2017年10月6日金曜日

富士宮市域の名族佐野氏と富士氏を今川氏武田氏後北条氏動向から探る

以前「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」にて武田氏による駿河侵攻以前より今川氏ではなく後北条氏方に与したと考えられる富士家一族の人物について取り上げた。

※このページでは『役帳』の記録は駿河侵攻以前を反映しているという仮定で進めています


『小田原衆所領役帳』(以下『役帳』)によると、後北条氏の領地である「東郡片瀬郷」が富士氏に知行されており、富士家一族の中でも後北条氏側に近接した者が居たことを示している。これが武田氏の駿河侵攻以前の状態を反映している記録であるとすれば、富士家の内部分裂を想定しなければならない。そしてこの『役帳』の富士氏が、「富士常陸守」であると指摘する文献は多い。『中世東国足利・北条氏の研究』では

とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている

としている。『後北条氏家臣団人名辞典』ではこの点について説明している。

元亀元年4月26日北条氏康禁制写では相模国早川(小田原市)の海蔵寺に禁制を掲げ、違反する者は富士常陸に申し断る事とした。海蔵寺は大森氏と関係する寺であることから『役帳』の富士某と富士常陸は同一人物

これは大変に重要な指摘である。つまり以下のようになる。『役帳』の片瀬郷は現在の藤沢市に位置する地であるが、その地を富士氏と共に大森氏が知行先として得ていた。ここに先ず両者の関係性を見出すことができる。そしてその大森氏と関係の深い海蔵寺に禁制が掲げられた際、その監視役的位置づけとして「富士常陸守」が出てくるのである。ここでも大森氏と富士氏との接点が見出だせる。

大森氏については池上裕子,「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」の解説を参考にすることとする。

北条以前にこの地(注:小田原のこと)にいた大森氏は、駿河国駿東郡大森(裾野市)を本貫の地とした国人であるが、関東公方足利持氏に結びつき、忠節を尽くしたため、上杉禅秀の乱後の恩賞で小田原を領することになった。大森の一族には箱根別当がおり、また大森は駿東郡北部をも支配下にいれていたから、小田原、箱根、足柄、駿東郡という、関東の西の境を固める目的で、持氏がこれを小田原に入れたことは疑いない。

とある。参考であるが、大森氏と関係するとされる竹之下孫八左衛門頼忠は「竹之下藍沢氏家伝」に「其後富士の大宮に住す」とあり、余生は富士大宮に居住していたようである(『裾野市史』第二巻 資料編 古代・中世 別冊付録)。


禁制は戦時における安全保障として大名側が出すものであり、寺社領内における軍勢乱入や狼藉を禁止する内容が織り込まれていることが多い。当文書も寺領内での狼藉等を禁止する内容である。このことから、この富士氏は小田原においても知行を得ていた可能性があり、少なくとも当地で一定以上の権限を得ていたのである。後北条氏の被官として捉えられなくはない記録がこの2つしかなく(役帳および禁制)、同一人物ではないかとしているのである。

ただ同文献(『後北条氏家臣団人名辞典』)では富士常陸守を「大宮司職」としていたが、当ブログではそれを示す史料は確認できなかった。むしろ大宮司職でないがために、『役帳』の富士某が富士常陸守である可能性が高まるのである。『役帳』の富士某は富士大宮司とはとても思えないのである。

また永禄12年(1569)「武田信玄判物写」にも富士常陸守の名が見える。

この文書で富士家の人物として「富士能登(守)」「富士常陸守」「富士左衛門」「富士兵部少輔」がそれぞれ出てくる。まず富士能登守は富士信通、富士兵部少輔は富士信忠である。富士左衛門は不明。

そして「富士常陸守」であるが、永禄12年(1569)の武田氏側の発給文書と元亀元年(1570)の北条氏側の発給文書にそれぞれ「富士常陸守」が見える点を考えなければならない。このとき富士常陸守が富士上方の精進川・山宮の地を有し、そしてそう違わない時期に相模国でも動向が確認できるということなのである。駿河侵攻(1568年-)において富士氏は後北条氏の庇護を受けるが、それに伴う体制であろうか。また役帳の富士氏であるが、役帳の成立およびそれを反映する時代が駿河侵攻を遡るとすると、これはとても同一人物とは思えないのである。

