2018年8月6日月曜日

富士氏の系図から珠流河国と和邇部について考える

このブログは古代について取り上げることはまず無いが、「富士氏についての検討」ということでこの場合のみ取り上げることとした。しかし以下で挙げる諸論考のほとんどは、古代に関する知見の無さで実質的な理解はないままであるということは冒頭で述べておきたいと思う。まず「富士氏の系図」には2つ種類がある。



①【和邇氏系図】
『各家系譜』(中田憲信稿本、国立国会図書館蔵)に「大久保家家譜草稿」があり、その中に「和邇氏系図」が収められている。ちなみにこれは姓氏研究の大家であった太田亮氏が収録したものであるが、田中卓『壬申の乱とその後』に「私は原本を求めて、先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽くして探して下されたが、遂に見当たらなかった」と記されているように、今現在は所在不明である

②【富士大宮司(和邇部臣)系図】
もう1つは静岡県史所収のものであり、「富士大宮司(和邇部臣)系図)」がある。

仁藤敦史氏はこの2つの系図について以下のように説明している。

県史所収の系図と『各家系譜』所収の系図を比較するならば、後者が前者のオリジナルな記載を簡略化し、『日本書紀』や『続日本紀』により和邇部臣君手の記載を加えるなど、諸史料により整合させており、前者が史料としては先行し、重視すべきと考えられる。

としている。系図の概要は以下のようなものである。孝昭天皇の子孫を称し、延暦14年に豊麿が富士郡大領となって以降代々富士氏が大領を務めていたとする。11世紀頃には和迩部臣の「判官代」「公文所」といった国衛への転身を示すが(雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度)、それでも大領で有り続けていたことを示す形である。

各関係が煩雑であるため、以下に整理してみた。

一般名『浅間文書纂』その他
和邇氏系図「大宮司富士氏系図」という名称で所収、大幅に省略されている(308-313頁)『各家系譜』所収
富士大宮司系図「別本大宮司富士氏系図」という名称で所収(313-316頁)『静岡県史』所収

系図の信憑性については論者により大いに左右されるところがあり、未だそれは変わらないだろう。まず、「和邇氏系図」に関する議論について述べていきたい。『和邇氏系図』については、概ね以下の点が前向きな材料として捉えられていた。

  1. 『薩摩国風土記』や『旧事紀』の記事が校訂できる
  2. 系図中に群制以前の「評」の表記が見える

これらの点が信憑性を支持する声の元となっているようである。系図中に見える「彦汝命」について田中卓氏は以下のように述べている

ここに見える「彦汝命」は播磨国風土記によってのみ知られる名前であり、しかも風土記には「比古汝弟」とあって用字を異にし、直接の母子関係は認められない。(中略)それのみではない。この系譜の末尾に見える「真侶古命」についても、之は容易に偽作出来る性質のものではない

とし、「真侶古命」の記述に関連して「一般に偽作者の到底なしえないところ」としている。つまり信憑性を高く評価しているのである。また佐伯有清氏は以下のように述べる。

これらの他に、『和邇氏系図』の価値を1つあげれば、春日・柿本・小野・櫟井の諸氏の祖として、米餅搗大臣命の子の人華臣をあげていることである。(中略)系図のこの記載は、『新撰姓氏録』とは別の古い初伝にもとづいているものであって、この系図の信憑性を高める一証となろう。さらに忍勝の尻付に、「大倭添県大宅郷住、負大宅臣姓」とみえ、また山栗臣のもとに、「居高市評久米里負久米臣姓」とあることなどは、『和邇氏系図』の独自な初伝であって、諸般の事情からみて、これらの記載は、はるか後世の捏造とは思われない。ことに「高市評」とあるような郡制以前の「評」の表記がみえるのは、この系図が古い史実を伝えているといえるのである。

とし、信憑性とその独自性を評価している。しかし比護隆界氏は1について「完全に校訂できるわけではない」とし、また「やはり造作されている可能性がある」として信憑性を否定している。

