2012年9月4日火曜日

戦国期河口御師の実態

資料1
甲斐国の郡内に位置する河口地区は、富士信仰の拠点の1つである。そしてそのベースは、御師という存在を中心としている。富士山周辺における御師は比較的古くから存在しており、河口御師の検討は非常に重要である。

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏」にあるように、当時の領主は御師を取り入れる工夫をしていたし、重視していた部分はあった。御師は宿坊の経営から資金を得ており、特に登山期は道者の急激な増加によりそれなりの資金を得ていたと思われる。つまり御師というのは、その地域において先頭に立てる位置づけにいたのである。なので領主からすれば、権力基盤として考えることもできたはずである(「戦国期吉田御師の実像」の「小山田氏と御師衆」を参照)。

天文13年(1544年)、小山田信有が河口御師の小河原土佐守と小河原助次郎に対し諸役を免除している記録が残る。つまり、諸役として領主により掌握されている形態が確認できる

<資料1>は、小山田信茂から川口御師の「中村与十郎」に与えられた印判状である。
このことから『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』では「屋敷」・「宿坊」・「名田」の3つが経営の基本であったとしている。

小山田信有が御室浅間神社の別当「小佐野越後守」に、構えのうち棟別五軒分を免除する印判状が<資料2>である。弘治2年(1556年)のものであるが、この記録などから『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』では「一人で数個の棟を構え、それを旦那所屋敷、つまり宿坊として世襲していた」としている。

御師と言えばよいか、御室浅間神社の別当の名称として記録上で「小佐野越後守」という名称を非常によく見かける。これらの記録はそれぞれ時期を異にするため、当然同じ人物ではない。つまりこれらは、世襲であると考えて良い気がする。ちなみに現在も郡内地域では小佐野姓はよくいる。

資料2




河口御師における小山田氏の記録の典型が上のものだとして、武田家によるものでは武田信玄の天文11年の記録が重視される。天文11年(1542年)3月7日に武田晴信は、河口御師の渋江右近丞に「河口道者坊」を「如前々」として安堵している。こちらも、諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。この記録は、信玄と浅間神社との関係を示す最古とされる。また、河口道者坊についての古い記録でもある。天正8年の記録によると、武田氏は河口御師の高橋氏へ知行を宛行うなどしているという。つまり「天正期」になると武田氏の郡内への影響力が強まっていたと言える。西念寺の造営に関しても、道者から勧請を受けることを認めるなどしている。

天文15年(1546年)に武田晴信は河口御師の「御師駒屋」に対し、武田家の分国内での関所通過を認める印判状を出している。御師による広範囲の布教活動への助力としたと考えられる。また御師の中でも武田氏との直接の被官関係を結んだも者もいたとされ、「渡辺越前守」などが該当するとされる。

「武田家朱印状」,戦国遺文武田氏編一三一号文書

つまり御師は富士信仰を要とし、「屋敷」や「宿坊」を経営する中で資金を得ており、それを領主が権力基盤と考えていた。そういう中で小山田氏と武田氏とのせめぎ合いもあった。これら御師の中から神社の別当「小佐野越後守」が世襲され、「神社と御師」という連携を継続的に維持してきたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 柴辻俊六,「戦国期社家衆の存在形態」『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  2. 堀内亨,「武田氏の領国形成と小山田氏」『富士吉田市史研究』第3号,1988年
  3. 柴辻俊六・黒田基樹編,『戦国遺文 武田氏編1』,東京堂出版,2002年

2012年8月19日日曜日

富士山のウソ

世界遺産登録に向けた活動が高まってきているようで、富士山の歴史について取り上げる場面も多く見られるようになってきています。

しかしながら大きな誤解や語弊のある表現も多く見られ、その表現に驚いてしまうことも少なくありません。今回、世間で多く勘違いされていることや勘違いされやすい部分を重点的に取り上げ、説明していこうと思います。5本立てです。