そしてこの文書の宛は「佐野惣左衛門尉」である。佐野氏は言わずと知れた富士郡に土着した氏族であり、富士郡でも「稲子」を根拠地とする氏族である。現在富士地区(富士宮市・富士市)に多く分布する佐野姓の大元とされ、いわば佐野の故郷である

上稲子
この文書について小和田哲男氏は以下のように説明している。

佐野惣左衛門尉は上稲子(現在、富士郡芝川町上稲子)の土豪であった。今川氏に仕え、大宮城の富士氏の指揮下に入っていた。富士氏を寄親とする寄子だったものであろう。ところが、周知のごとく、永禄11年(1568)12月、信玄率いる大軍が甲斐・駿河国境を越えて駿河になだれこんできた。そのとき、上稲子は武田軍の通り道だったこともあり、いち早く、佐野惣左衛門尉は信玄の軍門に降っている。この知行宛行状はそのときの功績によって与えられたものである。この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。(中略)注目されるもう1点は、富士兵部少輔信忠の子富士能登守信通の屋敷が稲子と野中にあったことである。野中は現在の富士宮市野中東町に比定されるので、大宮城下の屋敷ということになるが、稲子にも屋敷をもっていた点は注目される。

としている。まず稲子は甲斐国の河内地区に隣接しており、国境に位置する。このことから早くに武田氏に降った背景は容易に理解できる。野中ですら大宮城が位置する狭義の「大宮」からするとやや離れた箇所の印象があり、また稲子は更に距離を有する。つまり富士氏は、富士上方各地に屋敷を有していたと考えて良いだろう。それは支配領域といっても良く、富士氏の富士上方での権力の一端を示すものである。「富士能登分但浅間領除」の「浅間領」は当然浅間大社領のことである。当文書は駿河侵攻で大宮を手中に収めた場合、それら土地を代わって佐野氏に充てがうという内容である。

武田氏はこのとき「大宮城の戦い」で2度目の攻勢を仕掛けたという段階であり、しかもその戦いで穴山信君と葛山氏元の連合軍は富士氏に敗れているという段階なので、まだ大宮の平定どころか大宮城すら落ちていない状況であった。小和田氏が"この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである"と述べているのは「まだ大宮は奪われていないのに佐野氏に知行を与えている」という意味であり、指摘の通りである。また現在ここまで佐野姓が多いのは、おそらく富士上方各地に散らばっていた富士氏領に佐野氏がより広範囲に住むようになったためであろう。

さて、上記の「武田信玄判物写」は以下のような過程があって現在翻刻に至っている。

この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。

この発見により、富士宮市の佐野氏の実像が大きく判明したのである。まずこの事実は挙げておきたい。従来から伝わる「佐野氏文書」は若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」にて「佐野文書(富士宮市大岩)に包括され所蔵されている文書であって、佐野氏によって代々継承されてきたもの」と説明されている。これら従来の佐野氏関係文書、またこの「佐野氏古文書写」からいくつか抜粋していきたい。まず佐野氏が従来よりこの上稲子に在住してきたことが分かる文書を挙げたい


この文書について小和田氏は以下のように説明している。

この文書は注目される文書である。佐野宗左衛門尉、すなわち惣左衛門尉の知行地が上稲子にあったこと、そして、佐野惣左衛門尉が本来勤めなければならなかった棟別役ならびに御晋請役が特別に免除されていたことである。(中略)しかも「如先方之時」とあるように、それが今川氏時代からの慣行だったことも分かる

これら文書から、従来より上稲子に佐野氏が土着していたことが分かるのである。伝承の域は出ないものの、源平合戦で敗れた平維盛の家臣「佐野主殿頭」が稲子の地に土着したことから佐野氏は由来するという。また西山(旧芝川町)の地頭である大内安清の孫「雅楽助」が佐野姓を名乗ったためともいう。これら伝承も含めて、中世期より佐野氏が根拠地としてきたことは疑いようがない。



