2024年12月9日月曜日

西村屋与八や須原屋茂兵衛らも出版した富士野往来、富士山登山絵図の系譜考

今年の大河ドラマは「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」であり、和本の版元の人物である「蔦屋重三郎」が主人公である。そして同時代を生きた代表的な版元の人物に「西村屋与八」や「鶴屋喜右衛門」らが居た。

そこで考えていきたいのがここに当地(富士宮市)の要素は無いのかということであるが、富士宮市の地名を冠した史料に『富士野往来』があり、江戸時代においても繰り返し出版されてきたことが挙げられる。例えば大河ドラマにも登場する西村屋与八も『富士野往来』を出版している。つまり、要素は大いにあると言える。

『富士野往来』自体を論じるとテーマが大きくなってしまうため、本稿では西村屋与八が関与する天明4年版の『富士野往来』を中心に考えていきたいと思う。また天明4年版は富士山史を考える上でも重要な意味を持つので、その意義もあると思われる。

  • 『富士野往来』とは
『富士野往来』の「富士野」とは、富士宮市の地名である(「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照)。まずこれは大前提として把握しておきたい。富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるが、これはその一端と言える。

『富士野往来』はいわゆる「往来物」というジャンルの史料の1つである。(村上2006;pp107-108)は往来物を以下のように説明する。

書名にある「往来」とは、書翰の「往復」の意で、広義には人々の往還、書信の往復に始まる。(中略)古くは、成人や童子の初歩教育用として使用されていたようであるが、室町時代辺りから、こうした往来物は、寺院における稚児教育の格好の教科書として弘く用いられるようになっていく。

『富士野往来』の場合、(遠藤1986;pp.392-394)にあるように数十例が確認されている。その中でも古例は文明18年(1486)のものである。しかしこれも書写であって、成立時期は更に遡る。

成立時期は諸家によって様々提唱されているが、明の元号である成化5年(1471)『経国大典』に存在が記されていることから、少なくとも15世紀以前で且つそれを大幅に遡る潜在性があるという考えが支配的である。南北朝時代の終わり頃には成立していたとみる向きもある(村上2006;p.119)。(村上2006;pp109-110)には以下のようにある。

『富士野往来』は、基本的には、「廻文」・「副文」・「着到」・「配分」・「執達令状」・「陳情書」・「問い合わせ状」等の公用文体を踏襲するもので、残りは公用を兼ねた消息文的なものとなっている

以下にその詳細を記す((村上2006;p110)より)。

通し番号内容
1状 廻文状 源頼朝より梶原平三へ 卯月十一日附(宛名ナシ)
2状副文状 平景時より左近大夫将監へ 卯月十二日附(蔵人大夫朝輔より右近大夫将監へ)
3状着到状 五月十三日附
4状配分状 五月日附
5状巻狩りの規模・実況を報ずる状 藤原正行より梶原景時へ 五月日附(藤原正行より平景時へ)
6状小次郎・禅師房召捕りの執達令状 五月晦日附 平景時より曽我太郎へ
7状小次郎等逮捕不能の陳情状 五月晦日附 曽我太郎より平景時へ
8状曽我兄弟の狼藉についての問い合わせ状 五月廿八日附 平景時より安達盛長へ
9状曽我兄弟仇討ちの状況並びにその成敗を報ずる状 五月廿八日附 安達盛長より(平景時へ)

形態としては写本や版本、また頭書絵抄(注釈書)が現存しているが、版本は1つの板木から作成・出版されており、同年の『富士野往来』が何本も存在するということが生じる。であるから、必然的に版本の現存例が多い(とは言っても、(遠藤1986;p.410)によると版本の異本もあるという)。

  • 天明4年版『富士野往来』の構成
(遠藤1986;pp.404-405)にあるように天明4年版は「富士山登山絵図」「源頼朝公家譜および挿絵」「本文」「跋文・奥付」で構成される。しかしこれは『富士野往来』の従来の構成ではない。むしろ天明4年版は突然変異と言って良いような様相で、従来のものには「富士山登山絵図」「源頼朝公家譜」などは確認されない。

