漏れてしまう情報が発生するからだ。また逆に余計な情報も紛れ込みやすい。実はこれはそのままAIにも当てはまる。

AIの方も「富士」という意味の解釈に難義している。簡単に言えば「富士市」と入力すればそれなりの精度になるが、「富士」と入力すると精度がかなり落ちる。つまり、以下のように言える。


口語的な入力では、富士市に関するAIの回答はあまり期待できない(現時点では)


なので「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える」にて"その「富士」が富士市を指すのなら、はっきり富士市と言ってもらいたいものである"と記したのである。もちろんこれはAIに限った話ではない。

ではAIに対する質問に「富士市」と明確に入力すれば問題は解消されるのかと言われれば、そういうわけでもない。AIは情報の海から抽出しているのであるが、そちら側が「富士市」と明確に書いていなければAIの方も難義するだろう。

つまり情報元が、本来はその中で「富士市」と記していなければならないのである。しかしなされていないことも多い。もしその人に特別な拘りがあるのであれば、せめて"富士市(以下「富士」)"という箇所を設けてもらいたい。

勿論AIの質が更に高まれば、「富士」としか記されていなくとも、「富士市」についてのものだろうという理解は可能だろう。しかし当の富士地区の人間が会話していても理解が難しいものを、果たしてAIが理解出来る時は来るのだろうかという疑問もある。むしろAIも判断しかねるという状況の方が、正しいのではないだろうか。それが実世界に近いからだ。

  • 現時点のAIのレベル(一般向けAI)

例えば「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」でも取り上げた「天子ヶ岳の名称の由来」について、AIで調べてみる。


「天守閣説」であるが、鎌倉時代の日蓮の文書に既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来のはずがない。つまりAIは、互いの材料から選択肢の消去を行う能力を平均的に有する段階にまでは至っていない。つまり、まだまだである。

他に「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」でも取り上げた、富士市におけるサリン散布実験について聞いてみる。



こちらも全然駄目である。「公的な記録や事実」が確認されているのだから、話にならない。AIはこれから多くの情報を食べていく必要性がある。現段階では、第一義的に特定の情報を得る対象として、AIは選択肢に入ってこない。まだ圧倒的に質が足りないからである。

ちなみにこの「シリーズ富士市60周年」の記事群は、AIを一切用いていない。AIを用いると、誤った解釈になるからである。AIを用いていないという事実が、このシリーズを意味のあるものに引き上げるとすら考えている。


  • シリーズ富士市60周年の記事群のソース


例えば私は「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にて"関英二(1958)「兼業と農家の機械化」"という論稿を引用した。この論稿は、以前はヒットしたが、現在はGoogleの完全一致検索でも引っかからない。正確に言えば、私の記事しか引っかからない。しかしこの論稿は存在する。ネットの海の中で、消えていったものも確かにあるのだ。

何故このようなものを認識しているかというと、AIに頼れない時代に既に情報収集していたからである。特にタイトルに「富士市」等と入っていないものは、抽出が極めて難しい。AIが無いからこそ、地道な作業で抽出作業をした結果、それが私の眼の前に現れたのである。この時間が極めて重要であった

言い換えれば、AIだけでは、質が高い認知には至らないのである。もっと言えば、当時、上記の論稿はダウンロード/印刷が可能であった。今はそもそも引っかからないから、不可能である。意外と思われるかのしれないが、そういう類のものが案外に多い。

AIに頼れないからこそ、物理的な検索攻勢をかけたために、面白い論稿が手に入っているのだ。私はこれからAIを主体とするかもしれない。しかし現時点で私は、そのAIの回答を精査できる立場にある。だからAIがファーストタッチの場合とは全く異なると考えている。ただ、今から物理的な検索攻勢をかけることが是とは言い難い。時間も貴重であるからだ。


  • AI世界に対応するために


私が「私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しないことにしました」「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」「私が富士宮市郷土史博物館構想に賛成する条件」等で、ネット上で歴史に関する専用ページを設けることを口を酸っぱくして述べていたのは、何を隠そうAI世界を見据えてのことである。勿論現代の慣習から考えてのことでもあるが。

簡単にいえば、スマートフォンといったデバイスで人類がAI検索し、それを基に行動/価値判断する現在において、そもそもネット上に情報が無ければ全く勝負にならないからである。

しかしもう遅い。遅すぎる。富士宮市はもう全くの時代遅れである。私はこの10年くらいは、本の中の世界に留まっていたものをネットの世界に解放するという作業を熱心に行ってきた。何故なら、将来AIが普及するのは目に見えていたからである。


  • おわりに

何らかの争論があるとき、AIの情報だけで勝負するのは未だ勝ち目がないと思う。論理武装した相手にはまだまだ分が悪い。正直、理論武装した相手からすれば、AIだけで勝負してきた人など容易いのだ。本稿はそういう警告でもあるが、有効活用すること自体は否定しない。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

16:「富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論」

2026年7月20日月曜日

富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果

今年刊行されたばかりの新『富士宮市史』に、富士市も関係する興味深い記述が確認される(富士宮市2026;p.191)。


今回の市史編さん事業の調査で、新出の富士山縁起を確認した。表5−2に「浅間大社(公文富士家)」系統としているものである。本書では、『富士山大縁起本社末社之次第』について紹介したい(表5−2③、写真5− 19)。

奥書の部分に「維時天正廿 年壬辰二月十七日戊申日前永平保寿現住之源凛乎写之」とあるが、以前に曹洞宗本山の永平寺におり、当時は保寿寺(富士市伝法)僧であった之源凛乎が書写したものと記されている

保寿寺は文亀3年(1503)8月に曹洞宗に改宗し、天正14年(1586)に之源(芝源)凛乎が第二世住職になったとされる(駿河郷土史研究会 1989)。奥書には、さらにこの縁起のほか一一巻があり、天正9年(1581)全てを之源が書写し、大宮寺の士雲に渡したとある。大宮寺とは浅間大社の別当宝幢院のことであろうか。

「之源」なる住持は実在したのだろうけれど、何となく伝説感も否めないという状況が、この史料によって一気に空気感が変わったという感覚である。

さて之源凛乎といえば、三股淵の大蛇の調伏伝説であろう。しかしこの辺りの伝承は、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にあるように郷土史家によって荒れに荒らされたため、本来のものと逸脱した解釈が世に溢れてしまっている。



問題の1つである『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号「いけにえ淵」から、郷土史家オリジナル脚本の部分を抽出してみよう。


  • 保寿寺伝承と阿字の伝承の融合
  • 三島宿の登場
  • 毘沙門天の登場
  • 吉原宿東木戸の登場
  • 茶屋のおかみさんの登場
  • 問屋場の登場
  • 沼津宿・根方街道の登場(これは物語の解像度を良くするための範疇とも言えるが、仮にそうであっても原宿が妥当)
  • 宿場役人の登場と同人によるクジの強制
  • 七曲がりの登場


この辺りはすべてオリジナル脚本である。もう完全に、別物といって良い。特に太字の部分が悪質である。しかし「阿字の伝承」と「保寿寺の伝承」は本来切り離されていたものである。例えば『田子の古道』には以下のようにある。


(阿字の伝承を記述)…「えきろの鈴」には説を乗せたり。(中略)この寺所替して伝法村の地へ上る。(『田子の古道』「野口脇本陣本」)

(阿字の伝承を記述)…「是駅路の鈴といふ書物に祝のを乗りたり(中略)蛇の鱗ハ厚原村保寿寺の什物となりて…」(『田子の古道』「森家蔵本」)


このように、明らかに阿字の伝承と保寿寺のものは切り離されている。「野口脇本陣本」は唐突に「この寺」とあるが、これは書写の中で保寿寺の箇所が抜け落ちたためである。従って「この寺」とは保寿寺のことである(「野口脇本陣本」は後に発見されたもので『広報ふじ』連載当時は認識されていない)。

また他の地誌においても明確に棲み分けされている。端的に言えば、もうこの郷土史家による著書類は参考にしないほうが良い。

こういう過去の産物の検分も必要であるが、富士市には既に材料があるため、それらを活用するのも良いことだろう。(辻本2026;p.37)は柳田國男の旅路に関連して、以下のように記している。


そして、最後は富士市の吉原で先ほどの山中共古さん、すなわち文通をしていた人に会っています。ということで、即東京に帰らずに沼津に戻ってきたのは、おそらく文通で情報交換をしていた山中さんに会うためだったということです。

柳田國男と山中共古は直接会っていたわけであるが、この山中共古の『吉居雑話』が大変面白い。この辺りを富士市はもっと掘り起こす必要性があると思う。

  • 新『富士宮市史』の現時点での評価

新『富士宮市史』はこれから刊行されていく分もあるので、評価は難しい。ただ以下の項目は、今後の刊行分に求められる。

  1. 富士宮市を舞台とする芸能(詞章等を分析)
  2. 『曽我物語』特論(『小田原市史』がそうであったように)
  3. 富士宮市を題材とした大和絵の分析
  4. 人穴について(伝承の変移、題材とした大和絵)

個人的には、『曽我物語』『富士野往来』「曽我物」といった「曽我群」だけで一冊でも良いとすら思っている。「曽我群」+「大和絵」で一冊でも全くおかしくはない

また「井出氏」に関する記述がないのも不思議な感じがする。「富士氏」に関しては、十分言及されたと考える。最大の懸念点と富士宮市の従来よりの課題は、解消されたとも言える。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

15:「富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果」

  • 参考文献
  1. 富士市(1967)『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号
  2. 辻本侑生(2026)「現代民俗学から考える静岡県東部の日常と文化」『静岡の言語と民俗~県東部にスポットをあてて考える~』(静岡大学公開講座ブックレット16) 、静岡大学地域創造教育センター、27-53
  3. 富士宮市(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』

2026年7月19日日曜日

旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果

 まず令和7年国勢調査速報集計のうち、「人口速報集計 (男女別人口及び世帯総数)」を見てみよう。

総数
静岡県3,468,8451,707,440 1,761,405
静岡市659,620320,015339,605
静岡市葵区238,244114,321123,923
静岡市駿河区205,146100,630104,516
静岡市清水区216,230105,064111,166
浜松市765,750379,632386,118
浜松市中央区591,381293,632297,749
浜松市浜名区150,70774,47376,234
浜松市天竜区23,66211,52712,135
沼津市179,43888,23391,205
熱海市31,43314,23617,197
三島市103,08550,04053,045
富士宮市119,18559,07660,109
伊東市61,19228,66532,527
島田市91,26644,50246,764
富士市237,793117,407120,386
磐田市160,54880,81479,734
焼津市130,93564,03466,901
掛川市111,66256,08655,576
藤枝市134,51365,21669,297
御殿場市81,14241,22539,917
袋井市86,59743,63442,963
下田市17,9248,6249,300
裾野市47,34123,63523,706
湖西市55,21128,57426,637
伊豆市25,74612,22513,521
御前崎市28,46414,48913,975
菊川市45,53522,90822,627
伊豆の国市44,15421,26622,888
牧之原市40,34319,87220,471
東伊豆町10,2254,8155,410
河津町6,1403,0133,127
南伊豆町7,0053,3333,672
松崎町5,2312,4612,770
西伊豆町6,0862,8973,189
函南町34,76816,78617,982
清水町31,09415,05216,042
長泉町43,25721,30621,951
小山町17,1469,0038,143
吉田町27,75313,75214,001
川根本町5,3182,6432,675
森町15,9457,9717,974