この文書は佐野善次郎宛の文書である。この人物も稲子への知行を受けている。他「佐野氏古文書写」より多くの佐野姓の人物が確認できる。

また以下の文書は興味深い。


穴山信君から佐野善六郎への偏諱である。つまり穴山信君は、自身の「君」の一字を佐野善六郎に与え「君」と名乗らせたのである。このときの佐野氏と穴山信君との深い関係を思わせるものであり、着目すべきものである。鉄山宗鈍という高僧が記したという法語・香語録『鉄山集』によると、信君は「のぶただ」と読まれたという(『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』)。ここから推察するに、おそらく君胤は「ただたね」と読まれたであろう。また小和田氏は佐野氏古文書写のうち天正19年(1591)に比定される文書等から以下のように説明している。

武田氏のあと徳川家康に仕えることになった佐野惣左衛門尉が、関東から故郷下稲子に居住している佐野氏同族にしたためた書状であろう。戦国期、下稲子において、佐野氏による一族一揆的な結合、すなわち、地域的一揆体制ができていたことを物語る史料である。(中略)下稲子の土豪佐野氏の内、佐野惣左衛門尉が武士化して村を出、佐野九郎左衛門らがそのまま村に残ったことが分かる。
この文書の場合、下稲子にも佐野氏一族が居たことが確認できる。佐野氏は上稲子・下稲子、つまり稲子全域に土着していたようである。佐野氏のその後は不明であるが、現在の状況が示すように、佐野氏は隆盛したようである。以前「元亀天正期の富士郡情勢を富士氏と小笠原信興から考える」にて、小笠原信興の富士郡転封に伴う富士郡の情勢変化を記した。特に柚野周辺は影響を受けた。近接する稲子周辺も同様であったようで、信興が佐野弥右衛門に宛てた文書が残る。


この文書について黒田氏は以下のように説明している。

宛名の佐野弥右衛門に対し、その屋敷の四壁の竹木について信興の被官衆による勝手な伐採を禁じるとともに、用所の際には印判状をもって所望すると規定したもので、いわば信興被官衆の非分の排除を保証したものである。その具体的な在所については不明であるが、佐野氏は駿河富士郡北部に多く初見される土豪層であるから、この佐野氏も同様であったと見られる。また、本文書の内容や、ここで印判が押捺されていることからみて、宛名の佐野氏は信興の被官ではなく、その知行地に在所する土豪層であったと推定される。

としている。また小笠原信興の転封で篠原氏もその影響を受けているが、実は「佐野氏古文書写」には篠原氏宛のものも含まれる。以下はそれである。



篠原氏は柚野を根拠地とする氏族であり、佐野氏の根拠地である稲子に隣接する。なのでここで篠原氏が出てくるのである。


「中世期の文書」と「現代」が見事にリンクしていることから(現在も柚野には篠原姓が多いし稲子には佐野姓が多い)、文書が正直であることを実感すると共に、佐野氏の原点が稲子にあったことが改めて確認できた。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996
  2. 下山治久,『後北条氏家臣団人名辞典』,2006
  3. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006
  4. 黒田基樹,「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究 第21号』,1999
  5. 平山優,『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』,2011
  6. 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991

2017年7月18日火曜日

田子浦と吉原湊その地理と歴史

今回は「吉原湊」(現在の田子の浦港)に軽く触れた上で、「田子浦」について考えていきたいと思います。そもそも「田子の浦港」と「田子浦」は別物なのですが、今回はそのうちの「田子浦」について触れていく形となります。

"「田子の浦港」と「田子浦」が別物"というのは何も難しい話ではなくて、例えば富士市に隣接する富士宮市で言った場合「富士宮」と「富士宮市」は違うということと同じです。「富士宮」は『今昔物語集』等で用いられているように現在の富士山本宮浅間大社を指す言葉であり、「富士宮市」というのはあくまでもその歴史的用語を用いた「市」なのです。「富士宮」という言葉自体は古くからあって、それ自体に意味があるということです。同じように「田子浦」という言葉自体は古くからあって、「田子浦」自体に意味があります。

  • 吉原湊について

まず「吉原湊」は現在の田子の浦港を指す。吉原湊の初見は不明であるが、矢部氏宛の文書の内容が大変よく知られている(詳しくは「駿河国吉原の吉原湊と道者問屋」を参照)。矢部氏は①吉原道者商人問屋②吉原渡船③立物に関わる有力者であり、吉原湊を経済的地盤にしていた。