版元であるが、私蔵のものには以下のようにある。

    御江戸地本九軒問屋 

東都 元祖 西村屋傳兵衛

書肆 馬喰町二丁目角 同 與八開版

これは書肆を「同 与八開版」、つまり西村屋与八開版としている。上述のように西村屋与八は『富士野往来』を出版しているのである。

天明4年版『富士野往来』

しかし中には追加の文言を確認できるものもある。例えば(遠藤1986;p.406)に

筆者蔵の一本には、みぎのあとに

今川橋新革屋町
 
 亀屋文蔵版

といふ一行がくははつてゐる。

とあるように、書肆に追加が確認できる本もある。この部分については「西村屋からもとめた板木に入木してすりたてたものとおもはれる」という見解を示している。また追加部分が「亀屋文蔵版」ではなく「出雲寺萬次郎版」(三次市立図書館蔵)とするものもあり、遠藤の見解に従えば、板木の貸し出し先は複数であったと思われる。

このように天明4年版に関しては書肆の末尾を「與八開版」「亀屋文蔵版」「出雲寺萬次郎版」とするものを今のところ確認できているが、広く確認作業をしているわけではないので、他に存在するかもしれない。しかし多く流布されたということであり、富士野の名がそれだけ認識されたことを意味しよう。(遠藤1986;p.419)の「版本の展開」の解説は、現存例だけで考えすぎているきらいがある。

また『富士野往来』は「須原屋茂兵衛版」を所蔵している機関も複数以上確認され、文政7年(1824)のものなどが確認される。但しここでいう須原屋茂兵衛は「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である「蔦屋重三郎」や、上でいう「西村屋与八」と同時代の須原屋茂兵衛ではない。

  • 富士山登山絵図

天明4年版『富士野往来』には富士山登山絵図」(以下、登山絵図・当登山絵図)が含まれていることが注目に値する。天明4年(1784)というと、(中西2015)の報告を見ても、登山絵図の中では比較的早例である。であるから、富士山研究そのものにおいても極めて重要な史料と言えるだろう。

しかしその絵図を見てみると、川口口を描いたものとなっている。『富士野往来』は駿河国で催された源頼朝の富士の巻狩りを題材にしたものであるから、甲斐国の川口口の絵図を掲載するのは本来であればそぐわない。

その理由を考えてみたときに、版元が富士山に関する歴史を理解していなかったということが考えられるし、江戸からすれば甲斐国の方が心理的にも地理的にも距離が近かったということも関係するだろう。

他の登山絵図と比較してみると、「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にかなり近しいものがある。「富士山神宮麓八海北口正面略絵図」も近いが、より前者の方が近しい。ただ詳細に各登山絵図を見ていくと、地名や富士山中の地点の取り方や道程だけで見れば、「北口本宮御師宿坊図」(1860年)も近いように思える。同図は川口御師により作成・流布されたものであるから、当登山絵図も同様の背景が考えられる。それがどういう経緯で『富士野往来』に組み込まれたのかは全くもって不明としか言いようがない。しかし川口御師の関与は想定される。

また当登山絵図には説明文も見受けられ、(遠藤1986;p.405)でも記されているが、やはり中世以来の『富士野往来』の系譜というよりは、江戸時代当時の価値観が反映されたものとなっている。

では天明4年版『富士野往来』にみられる登山絵図の地点(富士山中)を見ていこう。途中分岐しているが、分岐以前で見た場合

遊境→馬返し→鈴が原→鈴原大日→小室浅間宮→行者→金剛杖→御座石→中宮

とあり、その上から分岐点が見られる。他には「経がたけ」「うばかふところ」「こまが岳」「えぼし岩」「不浄ヶ岳」「八合目」「大行合」「はしり」「砂ふるい」などの地点が見える。そしてこの正確さから考えるに、作成主体は北口の人間に違いない。これが江戸の人間によるものとは到底思えない。

また「向ヤクシ」(「富士参詣須走口図」等にも確認される文言)から続く山頂部分には鳥居が描かれている。これらには後世も作成され続ける登山絵図の基本構成が備わっており、既に18世紀後半にはそれが認められることを意味する

絵図西側には「須走口」とあり、左上部の説明文には

流水ハ源頼朝公当山御狩のとき御弓をもってさぐり祈ねんし給ふときにわき出し名水也

とある。これは裾野市の「頼朝の井戸の森」のことか、それに類するものかと思われる。何の脈略もなく唐突に富士の巻狩りに関する伝承を記す形となっているが、やはり『富士野往来』を意識したことによって生じた現象・エラーだろう。そして上述した「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)にも近似する記述が見られる。それは「富士山神宮并麓八海略絵図」が当登山絵図の系譜上にあるためだろう。

