2025年3月17日月曜日

富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く

近年、災害等を契機として災害伝承・民話から地域史を見つめ直そうとする試みが増えてきている。例えば(小川・藤井2024)がそうであり、先行例も論文内で記されている。

それによると、伝承自体がジオパーク指定における構成資産となっている例や「妖怪安全ワークショプ」といった事例、名古屋市港防災センターによる展覧会「妖(あやかし)と自然災害~あいち・なごやの妖怪伝承~」などが事例として紹介されている。

ところでこの富士地区(富士宮市・富士市)においても妖怪伝承に類するものが存在する。それは富士市の三股淵の大蛇(竜女)に関する伝承である(「怪異・妖怪伝承データベース」)。「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」で記しているように、また一般的にもそうであるように、富士市の歴史を語る上で「生贄」はキーワードとしては外せない。(小川・藤井2024)に"災害伝承を顕在化させる象徴"として要石が紹介されているが、富士市でいえば「保寿寺の大蛇の鱗」がこれに該当するであろう。

一方で富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)の過去の企画展を確認してみると、それらをテーマにした企画展は一切無いことが分かる(同博物館の企画展の刊行物はこちら)。史料も極めて多く残存しているのにも関わらずである。

過去約40年分を遡って調べてみても、そのようなものは確認できない。この事態を平たく換言すると、市立博物館の展示だけでは富士市の主な歴史すら見えてこないということになる。不思議なことである。

実は富士市における一連の生贄伝承を取り扱うとき、少し注意点が必要となってくる。というのも近代以降の歴史の中で、どうもこれらを強く忌避する動きがあったように思われるためである。その上でおそらく禁忌を犯してしまったのではないかと、私は捉えている。

この記事では富士市の生贄伝承の1つである「お菊田」を取り上げ(「怪異・妖怪伝承データベース」)、そこから富士市の刊行物を引用する形で近代以降の動きについて見ていきたい。


  • お菊田の伝承

1918年の柳田國男の論考「農に関する土俗」の中で、富士市のお菊田について触れられている。


日本では田植に伴ふ儀式及び言ひ伝へに古いものが多い。其中でも不思議なのは、最も清かるべき田植の日に、女が死んだと言ふ言伝への各地にあることである。(中略)其最も普通の形式は斯うである。昔或長者があまり早乙女をひどく使ひ、大きな田を強ひて一日に植させようとした為に、其女は疲れて死んだ云々。其女は疲れて死んだ云々。駿州吉原庄須津村の「おきく田」などは其一例である


この"女性と田植え"に関する柳田の論考は現在でも大きな影響力を持っており、各所で取り上げられている。例えば(関沢2022)などはその一例である。お菊田の伝承は広い意味では生贄に該当する。

そしてこの柳田の論考に当時触発されたのが、同じく民俗学の大家である中山太郎であった。中山は1925年の「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」という論考でお菊田に言及した。


同國富士郡須戸村にお菊田と云ふがある。これも強欲の姑のために無理な田植を命ぜられ悶死した故地である(吉居雑話)。


民俗学者の巨塔らに語られたことで、現在に至るまでこのお菊田はよく知られた伝承となっている。

中山の記述には出典として『吉居雑話』とある。実は『吉居雑話』は柳田國男と交流のあった民俗学者「山中共古」による著である。同著は『諸国叢書』(No.1、1984年)に集録されており、興味深い内容であったため、私も後に蔵書とした。

ここには大宮(富士宮市)の事象も記されており、大宮や吉原の方言も集録されている。また『吉居雑話』自体の背景を論じたものに(広瀬1987)がある(『諸国叢書』No.4、1987年)。つまりこの伝承は、山中共古をはじめとして柳田國男・中山太郎といった面々が言及した有名な伝承であると言えるわけである。



