2012年9月15日土曜日

戦国期吉田御師の実像

甲斐国の吉田地区は、富士信仰の拠点の1つである。その現在の山梨県富士吉田市に存在していた御師が「吉田御師」である。吉田御師は江戸時代以降に発生した富士講により大繁栄し、権力を得る。それは商業的成功による潤沢な資金源からなり、それが北口本宮冨士浅間神社の支配につながっていく(支配といっても良い気がする、ここは検討が必要)。この事実を考えると、逆に富士講成立以前の吉田御師の検討が重要である

まず富士講は江戸時代より以前には存在しておらず、隆盛は少なくとも18世紀中盤以降と考えられる。つまりは、少なくとも「~17世紀」までの記録において、富士講関連やそれに影響を受けた記録は存在していないと考えても良い。では吉田御師に関わる部分を取り上げたいと思います。

  • 小山田氏と御師衆
弘治2年(1556)に領主である小山田信有が吉田御師の「堀端坊」に前々のごとく諸役を免除する印判状を出している。このことから、河口御師同様に諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。

永禄2年(1560)に小山田信有は、吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。「甲州悪銭法度(中略)一切被停止之間」や「当国被破法度」とあり、小山田氏が甲斐国の法度に準じていた(規制されていた)とされる。永禄4年(1562)に小山田信有は吉田御師の「刑部隼人」に、来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えた。武田氏の設けた法に準ずる部分と自らが出す権利が混在した状態であると考えられる。また「役所」とは「関所」のことである(道者関については「富士山麓の道者関と小山田氏」を参照)。

『妙法寺記』の永禄2年(1559)の記録に、吉田御師と小林和泉守との対立が記されている。これは宮川の川除木材伐採をめぐる「吉田の御師衆」と河口船津(現在の富士河口湖町)の地頭「小林和泉守」との対立である。そしてその判決は小山田氏に委ねられ、最終的に御師衆の主張が通っている。

  • 武田氏と御師衆 
『妙法寺記』の弘治2年(1556)の記録に、河口の有力者「小林尾張守」と吉田御師との対立が記されている。

小山田弥三郎殿御被官探題御座候而、地下衆歎モアリ喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり…

これは小林尾張守貞親が吉田衆に対して非文を成したので、二十人程が小山田氏のもとへ訴え出たけれど判決が出ず、今度は甲府へ行って武田晴信の判決で処理されたというものである。「非文」とは吉田衆からみた視点であり、小林尾張守が勝手な灌漑を行なったことを御師衆が非文としたということである。

これをみると、上記の『妙法寺記』永禄2年(1559)の吉田御師と小林和泉守との対立との比較は重要である。つまり郡内に位置する御師衆は基本的に小山田氏を頼りにするも、行動が示されない場合は武田氏を頼りにするのも普通になっていたのである。それは、郡内において武田氏の存在が既に強くあったことを示している。『妙法寺記』には「甲州晴信公」とあり、郡内においても存在が大きくなっていたと言える。またこれらの資料から、御師は川口地区の有力者と日常的に対立していたことが分かる。川口は現在の富士河口湖町で、吉田御師は現在の富士吉田市に位置する。

永禄5年(1562)、武田氏は河口御師と吉田御師衆に「本栖之定番」を命じている。その文書はそれぞれ河口と吉田に送られている。本栖は駿河に通ずる「中道往還」上に位置しているため、国境警備上重要な地域であった。直接的な警備としては「九一色衆」が有名であるが、この文書では九一色衆だけでなく御師衆にも軍役を望んでいたと考えることができる。

  • 御師町
元亀3年(1572)の記録とされるものに「吉田村新宿帳」がある。これは吉田宿が消失したため、新宿を造ったために作成されたとされる。その人名や屋号から御師と推測されており、まとまった人数の御師衆が存在していたことが確認できる。そして「御師町」という形態が確認できる

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  3. 笹本正治,「武田氏と国境」『甲府盆地-その歴史と地域性』,雄山閣 ,1984年