つまり北口の登山絵図で富士の巻狩りの伝承を記しているものは、『富士野往来』の影響を引き継いでいるという見方ができるのである

富士山研究という意味では詳細に見ていった方がよい史料であるけれども、本稿ではここまでとしておきたい。

  • 本文の検討
私は「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」でいうところの①幕府の実録的記録②「原初的な「曽我」の物語」 ③「曽我記」 および後世に成立した史料を「イデ」の表記から考えるということをしているが、この『富士野往来』はどうだろうか。

イデ
『吾妻鏡』伊堤(富士の巻狩の場面で「イデ」は登場せず)
真名本『曽我物語』(妙本寺本)伊出
仮名本『曽我物語』(太山寺本でない)井出
仮名本『曽我物語』(流布本、12巻本)井手
『富士野往来』藺手
『保暦間記』井出
『運歩色葉集』藺手
『北条九代記』なし
幸若舞曲の曽我物基本的に仮名
能〈伏木曽我〉井手


実は『富士野往来』は珍しい「藺手」である。例えば九状では「駿河国富士山南の東宮原藺手の屋形」といった箇所が認められる。「イデ」は本当に多くの表記が認められるが、管見の限り「藺手」は『運歩色葉集』と『富士野往来』のみである。

ここから両者の特別な関係を感じるところであるが、(遠藤1986;pp472-478)では『運歩色葉集』の典拠の多くは『富士野往来』であるとしている(富士の巻狩りに関する内容)

また(村上2006;p.119)には以下のようにある。

『富士野往来』は、『曽我物語』或いは、曽我伝説の抄録されたものの1つと考えてよいのではないか

私もこの考えに大いに賛同するところである。

九状の該当箇所

『富士野往来』は断続的に制作されてきたが、天明4年版より前にまとまって版行されたのは延宝7年(1679)である(遠藤1986;p.392)(村上2006;p.109)。

(遠藤1986;pp.430-437)によると、延宝7年版と天明4年版を比較した時、本来の意図が削がれてしまっている部分があるという。

  • エラーの連鎖

上記のように、川口口と富士の巻狩りの伝承が1つの登山絵図に収まってしまったのは知見のなさ故の「エラー」と言える。史料としてのまとまりは無いといえるわけであるが、このエラーは連鎖した。その連鎖の結果として「富士山神宮并麓八海略絵図」(江戸時代末期)のような登山絵図が成立したと考えたい。

筆者が調べる環境の問題もあり、各富士山登山絵図を詳細に分析できたわけではない。しかし状況からはそのように考えられ、そのエラーの発端自体も天明4年に求めたい。やはりこの両者をセットとする必要性は特段ないため、そこには『富士野往来』という前提があったから生まれたものと思われる。

つまり『富士野往来』には川口口はそぐわないと理解できずに構成に含めてしまい、更にそこに富士の巻狩りの要素を無理やりねじ込んでしまったという背景が考えられる。

私は当登山絵図は川口御師が主体となって制作されたものであり、御師らの売り込みか版元の要求かは不明であるが版元に伝わり、それが『富士野往来』という形で流布されたと考える。そしてそれが二次的にも利用されたと想定される。

  • おわりに
『富士野往来』には富士の巻狩りに関連した挿絵がいくつか確認される。例えば文化元年版(望月文庫(東京学芸大学附属図書館)蔵他)には烏帽子姿で乗馬する源頼朝に傘を指す描写がみられる。

これは(林2020;pp.20-21)にあるように、多くで共通して確認される図柄である。この図柄は、既に富士野入りした箇所である。(遠藤1986;p.407)によると、文化元年版は最も広く流布された『富士野往来』であるという。

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」で指摘したように、富士野は曽我兄弟の仇討ちを語る上での最重要ワードの1つであるのにも関わらず、名が忘れ去られようとしている。この由々しき事態を富士宮市自らが変えようとしなければならない

また(村上2006;p.119)が述べるように、『富士野往来』自体の純粋な文学性も注目に値するだろう。本稿を記すにあたり、富士宮市の地名を冠する史料が世に出続けたという事実を再認識できた。そして改めて、富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響は計り知れないものがあるのだと感じた。