そして以下の記事を見て頂きたい。

静岡県人口、45年ぶり350万人割れ 減少数・減少率とも戦後最大(日本経済新聞WEB版 2026年5月29日 )
総務省が29日発表した2025年国勢調査(速報値)によると、静岡県内の人口は同年10月1日時点で346万8845人と、前回20年調査から4.5%(16万4357人)減少した。県内人口が350万人を下回るのは1980年以来45年ぶりとなる。(中略)市町別では県内の35市町全てで人口が減少した。(以下略)

何と、すべての市町で人口が減少したという。ここで、富士市と富士宮市の人口を見ていこう。実は富士市と富士宮市とでは、減少に転じたのは富士市の方が早い。しかし減少のスピード自体は富士宮市の方が早く、富士市は比較的維持していると言える。

巷では、富士市は富士宮市の人口の2倍以上を有すると述べる人が居る。それは全くのウソなのであるが、それが現実になる日が来ても全くおかしくはない。このままのスピードでは、その日も遠くないと言える。

ちなみに、旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併の前年に国勢調査が行われているため、合併直前の人口が分かる。それを以下に示す(国勢調査は1965年、合併は1966年)。



実は旧吉原市の方が旧富士市より圧倒的に人口は多かったのである。つまり、このように言い表せる事もできる。


①旧富士市に対する旧吉原市の人口(1965年):1.694倍
②富士宮市に対する富士市の人口(2025年):1.995倍


この10年の人口推移を見てみると、富士宮市の人口に対する富士市の人口は1.8倍台に迫る場面もあった。それを踏まえると、差が開いてきていることが分かる。

これを"富士市が粘っている"と捉えるか、"富士宮市の減少率が高い"と見るか、はたまた両方と見るのかは人によって分かれるだろう。詳細に分析しているわけではないが、富士市が粘っているのは間違いない。

そもそも、他の自治体においては人口減少が早期に確認される中で、富士市や富士宮市は微増ないし横ばいで耐えてきた優秀組であった。そこすら崩れているところを見ると、地方は相当厳しくなっていくだろう。

インフラの維持など到底できないし、水道普及率をむやみに高める必要などもないだろう。公園なども、むやみに整備するのは考えものである。トイレなどは、公民館や大きい都市公園に限局すべきだろう。何だか高齢の方が声高に公園整備などを要求するが、後の世代のことも考えて欲しいものである。フリーライドを推進する必要性などないのだから。

  • おわりに

旧富士市に対する旧吉原市の人口(1965年)が「1.694倍」と約1.7倍であったのにも関わらず、名称(市名)は少ない方で決定したという歴史がある。この事実は、仮に将来合併議論が発生した際、参考材料になることだろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

14:「旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果

2026年7月15日水曜日

富士市の事例から都会と田舎のスケール感の違いを考える

本稿では都会/田舎論争について考えてみたい。とはいっても、真正面から取り扱うものではない。まず「都会」と「田舎」という定義そのものが難しいのであるが、単純に「東京」から見れば静岡県の各地域はすべて田舎に該当すると言えるかもしれない。

しかしこんな感覚的な話ではなく、あえて定量的なもので言えば、1つの指標を挙げることが出来る。それは交通分担率のうち「公共交通分担率」である。やはり"公共交通機関の充実さ"が都会と田舎の大きな相違点だろう。


富士市特例市平均最大値
9.56%30.13%64.55%(宝塚市)

これは2013年のデータである(富士市2013;p.15)。この数値が10を下回る地域は、少なくとも「都会」からは大きく離れた所にあると見るべきだろう。

そして地域の事象から、都会と田舎のスケール感の違いを感じることができる。ここでは富士市長のインタビューを引用する形で考えていきたい。


この記事は、富士地区で最も手広く展開している新聞社である「岳南朝日新聞」による富士市長に対するインタビュー記事である。しかも新年一発目の目玉記事であり、市長からすれば自らの成果を示す重要な機会となるものである。従って、必然的に成果を全面に打ち出した内容となってくる。では富士市長は何を前年の成果として挙げただろうか?

  1. 中核市移行検討
  2. 新素材CNFの関連産業推進構想策定
  3. タリーズコーヒー誘致
  4. 新富士駅ステーションプラザFUJIへのアスティ新富士の整備

ここで3番目として「タリーズコーヒー誘致」が挙げられている。東京の人からすれば信じられないかもしれないが、これが地方のスケール感である。テーマパークでもなく、大型商業施設でもなく、コーヒーチェーン店なのだ。地方からすれば、市内未出店のコーヒーチェーン店の進出でも、十分に象徴的事象になり得るのである。

  • 田舎者とは何だろうか

高層ビルやタワマンがあるのか無いのかといった、物理的な「モノ」の有無で「都会」とか「田舎」を分けることは簡単だろう。

しかしそれは人間に焦点が当たっていない物差しである。人間に焦点を当てた時、以下のように言えるのではないだろうか。

プロトコールを認知/行使できるのか否か

世の中には「プロトコールの(五大)原則」というものがある。私はこの部分に配慮できるか否かで、田舎的かどうかを決めるべきであると考える。つまり、タワマンに住んでいようが、プロトコールが出来ていなければ田舎者と言えるのだ。

プロトコールは社交的な場で求められるものであるから、場合によっては何も感知しなくてもやり過ごせるかもしれない。しかしそこを感知できるということそのものが「都会的」であって、何処に住んでいる云々というのは意味のない議論なのだ。

以前「静岡県富士宮市の市制施行80周年記念、富士郡大宮町時代から振り返る」にてクレジット(表記)の違和感について触れたことがある。富士地区はこの辺りの儀礼が特に出来ていないように感じる。これらは食事マナーに類するものなのだ。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

13:「富士市の事例から都会と田舎のスケール感の違いを考える」

  • 参考文献
  1. 富士市総務部企画課(2013)『富士市都市活力再生ビジョン』

2026年7月10日金曜日

富士市は本当に落ち目なのか、裏ワザから見る富士市の姿とコストコ進出のデマ

富士市民の方々の話を聞くと「富士市は落ち目だ、もう駄目だ」という話が多く聞かれる。この部分について考えていくというのが、本稿の指向である。

確かに、富士市の人口は減り続けている。それを一番初めに指摘したのはおそらく私であり、「フジブログ」さんの「富士市の人口は減少に転じた!」においても紹介されている。当時、そのようなことを述べている人間は居なかった。ここで「秘密基地なブログ」とあるのが、私が以前運営していたメインブログである。

私は新年度の4月を基準として年単位で追って証明したが(4月1日現在で比較するのが慣例)、フジブログさんは「各前年同月比」を示す形で詳細に示し、また地区別でも追っている。10点満点の内容である。ちなみに当時の富士市職員が作成したスライド・資料には「増加している」とあり、市の現状が全く把握できていないことが垣間見えた。10点中大体3.5点くらいの資料が多い。

ちなみにこの次の年くらいから富士宮市も減少に転じている。実は富士市の方が減少に転じたのは早いのだ。そして富士市には映画館が無い。大きな商業施設も無い。大学も消えた。コメリはある。しかしそれを以って他の自治体と比較した際、相対的に富士市が衰退しているとは言えないのではないだろうか。

というのも、富士市の各指標を他の自治体のものと比較した際、特筆すべき下落はないと思われるからである。世の中には様々な指標が存在している。それらに通じている人ならば、工業であれば「製造品出荷額等」、商業であれば年間商品販売額等」が代表的指標であることは既知のことだろう。

そういう指標を並べて比較してもよいのであるが、それではつまらない。実はもう少し面白い方法があるので、ご紹介したいと思う。


  • 建築物環境配慮計画書から考える

静岡県は平成19年に「静岡県建築物環境配慮制度」を施行した。この制度は、一定規模以上の建築物(工場や商業施設など全部)を建築する場合、面積や環境負荷などを示した「建築物環境配慮計画書」の提出を義務付けたものである。そしてこれは一般に公表され、審査される。


富士市HP


簡単に言えば、大きな建物を建てる場合、届け出が必要なのである。ということは、その地に需要があれば、計画書がどんどん提出されるはずなのである。これを確認するという方法が「裏ワザ」である。ちなみに、商業施設の規模なども早期に公表されているので、ここを確認すれば誰よりも早く商業施設面積等の規模が把握できるといった裏ワザでもある。重ねて言えば、コストコ進出がデマであることも、ここを見れば一目瞭然であった。

そしてそれらを見るに、富士市はそれなりに需要があると判断するのが普通である。ここでは富士市と富士宮市を比較してみよう。


富士宮市HP



…と思ったが、富士宮市が全く仕事をしておらず、もはや「令和7年度届出分」の項目すらない(皆無とは考え難い)。富士市は「令和8年度届出分」すら存在するというのに。また富士宮市の「令和6年度届出分」は以前は見ることができたが、今は「Not Found」である。これでは届出の有無すらよく分からないし、内容も分からず、比較も難しい。本当に呆れるばかりである。

比較は諦めるとするが、富士市の例で考えた時、同じような規模で企業進出・新築が見られる自治体の方が少ないのではないだろうか。もっと言えば、計画書の提出が義務付けられる程の建築物は、ここ5年新規で無いという地域も全国ザラにあるのではないだろうか。

例えば近年も富士市には工場が多く建設されているし、富士宮市も「アクロスプラザ富士宮」が新規開業するなどした。こういうようなものが、もう10年くらい無いなんて地域の方が多いはずである。だから相対的にみて、衰退しているとは言えないはずである。もはや富士市は、相対的に見れば元気といっても過言ではない。むしろ危惧すべきは、文化レベルの方である。

  • 人口減少のペース

富士市の人口減少を問題視する先鞭となった私が言うのも何であるが、そのペース自体は思ったより緩やかと言えるのではないだろうか。


富士市HPより


私は今年くらいの段階では人口は23万人を切っていると考えていたし、もっと下回っていてもおかしくないと考えていた。おそらく転入も一定数有しているため、ここまでに留まっていると考えられる。

