2012年3月22日木曜日

富士五湖とは

「富士五湖」とは、山梨県に位置する「本栖湖・精進湖・西湖・河口湖・山中湖」の総称である。富士五湖が富士山の噴火によって形成されてきたことは有名である。

本栖湖

  • 延暦の大噴火
現在の山中湖を形成したのは、延暦の大噴火(800年)であると言われている。しかし山中湖は成立が単純ではないことも指摘され、時代が更に遡る可能性も研究により指摘されている。延暦の大噴火で鷹丸尾溶岩が流入したことによる堰止からなると、基本的には言われている。

  • 貞観の大噴火
いわゆる現在の富士五湖の地形は、富士山の貞観の大噴火(864年)により形成されている。富士山の噴火は過去何度もありますが、その中でも「貞観大噴火・延暦大噴火・宝永大噴火」の3つは規模が大きかったと言われています。そして「貞観大噴火」は最大規模ではないかとも言われています。

貞観の大噴火により長尾山火口などから噴出した青木ケ原溶岩は富士山麓を覆い(これで青木ケ原樹海辺り)、本栖湖に流入していった。さらに続いて「セの海」に流入していった。セの海の大半は溶岩で埋まり、その末端に分断されて形成された部分が現在の「西湖」と「本栖湖」である。


  • 古記録

噴火の解説だけでなく、富士山の歴史の解説においてもほぼ確実に取り上げられるのが『日本三代実録』の記録である。

  • 「駿河国言、富士郡正三位浅間大神大山火…」(駿河国側)
  • 「甲斐国言、駿河国富士大山、忽有暴火…埋八代郡本栖并剗両水海、水熱如湯、魚鼈皆死、百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記、両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖剗等海、未焼埋之前、地大震動…」(甲斐国側)

このようにあり、噴火の様子とその被害を伝えている。特に甲斐国で被害が甚大であったようである。その中に五湖の名称が見える。

本栖并剗両水海:本栖湖と剗の海の両方
名曰河口海:河口湖という湖

このように、本栖湖、河口湖、剗の海などが古記録で確認できる。この噴火により、甲斐国側にも浅間神社が建立されたのは有名な話である。その神社については諸説あるが、現在は比較的「河口浅間神社」ということで収まってきている。私も「河口浅間神社説」を支持している。

  • 「富士五湖」という名称
富士山研究の金字塔である「富士の研究」の『富士の歴史』(本)に「富士五湖なる言葉は記録には見当たらない」という旨が記されてあります。このように、古来の文書などでも一切確認できていません。それはそうです。なぜなら、「富士五湖」なる名称は昭和に入って初めて誕生した名称だからです。ですから、比較的最近できた名称なのです。最近は古来より呼称されてきたかのように解説するものも多く、注意したいところです。「富士五湖」誕生の経緯は以下のような形である。

昭和2年5月、東京日日新聞と大阪毎日新聞が共催で「日本新八景」選定の投票を企画した。鉄道省は、これにて選ばれた景勝を宣伝する約束であった(つまり国を上げての宣伝が保証されていた)。山梨県の湖は「山中湖」や「河口湖」などが中では有名であった。しかしバラバラであると選ばれない可能性がある。そこで、富士急行の前身である富士山麓鉄道の社長である堀内良平は「富士五湖」という形でとりつけることとした。これ(「富士五湖」という名称で投票を可とすること)を東京日日新聞に行って了解を得、堀内良平はあらゆる知り合いや関係者などに投票を呼びかけ、最終的に選ばれることとなった。

「富士五湖」という名称は誰でも思いつくであろうが、「投票における名称と変える」という工夫は、なかなか考えつかないものである。

富士急行
驚くべきは「比較的最近できた名称が、天気予報の地名にもなっている」ということです。これはものすごいことです。これはおそらく、山梨県の風土などが関係しているでしょう。知名度向上のために弛まぬ努力があったことは、いうまでもありません。

  • 富士五湖は富士山の湧水ではない
これを勘違いしている人がいますが、富士五湖は噴火により形成された堰止湖に雨水などがたまって形成された湖であって、湧水からなるわけではありません。しかし、一部で湧水が湧出されていると言われています。駿河湾も富士山の湧水が湧出しているといわれていますが、だからといって「駿河湾は富士山の湧水からなる」とは言えませんからね。基本的には雨水で構成されています。