  • 参考文献
  1. 遠藤和夫(1986)「『富士野往來』小考」『国語史学の為に 第1部 往来物』、笠間書院、389-481
  2. 村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』、和泉書院
  3. 中西僚太郎(2015)「絵画に表現された富士山」『地学雑誌 124巻』、東京地学協会、917-936
  4. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会、13-32

2024年12月3日火曜日

富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える

まず以下に地図を掲載する(要拡大)。



この3つの地点は(三股淵・阿字神社・六王子神社)、生贄伝承の地として広く知られている。特に「三股淵」という言葉は、多くの刊行物で幾度となく取り上げられてきたことであろう。

この3地点はすべて富士市であるが、富士市の歴史を俯瞰して見てみると、キーワードとして必然的に「生贄」が出てくる。故に民俗学の刊行物でも富士市は頻出するに至っている。また駿河国の地誌を読んでみると、富士市の箇所で頻繁にその用語を目にする。富士市の項目で「生贄」という用語に出会わずに読み進めるという状況は、まず考えられない。富士市の歴史の中で常にこの言葉は踊り続けたのである。


伝法 「ふる里」コース(富士市教育委員会)


またそれは国内だけに留まらず、早い段階で海外にも紹介された。その嚆矢となったのは1921年のアーサー・ウェイリーによる”The Nō Plays of Japan”の刊行であった。「Nō」とは「能」のことであり、ここには富士市が舞台の能〈生贄〉が所収されている。100年以上も昔に、富士市が舞台の作品が海外に紹介されているわけである。

このように、生贄伝承は富士市における最も重要なテーマの1つと言えるだろう。富士市の歴史のファーストタッチが生贄伝承という例も少なくはないだろう。当記事ではそれらについて取り上げていきたい。


【はじめに】

駿河国の地誌である『駿河志料』には、以下の文言がある。


稚贄屯倉此地より吉原驛に至り、里俗生贄郷と称す、古への稚贄屯倉の地なるべし(中略)近世吉原驛此地など生贄郷と称し、池贄と書けり

ここから、吉原宿一帯が「生贄郷(いけにえごう)」と称されていたことが分かる。そしてこの箇所を稚贄屯倉の比定地としているのであるが、学説的にも支持する向きが多い。例えば(夏目1977;p.307-309)には以下のようにある。やや長くなるが、引用する。

『駿河志料』は駿河国富士郡元吉原の三股淵に注して、
三股淵一に賛淵とも云、川幅二十間許此淵は沼川、和田川の流れ、落合ふ処して三股と云(中略)。古へは川上は岩本より久沢字川窪を今泉へ流れ、川下は依田橋、依田原の地をへて、田嶋、中川原に至り、小須港に入しなれば、 富士河の枝流も此処に落あひ、数尋の渕なりしと云
と述べ、さらに沼川の下、三股渕にある阿字神社の条で、昔、この三股渕に毒蛇が住み、毎年往来の女子を捕えて生贄に供する風習があったと生贄伝説の内容を伝え
こは猿楽の生贄の謡物を謬伝して、贄渕と云ならん、今耕地の字にも此名存す、古へ大きなる淵ありしに、附会せしものなるべし。
と説く。和田川(古原川)は古来「生贄川」とも呼ばれ、その流過する青島・吉原・依田原辺を「生贄郷」とも称したと地誌類に見える
(中略)とイケニヘをワカニヘの訛と解し、稚贄屯倉を生贄の地に比定しつつも、この地がいわゆる美田富村でないことを不審としている。(中略)吉原町は後の吉原市、現在の富士市吉原である。富士市は富士・吉原両市の合併による称である。思うに、地名辞書説のごとく、イケニへをワカニへの訛とするのは、単に音の近似によるのみならず、「生贄」を連想させやすい「贄」の語感と、現実にみる三股淵に対する一種の神秘感・畏怖感が、舌になじまぬワカニへからイケニへと転化を容易ならしめたものと考えられる。生贄を稚贄の訛とすれば、いわゆる生贄郷は稚贄郷の故地とみることができる。とすれば、和田川下流の旧吉原宿を中心とする一帯の平野がこれに当たるであろう。旧吉原宿(元吉原とも云う)は現在の鈴川の今井附近に在ったが、寛永十六年(一六三九)の津波に襲われて依田橋の西方に移転、さらに延宝八年(一六八〇)の大津波のために宿場は壊滅し、翌天和元年に現在の吉原の市街地に退転した。津波とともにこの地を襲ったのは富士川の乱流氾濫である。


