2014年12月19日金曜日

小田原衆所領役帳に見える富士を考える

河東の乱時の富士氏」にて’’「富士殿」とか「富士勢」といった表記を細かく確認する必要性がある’’と記しましたが、明らかに人物を指す場合は尚更と言えます。近世になると「富士○」といった人物名や創作人名はそれなりに見られますが、中世史料で「富士」という人名は、基本的には駿河の富士氏を指します。そして『小田原衆所領役帳』に人物名として「富士」が見えるというので、今回取り上げたいと思う。

『小田原衆所領役帳』は永禄2年(1559)2月に作成されたとされる所領役帳である。が、原本は存在していない。一方写本は数多くあり、転写に伴い各写本にて差異が認められるという。小田原衆とあるが、決して小田原衆だけではない。富士が見えるのは「御家中衆」の中である。


これについて、「中世東国足利・北条氏の研究」では以下のように説明している。

『役帳』に「幻庵御知行分」の1つ東郡片瀬郷(藤沢市)が、富士氏と並んで大森氏に下された事実とも結びつこう。(中略)なお、この富士氏は駿河の大宮浅間社(静岡県富士宮市)の大宮司家富士氏の一族で、天文7年(1538)以降の「河東一乱」と呼ばれる北条氏と今川氏の抗争の過程で宗哲に属した人物と思われる。(中略)とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている。

幻庵(宗哲)とは北条幻庵のことであり、駿河とは関係が深い人物である。「被下」とあるので、富士氏と大森氏に委ねられた土地であったと理解できる。大森氏は駿河の大森の地からはじまったとされ、また北条幻庵も駿河と関係が深いことから、ここに富士氏が出てくるのは極めて自然と言える。

が、これが所領役帳であることには注意を要する。つまり、北条家の土地に富士氏が係るということであり、それは富士氏が北条家側にいたことを示すためである。しかし当時の富士氏の当主は、基本的に今川氏に属していた。しかし中には北条家と関係を密とするものもいたのであろう。それが「河東の乱時の富士氏」にあるような””謀反””という現象を生んだとも考えられる。

つまり、「日我置文」(天文18年11月16日)の「天文6年丁富士殿謀叛(むほん)之時、日是有同心而還俗之後、久遠寺御堂・客殿等焼亡」に見える富士殿は、『役帳』の「富士」と同一人物の可能性がある。少なくとも謀反を起こした富士家の者は、今川氏支持派ではない。

この記録において最も重要な示唆とは、武田氏による駿河侵攻以前の時代においても、北条家と富士氏との接点が縁者以上の関係として見出せることにある

  • 参考文献
  1. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006

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