ちなみに、世帯数の増加より、人口が増加していることの方がよっぽど重要である。詳細な分析は、他にお願いしたい。


  • おわりに

本投稿の本質に直接関係はないが、富士宮市の姿勢がよくわからない。もう令和7年は終わった。なのに項目が無い。仮に新規に無かったとしても、項目は設けるべきだろう(皆無ということは考えづらい)。富士市は令和8年度の項目すらあるというのに。こういうところなのだ、としか言いようがない。

結論、落ち目は皆同じで、特段富士市が目立つというようなものでは無いということなのである。ちなみに富士市も富士宮市も、明らかに「年間商品販売額等」が弱い。簡単に言えば、消費が少ないのである。これが富士地区の弱点であったりもする。もし富士市に嘆くのであれば、消費をいっぱいして、「年間商品販売額等」に貢献するというやり方もあるのだ。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

12:「富士市は本当に落ち目なのか、裏ワザから見る富士市の姿とコストコ進出のデマ」

2026年7月7日火曜日

富士市が舞台のゴジラ作品、えんとつ町の悪臭と市民エントツ調査

本稿では、世に出ている作品群において、富士市はどのような形で取り上げられているのかという点を見ていきたい。そして、その背景についても考えてみたいと思う。

(宮下2004)は、富士市を取り上げた近代文学を紹介している。とても参考となるものであるが、その中に以下のような箇所がある(宮下2004;p.40)。


その後、工業都市として富士市は発展したが、「新・東海道五十三次」(昭44)を著した武田泰淳は、大気と河川の汚染や悪臭等の公害の実態を見据え、一方で労働に従事する現地の人々への敬意も表明して、矛盾する両者を止揚するかのように巨大な風車の設置を夢想したりしている。

実は私は、この「富士市60周年シリーズ」を通して、ここでいうような「矛盾」を描出したいと考えている。そして現代の人間が象徴とするそれらが、果たして文明的な手続きを以ってなされたのかを再考する必要性があると考えている。

難しい話はいいとして、実際に『新・東海道五十三次』を見ていこう(武田1969;p.79)。

富士市で製紙工場と機械工場。(中略)「わたし。はじめは臭いなあ、臭いなあと思ってたけど、しまいには臭くなくなったわ

富士市に入った時は鼻をひんまげていた彼女が、富士市を出る時には平気になっていた

富士市は臭い…こんなことは当地の人間および周辺の人間であれば誰もが知っていることである。その証左といえるものが1992年の富士市による「市民エントツ調査」である。(秋山2024;p.14)には以下のようにある。

また、工業都市(静岡県富士市)の市民意識調査において、地元に「帰ってきたと感じるとき」を答えてもらう質問では、選択割合の大きいほうから、1位「富士山」に次いで、2位「エントツ群」、3位「におい」であり、「市のシンボル」についての質問では、同様に1位「富士山」に次いで、2位「エントツ群」、3位「田子の浦港」だった。「エントツをどう思うか」についての質問では、同様に1位「公害」、2位「紙の町」、3位「産業」だった。工場群の「エントツ」と「におい」について、公害のイメージと併存しつつ懐かしい地元のシンボルという両義性が社会意識にみられる。

つまり富士市民にとってはエントツは象徴であり、臭いものという認識が根強くあるということが分かる。富士市が正真正銘、真髄からの"エントツ町"であるということが分かる調査である。

昭和41年(1966)、既に悪臭を放っていた田子の浦港にて、あるプロジェクトが始動した。(富士市1986;p.952)には以下のようにある。

しかし、港内の浚渫土砂からでる硫化水素の悪臭を除去するために、臨海総合開発事務所では新鋭の25馬力大型送風機を備えて、悪臭を海の彼方へふっとばそうという計画のテスト中であった。(中略)浚渫作業中のヘドロからでる悪臭を、海の彼方へ強力な送風機で吹き飛ばそうとする試みも、3~4回テストを繰り返したが、成績はかんばしくなかった

こんなことで消える悪臭ではないのである。しかもこの頃の悪臭は、後のそれと比べれば大分マシなものであったと言われている。

この公害および悪臭は、ついにゴジラ作品の題材となった。それが伝説の映画『ゴジラ対ヘドラ』である。


この作品は年々評価が高まっており、もはやゴジラ映画の代表作の1つにもなっている。その一部シーンを見てみよう。

『ゴジラ対ヘドラ』の冒頭シーン

ヘドラによって被害を受けた富士市のエリア(途中情報)


このように、完全に富士市が舞台の作品である。題材となったというだけでなく、そもそも富士市が舞台となっているのである。文学・映像作品といったものにおいて、富士市の場合は「公害」という側面から取り上げられることが少なくなかった。この傾向は富士市固有のものである。

ヘドラという存在は、「田子の浦港ヘドロ公害」を回顧させるアイコンとして人々の中に存在し続けることだろう。

  • おわりに

11:「富士市が舞台のゴジラ作品、えんとつ町の悪臭と市民エントツ調査」

  • 参考文献
  1. 武田泰淳(1969)『新・東海道五十三次』、三陽社
  2. 富士市(1986)『富士市二十年史』
  3. 宮下拓三(2004)「富士市・芝川町」、『静岡近代文学』19号 、静岡近代文学研究会
  4. 秋山憲治(2024)「感じ入る風景の発見と定型化-工場風景をめぐって-」『静岡理工科大学紀要』Vol.32

2026年7月1日水曜日

富士市内の素晴らしき資産、本当の魅力を考える

まず富士市は、「愛鷹連峰」に属する地域である。例えば愛鷹山は「都道府県自然環境保全地域」に登録されているが、その関係市町として「沼津市・富士市・裾野市・駿東郡長泉町」が記されている。

むしろ富士市は愛鷹連峰を語るにおいては重要な存在と言え、例えば連峰の中の最高峰である「越前岳」は、富士市・裾野市に位置している。同山は環境省選定「富士山がある風景100選」に地点名「越前岳富士見台」として選ばれているが、当然ながら「裾野市・富士市」が所在地として記される。一方、ネットではもはや越前岳は富士市に属さないことにされている始末である。

しかしあまりにも、それはもうあまりにも、この一帯に対する志向が富士市民の中で少ないように思える。これは妙な話ではないだろうか。例えば最近の富士市のニュースとして、以下のようなものがあった。


朝鮮半島でも珍しい 静岡県富士市の古墳で出土、百済ルーツの帯金具(朝日新聞WEB版 2026年5月7日 10時13分)
 静岡県富士市の須津(すど)千人塚古墳で、古代東アジアの交流を考えるうえで貴重な金銅製の帯金具が出土した。朝鮮三国時代の古代国家・百済の後期に、官人の身分を表すために使われた●(「金」へんに「誇」のつくり)帯(かたい、帯の飾り金具)の一種とみられ、日本国内での出土は初めて。富士市が7日に発表した。
 須津千人塚古墳は直径21メートルの円墳。駿河湾の奥、愛鷹山(あしたかやま)の山麓(さんろく)に広がる須津古墳群(総数約200基)のうちの有力古墳だ。発掘調査は2024年度に行われ、その後、出土遺物の保存処理を実施したところ、文様などが判明した。(以下略)

この大発見も、愛鷹山の山麓のものである。であるから、この一帯は文明的な地域であったはずであり、富士市の歴史を語る上でも重要な地域であるはずなのである。

富士市の素晴らしさは、どちらかと言えば自然の中にあるように思う。また外部から来る人も、当地にアーバンな要素など何一つ求めていないはずである。富士市で自慢できるものは、自然の中にこそあると見たほうが良いし、これが普通の思考だろう。以下に富士市における素晴らしい要素・資産等を3つ挙げたいと思う。


  • 越前岳

環境省選定「富士山がある風景100選」にも選ばれている。人気の山であるが、富士市にも属することは殆ど知られていない。

初心者向けではあるが、一応の装備をもって挑むべき山である。


  • 銀杏地蔵

富士市富士岡所在。乳信仰」を有する銀杏であり、(児島2018;p.82)にも記されている。通称「銀杏地蔵」。とても美しいものがある。


  • 笹垢離(ささごり)
「大宮・村山口登山道」の中継地点の1つ。地蔵三体および不動明王像一体が位置する。ちなみに(富士山世界遺産センター2021;p.88)は刻文「角田屋/施主大宮 儀右衛門…」の地蔵を「頭部欠損」とするが、現地で刻文を確認した限り、頭部欠損の地蔵の刻文は「大宮角田屋佐野与一…」とあるため、これは誤りと思われる。

笹垢離の地蔵(頭部欠損)の刻文


神聖なエリアで、高鉢駐車場(富士宮市)からアスセスすればそれほど難易度は高くない。

  • おわりに
本稿では富士市の三ヵ所を挙げてみたが、素晴らしい場所は他にも存在する。越前岳は厳冬期以外、銀杏地蔵は秋頃、笹垢離は夏季がオススメである。

10:「富士市内の素晴らしき資産、本当の魅力を伝えたい」

  • 参考文献
  1. 児島恭子 (2018) 「イチョウ巨樹の乳信仰ー歴史研究の資料に関する課題ー」『札幌学院大学人文学会紀要』第103号、73-85
  2. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2026年6月29日月曜日

富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換

本稿では富士市、正確に言えば「富士町」が「えんとつ町」になるまでの一側面を見ていきたいと思う。

旧富士町が"製紙のまち"となる過程について論じた論稿は様々存在しているが、農業の視点から見たものについては(関1958)に詳しい。以下、主に同文献を引用する形で話を進めていきたいと思う。まず、冒頭には以下のようにある(関1958;p.17-18)。


調査部落Mは国鉄富士駅より徒歩20分の北方に位置する。富士市には本州製紙・大昭和製紙・大興製紙の各工場はじめ大きな工場があって、(中略)駿河湾にそそぐ富士川、潤井川による沖積土からなる富士市一帯は古くは加島五千石の中心をなしていたところである。 
明治42年東海道線富士駅の開通、これに先だつ富士製紙工場(現本州製紙富士工場)の誘致成功などが商工都市へのスタートになるまでは平凡な農村であった。(中略) 
調査部落Mは幕藩時代から明治初期にかけてはこの辺の中心であったものが、富士駅を中心にした部分が市街地として発展してしまったので、いまでは町のはずれのような具合となっている


この調査部落Mとは、明らかに「本市場(もといちば)」のことである。そして論稿にあるように、時代が下るにつれ純然たる「農家」ではなく「兼業農家」へと移行する例が増えている。そしてそれを更に促進させる存在として「製紙工場」があった。