駿河国の地が徳川氏のものとなると、今度は徳川家康の各家臣が矢部氏にそれぞれ知行を与えている。例えば天正11年の牧野康成(長久保城城主)および松平康次(三枚橋城城主)から矢部清三郎宛の文書が残るが、それぞれ「吉原湊渡舟破損修理之事」「吉原湊渡舟修理依」とあり、徳川氏になっても吉原湊で矢部氏が経済活動をしていたということが伺える。

  • 田子浦は何処を指すのか?
言わずもがなかもしれませんが、昔からある議論である。田子浦は『万葉集』に「田兒之浦」とあるそれが知られ、次いで正史の記録である『続日本紀』に「廬原郡多胡浦浜」とあることでもよく知られる。この古記録からまず

この時代の田子浦が庵原郡にある、または少なくとも庵原郡にはかかる

という理解が生じます。単純に考えれば『万葉集』でいうところの「田兒之浦」も庵原郡(いはらぐん)を指すと推察できる。

ちなみに庵原郡の各地は現在は静岡市清水区、富士宮市、富士市に分かれて分布している。しかしこれらのうち海に属する地域はすべて現在の静岡市に該当するので、当時「田子の浦=庵原郡」であった場合、富士宮市や富士市が田子の浦の所在地であるとすることはできないわけである(つまり、庵原郡の地で海に接する地域はすべて現在の静岡市清水区であるということです)。


『続日本紀』で多胡浦(田子浦)の所在地として見える庵原 ※廬原郡=庵原郡

「今川政権の金山開発と黄金運用について」では以下の解釈を示している。

駿河国において初めて黄金を産出したのは、続日本紀に天平勝宝2年(750)3月10日に廬原郡多胡浦浜に於いて黄金を得たという記事があり、これは富士郡麓村の金山から富士川に流れ出した砂金を得たことによるもので、以後、黄金の採掘は川床の砂金や河岸段丘に堆積した砂金などを中心に行われてきた

とある。「富士郡麓村の金山」とは「富士金山」(静岡県富士宮市)のことであるが、まず富士金山の麓に富士川は流れていない。また仮に流域にかかっていたとしても砂金がそこまで下ることは考えづらい。庵原郡多胡浦浜で金が採掘されたのは別の理由である。



史料を探してみた所、富士川の源を富士金山とするものがあったので、参考に以下に示す。

『和歌駿河草』より。

今千                              家雅 
立まよふ山路の雪の音もなくすそのの里に雨ふるらん 
山やまのかさなる峯の梢をもふじの裾野にうつしてぞみる 
河 

富士金山より出、又は甲州より出、又宍原、長嶺の川とともに富士川に入り大河となる。驛道往還は舟渡なり、内房といへるにつな橋有、此所の釜の口といふ有て、富士川第一の難所なり。立石とて川中に有、日蓮の旧跡有といへり。岩淵より甲州へ舟沂る十八里也
古来の田子の浦の所在地とされる箇所


驛道往還は駿州往還のことであり、「釜の口」は釜口峡のことである。「日蓮の旧跡」はおそらく「日蓮の身延入山」に関わるだろう。しかし地理的背景は誤認しているといって良いものである。なのでやはり富士金山から流れ出たとするのは難しいと思われる。

また『平家物語』にも「田子ノ浦」は「多胡浦」として出てくる。流れは以下のようなものである(『延慶本』より)

祇園精舎乃鐘ノ聲、諸行無常ノ響アリ。娑羅雙樹ノ花乃色、 盛者必衰ノ理ヲアラハス。(中略)昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時、此関二留リテ、唐歌ヲ詠ケルトコロニコソト、哀レニオホヘテ、多胡浦ニテ富士ノ高根ヲ見給ヘリ。時シラヌ雪ナレトモ、皆白妙ニミヘ亘テ、浮島原ニモ至リヌ。

