2011年10月3日月曜日

富士信仰とは何か

山岳信仰の1つである富士山信仰に、明確な定義は設けられていません。しかし表現するなれば、以下のようになると思います。

  • 富士山への崇拝心
  • 富士山に宗教的価値を見出す行為

富士山信仰の成立・発展には大きく以下の2つの要素があります。その2つとは…

  • 噴火に対する畏怖心(恐れ敬う心)
  • 登拝の大衆化
です。以下では「〇〇という記録があり富士山信仰が根付いていたと言えそうだ」というものを断片的に紹介したいと思います。感覚的に、そして大まかに捉えて頂ければ幸いです(互いの記録に一定の共通性を持たせるため記録の対象地域は重複しています)。

【噴火に対する畏怖】

よく「富士山が噴火したらどうなってしまうのか …」などという言葉を耳にします。それらと同様に、古来の人々もその荒々しい猛威を常に危惧していました。当然「富士山の噴火が鎮火しますように…」というような願いはあったわけです。富士山の噴火に関する古い記録では、『続日本記』の以下の記録がある。

駿河国言、富士山下雨灰、灰之所及、木彫萎

このように、古来より噴火を繰り返していました。そのような中で、富士山に宿る神像を見出し、それを「浅間大神」(浅間神や浅間明神など名称は様々で時代によっても変わる)として崇拝する形態が古来からありました。

ここで一回「浅間大神(あさまのおおかみ)」について考えてみたいと思います。

  • 浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)という表記
よく「浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)」という表記をみますが、これは厳密に言うと正しくはありません。というのは、浅間大神というのは上述したように「古い時代に、富士山に宿る神像を見出したもの」であり、当時はコノハナノサクヤヒメ(日本神話における女神)と同一視はされていませんでした。しかし近世になるとこの考え方が一般化します。つまり同一視されるようになったという意味で「浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)」ということなのです。しかし歴史を見通せば長い間そのような同一視された歴史ではなかったわけですから、「別々であった」ということをしっかり認識することが重要です。ここも理解を複雑化させてしまう点かもしれません。

話は戻りますが、この「富士山の噴火を鎮火させる」ということを重要視していたことが分かる例があります。

  • 浅間大神の昇級
平安時代の記録の『文徳実録』(仁寿3年)に「駿河国浅間神が名神に預かる」という記録があります。そしてこの年に従三位という神位(神にも位階がある)となります。これは浅間神が名神(重要な神にのみこの称号がある)として敬わるようになったということです。その後平安時代の歴史書『日本三代実録』(貞観元年の記録)に「正三位とする」という記録があり、つまり「従三位→正三位」に昇級します。これらの昇級は浅間大神を重要視していた裏付けであり、「富士山の噴火を鎮火させる」という強い願いのもとの処置と考えられています。

後に甲斐国(山梨県)にも浅間神社が建立されます。そのきっかけも何を隠そう「富士山の噴火」なのです。つまり「噴火を沈める=浅間神社での祭祀」はダイレクトに結びついているのです。ネットを見てみますと、今年3月以降急に多くの人が『日本三代実録』の記録を取り上げていることが見て取れます。何故でしょうか。実はみなさん「東日本大震災」に触発され、「古い時代の地震や噴火の災害」を取り上げているのです。

『日本三代実録』の貞観6年の記録に
「富士郡正三位浅間大神大山火」
とあり富士山の噴火を記し、
「下知甲斐国司云、駿河国富士山火、彼国言上、決之蓍亀云、浅間名神禰宜祝等、不勤斎敬之所致也」
とあり、貞観7年の記録に
「甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。」
とあります。

これは何を言っているかというと、甲斐国司が「貞観6年の貞観大噴火(現代の表現)は駿河国の浅間神社(つまり浅間大社)が祭祀を怠ったために噴火した」と述べ、その後貞観7年に「甲斐国にも浅間明神を祀る官社(=浅間神社)が置かれた」ということです。現在で言うところの富士五湖を形成したのもこの噴火によるものです。それほど大規模な噴火でした。

つまり「噴火に対する畏怖→浅間信仰の誕生であり拡大」であるのです。ですから浅間信仰は富士山信仰の中にカテゴライズされます。ある意味「富士山信仰≒浅間信仰」といっても過言ではないかもしれません。


