江戸時代中期に作成されたものとされ、表口を描いている。「絹本着色富士曼荼羅図」の作成時期などと比較すれば時代はやや下るが、個人的にはそれでも比較的早い例に思える。例えば多く残る富士山関連の絵図(曼荼羅図など信仰関連)は富士講関連のものが多く、富士講は江戸時代中期以降に成立したものなので、作例として時代は大きく下っていることが多い。しかし当曼荼羅図はそれに該当しない。またそれら曼荼羅図が大和国に伝わっているという事実は大変興味深い。それは当地に表口関連の信仰があったことを示すためである。全体としては、位置関係が大きくデフォルメされている印象がある。
- 富士山本宮浅間大社
富士山本宮浅間大社 |
- 村山
富士山興法寺 |
上の場所が富士山興法寺だとすると、以下の場所が何を指すのかはいっそ不明となる。村山であると思えるが、「すやり霞」により大きく逸脱した場所を指していることも考えられる。
この社より上は、すべての道者が杖をもち登山を行なっている。中宮八幡堂などの建造物を示したのだろうか。
この社より上の道者は松明に火を灯している。このことから、上の図の場所との時間的差異や距離感を演出しているように思われる。また「絹本着色富士曼荼羅図」では大日堂と推定される建造物より上の道者が同じく松明に火を灯し登拝を行なっている。このことから、以下の社は大日堂を思わせる。
山頂である。阿弥陀三尊が描かれており、山頂の神聖さを示している。また、登拝路の頂上に鳥居を描いているのは特徴的に思える。「登拝路の終着点に神社が位置する」という概念を明確に示している。
山頂の阿弥陀三尊 |
当時はまだ「浅間神社奥宮」ではなく「富士山興法寺の大日堂」として存在していたはずである。その当時に描かれた曼荼羅図で鳥居が描かれているという事実は大きい。と同時に、詳細な作成時期の分析も必要と思える。
全体としては位置関係などにデフォルメされた印象を強く感じ、当地に知見のない人物が描いたように思える。ただ全体的には村山に重きが置かれているように感じるため、村山修験と関わりのある人たちが背景にあると思われる。
- 参考文献
- 富山県「立山博物館」編,『立山・富士山・白山みつの山めぐり : 霊山巡礼の旅「三禅定」 : 富山県「立山博物館」平成二十二年度特別企画展』,2010年
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