「時シラヌ雪ナレドモ」は、『伊勢物語』の在原業平の歌で、『新古今和歌集』にも収録される以下の歌から由来する表現と考えられる。

時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

ここから「時しらぬ山→時しらぬ雪」と転じていると考えられる。「多胡浦」が出て来る部分は、『平家物語』第六である。内容は、源義経一行が捕えた平家方を連れて都から鎌倉に下向するものである。その過程で、捕えられている平宗盛が故事を偲ぶという流れである。

平宗盛
昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時」とあるのは、十世紀の頃に藤原忠文が平将門討伐のため奥州へ下る際、清見関で唐歌を歌ったことを記している。宗盛がこの出来事を偲びながら、田子浦にて富士山を眺めるという流れである。

その後に「浮島原ニモ至リヌ」とあることから、まず平家物語中で言う「田子浦」は、清見関以降且つ浮島原よりも手前であると言うことができる。文の流れからすると、清見関を過ぎた箇所から田子浦としているようにも捉えられる。ただ正確には不明である。

記録表記場所
『万葉集』田兒之浦不明
『続日本紀』多胡浦浜庵原郡
『平家物語』多胡浦清見関-浮島原の間

次に『東関紀行』を見ていきたい。

清見が関も過ぎ憂くて、しばしやすらへば(中略)昔、朱雀天皇の御時、将門というふ者、東にて謀反起こしたりけり、これを平らげんんために、民部卿忠文を遣はしける。この関に至りて留まりけるが…(中略)この関遠からぬほどに、興津という浦あり。海に向かひたる家に宿りて侍れば、磯辺に寄する波の音も身の上にかかるやうにおぼえて夜もすばら寝ねられず。(中略)蒲原という宿の前をうち通るほどに、後れたる者待ちつけんとて、ある家に入りたるに(中略)田子の浦にうち出でて、富士の高嶺を見れば、時分かぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず。(中略)浮島が原は、いづくよりもまさりて見ゆ…。

と「清見関→蒲原宿→田子浦→浮島が原」と通過していることが分かる。ここで「田子の浦にうち出でて」とあり『万葉集』との一致点を見出すことは確かにできるが、区別が必要であることも事実であろう。『万葉集』では「田兒之浦従」とあり「従→ゆ」は「通って」という意味であるので、「田子の浦を通って見えた風景」を指して言っているのである。しかし当紀行文はおそらく単純に「田子の浦」に到着した様子を記しているのである。『万葉集』の場合過ぎた地点を指している可能性があるので、意図に差異があると言える。

『東関紀行』では蒲原以降且つ浮島原より手間の箇所を指して「田子浦」と言っているということが確認できる。これは『平家物語』とほぼ同様である。この記録でも庵原郡の箇所を指すのか、富士郡を指すのか、またそれを跨るのかははっきりしていない。蒲原宿の位置から幾らか至らないと富士郡には入らないし、『続日本紀』といった記録を考慮すると、この時代の「田子浦」も庵原郡を含めて呼称していたと考えた方が良さそうである。古態を示すとされる『延慶本平家物語』の成立年等も考慮する必要性がある。

しかしその後明らかに駿河国富士郡の地を指して「田子浦」とする例が史料上出てくるようになり、両者異にする地であることから混乱を生じさせている。近世以降の資料を見ると、富士郡の箇所を指す例が優位にあると言って良いように思われるのである。

『駿府風土記』(江戸時代)


『駿府風土記』では岩淵のより東側を指して「田子ノウラ」としており、ここは富士郡の領域である。また下図でも「川成」(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」を参照)の付近を指して「田子浦」とあるのであって、やはり富士郡である。

以上のように古記録では庵原郡を「田子浦」とする記録が確認でき、中世は清見関-浮島原の間を指す傾向が確認でき、より後世では富士郡に限局するという流れが見えるのである。そして明治期の町村制施行の際に「田子浦村」(後の富士市)が誕生する。ただ「田子浦村」は中世・近世には見られない村名であると思われる。村名というのは、度々変更されることもあった。例えば富士市立博物館,『六所家総合調査だより 第11号』には以下のようにある。

一方、東泉院や旧善徳寺を含む広大な地域は、近世には村高三千石を越える善徳寺村という近世村落の村域であった。この村は、寛文二年(一六六二)に今泉村と改称されるが、「善徳寺」というのは、村名でもあった。