ここにあるように、吉原周辺の地というのは生活を営む上では極めて苛烈な地であった。その上で「ワカニエ」という言葉との親和性が「生贄」という呼称を生んだとする。またそれに付随し「生贄郷」という呼称が発生したという解釈が示されている。

「駿河国富士山絵図」に見える「生贄」(村山興法寺三坊蔵板、カラー)


また(原2002;p.195-196)は以下のような異なる見解を示している。


また荒堅魚がこの稚贄屯倉の贄を代表するものであったから生贄という言葉も生まれ、川の名や淵の名として後世まで残ったのであろう

 

上記の説明文に登場する「阿字神社」であるが、これは「六王子神社」と絡めて説明した方が分かりやすい。「六王子神社」に記念御札があったので、掲載する。

【阿字神社と六王子神社】





この記念お札を読むと「不憫に思った心優しい柏原の人々が巫女らを祀った」という印象を持つことだろう。しかしここは特に注意すべきところである。

そもそもこの三股淵の説話は、史料により大きく二系統がある。それは「①阿字が巫女(神子)である」パターンと「②阿字が巫女の下女である」パターンであり、このお札の冒頭に記されるものは①の方である。ちなみに①がバッドエンドで、②がハッピーエンドである。つまりお札はバッドエンドの方で記しているということになる。そして①のうち阿字以外の巫女が死する筋書きで記す史料は『田子乃古道』である。

『田子乃古道』は享保18年(1733)に成立した「地誌」に属するもので、現在原本は失われ、現存する最も古い写本は天保15年(1844)の「野口本」とされる。では『田子乃古道』(野口本)の流れを確認してみたい。


鬮により神子の1人である「阿字」が生贄となることが決定
残る6人は「柏原」まで引き返すが、生きて帰ることを恥じて浮島沼に身を投げる。6人は絶命(「所の者取り揚げ一つ土中へ埋める(野口本)」)
阿字は富士浅間の神力により生贄を回避するも、6人の死を知り投身


つまり6人は(阿字の死に対する)後追い自殺のような心境であったのであるが、実際のところは阿字は生贄を回避しており、この6人の死を知って阿字も死するのである。この微妙なすれ違いがもどかしい伝承と言えるのであるが、この「所の者」は柏原周辺の人間であろうから、埋葬したのは柏原の人ということになろう。

一方後半になると、この6人を祀る話が出てくる。「埋める」と「祭る」は明確に性質が異なる。その箇所を見てみると「その時見付(の)老人この事を聞きてその神子故に毒蛇しずまり今よりして所の氏神と祭る。柏原新田、六の神子という(は)これなり」とある。これを読むと、6人を祀る部分は柏原の里人によるものであるのかは不明瞭である。むしろ見附宿(鈴川)の人による計らいと解せるものであり、お札にあるような「哀れに思った柏原の人々が、六人を神としてお祀りした」と言えるものであるのかは甚だ疑問である。

更に書写時代が下る別の写本(森家所蔵)によると「其時見附宿の者共此事を聞其神子故に所の毒蛇静り今よりして氏神を阿字神と名附是を祭らんと宮居を立類今の阿字神是なり残る六人の所の者神に祝ひて柏原の氏神の神といふ」とある。これは柏原の民が氏神として祭ったと読み取れるものとなっている。しかし書写時代が野口本より更に下ったものであり、原本は「野口本」のように焦点が見附宿の者にのみに当てられたものであった可能性がある。

またお札は他に『駿河記』という具体的な出典を提示しているのであるが、その記述も見ておきたい。それは「柏原新田」の項にある

巫女六人、官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす。(中略)これより後永く生贄を取ることを止みぬ。依て里人其得を貴び功を追て、六人の巫女を神に斎祭る。

これは上でいうところの②のパターンである。これを見ると、以下のような経過を見て取れる。


柏原の里人が巫女を捕らえる
巫女の下女であった阿字は京へ上り教えを請う
教えの通りにしたところ鎮まり、生贄は止む
この功に対して柏原の里人は斎祭する


つまり、生贄として捕らえているのは何を隠そう「柏原の里人」なのである。『田子の古道』諸本のうち書写時代が最も古い「野口本」には柏原の人が巫女を祭ったと取れる文言はなく、『駿河記』によるとその柏原の人々が巫女らを捕らえていると記されているのである。これらの伝承を見ると、お札の文言はかなり違和感のあるものであることが分かる。むしろ柏原の人間は、生贄をせしめんとする側の人間として記されている。