2012年9月14日金曜日

山梨県或いは甲斐国にて呼称される甲州とは

山梨県において現在でも使用されていると思われる言葉に、「甲州」という言葉がある。そしてそれは「=山梨県」として理解されている。しかし本当に歴史的にみて「甲州=山梨県」であったか検討していきたい。

「遊行縁起」(遊行上人縁起絵)/甲斐国御坂・川口を描いているとされ、河口での別れの場面

『山梨県の歴史』にはこのようにある。
元文五(1740)年、古文書調査のため甲斐を訪れた青木昆陽は、『甲州略記』に「郡内(都留郡)の人は、甲州とは別の一国のように思って、三郡(国中の山梨・八代・巨摩の三郡)を指して甲州という
つまり外部からきた人間が客観的に見て、甲州は「=甲斐国」とは感じていないわけです。

また甲斐国の地誌である『甲斐国志』の記述も重要です。

博物館だよりMARUBI №24
この資料にあるように、『甲斐国志』では上記の三郡に行くことを「甲州へ行く」と称しています。そしてそれは、郡内の人たちがそう意識していたわけです。

では、もっと古い歴史的資料ではどうでしょうか。

『妙法寺記』の永正15年(1518年)の記録にこのようにあります。
此年ノ五月駿河ト甲州都留郡和睦也
これは今川氏と小山田氏との和睦を示しています。この時期駿河と甲斐国は争いを繰り広げており、それに関する和睦です。この資料では「甲州都留郡」とあり、都留郡を甲州の中のものと認識しています。ちなみにこの前年の永正14年(1517年)、『妙法寺記』に「吉田自也国一和二定也」とあります。「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」によると、これは甲斐と駿河との和平を示しているとある。ではなぜ、その次の年に同様の和睦の記録があるのだろうか。それは永正14年のものは「今川氏と武田氏間の和睦」であり、永正15年のものは「今川氏と小山田氏との和睦」であるからである。つまり今川氏にとって小山田氏と武田氏は同列で、独自の外交権をもつ領主として認識されていたわけである。

と長くなりましたが、現在の富士河口湖町で記されたと考えられる『妙法寺記』の記録にて「甲州都留郡」とある事実は、重要である。

ちなみに、「郡内」に対して「国中」という言葉がある。これも歴史的資料にて互いを用いている例が確認できる。『妙法寺記』の永正7年(1510年)の記録にはこのようにある。
此春中国中都留郡御和睦落付
今川氏と小山田氏との和睦があった永正15年から8年前の年代であるが、この時代は武田氏と小山田氏が争っていた。この記録は、武田氏と小山田氏とで交わされた和睦の記録である。「国中都留郡御和睦」の「国中」が武田氏領で「都留郡」が小山田氏領である。つまりここでは「国中」と「都留郡」という言葉で、互いの地域を記しているのである。ここで「国中」と「都留郡」は異なる地域であるということが明確に分かる。

戦国時代の小山田氏と武田氏が争うような時代では、「甲州」といった場合都留郡を除くという意識はそれほどなかったと考えられる。しかし下って江戸時代辺りでは「甲州」といったとき、「都留郡を除く」という意味合いが明確にみられる。これは「国中=武田氏」、「郡内=小山田氏」という大きく対比された状況の中、武田氏の勢力拡大に伴い「甲州=武田氏」という認識が強まっていったことに関係があるように思える。つまり「(国中とか郡内などの言葉はあるが)甲州と言った場合やはり国中」という認識が強くなり、自然と甲州といった場合国中地域を指すようになったのではないか(逆に郡内という強い意識が生んだ可能性あり)。また国中と郡内は文化が大きく異なり、地域住民による「異にする」という意識がこれらの区別を後押ししたのかもしれない。しかし『甲斐国志』に従えば、むしろ郡内地域の住民が「甲州とは違う」と意識していたように感じられる。郡内の人は自分たちのことを「甲州人」などと決して言わなかったのではないかと思う。

  • 参考文献
  1. 『山梨県の歴史』,山川出版社,1999年
  2. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  3. 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №24』,2005年