【登山の大衆化】

11世紀の終わり頃になると噴火は沈静化します。そこでどのような現象が生じるかというと「登山の大衆化」が起こるわけです。つまり噴火がおさまり、「人々が登る山」としての側面が大きく見えてくるわけです。「噴火が収まった→登山してみよう」というのはとても自然な道理ですよね。

そこで重要となってくるのは「では最初に富士山を開いたのは誰か」ということです。「最初に登山を行ったのは誰か」とか「最初に宗教的な動機をもたらしたのは誰なのか」などの視点が重要となります。

最初に登山を行ったのは「役行者」という人だと言われています。この人物は「修験道の開祖」とされる人物で、山岳信仰に多くで関わり、各地で霊場と結びつける伝承が残り、富士山もその1つなのです。富士山信仰は山岳信仰の1つでしかないので、私は「富士山信仰を考える際他の山岳信仰に通じずそれを捉えようとするのは賢明ではないのだろうな」と感じています。役行者と富士山といえば平安時代初期の『日本霊異記』に「夜往駿河、富岻嶺而修。然庶宥斧鉞之誅、近朝之邊、故伏殺劍之刃、上富岻也。」や平安時代の『富士山記』に「昔役の居士といふもの有りて…」とあり、関係性を見出すことが容易にできます。しかしやや伝説的な感じは否めません。例えば『日本霊異記』などは「海を一夜で渡り富士山に登った」などとあるのです。なので初めての登山として名前が挙げられない場合も多くあります。

そして「末代」(富士上人)という人がいます。平安時代末期の『本朝世紀』の久安5年(1149)条に

「駿河国に富士上人と称される末代という人がいる。富士山に登ること数百回にも及び、富士山頂に仏閣を建てた。それを大日寺という。」

と記す記録があります。これはもちろん信仰心からなる行為です。つまり「最初に富士山を開いたのは誰か」と言ったときに、「山頂に大日寺を建設する」という信仰的行為の例は見逃せないわけです。ここに「富士山を開いたのは末代上人」という考えが成り立ちます。

また末代は「修験道を行なった」という点でも非常に重要な人物です。鎌倉時代成立の『地蔵菩薩霊験記』は「末代が富士山を拝していたことや、修行としての一面」を記述し、修験の形態を見出すことができます。また「垂迹浅間台菩薩。法体ハ金剛毘盧舎那ノ応昨」とあり、末代は「本地垂迹説」( 仏・菩薩を本地とする信仰形態を見出すようなもの)を説いています。つまり「浅間大菩薩」というのは「神仏習合から由来する名称」なのです(それまでの浅間大神信仰と仏の要素の合体という感じ)。神仏習合が富士山でもはっきりとみられたというのは重要な歴史です。また「村山に伽藍を建立し、自らは大棟梁と号する守護神となった」という記録があり、その他の記述から照らし合わせると、末代は富士山にて修験道を成立させた人物というような言い方もできます。富士山において早い時代に修験道としての面がみられ、後世に大きく広範的に影響を及ぼしたこの歴史は、富士山信仰の歴史において非常に大きな出来事と言えます。

つまり「登山の大衆化→修験道などの民衆による信仰の誕生」ということです。

大日如来像(1259年の銘、村山)
  • その後の富士信仰
その後も『梁塵秘抄』(平安時代末期)や『神明鏡』(15世紀)などの記録に「霊場として富士山の名が挙げられており」、富士山が信仰の対象であったのは明らかです。先ほど末代は「後世に大きな影響を及ぼした」と書きましたが、その後「頼尊」(らいそん)という人物が「富士行」を創設し、村山修験(富士修験)を確立させたとされています。末代の時代はまだあまり開かれていない時代であったので限られた範囲内でした。しかし、影響は脈々と受け継がれ村山修験という一派を形成するまでに至り、この時代の富士山信仰を牽引する存在となったのです。

富士山信仰の担い手は中世以降多岐にわたり、ますます拡大することとなります。先ほどの「浅間大菩薩」ですが、前述の文面を更に崩していうと「浅間大神が時代背景により変移したもの」であり、鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』にも「是浅間大菩薩御在所」と見えます。是は「人穴」を指し、つまり人穴というのは「浅間大菩薩の御在所」と考えられていたわけです。この人穴で修行したと伝わる人物に「角行」という人物がおり、この角行を祖と仰ぐものに「富士講」(18世紀中盤頃成立)があります。そして富士講では独特な表現として「仙元」という文字を用いており、つまり富士講というのは「浅間信仰の一種」ともいえるのです。富士信仰と浅間信仰は切っても切り離せない関係なのです。