実際に人身御供(ひとみごくう)があったのかは不明であるが、「阿字」という具体名が出てきていることを考えると、実際に「阿字」という女性が居て何らかの悲劇的な出来事があったと考えるのが自然であろう。

【能〈生贄〉】

ここまで「阿字」が登場する伝承について述べてきたが、阿字が登場しない三股淵に関する伝承もある。しかもこれは富士市に伝わっている伝承では無い。それは冒頭でも言及した能〈生贄〉であり、富士の御池(ふじのみいけ)として登場する。「無辺光」というサイトに〈生贄〉の詞章が確認できるので、一読をお勧めしたい(外部サイト)。以下における〈生贄〉とは能の「生贄」を指す。

私個人の考えであるが、〈生贄〉の方が古い伝承ではないかと考える。そもそも阿字が登場する伝承で最も古い記録は宝永4年(1707)の『駅路の鈴』であるとされている。つまり18世紀なのである。一方〈生贄〉は室町時代に書写された謡本が伝わっており、古い伝承を反映したものと言える。またこれはあくまでも書写された年代であって、実際は更に遡ることになる。

富士市は富士山の歴史にあまり深く関わらないと思われる節があると思う。私もそのように感じてきた。しかしこの能〈生贄〉を知り得た時、その考えは吹き飛んでしまった。それは、完全に富士市のみが舞台のこの作品において明確に富士山との関わりが見えてくるためである。詞章を読むと「富士権現」「日の御子の神」「内院」「富士の嶽」といった用語が見えてくる。これが富士市の地との結びつきで語られているところに、重要性が見いだせるだろう。富士市が富士山との接点を見出そうとするとき、率先して引き合いに出されるべきものであろう

〈生贄〉の謡本で古例は「観世元頼本」「観世元忠本」とされる。しかしこれは書写されたものであって、原本は別で存在した。それらの成立は相当遡るのではないだろうか。今後の謡本の発見に期待したい。

仮説であるが時代が経つにつれて「富士の御池→三股淵」と呼称が変化していった可能性がある。阿仏尼『十六夜日記』に「ふし河わたる、朝川いとさむし、かそふれは十五瀬をそわたりぬる」とあるように、富士川は幾瀬も川筋があったようである。古い時代は川筋が幾多もあり富士の御池においても合流する河川は限定されていなかったものが、時代を経て統合され「三股」と言えるような状況になったのかもしれない。


「駿河国富士山絵図」(村山興法寺三坊蔵板)

上の絵図は「駿河国富士山絵図」であるが、「アジ神社」「字 生贄」「三ツ又」等とある。富士山かぐや姫ミュージアムによると、19世紀初めに作成されたと推定されている。このような地理的状況は、かなり時代が下るものと考えられる。

〈生贄〉は自家伝抄』においては宮増作、他の各『作者註文』においては世阿弥作と記される。(能勢1938;p.1430)に

曲柄詞章より考へて到底世阿弥作とは思はれない故、自家伝抄に従つて宮増作とするが良いと思ふ

とあり、(北川1974;p.160-162)に

宮増作と伝える作品には地方伝説を扱ったものが甚だ多く、彼の作品とされる曲約三十番のうち、地方に取材したものといえば…(中略)生贄 駿河国吉原宿

とある。同論考でも記されているように、多くの曽我物は宮増作とされており、これも地方での出来事であって、北川の述べるところは説得力のあるものとなっている。

(小田1986;p.29)は自家伝抄』および『作者註文』の伝承を挙げつつも「作者は明らかではない」と慎重である。私個人としては、可能性があるとすれば「宮増」作ではないかと考えており、以下では宮増説に従って話を進めていきたいと思う。

宮増は生贄の題材を以てランダムに舞台の地を選んだのではない。この地にたしかに生贄の伝承ないし風習があり、それが宮増の興味を引いたのである。作成主体が誰にせよ、何の下敷きもなく地方が舞台の能を作能したとするのは、あまりにも無理があるだろう。