製紙会社と農家がどう関係するのかということであるが、"製紙会社による農地の買収→その持ち主の製紙工場への就職"ということが頻繁に行われていた事実がある。これについては、以下のようにある(関1958;p.10-19)。


そこでまず戦後はこの本州製紙工場にはかぎらないが本州製紙に容易に就職できないという事実である。この辺の農家で男の子を本州製紙に入れられるのは、本州製紙が拡張のため農地を買収するさいの交換条件として受け入れられることぐらいしか機会がないのである。そして事実この6・8・10番農家はそれぞれ四反七畝、四反、三反五畝とこの4・5年の間に耕地を買収されているのである。

ちなみに「4反」は1,200坪というから、かなりの面積である。当時、製紙会社への就職は「間違いのないルート」であった。つまり製紙工場の存在は、農業地帯からの転換を一気に推し進めた存在であった。そもそも工場の敷地の多くは旧農地であると思われるし(工場は誘致した)、その周辺もそうであると考えられる。

"この4・5年の間に耕地を買収されている"とあるが、この論稿は1958年ものなので、丁度富士市および旭化成による「1戸1人制度」の頃と重なる(「富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について」)。

人々の交流を有し、商店などを中心として成り立ってきた大宮町(富士宮市)や吉原町(旧吉原市)とは異なり、富士町(=旧加島村)は農地からのよりダイレクトな用地転換があったと考えられる。

※ちなみに「本州製紙富士工場」は「大王製紙」→「王子板紙」→「王子マテリア富士第一工場」→「現・王子マテリア富士工場」のことである。

それと共に、農業を取り巻く状況は大きく変わっていった。(笠井1964;p.60-61)には以下のようにある。


かつての富士市は「加島五千石」と言う名からもうかがわれるように往時から広大な沖積層と、豊富かつ良質な水を利用した農業と、田子浦海岸一帯の沿岸漁業を産業の主体としていた。とくに「富士梨」(明治25年頃から)の本場として有名なところで、かつては三百五十町歩に達する栽培がおこなわれたこともある。また最近まで近郊蔬菜としての富士早生カンランも相当の生産量をあげてきた地帯である。だが、明治39年を契機として、新しい発展、製紙工業の中心の時代を迎えた。(中略)この数年来の富士市は、全耕地千三百八十町歩(一戸当たり約六反歩)のうち、年々五十~六十町歩の農地が、工業用地や、宅地に転用されている

当論稿は1964年のものであるが、当時かなりの農地が転用されたことが分かる。また富士早生カンランは「キャベツ」のことである。(関1958;p.17)には以下のようにある。

旧富士町(昭和29年市制施行)が加島村と呼ばれていた当時(昭和4年町制施行)から、この地は富士梨の産地として全国にきこえていた。大正7~8年頃がもっとも盛んな時で、当時調査部落Mでも、耕地の3割くらいが梨畑で占められる盛況であった。

ところが、昭和7年頃に大虫害が発生して、当時の技術水準をもってしては、将来の見通しが立たないほどの大打撃を受けてしまった。そこで、目先の利いた連中は、蔬菜同志会というのを結成して、梨にかわるべき適当な商品作物を物色することをはじめた。

そしていろいろ試みて結局甘らんの導入に成功し、梨にかわって甘らんの生産に重点が移っていって今日にいたった

大虫害に晒された富士梨に代わる農作物を模索し、キャベツの生産に辿り着いたとある。加島五千石があったからこそ、ブランド化できたのである。一方で、以下のような論稿も存在する(清水2026)。

一方、静岡県富士郡富士町(現・富士市)では、産業組合が主体となって1924(大正13)年に東京府南葛飾郡奥戸村(現・葛飾区)の民間育種家・中野庫太郎から「中野(中野早生)」の種子を譲り受けて育採種に着手し、1933(昭和8)年までに同じく水田裏作に適した「富士早生」を育成した。同地では,春先の端境期に出荷される「富士早生甘藍(キャベツ)」の産地形成と並行してキャベツ採種業も急速に成長し,西南暖地への秋播きキャベツ種子の一大供給地となった。

1924年はまだ富士町は存在していなかったため訂正した上で記すと、大正13年(1924)に加島村の産業組合が種子を入手、町制施行後の昭和8年(1933)頃には富士早生の育成に漕ぎ着けたとある。

互いの論稿を読むに齟齬があるように思えるが、富士早生の育成はこの辺りの年代であろう。

  • おわりに

富士市が「えんとつ町」となる軌跡としては、「富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える」にあるように製紙会社の進出もあるが、農地の積極的買収も挙げられる。それらの土地は工場用地として利用された。ここに、その広大な農地を称して呼称された「加島五千石」は終焉を迎えたと言える。

9:「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」

  • 参考文献
  1. 関英二(1958)「兼業と農家の機械化」『農林統計調査』1958年4月号、農林統計協会、10-19
  2. 笠井文保(1964)「新産業都市の建設と近郊農村の変貌 -東駿河湾地区・富士市の事例-」『農村研究 第19号』、東京農業大学農業経済学会、57-70
  3. 清水克志(2026)「大正期から昭和戦前期における秋播きキャベツ品種の普及」『地理要旨集 2026s0』

2026年6月26日金曜日

富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る

 まず、以下の画像を見て頂きたい。




画像にあるように、「平成の大合併」にて富士市は富士川町を編入し、富士宮市は芝川町を編入した。静岡県における平成の大合併の締めくくりが、富士宮市の例であった。本稿ではこの合併劇自体ではなく、その過程およびそれ以降に富士市が富士宮市に対して行ったアプローチの方に着目したいと思う。

まず富士市はこれまで、富士宮市に合併話を持ちかけてきた歴史があるということは、周知の事実である。これに対し、富士宮市は除けて来た形となっている。とはいっても、富士宮市としても、荒唐無稽な話として受け取っているというわけでもない。以下に、その経緯を示してみたいと思う。



  • 小室富士宮市長の代
 
まず2009年の富士市長選挙において、現職の富士市長が富士宮市との合併を公約に掲げていたことが知られる。

富士市長、富士宮市と合併をめざす(2009/11/5 17:40 静岡第一テレビ) 
次の富士市長選挙への出馬を表明している現職の鈴木尚市長が5日公約発表会見を開き、富士宮市との合併を目指すことを明らかにした。会見で鈴木市長は3期目は「富士山を中心に風格ある都市」を目指すことを発表しました。具体的な取り組みとして、富士宮市と合併し、一定の財政規模を持つ自立した自治体作りを考えているという。合併の時期や方式はまだ決まっていないが、鈴木市長は「富士宮市と芝川町の合併後できるだけ早く準備を進めたい」と話している。(以下略)


富士市長は公約に"富士宮市との合併"を掲げ、その上でそれを急ぐ考えも示した。

(静岡新聞WEB版 09/11/05)
富士市の鈴木尚市長は5日、3選を目指し出馬を予定する今年12月(同月13日告示、20日投開票)の市長選の公約発表の中で、来年3月の富士宮市と芝川町の合併が成立した後、なるべく早い段階で新富士宮市に合併を呼び掛けていく考えを表した

合併を目指す理由については、地方分権・主権の流れをにらみ、「市民に良好なサービスを提供するためにも、基礎自治体が自立できる強い自治体になることがますます求められてくる」と説明。将来的には山梨県側の市町村を含めた富士山ナンバーエリアの「環富士山」都市の合併も展望として掲げた上で、昨年の旧富士川町との合併に続く広域都市実現の取り組みとして、新富士宮市との合併を目指す考えを示した

富士宮市をまず、合併相手とする理由については、「経済圏、生活圏が一致し、行政面でも連携や、人事交流もある」と指摘。次の段階の連携として、「東部地域が将来どんな都市を目指すのかまだ分からないが、将来、政令都市ができればありがたい」との言葉を織り込みながら、これまで連携が少なかった沼津市との連携強化も進める考えを表した。同市長選に出馬を表明しているのは現在、鈴木氏だけ。

富士市長の、合併に対する強い意欲が見て取れる。それに対し、富士宮市の反応はどのようなものだったのであろうか?

鈴木市長の合併発言 小室市長も前向き姿勢示す(富士ニュースWEB版 2009-11-12)

富士市の鈴木尚市長が12月の市長選に向けた公約の1つに、芝川町との合併後の新富士宮市との合併を盛り込む考えを明らかにしたのに対し、富士宮市の小室直義市長は12日の定例会見で「行政の広域化事業を進める上で、従前から富士市との合併の必要性は認めている」と前向きな姿勢を示した。 ただ、来年3月に芝川町との合併が予定されているため、「まずは芝川町との合併をしっかり進める。事務的な手続き、市町の融和策に意を砕いている最中。富士市との合併は、芝川町との合併が一段落した次の段階だと考えている」とした。 鈴木市長とのこれまでの話し合いでは、「県の合併推進構想で富士市、富士宮市、旧富士川町、芝川町の2市2町の組み合わせが示されたのを起点に、日常会話の中で将来的な合併についての話をしてきた」としながら、「鈴木市長がいつ、どのような形で合併を考えているのか分からないので、こちらは判断しかねる」と語った。

これは簡単に言えば"富士宮市としては、富士市との合併は今は真面目には考えていません"ということになる。もし真面目に考えていたら、このような枕詞は無く、もう少し違うコメントが出てくるだろう。さて、無事に鈴木尚氏は再選したわけであるが、その後の合併に関するコメントを見てみよう。

富士宮市との合併「自然」 「機運の高まり重要」 富士市長(静岡新聞WEB版 2010/03/05)
富士市の鈴木尚市長は4日、市議会2月定例会の施政方針に対する質問に答え、富士宮市との広域合併の検討方針に ついて「経済圏や生活圏などで一致する市との合併は自然な流れ」と述べ、「市民の機運の高まりが大変重要」として市民が地域の将来を考えるために必要な資料を提供していく考えを示した。平成の大合併を進める基礎になった市町村合併特例法は本年度で区切りを迎える。しかし、鈴木市長は少子高齢社会の進行や、地方分権改革の流れを踏まえた上で「市が持続的に発展するには、より高い自治能力と多くの権限を有する都市への移行が次に目指すべき方向」と指摘。「合併は行財政基盤強化の手段の一つとして今後もなお有効」と述べた。 施政方針で市政運営の基本理念に挙げた「富士山を中心とした風格ある 都市(まち)」については、「広域合併そのものを意味したものでなく、富士山を取り囲む自治体が結び付きやネットワークの強化を図ることで、揺るぎない存 在感と求心力を持った都市ができるとの考えに基づいたもの」と説明した。