  • 「富士」が富士山から由来すると示す根拠が実は全く無い

富士山の語源」にて「そもそも地名と山の名称どちらが先につけられると思いますか?」と投げかけました。普通に考えて、地名と山名では地名の方が先に付くわけです。『平城京二条大路木簡』の天平7年(735年)の木簡3点に「富士郡」とみられ、非常に古来から富士郡が存在したことが証明されています。そしてそんな中、平安時代の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあり、富士山という名は富士郡から由来すると記されているわけです。ですから学術的には、富士山は富士郡から由来すると考えられています(少なくとも史料上からそう言わざるを得ない)。氏族名が富士である「富士氏」も、富士山から来ているか分からないわけです。むしろ「富士郡」から由来していると考えるべきでしょう。そもそも富士氏が誕生した時代、「富士山」という名称が存在していたかすら分かっていないのである。逆もそうです。


  • 富士講は江戸時代より前はそもそも存在していない

これをすごく勘違いしている人が多い。もっというと、富士講の隆盛は1730年以後と言われているので、江戸時代初期などほとんど成立していなかったものと考えて良い。角行が富士講を成立させたわけではないのに、そのように勘違いしてしまうからでしょう。最近の本や論文では(昔からそうだけれども)、富士講が江戸初期から成立していたと記すものはほとんどありません。また、江戸時代以後富士信仰が盛んになったという表現もおかしい。たしかに民衆により広く定着したのは江戸時代以後であるが、歴史書などから古来より富士信仰が定着していたことは知られています。


  • 歴史的に「静岡vs山梨」という構図が成り立っていたわけではない

これは本当に悪意しかないように思えるのですが、別に「静岡vs山梨」であったわけではない。山梨の地域同士も道者を奪いあったり、静岡の地域同士も争ったりしていたわけです。そして富士山の争いといったら普通これを指すというものに「元禄・安永の争論」があります。これは須走(駿河)からの動きにより須走と大宮(駿河)間とで勃発した騒動なのですが、その争いの中で吉田(甲斐)も少し言動を加えたりしています。この駿河の地域同士が中心であった争いを、大きくドラマ化させ「山梨と静岡が争っていたぞ!」と言っているわけです。実際根拠として示されるのはこの「元禄・安永の争論」なのですが、蓋を開ければそのような事実ではないのである。なぜそんなにも争っていたことにしたいのかがよく分かりません。


  • 富士山の神=コノハナノサクヤビメという考えは江戸時代以降

この誤解が非常に多い気がします。よくあるのは「〇〇年に浅間神社が建立され、コノハナノサクヤビメが祭神とされてきました」というものである。でも実際は江戸時代にコノハナノサクヤビメが富士山の神として祀られるようになったのであって、これは近世以後の現象にしか過ぎないのです。つまり平安時代とか鎌倉時代とか戦国時代の話のときに、コノハナノサクヤビメを持ち出すのはおかしいわけです。


  • 村山の時系列の把握がなされていない

村山は富士信仰の各拠点の中でも修験道の地として有名である。そしてその関係で聖護院との関係が深い。しかしながら村山というのは、『地蔵菩薩霊験記』にもみられるように富士山麓の各地域の中でも早期から深い信仰が成立していた地域でもある。ですから時系列別の把握が重要となってくるが(富士講のように近世以後ではない)、そこがごっちゃになってしまう。よくあるのは「村山は◯世紀から修験の地として栄えてきた…」といい、「聖護院が〇〇を行なっていた…」と関連付け、なぜか「◯世紀から〇〇が行われていた」と結んでしまうことである。聖護院の例は一例であるが、例えばこの場合で言ったとき、村山が聖護院と関係を持ったのは15世紀以後なので、◯世紀からそれらが行われてきたわけではないのである。これはコノハナノサクヤビメの例と似ていて、近世の出来事を古来からの現象と間違えて考えてしまうことでもある。村山は近世以後形態を大きく変化させているため、棲み分けする必要性がある。

あと「表富士・裏富士」などの件も世間では昔から言い争っていたことにされていますが、史料からどちらが裏富士と称されていたかは既に知られています。学術的にはそんなことは分かりきっていて、議論するまでもないというのが事実なのです。