  • 富士八海

現在でいうところの「富士五湖」の「五湖」は、富士講の巡礼地でもありました。こんな記録があります。

右ハ不二山の御手洗なりとて人々巡行するを八海巡りといふ しかれども皆山野の小路をわけ行く事なれハ案内を頼むべし

このように当時は「八海巡り」とよばれ、案内を付け険しい道を歩み行くものであったようです。それらは厳密にいうと「内八海」と「外八海」があります。内八海が富士山麓地域の巡礼地にあたります。

しかし「五湖」だけだと「八海(八湖)」にはなりませんよね。もちろんあと3つの巡礼地はありました。それは時代によって多少変移しています。長らくは、五湖と「明見湖」「四尾連湖」「須戸湖」の三湖を合わせて「八湖」としていました。しかし時代が下ると、「須戸湖」の代わりに「泉水湖」を含めて「八湖」としていたようです。

しかしもちろん当時は「五湖」などという概念はなかったため、例えば「河口湖」と「明見湖」も同じ「巡礼地」としての見方であったと思います。当時は五湖という概念がなく、「八湖」という概念であったということを認識することも、重要でしょう。


  • 「海」という表記

『日本三代実録』にて「河口海」という表記がみられ、また「本栖并剗両水海」という表記から本栖湖も「本栖海」としていることがわかります。「海」という表記は時代が下っても同様であり、河口地区で記されたと推定される『妙法寺記』には河口湖を指して「雨シケク当海イヨイヨ満ル」(永正9年)とあります。また天文23年条には同じく河口湖を指して「大原海」とあります(矢田俊文「戦国期富士北麓の法と参詣」を参考)。

  • 参考文献
  1. 『富士山麓の歩み 富士山麓史』(富士急行創立50周年記念出版),571頁
  2. 『富士の歴史』(再販:名著出版,1973),433頁

2012年2月27日月曜日

富士忠時

富士忠時(ふじただとき)は富士氏の富士大宮司である。以下は寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」である。受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり「富士忠時」である。




この文書が持つ意味は複雑である。まず、だれがどうしたものかを書いてみたい。この文書には足利義政、後花園天皇、富士忠時、藤原俊顕が関わる。そしてこういう流れである。

「足利義政」が富士忠時を「能登守」に推挙することを提案
「後花園天皇」が許可を与える
「藤原俊顕」がその意向を文書にて明示する
富士忠時が受給

当時の権力者である足利氏が天皇と関係を深くしていることは当たり前であるが、その足利氏の室町幕府将軍である義政が直々に忠時を推挙している点は面白い。少なくとも、それだけの地位がこのとき富士氏にあったということは想像に難くない。富士氏を語る上で、この事象は注目されるべき点であろう。若林淳之氏(歴史学者)が言うように、足利氏と関係が深い駿河今川氏の存在も背景にあると思う。


  • 和邇部姓

この文書にて和迩部(和邇部)忠時とあることも、注目されるべき点である。系図が残っており、和邇部氏からの流れであることは記されている。しかし、記されているからといって、実際そうであるとは限らないし、そう名乗っていたかもわからない。この場合、少なくとも当時実際に「和邇部姓」を用いていたことが確認できる。これは非常に大きなことである。


  • 富士大宮司と村山

村山の富士山興法寺の大日堂に、「大宮司前能登守忠時・同子親時」との銘がある仏像が発見されている。これは村山の衆徒や富士氏らが共同して製作した仏像である。「親時」とは富士親時のことで、忠時の嫡子である。このことから、富士氏らが村山との独自の関係を持っていたことを察することができる。富士氏(大宮)と村山との関係の理解は非常に難解である。少なくとも南北朝期に富士山信仰の双方の拠点とで、互いに奉納するに至るまでの何らかの結びつきはあったのだろう。例えば村山の「富士行」で知られる「頼尊」は、富士氏の系図にもその名が見える。忠時から六代さかのぼって二十一代富士直時の従兄弟にあたる。

この「後花園天皇口宣案」と奉納物から、当時の富士氏の権威がそれなりに見えてくる。

  • 参考文献
富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡』P186-187,2000年