『妙法寺記』という記録の明応9年(1500)の条に「富士山に道者参ること限りなし。関東の乱により皆須走から登った」という記録があります(須走に多くの道者が参ったことを示している)。「道者」は「登山者」を指します。なのでこの時代既に登拝は一般大衆化していたのです。またこの年は「庚申」であり、 庚申の年は富士山におけるご縁年とされていたため、特に道者が多かったのです。裏を返せばそれほど富士山の由緒が広く知れ渡ってたということでもあり、富士山信仰が民衆に広まっていた裏付けであると言えます。よく「江戸時代以降に民衆に広まった」 とするものがありますが、そんなことは無いわけです。民衆による奉納物なども、江戸時代以前のものは多く確認されています

では外国人からみてどうかと言いますと、例えばジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』には「山頂にはきわめて大きな穴、火口があって、そこから絶えず噴煙を出している。ここは、日本中から多くの巡礼者が来る所であり、…」とあります。

  • 更に古来の富士信仰の形態
考古学では集落経営が「その地での本格的な開発の始まり」と考えられるようであり、例えば村山浅間神社遺跡には10世紀前半の竪穴住居が発見されています。しかし、その形態には特異性がみられ、実はそれらの「特異性のみられる遺跡」が富士山信仰に関わるものではないかと言われています。

また現在の浅間大社のエリアで11世紀後半の竪穴式遺構と堀立柱建物などが発見されています。エリア内に様々な施設が点々と存在していたことが分かり、それぞれに何らかの意味があったのだと考えられています。また独特のカワラケが見つかっており、神事で使用された可能性も指摘されています。そしてこれら建築物と土器などを考慮すると、「祭祀などの形態があったのではないか」という考え方が成立するのです。これを考えるに重要なこととして「富士山南麓における本拠地の移転の形跡」が確認されていることがあります。7世紀から10世紀までは現在の富士市域で集落が形成されていたが、11世紀以降は現在の富士宮市大宮の地で集落が形成されるようになっています。これは「祭祀の重要視」により「政治的な中枢」と「信仰の拠点」を一致させる動き、つまり祭政一致(祭祀と政治の一体化)が行われたと考えるものもあります。

つまり村山、大宮といった「早くより富士信仰で繁栄した地域」というのは、古来より富士山信仰の形態が存在していたとも考えられるのです。


  • おわりに
富士信仰の成立は「噴火に対する畏怖」や「登山の大衆化」が背景としてあり、それらが浅間信仰や修験道などを形成する要因となりました。「噴火を鎮める願い」などはいかにも人間らしい部分から来ているようにも感じます。「富士信仰の担い手は中世以降は多岐にわたり、ますます拡大することとなります」と書きましたが、これには「登山道の開削」が1つの要因としてあると思います。時代が進むと様々な登山道が形成されていき、道者を集めてきました。ですから「登山道を有する地域」に独自の文化がみられ、1にも2にも「登山道あっての…」なのです。大高康正「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」では「富士山が山岳霊場として発展していく過程には、各登山口それぞれに信仰の拠点(信仰登山集落)が形成され、そこを中核として発展を遂げていった経緯があり…」とあるが、まさにそうでしょう。

この「それぞれの登山道を有する地域」間でも特色が異なります。例えば修験道の形態を主体とするのは他の登山道の中でも「村山口」だけなのです。他は「御師」(道者に対して宿や食事を始め、一切の世話をする人)の形態がみられます。「御師」も江戸時代の富士講の繁栄により「吉田の御師」は大きく繁栄します。これは江戸から一番近いのは吉田であるためです。ですから吉田より西に位置する「河口御師」は逆に富士講の恩恵を受けにくい構造にありました。わざわざ遠くまで行くということがないからです。このように時代が進むと複雑さを増します。複数の登山道の成立は「道者の奪い合い」=「競争の時代」となっていくのです。ある意味「純粋な富士山信仰」の色は薄れて行ったのかなぁ…なんて思うこともあります。

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