2011年1月21日金曜日

富士大宮楽市



『中世法制史料集 第5巻 武家家法 III』より
上は永禄9年(1566年)4月3日に今川氏真が富士信忠宛に出した、富士大宮(現在の富士宮市)への楽市令です。
今川氏真

ここで1度楽市について考えてみたいのですが、はっきりしていないのが「楽市」と「楽座」の違いです。そして起源です。で結論として、いろんな説があって私はよく分かりません。「楽市」はどちらかといえば諸役免除などの意味を含むとされ、また「楽座」は座(商人座、市座)の撤廃を意味すると言われる。このことから楽市楽座は「課税免除と自由通商の2つが楽市の主なる属性である」と理解されることが多い(豊田武氏など)。

また楽市がどのような性格を持つかについての議論もあり、網野善彦氏などは楽市場が「無縁所」と同じ性格を持つとしている。楽市場がアジール的場所であったとし、またそこを出入りする者の路次の安全を保障するものであったとしているのである。この考え方は、これまでの楽市楽座に対する考え方と一線を画すものである。

大宮(富士宮)で楽市が制定されたというのは、参考書(高校)にも見られる記述である。とかく、富士宮市の歴史としても特筆すべき事象である。


大名 場所形態
1549年六角定頼近江石寺城下町
1566年今川氏真駿河大宮門前町
1567年織田信長美濃加納城下町
1570年徳川家康三河小山新市建設
1577年織田信長近江安土城下町
1683年浅野長政近江坂本門前町
1585年北条氏直相模荻野宿場町
1587年豊臣秀吉筑前博多津港町
(出典:山川 詳説日本史図録)

実際は楽市はこれだけではありませんが、代表的な大名などによる楽市令はここにあるようなものです。先頭に六角氏の名が見えますが、一番最初の楽市令は六角氏ではないという議論もあります(後述)。

またこれらの形態から、楽市というものは何も城下町に限られたものではないと言う事ができる。なので、城下町下の楽市令と社寺下での楽市令は分けて考えなければならない。駿河大宮の場合、確かに大宮城が位置し城下町としての形態もみられたが、基本的には門前町(つまり社寺下)としての形態である。

ではこの楽市令はどこをどうしたものだったのでしょうか。楽市研究をしている安野眞幸氏はおおむねこのようにまとめています。

「神田橋開」では今川氏の任命した小領主たちが徴税を請け負っていたが、市場からの小領主の排除と「諸役」の停止を命じた。

また、勝俣鎮夫『戦国法成立史論』では


富士大宮の六斎市は普通の市場として存在したが、押買や狼藉(ろうぜき)などの非法行為によって市場の機能が乱されるという富士大宮司の訴えにより、永録9年に今川氏はこの市場の諸役を停止し、楽市とすることを定めた。そしてその際に「神田橋閣之事、為新役之間、是又可令停止共役」と市場の付近の関所の通行税免除を保証している。
とある。この文書について詳細に取り上げる論文類では「富士氏からの要望である」と捉えるものが多くあり、この考え方を正とするのが良いと思える。

押買:廉い価格で強制的に買上げること
狼藉:乱暴的な行為

つまり、「六斎市=神田市」が楽市化されたということになります。ここから先は以下の論文を参考にしたいと思います。

『富士大宮楽市令』安野眞幸 著

富士大宮毎月六度市とは…
富士大宮にて毎月6回市が開かれていたということ(六斎市という)。現清水市の「江尻宿」も交通の要所であったが、三斎市(毎月三度の市)であったことと比較しても富士大宮は商都であると言える

今川氏研究などで有名な「小和田哲男氏」は論文「戦国期駿遠の交通と今川権力」で「今川氏および今川領に組み込まれていたと考えられる葛山氏の発給文書からその存在が明かとなった関所」として神田橋関があったと述べている。つまり、今川氏-神田橋関(市の税)のつながりは明白である

先ほど、「一番最初の楽市は六角氏ともいわれますが、はっきりそうとは言えない部分もあります」と言いました。氏真より先の楽市とされるものは以下の2つとされています。

  • 天文18年の六角氏の出した法令から知られる石寺新市
  • 「十楽の津」と云われた伊勢桑名の場合

この2つについては、氏真による楽市令と比較して根本的な違いがある。そしてそこに「楽市令と捉えられない」とされる理由がある。安野眞幸氏は以下のように説明している。

今川氏の楽市令が先行する二者と著しく異なっているのは、両者が「楽市」「十楽の津」である事実を述べたものであるのに対して、今川氏の朱印状は「為楽市可申付」とあり、今川氏の意志・政策として楽市化を明言している点である。

また「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」には以下のようにある。

近江の保内商人と枝村商人とが、永禄元年(1558)ころ、桑名における美濃紙の取引をめぐって相論したとき…(中略)といっており、桑名が商人たちの自由な取引の行われる「十楽」の津・湊であることを強調しているのである。(中略)それとともに佐々木氏は、さきの桑名衆の書状を通して、「自由都市的な宣言」「戦国大名による上からの楽市楽座と異なった、桑名の(中略)門閥町人たちによる在地楽市楽座令の発布」が行われた、と推測する「宣言」「発布」といえるような行為があったかどうかは疑問であるとはいえ、そこに戦国大名の志向する方向とは本質的に異なる法理、現地の習慣の強い自己主張が貫かれていることは、間違いないだろう。(P103-104)

これが桑名に「自由都市的側面から楽市を思わせる事例がある」としつつも「楽市令としては捉えにくい」とされる所以である。命じたものでないと楽市令とは言えない。

また「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」では以下のようにも説明している。

こう考えてくれば、楽市楽座令についてのこれまでの見解は、大きく修正されなくてはなるまい。(中略)ただ佐々木氏が、氏のいわゆる「在地楽市楽座令」を商業の発展、商人の成長に伴う新たな動向のなかでのみとらえようとしている点、なお問題をあとに残したといわなくてはならない。

このように、従来の楽市楽座の見方に懐疑的になっている。また有名な「織田信長制札」については以下のように説明している。

いわばこの第1条は「無縁」「公界」の原理を、集約的に規定したものであり、「楽」の原理もまたまさしくここにあるといわなくてはならない。前掲の多くの例と同じく、この市場も「無縁」の場であった。そしてこう考えてくれば「無縁」「公界」「楽」が全く同一の原理を表す一連の言葉であることを疑う余地は全くあるまい。(P108)

としている。これに従えば、今川氏真の楽市令も、それに関わる何かを見出して考えなければならない。

  • 参考文献
  1. 安野眞幸,『富士大宮楽市令』弘前大学教育学部紀要,2002
  2. 網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版),平凡社, 1996
  3. 佐藤 進一・百瀬今朝雄,『中世法制史料集 第5巻 武家家法 III』P81,岩波書店,2001
  4. 勝俣鎮夫,『戦国法成立史論』P61-85,東京大学出版会,1979
  5. 小和田哲男,『小和田哲男著作集 第三巻 武将たちと駿河・遠江』P374-380,清文堂出版,2001

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