また(小田1979;p.36)によると、現存する諸本(謡本)で特に大きな異同はないという。(北川1974;p.161-162)は以下のようにも記す。

この宮増に〈生贄〉という能がある。現在は廃曲となっているが、天文年間には2度勧進能で上演されていて、かなり昔は人気曲であったのではないかと思われる。(中略)これは単にこの伝説そのものを考えるにとどまらず、当時の地方における他郷人疎外という流れを背景においてみるべきである。(中略)〈生贄〉はまさにその流れの上に立つものである。

現代はもう少し能研究が進んでおり、その出現頻度を考えると、〈生贄〉は人気曲であったと考えて良いだろう。北川と視点は異なるが、この一連の三股淵の伝承を考えると、以下の疑問点は出てくるだろう。

何故、生贄の対象が現地の人間ではなく旅人なのだろうか

実は〈生贄〉はその部分をかなり強調したものとなっている。詞章のうちそれなりの割合を占めることから、〈生贄〉の意図的な演出と言って良い。この能の特徴の1つは「恐怖演出」であると考えられるのである。該当するのは以下の部分である。


委細承り候。たとへば其の所の神事などをば、其の郷にすみなれ、又は其の生まれ氏人などこそ御神事に、あふ事にて候へ。行方も知らぬ旅人が、在所に泊りたればとて、御神事にあふべき事更に心得難う候。 
(中略)委細承り候。以前も申し候如く、其の所の神事などと申す事は、其の生まれか郷内の人などこそ執り行ふべけれ。何所ともなき旅の者の、此の生贄の御神事にあふべき事、心得難く候。 
(中略)平に通して給はり候へ(以下略)

これを意訳すると、以下のようになる。

詳細は承りました。しかしこの場所の神事であるならば、この場所に住み慣れた者またはここで生まれた者などが御神事に関わるべきでしょう。行方も知らないような旅人がその場所に宿泊したからといって御神事を強制されるのは心外である 
(中略)詳細は承りました。以前も述べましたが、この場所の神事であればここの生まれかこの地域に住む人で執り行うべきであり、旅の者が生贄の御神事に遭うようなことは受け入れられません。 
(中略)どうかお通しください(以下略)

つまり同じ詞章が繰り返されているのである。詞章でこの容量となると、なかなかのものであろう。このように全く無関係の人間であるという主張をもろともせず、「昔よりの習慣である」の一点張りでその主張を除ける恐ろしさが強調されている。北川の言うところの「他郷人疎外」とは異なるが、内々の人間には絶対に被害が及ばない構造は不思議で恐ろしいと言えるだろう。

これが京の人間の関心を引いたことは、容易に想像させられる。(山中1998;.p149-150)には以下のようにある。

〈生贄〉という作品を考えるとき、どうしても、東国の恐ろしい神事に対する都人の興味という面を無視することはできない。(中略)しかし、〈生贄〉は右のどれとも違い、都からの旅人が巻き込まれるという設定にしている。(中略)神事への参加を強要する神主と断る旅人との問答は、〈舞車〉とそっくりである。(中略)東の果ての「富士の御池の神事」などは、都の人々から見れば、何が起こってもおかしくはない場ではなかったのではないだろうか。

やはりこの恐怖演出は、〈生贄〉のキーとなるものであっただろう。このような詞章があるということは"もし仮に生贄の御神事を行うにしても、通常対象は郷の者であろう"という考えが普遍的にあったからに他ならない。だからこそ、この詞章が組み込まれているのである。

既に宮増の時代には富士下方(現在の静岡県富士市)の地で生贄伝承が根強くあり、それを宮増が題材としたのだろう。その土壌があった上で後世に「阿字」という女性に関わる何らかの悲劇があり、〈生贄〉では「旅人×富士の御池の神事」というシンプルなものであったものが「旅人×三股淵(富士の御池)の阿字の悲劇」と具体性を増したエピソードも成立したという可能性がある。そして元のシンプルな伝承は、芸能の中で生き続けたのだろう。

もちろん、これは想像であって証明できるものではない。元々「旅人×三股淵(富士の御池)の阿字の悲劇」であったものを、京の人間の関心を引き寄せるために宮増が設定を「都人」にしたという可能性もある。これらをすべて「稚贄屯倉」で説明するのは簡単であるが、そう単純ではないだろう。