当選後、公約である富士宮市との合併を進めようとしていることが分かる。またコメント内容から考えるに、富士宮市間と合併に関する具体的な共通認識はその時点では有していないものと考えられる。

つまり、この時点で富士宮市と合併話は進んでおらず、富士宮市に対して必要性を訴えるという状況に留まっていることが分かる。

  • 新富士宮市長誕生

先の記事で登場した小室市長は引退を表明し、2011年4月の富士宮市長選挙にて須藤氏が当選した。富士市長が合併を公約に掲げていたこともあり、須藤新市長に対してそれらに関する質問が相次いだ。須藤市長の回答は以下の通りであった。

須藤・富士宮市長 富士と合併「4年はない」(読売新聞WEB版 2011年5月10日)
4月の富士宮市長選で初当選した須藤秀忠市長が10日、初の定例会見に臨み、「任期の4年間で富士市との合併はないと言っても過言ではない」と述べ、任期中の合併を見送る姿勢を示した。理由については「市民の機運がそこまでいっていない」と説明した。

富士市の鈴木尚市長は合併に前向きで、同日午前の定例会見では「須藤市長に直接会って合併を視野に入れた連携強化を申し入れる」と述べていた。

須藤市長は「鈴木市長の申し入れは真摯(しんし)に受け止める。合併の話になった時にばたばたしないためにも、電算システムの共通化などは進めていきたい」と述べ、合併に向けた環境整備は進める考えを示した。

「自分の任期中に合併しない」ということは、数年単位のレベルで合併を協議しないという意思を示したことになる。つまり富士宮市は、合併に意欲的ではないことが分かる。

記事に見える富士市長の"同日午前の定例会見"とは、以下のものである。

富士宮市との合併 視野に入れた連携を(富士ニュースWEB版 2011-05-10)
鈴木市長は富士宮市の須藤秀忠新市長に対し「富士山ネットワークの連携から一歩踏み出し、合併を視野に入れた連携強化を提案する」と見解を示した。(抜粋)


富士市長が新富士宮市長誕生に際して動かないはずもなく、改めて合併を協議したい意向を示している。富士市長は一貫して合併に意欲的で、この時は富士宮市も市民レベルで会話が発生していた。そして、マスコミの注目度もかなり高まっていた。


  • 富士市と富士宮市の連携強化

やがて富士市が先頭に立って、富士宮市との連携強化を図る取り組みが進められるようになった。その一例が、以下のようなものである。

富士と富士宮が連携強化で市長合意 合併視野に消防の広域化など(2011年6月3日)
富士市の鈴木尚市長と富士宮市の須藤秀忠市長は2日、富士市役所で会談し合併問題で意見を交わした。鈴木市長は本紙などの取材に「合併を視野に入れて行政面などでの連携を強化していくことで合意した」と述べた。 鈴木市長によると、須藤市長に対し「将来の合併をにらんで連携の強化を進めたい」と申し入れた。「当面は消防の広域化など、行政面で富士・富士宮の一体化を進めよう」と提案したという。須藤市長は「自分の任期中には合併しない」と答えたものの、「(富士地域に)強い自治体をつくらなければならない」と応じたという。(抜粋)

富士市長は相当意欲的であるが、富士宮市はそこまでには至らないことが分かる。富士市長も、富士宮市は合併に前向きではないということを、この時点で察していたことは言うまでもない。

富士市・富士宮市 指令業務を共同運用へ(2012-07-26 富士ニュースWEB版)
富士市と富士宮市は25日、消防救急の広域化に向けた任意の協議会を立ち上げた。平成28年5月末までに消防救急無線のデジタル化が迫られるため、基本方針として両市で消防救急無線のデジタル化と消防指令施設(指令センター)を共同で整備し、指令業務を共同運用する体制を構築することを確認した。指令センターは富士市消防防災庁舎3階に設置する方針で、28年3月末までの運用開始を目指す。協議会では、指令センターの共同運用のメリットとして▽災害対応の強化▽財政上の効果▽指令業務職員の効率的配置―の3点を挙げる。(抜粋)

上の記事にあった消防の広域化が具体化している様子が見える。富士市としては、これらを足がかりに、合併に繋げたいということなのであろう。

  • 現職富士市市長が任期満了で退任、新富士市長誕生

2013年12月の任期満了に伴う富士市長選挙において、現職の鈴木氏は出馬しないことを明らかにした。おそらく合併に前向きでない富士宮市を見て、踏ん切りがついたものと思われる

この選挙においては、小長井氏が初当選を果たした。以下は2014年3月の富士市議会定例会の発言である。

【3月5日定例会】

Q(石橋議員):将来の中核市の移行を視野に新たな自治体連携の仕組みである地方中枢拠点都市制度などを研究して参りますとしておりますが、今後予想される富士市と富士宮市との話し合いは、合併も重要な検討材料としていく考えはあるのかお伺い致します。
A(小長井市長):人口減少や少子高齢化の進行、都市間競争の激化、都市インフラの老朽化など地方自治体を取り巻く環境は依然として厳しい状況にあります。本市が市民の皆様に将来に渡って充実した行政サービスを提供していくためには、どのような社会状況にあっても、持続可能な基礎自治体であることが必要であると考えております。  
一方生活圏や経済圏を共有する富士宮市との関係におきましては、住民票の相互交付や職員の人事交流、合同研修などを実施しており、近年では広域災害への対応強化を図るため、共同消防指令センターの整備や、行政コスト縮減を目的とした電算処理システムの共同化など、これまで以上に行政連携の強化を図っております。

今後も新富士駅へのひかり号停車や、身延線延伸など両市に共通する課題の解決に向け、新たな取り組みを展開することで、広域連携を強化し、絆をより深め、岳南都市圏としての一体化を要請して参ります。本市の将来的な方向に関しましては、多様な市民ニーズに柔軟且つ持続的に対応するため、人口要件の緩和が見込まれる中核市への移行を視野に入れ、自治能力の拡大を図りたいと考えております。また富士宮市との合併につきましては、重要な検討課題と認識しておりますが、それには両市民の機運の高まりが欠かせず、多くの皆様の賛同と、慎重な議論が必要なことから、広域連携により絆が深まったその先にあるものと考えております。 
このことからまずは、広域連携の強化へ向け、財政処置が厚く、連携施策の自由度が高い国による新たな支援策、地方中枢拠点都市制度などを研究・活用し、富士地域の魅力向上と発展に結びつけて参ります。

富士宮市のこれまでの姿勢は十分に承知しているので、合併に関して強く推進する様子は見られない。

【3月6日定例会】

Q(小池議員):電算や消防指令の面で富士宮市との共同化が進んでいるが、生活圏や流域が重なる富士宮市との連携や合併について、市長はどのような考えか
A(小長井市長):人口減少や少子高齢化の進行、都市間競争の激化、都市インフラの老朽化など地方自治体を取り巻く環境は依然として厳しい状況にあります。本市が市民の皆様に将来に渡って充実した行政サービスを提供していくためには、どのような社会状況にあっても、持続可能な基礎自治体であることが必要であると考えております。 
 一方生活圏や経済圏を共有する富士宮市との関係におきましては、住民票の相互交付や職員の人事交流、合同研修などを実施しており、近年では広域災害への対応強化を図るため、共同消防指令センターの整備や、行政コスト縮減を目的とした電算処理システムの共同化など、これまで以上に行政連携の強化を図っております。  
合併につきましては両市民の機運の高まりが欠かせず、多くの皆様の賛同と、慎重な議論が必要なことから、広域連携により絆が深まったその先にあるものと考えております。今後も新富士駅へのひかり号停車や、身延線延伸など両市に共通する課題の解決に向け、新たな取り組みを展開することで、広域連携を強化し、絆をより深め、岳南都市圏としての一体化を要請して参ります。

少なくとも、前鈴木市長のようなトーンではないことは明らかである。また小長井氏は(須藤・小長井2020;p.7-8)で以下のように述べている。

富士市では平成26年度から現在に至るまで、隣の富士宮市とともに住民基本台帳や税など14の基幹系業務、40を超えるパッケージシステムの共同化を行っています。(中略)我々も広域的な連携・協力については、これまでも議論をしてきたところです。富士市と富士宮市は、「岳南地域」という枠の中では生活圏も経済圏もほぼ同じで、これまでスムーズに連携してきました。その枠組みや連携をさらにどう発展していくか、今後考えていきたいと思います。

確かに、生活圏と経済圏はかなり一致していることは間違いない。

  • 2017年の富士市長選挙 

平成29年(2017)12月24日に、任期満了に伴う富士市長選挙が行われた。このタイミングで富士宮市長は記者に「合併の意思があるか」を問われ、以下のように答えている。


市長定例記者会見(平成29年12月)


須藤市長は「合併は全く考えていない」と明言している。そもそも富士宮市は、合併に対して前向きになったことが無い。小室市長の代も須藤市長の代も、戦略的沙汰止みをしていたものと思われる。平たく言えば、端から合併する気など無かったわけである。


  • おわりに

富士市が合併に極めて前向きで、富士宮市が消極的という歴史を見てきた。また小長井市長は「新富士駅へのひかり号停車」「身延線延伸」を"両市に共通する課題"としているが、これはひとえに富士市内の課題である。これを独力で成した場合は、より強固な生活圏の一致が認められると言え、将来的に合併議論が再燃する可能性はあるだろう(ひかり号停車は特段求めないが)。

個人的には合併には何よりも"生活圏の一致が見られること"が重要であり、それが公共交通機関においてもある一定レベルで認められている場合、はじめて議論がなされるべきであると考える。

8:「富士市からの富士宮市に対する合併要請の歴史を振り返る」

  • 参考文献
  1. 須藤・小長井(2020)「須藤修×静岡県富士市長小長井 義正“生涯青春都市 富士市”の実現に向けて」『月刊J-LIS 令和2年2月号』、地方公共団体情報システム機構、4-8

2026年6月24日水曜日

富士市では何故サルの群れの目撃例が多いのか、サル生息の歴史考

富士市においては、度々「ニホンザル」のニュースが話題となることがある。私も富士市にはサルのイメージがある。


例えば、以下のようなものが該当する。


「サルの群団」中学校に侵入 親子含む16匹 静岡・富士市 
毎日新聞WEB版 2019/9/9 16:31(最終更新 9/9 18:19)

 9日午前6時半ごろ、静岡県富士市の市立吉原北中学校にサルの群れが侵入し、校舎の壁などを伝って屋上の避雷針によじ登るなどした。同校によると、赤ちゃんザルを背負ったサルもおり、群れは計16匹だったとみられる。教員や近隣住民が見守る中、警察官らの誘導で約45分後に山の方に逃げていった。(以下略)