また「綱吉期孝子表彰と富士郡今泉村中村五郎右衛門の年貢永代朱印状」には以下のようにある。

今泉村は慶長4年(1599)には「瀬古村」と呼ばれていたことが残されている検地帳からわかり、その後「善徳寺村」と呼ばれ、寛文2年(1662)には「今泉村」と改称されている。

そこで「田子浦村」の存在を考えるに、元禄郷帳・諸国郷帳・天保郷帳を見ると「田子村」があるが「田子浦村」が無い(ちなみに「田子村」は普遍的な名称で例えば伊豆国那賀郡にも田子村は在った)。時代別に調べを進めてみるも、かなり時代を下っても確認できない。ほぼ町村制施行か極めてそれに近い時代に初めて「田子浦村」と冠するようになったと推察できる。ここに「この地が古来から田子浦と呼ばれていた」という誤解を生じさせる要因があるように思われる。

ただ『続日本紀』『平家物語』の記録に鑑みるに、この地(現在の田子浦港付近)と山部赤人の歌とを安易に直接的に結びつけることは望ましくないと考える。それ故に「田子浦は何処を指すのか」という議論が今日も生じているのである。

中世の『東関紀行』等の記録をみても庵原郡の領域を指すのか富士郡の領域を指すのか、はたまた跨るのかははっきりしないが、古記録で『庵原郡多胡浦浜』とあるので、中世の記録も庵原郡の領域を含める形で呼称していたと考えたい。『平家物語』では平将門討伐といった故事を持ち出しているのであり、これらは当時記録が存在しているために引用できるのであって、地理的側面も『続日本紀』といった古記録に沿っていると考えるのが大変自然である。また「吉原湊」との関係性も気になる所である。

  • 田子浦は「何」を指すのか?
「田子浦は何を指すのか?」といったとき、「浜」を指すのである。なので歴史的史料にて「吉原湊(みなと)」はあっても「田子浦湊」が無いのである。後世の町村制施行で「田子浦村」が誕生したがために「田子浦港」という名称になっているが、本来は「吉原港」といったほうが歴史的性質からはしっくりと来るのである。

例えば『駿府風土記』で大変に内陸を指して「田子ノウラ」とあることに違和感を覚えたが、これは「浜」を意識してのことと考えられる。江戸幕府将軍「徳川家茂」は文久3年(1863)に上洛を試みるが、この際東海道を用いた。そのため原宿・吉原宿も用いているが、その様子を記したという『昭徳院殿御上洛日次記』で家茂は「足高山手前海岸田子之浦辺」を巡覧したという。ここでいう「海岸田子之浦辺」という表現からも、海自体は指さないと考えられる。(大高康正「将軍徳川家茂の上洛と東泉院」を参考)。


中世の記録を見るに、戦国大名の発給文書等で「田子浦」を用いている例が見られない。管見の限り確認できていない。これは何を意味するのであろうか。おそらく中世でも戦国期に「田子浦」はそもそも多用されるような用語では無かったのであろう。支配領域の細分化・変移で蒲原以降から浮島原の間(のどこか)という広範囲を指す曖昧な用語が受け入れられて来なかったのだと思われる。それ故に故事の引用等から由来し紀行文等で稀に「田子浦」という用語が用いられることがあるか、近世の国学研究において言及されるに留まると推察される。

『続日本紀』に「多胡浦浜」とあり、後世でも「浜」と「湊」を区別していたと考えると、水運関係に富む矢部氏文書であっても「田子浦」が出てこないことも理解できる。上の『駿府風土記』等でややランダム性を持つ形で図示される例が見られるが、各図でも異にする地を「田子浦」としており、実際は最後まで明確な場所は定まっていなかったと考えられる。

  • 参考文献
  1. 高山利弘・久保勇・原田敦史編,『校訂延慶本平家物語 11』,汲古書院,2009
  2. 東島誠,「租税公共観の前提――勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造 江湖の思想へ』東京大学出版会,2000年 
  3. 阿部浩一,「戦国期東国の問屋と水陸交通」『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館 ,2001年 
  4. 原田千尋,今川政権の金山開発と黄金運用について : 『真珠庵文書』を中心に読む,『静岡県地域史研究 (3)』,2013年