「押媛命」の弟として記される「和爾日子押人命」の名は他の文献には見えないといい、これらのような例がいくつか散見され、この系図の独自性を示す一端となっている。これらの検討の結果、比護隆界氏は和爾日子押人命について「実体の伴わない極めて観念的な名辞」としている。比護氏は大きく以下の問題点を挙げられている。


  1. 「和爾日子押人命」以外は全て記紀・姓氏録・旧事記等で復原できる
  2. 系譜の合理化の跡がある
  3. 和邇氏とは無縁の人物名や氏族名が含まれている
  4. 天足彦國押人命から彦国葺命まで五代四百年間、おおよそ一代八十年で統一されている


「合致点」と「一致しない点」が複雑に存在しており、総括としては「後代において形成された可能性が高い」としている。またこの系図の成立を「承和4年(837年)以降、とくに『先代旧事本紀』の成立以降」としている。

また佐藤雅明氏は「富士大宮司系図」について「系図に見える大石と豊麻呂との間には系譜に断絶があり大石以前の系譜は駿河国富士郡の在地豪族である大宮司家の系譜としては参考にならないと思う」としている。また「和邇氏系図」については「弟足以前の系譜と豊麻呂以後の系譜との間にが断絶がある」としている。和邇氏系図には「宗人」の名が見え、その細註に

神護景雲二年四月任駿河掾

とある。これは宗人の駿河掾の着任を示すものであるが、この記録により初めて豊麻呂以後の系譜とつながりが生まれているとしている。つまり豊麻呂より以前の部分は駿河国との関係がないとし、大宮司家の歴史としては考えづらいと暗に指摘している。要約すると「豊麻呂以後は信憑性が認められるが豊麻呂より前の部分については大変疑わしく、和邇部からの流れは考えづらい」としているのである。

これらの論考を見て仁藤敦史氏は

系図の史料批判は今後も継続すべきであるが、系図の後半部の骨格を信頼する限り、富士郡の郡領氏族としての和邇部臣氏を明瞭に否定する論拠は見いだせない。むしろ駿河郡や伊豆国田方郡におけるにおける春日部の分布や近接する伊豆国那賀郡にも「郡司擬少領」として「丸部大麻呂」が確認されることからすれば、蓋然性は高いと考える

としている。また「スルガ国造とスルガ国」では「富士大宮司系図」における豊麿の立ち位置に着目している。

注目されるのは豊麿の孫にあたる女性が、駿河郡大領であった金刺舎人道万呂の妻になっていることで、和邇部臣氏と金刺舎人氏との婚姻関係が確認される。

としている。中央(奈良に本拠を持つ)で一大勢力を推すワニ氏は後に春日氏に改姓するが、それは欽明朝のことであり、富士地区に存在している「ワニ」の一族と中央の「ワニ氏」との関係は欽明朝以前であろうとしている(改姓後に関係していたら「ワニ」は富士地区には存在しないはずということ)。もちろんこれらも系図を十分に信用した場合の話であるが、駿河郡に居た金刺氏と関係が見えてくることはおかしなことではない。

豊麿の大領就任とそれ以後の同族継承、そして延暦20年の富士山噴火を契機とした浅間神社祭祀への関わり。これらの点は各論者に違和感なく迎えられているように見受けられた。

  • 参考文献
  1. 仁藤敦史,「駿河郡周辺の古代氏族」『裾野市史研究』第10号,1998
  2. 田中卓,『壬申の乱とその前後』(田中卓著作集5),1998
  3. 佐伯有清,「山上憶良と栗田氏の同族」『日本古代氏族の研究 』,1985
  4. 比護隆界,「氏族系譜の形成とその信憑性 : 駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』について」『日本古代史論輯』,1988
  5. 森公章,「雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度」『弘前大学國史研究 106』,1999
  6. 仁藤敦史,「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』第4号,1992
  7. 佐藤雅明, 「古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-」『地方史静岡』第24号,1996

