2011年12月31日土曜日

浅間大社と徳川氏の内院散銭寄進

推薦書原案より抜粋します。
浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年「浅間造り」と呼ばれる二層構造の独特な構造を持った現在の本殿等が造営されるとともに、1609年には山頂部の散銭取得における優先権(山頂の噴火口へ投げ入れられた賽銭を回収する権利)を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
今回はこの部分にクローズアップしたいと思います。

推薦書原案にある通り、浅間大社は1609年より富士山頂の支配なり管理なりを行っていました。この大きな権限は、徳川氏のもとで庇護されたことによるものである。しかし、個人的には1609年の時点では「(完全な)支配」というまでのところまでの権利は保持していなかったように思える。

「1609年には山頂部の散銭取得における優先権を得た」という部分は1779年の幕府の裁許状から分かる。


ここには関ヶ原の戦いの際に戦勝祈願し、見事それが成就したことから、本殿や末社などを残らず再建したことが記されている。また、内院散銭を修理代として寄進したことも記されている。

つまり
  • 1604年の徳川家康による本殿などの造営
  • 1609年の徳川家康による内院散銭の寄進
これら徳川氏による庇護を元に、浅間大社は富士山頂を支配するようになったということである。

確かに浅間大社は、徳川氏に庇護されてからというもの権限を強め、富士山頂において支配する立場にありました。富士山領が徳川忠長領である時代、忠長の家老からの書状に、富士山頂を指してはっきりと「大宮司支配の所」とある。家老というのは重鎮的立場であり、正式な書状である。ここにある「大宮司」とは、富士氏の富士大宮司のことである。つまり、富士山頂は富士大宮司支配の土地という認識であったのである。

富士山頂において他の土地の者(須走や吉田)が何かをする場合、大宮司らの許可が必要であった。なぜ須走と吉田かというと、登山道は大宮口の他に須走口や吉田口などがあり、それらを管理していたのはこれらの土地の者であったからである。そして、それらの者も山頂において道者相手の経営などを行う為、「許可を得る者」と「許可を出す者」という関係が生まれるのである。それらの書状も確認でき、例えば山頂において何か販売するなどの諸事も、許可を得てから販売していた。つまり浅間大社、厳密に言うと大宮司らというのは、許可を出す側であったのである。

しかし須走などでは抵抗する動きもみられ、それらが「元禄の争論」である。こういう争論が起きるということは、やはり完全なる支配では無かったためではないかと思う。しかしこれらの記録から、管理以上の支配に近い権限を保持していたと言える。

  • 参考文献
  1. 『裾野市史』第三巻資料編近世,P650-654
  2. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年

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