【仮説】

「歩いたりジョグしたりして楽しく旅ラン(誰でも参加OK)…四ッ谷 走Run会!!(はしらんかい!!)」というブログにこの伝承に関する考察がある(記事リンク)。一見ポップに解説されているように思えるが、傾聴すべきものがある。

まず「渡り巫女」という言葉が登場しているが、御指摘の通り上記の伝承の巫女は「歩き巫女」と考えて良いように思う。そもそも巫女というのは、柳田國男が言うように託宣を担った神聖なる立場の人間であり、その認識は中世も例外なく有していたと思われる。しかしその論理が通じない何らかの事象がこの東国の一地域で発生したとすれば、伝承として成立し得るには十分である。

また「阿字がまず犧牲となり他の6人は逃げようとしたところを(六王子神社の所在地である柏原にて)捕縛されて亡き者とされた」という考察であるが、中々に興味深いものである。しかも柏原というと富士下方の東端であり、ここを超えるともう富士下方ではない。「柏原」を超えてしまえば、富士下方の民は手を出せないのである。それを知っていて、巫女らは懸命に柏原を越えようとしたという仮説も成り立つ。

逆に言えば、東国(東方)からやってきた旅人がまず富士下方の地で足を踏み入れるのは東端の「柏原」である。そう考えると、『駿河記』の柏原新田の項に「官職の為に上京せむと道此所に至る。里人これを捕え生贄に備むとす」とあるのは、妙に納得できるものがある。

つまり地理的状況から考えると、これらの記述は肯定できるものにはなっている。


富士市埋蔵文化財分布地図


これは「柏原遺跡」の範囲図であるが、その東側は沼津市となっており、富士下方ではなくなるのである。また〈生贄〉の詞章を見ると、実はそのようなくだりがある。

シテ(娘の父):あら嬉しや候。さらば急いで罷り立ち候べし
ワキ(神主):いかに誰か有ある
トモ(神主の従者):御前に候
ワキ(神主):今夜此の宿に旅人の三人泊りて候が、夜の内に立ちたる由申し候。急いで留め候へ

つまり旅人が「急いでここを立とう」と逃げようとするも「逃げ出そうとしているから捕まえろ」というやりとりが確かにあるのである。そういう実例が伝承を形成し、能楽に昇華されたという背景も考えられる。そして後世にやはり同じ事象が発生し、阿字の伝承も成立したのではないだろうか。そして両者共「聖職」「貴人」に位置づけられるような者であったのではないだろうか。

「〈生贄〉」と「阿字の伝承」の共通点は、この地域から逃げようとしているという点にある

人身御供であるのかは不明であるが、本来であれば郷の者で執り行われるべきことが、郷でない者に強いられるような事象・風習があった。そしてそれを退けようとした場合、何らかの罰が下された。

これくらいの推測は十分に許される範囲だろう。この伝承は「稚贄屯倉」だけで片付けて良いものではないように思える。そもそも「稚贄屯倉」のみで猿楽の成立まで説明しようとすること自体が強引と言えるのではないだろうか。

【おわりに】

全国の人柱伝説を解説した論考に(田中1961)がある。富士市は生贄伝承の豊富さが全国でも随一なので、当然富士市は登場する。しかし同論考においてはむしろ「三股淵」は登場せず、「備前道丁」(雁堤)と「おきく田」の伝承について言及されている。この「お菊田」の伝承も極めて有名であり、広い意味では生贄と言えるものであるが、この伝承に関しては一・二点思うところがあるので解説の場を設けたいと考えている。

  • 参考文献
  1. 能勢朝次(1938)『能楽源流考』、岩波書店
  2. 田中清(1961)「長柄橋(人柱伝説雑考)」『土木学会誌 46号』、土木学会、27-33
  3. 北川忠彦(1974)「謡曲狂言と説話文学」『日本の説話 第4巻』、東京美術、152-176
  4. 夏目隆文(1977)『萬葉集の歴史地理的研究』、法蔵館
  5. 小田幸子(1979)「「生贄」と「熊野参」 -その源流-」『能 研究と評論第8号』、月曜会、35-50
  6. 小田幸子(1986)「「生贄」について-演出を中心に-」『梅若 第272号』、29-32
  7. 山中玲子(1998)『能の演出 その形成と変容』、若草書房
  8. 原秀三郎(2002)『地域と王権の古代史学』、塙書房