これらの題材を以って、富士市と「サル」の関係について考えていきたい。

  • 各調査から見るサルの分布

富士市におけるニホンザルの分布を示す資料として、大正12年(1923)の東北帝国大学による調査「全国ニホンザル生息状況アンケート調査」がある。この調査では、富士山周辺では山梨県南都留郡・静岡県駿東郡・静岡県富士郡から回答があったという。

では富士郡の調査結果はどのようなものであったのだろうか。まずこの調査では、山梨県南都留郡等では生息情報はなかったという。逆に富士山周辺で唯一生息情報が寄せられたのが富士市域である。(吉田2012;p.102)には以下のようにある。

静岡県側では富士郡須津村(現在の富士市中里付近)に少数の個体の目撃情報があったのみである。さらに富士郡上井出村(現在の富士宮市上井出付近)では、「十数年前までは多数棲息していたが現今はその姿はない」と記載されている。

周辺地域では生息しなくなったのに富士市域では認められるということは、それだけ生息のための条件が整っているということなのだろう。地図をみれば分かるように、富士市は富士宮市と比較すると北方の標高が高い。それが好環境となっているのだろう(「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」)。

しかし上の記事にもあるように、現在富士市域では少数の個体どころか頻繁にサルが目撃されている。また周辺地域も無というわけではない。(吉田2012;p.102-103)には以下のようにある。

環境省自然環境局生物多様性センター(2004)によると、昭和53年(1978)の調査時には富士山にサルは分布していなかったが、平成15年(2003)の調査時には富士山南斜面にサルの分布が確認されている。これは、昭和53年(1978)に生息が確認されていた愛宕山の個体群が、北方に分布域を拡大し、富士山南斜面に移入したためと考える。

この論稿の筆者は、サルの分布の拡大により人間生活や生態系に深刻な影響をもたらす可能性があるとし、こまめなモニタリングと被害対策が必要であると述べている。それが、富士山におけるサルの保護管理にとって重要であるとしている。

  • おわりに
7:「富士市では何故サルの群れの目撃例が多いのか、サル生息の歴史考」

  • 参考文献
  1. 吉田洋(2012)「富士山の野生ニホンザルー分布の変遷」『富士山を知る辞典』、富士学会

2026年6月22日月曜日

富士市の方言・花一匁・旧暦風習・鬼決め歌について考える

本稿では富士市の「方言」「花一匁」「鬼決め歌」「旧暦風習」の4つを取り上げ、富士市の特徴を考えていきたいと思う。つまり"民俗回"である。



  • 方言


富士市の方言について史資料の側面から考えた時、先ず想起されるのは山中共古 『吉居雑話』であろう。これは民俗学者である山中が明治40年(1907)から同45年(1912)に吉原町に住んでいた際、同地で見聞きしたものを記したものである。ここに「吉原辺方言」(山中1984;p.101)と「大宮方言」(山中1984;p.28-29)が記されている。

「吉原辺方言」は「大宮方言」と比較すると記される例はかなり少ないが、『吉居雑話』には吉原の地で確認された童謡や歌などが多く記されており、あくまでも方言に限局した場合は少ないという話である。吉原辺の方言として、以下の3つが記される。

  • アカシヤ(ダボハゼ魚)
  • ヒルンベ(蛭)
  • ハンナ(花)

現在、これらは用いられているのであろうか?

また『吉居雑話』の与えた影響は大きく、柳田國男は1918年の論稿「農に関する土俗」で引用し、中山太郎は1925年の論稿「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」で引用するなどしている。

また中山の名著『日本巫女史(にほんふじょし)』(1930年)でも複数箇所引用され、玉渡神社の虎御前伝承に関わるもの(中山2012;p.430)や、臭気の払いに関する考察の引き合いとして(中山2012;p.500)にて引用するなどしている。後者は、方言ではないものの、それに類するものと言える。

  • 花一匁(はないちもんめ)

花一匁については、Wikipediaには「江戸、明治、大正時代には同じ遊びが確認できない」とある。しかし、そうだろうか。例えば(山中1984;p.14)に、吉原の子どもたちの遊びの文言が記されているが、これは明らかに「花一匁」である(但し、「はないちもんめ」という言葉自体はない)。以下にその文言を掲載する。

吉原ノ子供遊ヒノ子買ヲ子カヲ、女ノ子供往来ノ左右ニ別レテイフ、

右 ヨーカ、コカ、
左 ドノコガホシイ
右 ヲ〇〇サンヲホシイ
左 ナニクレテソダツ
右 砂糖ノ饅頭
左 ソリヤ虫ノ毒ヨ
右 天カラヲチタカマボコ三キレ
左 ソリヤマタホ子ポイ
右 ホシテクレリ
左 チヨチヨムシタカル
右 アカイマントゝソエテクレル (イナイテコイ)カアカトトンデコイ

呼レシ子供向側ヘカケテ行キ、又クリカヘシイフテ遊ブ、

「子買ヲ子カヲ」は山中の言葉で、「子買わ 子買わ」と言った方が分かりやすいだろうか。よく意味が分からない部分もあるが、おそらく「右」が鬼の立ち位置で、「左」が鬼の要求に対抗するという問答の遊びと思われる。

以下に、私なりの解釈を示してみた。

右 ヨーカ、コカ :「子買い」の意味か?
左 ドノコガホシイ :「鬼」に対し要求したい人物を聞く
右 ヲ〇〇サンヲホシイ :「鬼」はそれを答える
左 ナニクレテソダツ :ただではあげられないと、要求する
右 砂糖ノ饅頭 :「鬼」は対価を示す
左 ソリヤ虫ノ毒ヨ :「虫ノ毒ヨ」の意味は分からないが、拒否していると解せる
右 天カラヲチタカマボコ三キレ 代替案としての「蒲鉾三切れ」か
左 ソリヤマタホ子ポイ :意味はよくわからないが、おそらく拒否だろう
右 ホシテクレリ  :意味はよくわからないが、おそらく要求する内容だろう
左 チヨチヨムシタカル :はやり拒否する
右 アカイマントゝソエテクレル (イナイテコイ)カアカトトンデコイ :「アカイマント」がとっておきで、もう流石に折れるだろうという流れ。「トンデコイ」はすぐこっちに来いという意味か?

この遊びの場合、双方が欲しい人を呼ぶものではない。一方がもう一方に要求する形である。しかも「鬼」が始める権利を有している。そして鬼でない陣は、自陣のうちの誰かを鬼が要求していると分かった上で話を進めている。

しかし、おいそれとは渡さない。ここのワードセンスやギリギリの要求が求められる遊びなのだろうが、「呼レシ子供向側ヘカケテ行キ」とあり、最終的には鬼に取られるのである。この運命は避けられない。やがて全員が鬼陣地となるのだろう。

この意味を考えていきたいが、これは男女の関係を示しているものではないだろうか。つまり男が女に欲しいと要求し、納得できる内容であったら了承するという構造なのではないだろうか。しかし声を掛けられた時点で、その後の運命は避けられないという意味も併せ持つ。

また、ネットで確認されるようなよりダークな解釈をすれば、身売りや人身売買のような意味もあるかもしれない。だからこそ、この遊びは全員女の子であったのかもしれない。「コカ」も「子買い」から由来すると考えた方が良いだろう。

つまり身売り・人身売買の摂理を遊びの中に落とし込んだもの、という見方も出来なくはない。花一匁は多くの例で双方が欲しい人を要求するが、この場合一方通行であるから、より不平等性を感じるものとなっている。むしろこれが花一匁の原型なのかもしれない。

上述したように明治期の伝聞等を記したものが『吉居雑話』であるため、明治期には花一匁ないしそれに類するものは確認されると考えたほうが良いのではないだろうか。

  • 旧暦

この辺りは現在も「ひなまつり」等は旧暦で執り行われるが、(山中1984;p.29)に「富士郡全体ハ旧暦ヲナス土地ニテ、旧ノ大晦日ハ吉原和田橋ノ辺ニ市立ツ」とある。

当時の世相から見ても、旧暦が残る地という印象がもたれていたようである。それが現在にも引き継がれていることが分かる。


  • 鬼決め歌


富士市の鬼決め歌は「ぎったんばっこん」が主流であったと考えられる。それは(美濃部2006;p.521)においても言及されているし、実際に私も富士地区において昔聞いたことがあるからである。末尾の「(資料)鬼決めアンケート結果」の「56」「78」「173」「203」「237」が、富士市に関するものである。

しかし(美濃部2006;p.525)にあるように、「柿の種」という言葉も富士市で認められる。この調査は手法があまり優れたものではないため何とも言い難いが、やはり主流は「ぎったんばっこん」であったと目される。

もっとも、現在は聞くことすらないように思われるが、どうだろうか。


  • おわりに

『吉居雑話』は現在の富士市域の風習等が多く記されるので、多くの富士市民に読んで頂きたい資料の1つである。それらから、現代に通ずるものを見出す作業も面白いと思われる。

6:「富士市の方言・花一匁・旧暦風習・鬼決め歌について考える」

  • 参考文献
  1. 山中共古 (1984)「吉居雑話」『諸国叢書』(No.1)、成城大学民俗学研究所
  2. 美濃部京子(2006)、「わらべうたの変容-鬼決め歌の変容から静岡県の位置を考える-」『中日本民俗論』、静岡県民俗学会
  3. 中山太郎(2012)『日本巫女史』(初版:1930)、国書刊行会

2026年6月16日火曜日

富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について

昭和30年代の富士市において、まるで『闇金ウシジマくん』の世界のような出来事があったことを御存知だろうか?

