2012年9月22日土曜日

絹本著色富士曼荼羅図を考える

「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は富士曼荼羅図の代表である。参詣曼荼羅図において、特に絹本のもので現存するものはかなり限られており、絹本の富士曼荼羅図は3点しか現存しない(「参詣曼荼羅試論」による)。


「参詣曼荼羅試論」に準ずる

この絵画は狩野元信の壺形朱印があり、また本宮の社殿が浅間造でないことから、多くで室町時代作と考えられている。

壺形朱印(当図の右下)
当時の富士信仰を探るにおいて非常に重要なものである。近藤喜博氏は『神道史学』にて以下のように述べている。

この画家は少なくとも現実に大宮の社地を一度は踏んだことがあり、富士山の縁起や地誌的事を耳にして、筆をとっていると考えている

このようにこの曼荼羅図はデフォルトされた部分とは別に、信仰面においてはリアルな描写がされている。白衣姿の道者が登拝を行う姿、湧玉池にて禊を行う道者、その湧玉池の神聖な湧水の流れ…当時の登山風俗をよく示している。この図の中心にある水辺は「湧玉池」であり、それほど禊を重視しているとも取れる。また道者が火を灯しながら登山をしているため、夜行登山であることも分かる。頂上にある三峰、阿弥陀如来、薬師如来の描写も重要な部分である。「参詣曼荼羅試論」で大高氏は「本図の作成が富士登山信仰を絵解くことに目的があった」としている。富士山は山頂に至るほど神聖とされていたが、本図もそのような意識があったと考えられる。1つ1つの空間を意識させる構成のように思える。

当図は全体で237人の人物が描かれている。子供を除くと男性が209人、女性が22人であるという。道者とそれ以外の居住者が描かれており、各人物が如何様な身分であったかについて「参詣曼荼羅試論」では詳しく説明がなされている。


  • 日輪・月輪


この「日輪・月輪」の組み合わせは、他の曼荼羅図でも確認できる。『太平記』では後醍醐天皇が笠置山で掲げた旗が「日輪・月輪」の意匠であったと記している。

  • 清見寺付近



清見寺と境内の三重塔が描かれている。門前の門については、ほとんどの文献で「清見寺関」であるとされる。「海の東海道」にはこの関所について以下のように説明している。

船に乗った道者の着いたのは「蒲原船関」であろうという指摘があるが(永禄11年、駿府浅間神社文書)、それよりも吉原湊であると考えた方が、より直接的である

つまりここで「清見寺関」「蒲原船関」「吉原湊」の説があると言えるが、やはり「清見寺関」と考えるのが素直なように思える。

他、「船(駿河湾で八隻)」「道者」「海水を汲む者」や「連歌師」などが描かれている。

茶を販売する様子
船にも道者が乗っていることから、地上にいる道者も船でやってきたことを示している。

潤井川で禊をする者(左)
これらの図示から参詣曼荼羅試論では「参詣ルートを意識して描いていることが指摘できる」としている。

  • 富士山本宮浅間大社付近



湧玉池で禊をする道者が描かれており、すべて男性である。

流鏑馬神事
この白馬であるが、参詣曼荼羅試論では「白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう」としている。本宮と流鏑馬の関係を示すものは、文書では「武田勝頼判物」が初見であると思われる。

大宮道者坊
大宮道者坊は、本宮の社人が営む道者坊である。

神官
社人と思われる。

  • 富士山興法寺付近



富士山興法寺の各建造物を示し、拝殿では巫女が舞う姿が見られる。


その前に見える道者数名は女性である。僧とそれに同行する数人の者が居る。また下部の「竜頭滝」には注目である。この中で1名のみ、巫女の前に立つ道者と同様の格好をした人物(女性)が禊をしている。解釈としては「女性でも禊を行なっていた可能性がある」ということになる。


上の僧の格好をした人物とその一行について、「この一行は、村山に文明18年(1486)に来訪した聖護院道興の一行を想起させるものがある」としている。服装が異なり、身分の高い高僧を意図している可能性は高いと思われる。

3名の女性

またこの3名の女性が居る位置より上では女性が見当たらず、これが女性が登拝できる限界点を示している。つまり「女人禁制」である。


また上の図の左の4人は白装束であり、またそれより上はすべて白装束姿であることから参詣曼荼羅試論では「この場所で全ての富士参詣者が白装束に身を包むことが、形式化していたことがわかる」と述べている。

松明をうける道者
また「富士信仰の成立と村山修験」で遠藤秀男氏はこのように説明している。

湧玉池では数人の男が裸で池水につかり、垢離をとっている。その上方には村山浅間が描かれて、ここでも水垢離をとる道者が表現されている。登山者はここから俗界との縁を切り、森林中の踏みわけ通を登り始める