2018年8月3日金曜日

今川氏輝による富士宮若の馬廻登用について

今川氏輝は第10代今川氏当主である。次代は今川義元であるが、今川氏輝の政策として「馬廻衆の形成」は良く知られるところである。

小和田哲男『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』には以下のようにある。

氏親・寿桂尼段階に見られず、氏輝が実質的に政治を執るようになってはじめてあらわれた施策のもう1つが馬廻衆の編成である。(中略)この馬廻衆にあたる直属軍は氏親のときにはなかった、それが、天文元年11月27日付の氏輝判物にみえる。(中略)というように、富士宮若に、星山代官職を安堵する代わりに馬廻としての奉行を求めている。宛名の富士宮若というのは、正しくは富士宮若丸のことで、国人領主富士氏当主の子。すなわち、氏輝は、有力武将の子ども世代の若者を親衛隊に組織しようとしていたことが分かる。それは、天文3年7月13日付の興津藤兵衛尉正信宛の氏輝判物に、知行分の安堵をした上で「将又子彌四郎馬廻に相定むる上は、彌奉行を抽んずべき所、仍って件の如し」と記していることからも明らかである

以下が、その判物である。

※「富士宮若殿」の部分は切れています

天文元年(1532年)のことである(「宮若(丸)」は幼名である)。この時の富士氏はどのような状況であったのだろうか。「富士氏の上洛と富士と今川」にあるように、15世紀末の段階で富士氏は今川氏と距離を置いているように見受けられるし、あまり接点はない。それ以前の時代に至ってはむしろ今川氏と対立している。しかし『勝山記』の大永元年(1521年)の記録に「富士勢負玉フ」とあり、武田信虎との戦で富士氏が出陣している事が分かるのであり、このとき今川陣営であったのである。この今川陣営としての行動が一時的なものであったかどうかは、史料数が少なく分からない。しかしこの判物からは今川氏への家臣化が感じ取れるのであり、『勝山記』と合わせて考えると、16世紀前半に富士氏は今川氏と近接するようになったと言える。これは今川氏の領国経営の盤石化に伴う富士氏の方向転換とも捉えられるし、ついに今川氏は富士氏を取り込むことに成功したわけである。

またこの時期の富士上方はどうであっただろうか。天文初期の今川氏は武田氏と対立しており、天文4年には鳥並(富士宮市)の地が武田軍によって焼き払われている。



このような緊張を想定し、軍事的な体制を盤石にしたいという意図もあったであろうか。


大石泰史「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」には、以下のようにある。

本史料は、今川氏輝が大宮城(富士宮市)の大宮司富士家の嫡流と思しき宮若に、馬廻の奉行を星山の代官職を、従来通り勤めるよう述べたものである。(中略)今川氏の場合は不明ながらも、北条氏と類似していた可能性はあろう。たった2点の史料しか存在しないので不分明だが、大宮城主の富士氏および横山城主の興津氏の当主に近い人物が任命されているので、城主クラスの近親者に限られているようにも見受けられる。ただ、大名権力が在地側と妥協しながら様々な状況を打開していったことを考慮すると、すべてそうした階層であったとは考えにくい。また富士氏も興津氏も、永享期に第6代将軍足利義教が駿河今川氏の後継者と認めた今川範忠の駿河入国を承認しなかった駿東地域の「国人」で、完全なる今川氏の「譜代」被官というわけではなかった。そのような彼らを内部に取り込み、併せて当主に近任させることで、当主の目が届くところに置かせる=証人=人質としていたと判断される。

としている。まず「今川範忠に対する入国拒否」については「室町幕府と富士氏」にて記している。


この文書は永享6年(1434年)に比定されている文書で、今川貞秋の駿河国への入国を「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」(または明確に今川範忠支持を示さない者)に伝える文書であり、範忠体制への忠節を求める内容である。「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」≒「今川範忠の駿河国入国を拒否した者」と言って良いのであるが、確かに興津氏もそうであった。氏輝当主のこの時代に、これら過去の動向がどの程度影響をもったかは分からない。ただやはり氏輝は、完全には今川氏に恭順の意を示さない富士氏のような領主層を取り込みたかったのだと考えられる。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』,ミネルヴァ書房,2004
  2. 大石泰史,「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」『戦国期政治史論集 東国編』,2017
  3. 長谷川弘道,「戦国大名今川氏の使僧東泉院について」『戦国史研究』第25号,1993