これは富士市が結んだ奴隷契約を発端とし、企業の食い物にされ、地元民が不当な扱いを受けてきた歴史である。山崎豊子(故人)も、これを知っていたら作品を著していたかもしれない。そんな風にも思える凄まじさがある。

解説の前に、当時の物価状況を見ていきたい。日本銀行HPに示される消費者物価指数(CPI)で、本稿で取り扱う年代のものは昭和32年(1957)の17.1。これを数式に当てはめてみる。

消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)
115.3(2026年4月値)÷17.1(昭和32年)=6.7倍

 



従って、昭和32年当時に1万円で取引されていたものが、現在では約6.7万円となる計算になる(消費者物価指数)。では本題に入っていきたいと思う。

  • 富士市の奴隷契約
富士市という土地に、ある企業が目をつけた。その会社こそ、「旭化成」である。旭化成と富士市は、昭和32年(1957)には正式に契約を締結した。その契約こそが奴隷契約である。(笠井1964;p.63-64)より引用する。

会社は、誘致契約の最大の条件として、富士市に対し、二十万坪(工事敷地二十万坪、住宅地二万坪)の用地提供、これに関連する排水路、水道、市道などの付け替え工事、とくに田子の浦人造港を建設し、富士市地域内の同港の埠頭の9割を旭化成の専用とし、旭化成は、一切その負担を負わないという契約がなされた。この結果、市は、極めて企業優先による工場誘致を余儀なくされ、会社の要求する条件整備のため、市の行財政を圧迫してまでも、特定企業の要求にこたえる先行投資をおこなわなければならなかった。

まずこの契約は、奴隷契約以外の何者でもない。田子の浦港の埠頭は、恒常的な税収となり得るはずである。この契約通りであった場合、その手段は完全に絶たれてしまう。端的に言えば、長期的に考えた場合、富士市にとっては大損である。

ここに「旭化成の専用」とあるが、本当に旭化成専用の岸壁が存在する。以下は上の契約かた約30年後に刊行された(富士市1986;p.265)の資料である。


見えづらくてすみません…


富士市の資料によると、合計250mもの岸壁が旭化成専用である(少なとも1986年の刊行時)。また専用岸壁を有しているのは、旭化成のみである。しかしご覧の通り、「公共岸壁」の方が多い格好となっている。あまりにも馬鹿げた要求から、さすがに当初の要求通りにはならなかったようである(それか、後に拡張し比率が変わったものか)。

そして用地買収にかかる費用は、以下のようにして賄われた。(笠井1964;p.64)より引用する。


この結果、二十二万坪の用地買収額は、総額4億1556円で、そのうち旭化成が、3億782万円、市が1億782万円余を負担した。しかし市が負担する分については、市が財政余力がないため、旭化成から8233万円を年8分の利息で借金して支払っているのである。ここで注目すべきことは、会社の負担部分については無利息で市が立て替え、市の負担部分については、会社が8分で貸し付けるという契約条件となっていることである。


これがどれくらいおかしなことかというと、A社が金融機関から有利子負債という形でお金を借りている一方、なんとその金融機関がA社から有利子負債分を遥かに凌駕するお金を無利子で借りているということと同じである。こんなバカバカしい話はあまり聞かない。ウシジマくん顔負けの悪魔契約である。

こんなことであるならば、普通に市債を発行すればいいだけの話のように思える。これでは旭化成側の「利益剰余金」が増加するだけである。また、以下のように続く(笠井1964;p.64-65)。


このような形で工場誘致がなされてよいものであろうか。単純にわりきってしまうわけにはいかない。このシワ寄せは、住民の負担としてもどってくるからである。(中略)つぎは、旭化成の誘致の最大の条件になった田子浦人造港の建設である。(中略)ところが、こうした膨大な地元負担にもかかわらず、一切その負担は旭化成は負っていないばかりか、契約にもとづいて、完成後の同港の埠頭は、旭化成が9割まで専有することになっている。


上述したように、最終的には9割専有することは無かったのであるが、専用埠頭の契約は田子の浦港の活用の振り幅を制限することになる。また後発の他企業からすれば、不公平感を感じずには居られないだろう。

そもそも富士市は旭化成から正当な対価を得ていたのだろうか。奴隷契約が有効であり続け、過小なものになってはいないだろうか。また、以下のように続く(笠井1964;p.65)。


さらに富士市は、こうした旭化成にたいする特別優遇措置のほかに、誘致条件の免税措置(富士市は工場誘致条例がない)として、35年より、固定資産税を3年間は10割。その後2年間7割相当額を免除することにし、(中略)またこのほかに旭化成にたいして土地代金、関連事業費、奨学金など、工業化による先行投資は、7年間に約8億円に達している。こうした市の先行投資は、38年度の市の総財政規模8億円余からみて膨大な額にあたっていることがわかる。


平たく言えば、以下のようにまとめられる。


富士市が「地上げ屋」として奔走し、自身に帰属しないのにも関わらずその土地代まで払わせられ、その上でその土地代の有利子負債分まで献上する


一方は全く汗を流さないが、もう一方は静観しているだけでなぜかお金が入ってくるという摩訶不思議な構造なのである。ここまで馬鹿馬鹿しい契約は本当に聞いたことがない。


  • 労働・賃金問題

また、以下のように続く(笠井1964;p.65)。


ところで市は、旭化成の工場用地買収にさいして、土地提供者世帯ごとに1名を優先的に会社に採用することが、買収の条件とされていたが、土地提供者242世帯のうち約4割に当る101名が採用されているにすぎない。


この制度は住民の間で「1戸1人」という言葉で知られていた。ちなみに採用されたとしても実際は工務系の低賃金労働だったようで、操業開始年の35年末現在の退職者は72名にまで上ったという(101名のうち)。あまりにも酷い話である。

(福士2004;p.4)には以下のようにある。


富士市がこれほどまでに工場誘致に熱心になった理由は、雇用機会の増大と地域振興への期待にあったと考えられる。しかし、旭化成工業全体の従業員数を見てみると、1955年から1965年までの10年間は約 16,000人の前後で推移している。この時期は、化学繊維業界の過当競争による経営不振や、新規事業参入による富士、川崎などへの新工場設立などがあったが、「合理化による余剰人員は新部門で吸収する」という社の方針があり、結果として旧・富士市側が期待したような地元の雇用促進に大きな成果はなかった

特に労働問題は有名で、多くの論稿で目にするところである。(太田1966;p.17)には以下のようにある。

土地買収に際し企業側が農民に対して優先雇用を約束することがこの場合にもおこなわれた。しかし土地を提供した農民に与えられた職種について、農民の不満はかなり強く、旭化成に採用された61人のうち12人が1年くらいで退職した。就業・退職などについては、前掲42)に詳細な資料が示されている。

この前掲42)は『工業化の影響』(静岡県民会館・静岡県経済部共同調査)という刊行物なのであるが、そこに記される内容はもう酷いもので、当時の生々しさがそのまま記録されている(静岡県民会館1961;p.73-98)。この辺りもウシジマくんの世界のようである。以下に住民の声を一部掲載する。

  • 23才の若い人は13,000円位で、喜んでいる
  • (土地提供で入社しても)風呂番で2年という契約もあった
  • 1戸1人といっても、大面積と小面積の人は同じ
  • 学校を出ていないというだけで、給料に3,000円から4,000円の差がある
  • 土地を対価として入社した人はすぐクビという噂がある
  • 寮は大学出と中学出で区別されている
  • 月7,000円の安月給だから、農業をしようか考えている
  • 35才の女性の人が、仕事は便所の掃除や雑用で、日給は200円だと聞いて辞めた
  • 学校出と4,000円も給料が違う
  • 劇薬を使う危ないところは部下にやらせてくる
  • 子供4人をかかえて9,000円の給料ではやっていけない
  • 1戸1人採用という条件だったのに、色盲ということで駄目だった。大昭和ではそういう人も雇ってくれる

根性のある昔の人も心が折れてしまう程の何かがあった…それ以上言えることはない。勿論どの時代も不平不満はあると思うが、旭化成の場合は独特の用語が頻発し(「土地提供」「1戸1人」等)、会社との間で齟齬があったのは明白である。少なくとも、この異常な退職率は、特殊事情が絡んでいるだろう。

単純計算すると、大学出とそうでない人とでは3割くらい給料が違うということになる。土地を提供してまでして入社したのに、対価がこれと知った時は、さぞ無念であったことだろう。

諸論考をみる限り、初めから雇用に関する規定を反故にするつもりでおり、また住民からの土地提供が済んだら用無し扱いとしていたように見える。田舎モンだからと、良いように考えていたようにしか映らない。

提供されたその土地は農家の農地であり、当時の世相から考えるに中学出(ないし高校出)だっただろう。実際は土地だけ得て、給料の少なさを見て辟易して辞めていくのを待っていたという感じだろうか。しかしその土地は戻って来ない。何故なら、入社条件であるからだ。徹底的に食いつぶすことを計算されている。

  • イオンタウン富士南の土地の帰属は?

この契約自体やその後の地元民の扱い方も問題であるが、私が現在の事象でおかしいと感じるのは、旭化成が不要になった土地を他に貸し付けている状態にあることである。その土地は「イオンタウン富士南」の土地であるが、これは元を辿れば


富士市が多額の資金と心血を注いで旭化成のために取得した土地(社宅跡なので、当時からその用途であっただろう)


である(すべてではないかもしれないが)。この土地は旭化成の社宅跡に該当するが、不要となった場合、経緯を考えれば富士市に帰属させるのが筋ではないだろうか。富士市は必要な土地であるので取得に走ったわけで、前提が崩れれば再考するのは当たり前の話ではないか。つまりイオンタウン富士南の土地は旭化成から無償譲渡されるべきであると考える(少なくとも富士市が交渉した経緯の土地分は)。

例えば富士常葉大学の用地は、富士市から常葉大学側に土地自体が無償譲渡されていた。しかし廃校にあたり、常葉大学側は富士市に土地を返還している。イオンタウン富士南の土地も、同様にあって然るべきであろう。そして富士市がこの土地を再開発し、富士市自身の手で発展に繋げていくべきではないだろうか。

もっと言えば、専用岸壁の対価が妥当であるか、少し調査をした方が良いのではないだろうか。さすがに何の対価も得ていないということは無いと思うが…。

  • おわりに
港湾というものは、とんでもない背景があったりするものである。横浜が有名で、「〇〇のドン」なんて云われる人も有名である(そちらは本社が当地に所在するし、法人税も入ってくるので、まだ良いかもしれないが)。簡単に言えば、富士市の地でこれをやろうと企んでいたわけである。

5:「富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について」

  • 参考文献
  1. 静岡県民会館公聴課(1961)『工業化の影響 富士市田子浦地区 実態調査報告書』、静岡県民会館
  2. 笠井文保(1964)「新産業都市の建設と近郊農村の変貌 -東駿河湾地区・富士市の事例-」『農村研究 第19号』、東京農業大学農業経済学会、57-70
  3. 太田勇(1666)「岳南地方の工業化(続報)」『地理学評論 39巻1号』、日本地理学会、1-19
  4. 富士市 (1986)『富士市二十年史』
  5. 福士哲生(2004)「昭和期の市町村合併と地域経済・地方財政-静岡県富士市を例に-」『資本と地域1』、地域経済研究会

2026年6月12日金曜日

富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について

"富士山麓オーム(オウム)鳴く…"この言葉を引き合いに出して、良く「オウム真理教」と「富士山」は関係を持って語られてきた。


実際に富士山麓にはオウム真理教の関連施設が多かったし、様々な事象もあった。富士市はその主たる地域の1つである。まず(渡邉2009;p.24)には以下のようにある。