このように「俗界」とそれらとは異なる「聖地」の境界があったとしている。その接点となる場所に浅間神社が存在するのである。ですから浅間神社は「門」にあたると言える。登山道でいうところの起点である。だから浅間神社境内またはそれに隣接する形で必ず禊の場があるし、道者は水垢離を行なってから登山に入ったのである。その世界観を示したのが「富士曼荼羅図」である。また村山に関しては「今川義元判物」にて「村山室中」と表現され、同判物の中で村山を聖域とする旨が示されている。「村山室中」という聖域としての空間があり、そこは世俗とは一線を画す特別な空間であったのである。

童子が道者を案内する様子
「富士信仰と曼荼羅」では以下のようにある。

この仏の世界をわが目で見、自らの体で触れることができるということを説くために、このような「俗界」「神域」「聖地」という三区域に分けた図柄がつくられたのではないかと思われる

この曼荼羅図は富士山信仰を広める目的があり、富士信仰を絵画という形で説いたものとしている。

尚「富士宮市立中央図書館」2階には原寸大のレプリカが展示されているので、興味ある方はどうぞ。

  • 追加部分

この図のいくつかの場所で、後に「追加された部分がある」と指摘されている。そしてそれを「人物図像を追加することによって、駿河国以東、東国方面からの富士参詣者の誘致を意図したのではないか」と説明している。禊に女性の道者が含まれている部分(この部分は追加された部分としている)などは「後に限界点の延長を示した故」としている。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「参詣曼荼羅試論」『参詣曼荼羅の研究』,岩田書院,2012年
  2. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978年
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960年
  4. 平野栄次,「富士信仰と曼荼羅」『聖地と他界観』(仏教民俗学大系3),名著出版,1987年
  5. 若林淳之,『海の東海道』P14-17,静岡新聞社,1998年
  6. 皇學館大学佐川記念神道博物館編,「神社名宝展 : 参り・祈り・奉る : 皇學館大学創立百三十周年・再興五十周年記念特別展」,2012年

2012年9月15日土曜日

富士山麓の道者関と小山田氏

戦国期吉田御師の実像」にあるように、永禄2年(1560)に小山田信有は吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。これら悪銭は売買に支障をきたしていたとされる。この伝令は小山田氏が甲斐国の法度に準じていたものであったが、一方永禄4年(1562)に小山田信有は独自に、吉田御師の「刑部隼人」に来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えている。「役所」とは「関所」のことであり、小山田氏にとって「関所」という存在は外して考えることのできない重要な存在であったのである。

「武田氏の領国形成と小山田氏」では、上記の記録などから「富士参詣の道者のもたらす銭貨は、直接間接に、生産力に乏しい郡内を領した小山田氏にとって、主要な財源となった」とし、また「小山田氏が設置した関所から、間接には御師に賦課される諸役として徴収された」としている。関所と道者の関係は重要である。

武田晴信は弘治3年(1557)に富士御室浅間神社に願文を掲げ、同時に船津の関を撤廃することを約束した。



そうすると困るのは小山田氏である。なぜなら、上述のように小山田氏は道者が関所を通過する際に徴収する関銭を財源としていたため、これを撤廃されるということは、財源を失うことになるからである。そこで小山田氏は武田氏に抵抗するも、信玄は書状にて激しく叫弾したという。

永禄11年(1568)以来の武田氏の駿河侵攻に伴う甲相関係の悪化により、道者が激減していた。そのため小山田氏は元亀3年(1672年)に、関銭半減という手段で道者を勧誘することとした。それほど、道者の関銭というものは小山田氏にとって重要であったのである。また、過所や伝場手形を御師を中心として発給するなどしている。

そのような中小山田氏の自領経営は停滞し、「戦国期河口御師の実態」にあるように武田氏が御師に対して結びつきを強めるようになっている。情勢が悪化する中で、小山田氏は御師の諸役を免除するという保護政策を打ち出している。その文書の中で「対信茂」などとあるが、このように御師との結びつきを強める意図があった。しかしこれ以後、小山田氏による浅間社に対する保護や統制に関する資料はないという。つまり、小山田氏が道者関や郡内の御師を支配する時代はここで終えたのである。武田氏が浅間社への崇敬を掲げる中で交通路を掌握していき、道者関までをも管理し、御師を取り込んでいく中で、小山田氏の影響力は消えていったと言える。

  • 参考文献
堀内亨,「武田氏の領国形成と小山田氏」『富士吉田市史研究』第3号,1988年