1994.4 
村井が土谷に爆薬サンプルの製造を指示。富士川川口付近でサリンの噴霧実験を行い、中川がサリン中毒にかかる

この富士川川口(河口)付近とは、勿論富士市のことである。このことは、『富士市史』にも記されている。以下は、平成7年(1995)の富士市議会定例会における意見書の文面の一部である(富士市2018;p.29)。

当市内においても、市民の憩いの場である富士川河口において、サリンの散布実験を行ったといわれており、また、同教団関連会社が大量の化学薬品を違法に保管し、さらに田子の浦港においてサリン製造の実験器具などを投棄するなど、市民の不安が高まっている。

つまり富士市は、サリンが散布された地なのである。おそらく地下鉄サリン事件の予行演習の一環だろう。また(朝日新聞出版企画室1995;p47)には、以下のようにある。

富士市の貸倉庫から約4万2千リットルのグリセリンが押収された事件では、警視庁と静岡県警が、教団関連の化学薬品卸会社「ベル・エポック」社長の長谷川茂之容疑者(26)を消防法違反(危険物の無許可貯蔵)などの疑いで指名手配。

富士市においてオウム真理教が多く活動していたことは、明白である。地下鉄サリン事件の前に何らかの形で薬品工場だけでも摘発できていれば…と悔やまれる。

平成7年(1995)4月8日『毎日新聞』夕刊一面には以下のようにある。

捜索は富士市水戸島の信者が経営する化学工業薬品会社「ベック」の倉庫▽同市比奈にある麻原彰晃代表が創設したとされる精密機械製造会社「光精密工業」(以下略)

このように、富士市にはオウム真理教の関連企業が位置していた。また9面には以下のようにある。

「大量の化学薬品 富士市の倉庫で中継か」
静岡県警が8日捜索した静岡県富士市水戸島の「ベック」の倉庫には今年に入って東京ナンバーのトラックが荷物を降ろし、山梨ナンバートラックが盛んに運び出したり、…

また同年4月9日付の『岳南朝日新聞』には以下のようにある。

富士市内の二ヵ所の捜索も午前7時すぎから開始され、このうち同市水戸島地先にある同教団関連会社の倉庫からは、苛性カリ(水酸化カリウム)および苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)の二種類の化学薬品類などが大量に押収された

また、同市比奈の会社倉庫では、旋盤工作機械があることも確認された。

旋盤工作機械は拳銃の制作に用いられたのではないかと、調査当時に疑われていたようである。このように、富士市とオウム真理教は関係が深かったのである。

富士市では、サリンが散布された事実そのものも忘れ去られているように見える。公安調査庁の特設ページTOPには「記憶の風化を防ぎ、次世代に記憶を継承する」とあるが、少なくとも富士市においては全く継承されていないように見えるが如何だろうか。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

1:「富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性
2:「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える
4:「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」

  • 参考文献

  1. 朝日新聞出版企画室(1995)『日本を揺るがしたサリンとオウム』、朝日新聞社
  2. 渡邉学(2009)「南山宗教文化研究所所蔵オウム真理教関係未公開資料の意義について」『研究所報 巻 19』、南山宗教文化研究所、12-29
  3. 富士市(2018)『富士市史 通史編(行政)昭和61~平成28年』

2026年6月8日月曜日

富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える

当ブログでは現在、富士市市制施行60周年を記念し、シリーズとして富士市の歴史を取り上げている。本稿のテーマは「富士市の公共交通の歴史」である。

  • 交通体系の大変化

明治・大正時代は、富士地区の交通に大きな変化が生じた時代である。まず以下に、主な事象を表で掲載する。

年代出来事
明治22年(1889)富士馬車鉄道発足
大宮新道建設
明治23年(1890)富士馬車鉄道鈴川-大宮間の営業開始
(鈴川-吉原-伝法-入山瀬-大宮町)
明治43年(1910)馬車鉄道、富士 - 長沢間の開業
明治45年(1912)4月富士身延鉄道発足
大正2年(1913)富士身延鉄道富士-大宮間の開業

以下、富士市立博物館HPより抜粋する。

明治22年2月、鈴川停車場(現JR吉原駅)が開設され、7月に東海道鉄道(今の東海道本線)新橋-神戸間が全通しました。 当地では入山瀬への富士製紙会社の建設に伴い、鈴川停車場から吉原を経て、入山瀬、大宮へ至る新しい交通ルート(大宮新道)と、それを軌道とする富士馬車鉄道が、明治23年開通しました。馬車鉄道とは物資の輸送はいうまでもなく、人々の交通手段としても大いに活用されました。

つまり明治期の富士郡の状況としては、大宮-吉原間が交通の要衝であった。人・モノの行き来というのは、この二地域間が担っていた。以下は明治26年(1893)の富士郡役所の資料(「静岡県富士郡々治一覧表」)である。


静岡県富士郡々治一覧表


今でいう「行政施設・公共施設」一覧であるが、そのような類は殆ど「吉原」と「大宮」にしか存在していなかった。また鈴川-大宮間の経由地点が「伝法」「入山瀬(鷹岡)」であったことも注目に値する。この両者は、近代的製紙業の礎の地と言えるからである。以下は(一般財団法人日本立地センター2016)等を参考として、表にまとめたものである。

出来事
明治12年(1879)伝法村の鈎玄社が製紙を開始
明治20年(1887)芦川万次郎が今泉村に和紙工場を設立
明治23年(1890)富士製紙第一工場が鷹岡村で操業を開始 
明治28年(1895)原田村の原田製紙が和紙機械漉きを実用化
明治41年(1908)加島村で富士製紙第八工場が操業開始

富士製紙第一工場の操業に合わせる形で、「富士馬車鉄道」は営業を開始したとされている。これらは近代的製紙業の礎と言えるものであり、富士市の輝かしい歴史の一幕と言えると思う。

そして公共交通の状況は、大正時代に突入するという段階で一変していくことになる。以下の記事は、富士身延鉄道「富士-大宮町間」で運行されていた蒸気機関車について言及している。

明治村50周年で「SL9号」復活へ 修理へ搬出(中日新聞 2014年2月24日)
名古屋鉄道は博物館明治村(愛知県犬山市)で保管している蒸気機関車「SL9号」を復活させるため、24日、大阪市の修理工場に搬出した。明治村開村50周年の記念事業で、修理を経て来年3月に村内を走らせる。SL9号は1912(明治45)年に米ボールドウィン社が製造し、13年から富士身延鉄道(現JR身延線)の富士~大宮町(現富士宮)の間で運行された

つまり、富士身延鉄道の登場で、公共交通の中心が加島村(富士駅の所在地)-大宮町へと移ったのである。また(藤井2024;p.19)には、以下のようにある。

蒸気機関車 9 号は、アメリカのペンシルベニア州にあった鉄道車両メーカーのボールドウィン (Baldwin Locomotive Works)社が 1912(明治 45)年に製造したものである。1913 年7月に開業 した富士身延鉄道(現在のJR 東海身延線)の富士駅と大宮町駅(現・富士宮駅)間で蒸気機関車 9号は使用された。

以下、『富士市景観形成基本計画』より引用。

電動機の利用が普及すると、大型製紙工場は交通条件が良い東海道線沿いの平地に立地するようになりました。富士川扇状地の旧加島村に製紙工場(富士製紙第八工場)が立地し、それに合せて東海道線富士駅が開業、やがて駅前に市街地が整備され、この地域の中心地を築いてきました。

富士製紙第八工場(現在の王子マテリア富士工場)の操業は明治41年(1908)のことであるから、"それに合せて東海道線富士駅が開業"という指摘は肯定できる。

このように公共交通の中心は吉原中心部から逸れたわけであるが、これにより今後の吉原の方向性は決定してしまったように思う。つまり、以下のように言える。

この富士身延鉄道のルート決定は「今後吉原の中心地(吉原本町辺り)にJR(国鉄)の主要駅は望めないことが決定された瞬間」とも言える

これは非常に大きな事実である。江戸時代より大宮と吉原は交通の要衝であったが、明治期も同様であった。それが後世では継続されなかったのである。

何故吉原は「大宮との関係性」という重要な指向を失ってしまったのだろうか。歴史を見ると、そういう疑問が良く浮かぶものである。もっと言えば、そういう疑問が浮かぶ人材が吉原に必要なのだろう。

  • 公共交通分担率
公共交通の指標の1つに「公共交通分担率」がある。富士市の資料に富士市の分担率(%)と特例市(現在は「施行時特例市」と言う)の平均値(%)を比較したものがあったので、引用する(2013年データ)。


富士市特例市平均最大値
9.56%30.13%64.55%(宝塚市)


この%は大きい方が良いものであるが、富士市は他の特例市と比較しても壊滅的であることが分かる。現在はもっと乖離が激しいのではないだろうか。

端的に言えば、富士市民は公共交通機関を全然利用していないということになる。

  • 富士駅の機能
富士駅の機能を考えた時、現在の乗員人員だけを見ると確かに物足りない数値ではある。しかしながら「貨物」という視点で見れば、それ相応の需要を有しているのではないかと考えている。

(中垣・土井2024;p.42)に全国通運連盟の拠点一覧が掲載されている。それによると富士駅を拠点とする企業は「静岡通運」「清水通運」「清水臨港通運」「センコー」「日本通運」「富士運送」「富士宮通運」がある。これは十分に多いと言えるのであり、富士駅の存在意義を示す一事例と言える。これらは富士市および富士宮市といった事業所向けのものであると思われる。

  • 新富士駅
(竹林ら,2024)に、新幹線駅の開業が地域に与えた影響について言及されている。その報告によると、新富士駅の場合は効果が低かったことが指摘されている。これは地域住民の感覚に近い結果と言えるものであろう。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。20記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

1:「富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性
2:「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える
3:「富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える」

  • 参考文献
  1. 富士郡役所(1893)「静岡県富士郡々治一覧表」
  2. 一般財団法人日本立地センター(2016)「平成27年度 広域関東圏における主要産業集積地域の構造変化と 将来の発展方向に関する調査研究報告書」 
  3. 藤井秀登(2024)「博物館明治村の設立趣意と保存鉄道の意義-テーマパークの視点から-」『明大商学論叢』第106巻第1号
  4. 中垣勝臣・土井義夫(2024)「JR貨物における通運事業の史的考察 : 1991年〜2011年での変遷を中心に」『 朝日大学経営論集』38巻、朝日大学経営学会
  5. 竹林ら(2024)「新幹線駅の新設が市区町村の人口に与えた影響―Synthetic Control Methodを用いて―」、『応用地域学研究(27)』、応用地域学会、1-16