さて、その『吉居雑話』には以下のようにある。


須津村比奈ノ学校より下ノ方二、御菊田ト称スル一町六反ノ田地アリ、此地二就テ伝説アリ、田ノ持主二強欲ノ者アリテ、田植女ヲムゴク使用シ、一日ニテ此田植ヲ為セト命ジタリ、苦シサヲ忍ビテ致セシガ夫ガ為二死セリ、其後此田ヲ作ルト不幸アリテ災害ツゝキ、持主モコレヲ人二渡セリ、此女ノ名ヲ菊トイフヨリ、おきく田ト称シ作ル者恐レ居ルトノコト


私が『吉居雑話』を読んだ際、触りとして分かり安く興味を引きやすいような記述にばかりに目がいってしまう傾向があった。しかし柳田は、このお菊田の伝承に強い関心を示した。普通に読んでいたら読み過ごしてしまうであろうこの短い文章に注目する辺りも、柳田の凄さを感じるところである。

柳田は山中がそうであったように手紙等を通じて全国から民俗学的な情報を得ていたようであり、それらの中からこの伝承との関連性を見出したのであった。この点1つだけとって見ても、柳田の凄まじさを感じる所である。柳田の有名な考察に「一つ目小僧」があるが、こういうものも背景に膨大な資料があり、民俗学者としての目を通したからこそ発生し得たものなのだろう。

お菊田については他に(田中1961;p.30)でも言及されるなどしている。このように引き継がれていったのも、後世に正しく伝承を残そうとした先人が居たからに他ならない

しかしこの伝承は突如として変異した。その転機が昭和57年(1982)2月5日号の『広報ふじ』「菊さんと一町六反」である。そこには以下のようにある(後に平成9年(1997)5月5日号にも掲載)。


東国の「お菊さん」は、若いころ遊ぶことが大好きで、毎日毎日遊びほうけていました。でも、ある晩死んだ父親の夢を見て、今迄のことを深く反省し働かなくてはいけないと決心しました。東海道を西に下って比奈村まで来たお菊さんは、景色のよいこの村が気に入り住むことにしました。百姓の手助けをして朝から晩まで村人が篤くほどよく働きました。いつしかお菊さんは、村人にかわいがられ、そのうち自分でも田を買って1町6反の田を作るようになりました。その日もお菊さんは、朝早くから田植えをしていました。もう少しで終ろうというとき、太陽が西の山に沈もうとしていました。「ああ!おてんとうさまが、もう少し待ってくれたらなあ。」するとどうでしょう。沈みかかっていた夕日は、西の山から顔を出したではありませんか。「ありがたや、ありがたや」田植えが終ったお菊さんはそのまま倒れて死んでしまいました。それからのち、この付近の田を、誰いうとなく1町6反というようになり、お菊塚が建てられました。

このように、もう全く別のお話となってしまっている。長い年月の過程で変化したという可能性も否定できないわけであるが、そう単純ではない。そしてそもそも「昔ばなし」として全く成立していないということも、一読して気づくことだろう。これでは「昔遊び呆けていた人が本腰を入れて頑張ったら亡くなりました」という話でしかない。言わずもがなであるが、こんなストーリーが伝承されるはずもないのである。「自分でも田を買って」という部分も、いかにも取って付けたようである。

皆さんも察することができると思うが、これは明らかに改変した節がある。そしてこの連載のものを一纏めにして出版したものが1989年の『ふるさとの昔話』である。そこには以下のようにある。


この妙な現象を確認してから、私は時系列でこの伝承を追ってみた。それらの材料から推察するに、この突然変異には作為的なものがあったのではないかと考える。

というのも『広報ふじ』の連載には1982年12月5日号「石坂の鶏頭豆」に『吉居雑話』について言及があり、また1983年7月5日号に「山中共古「吉居雑和」より」が、同年8月5日号には「山中共古「吉居雑和」お盆の行事」とあるように、『吉居雑話』から引用された話が掲載されている。

にも関わらずお菊田の伝承に関しては『吉居雑話』のものをあえて紹介していない。同著の存在は連載当時にも知り得ていたはずである。そして真の郷土史家であるならば、一旦立ち止まらなければならないだろう。

お菊田の地には「お菊塚」という塚が建てられている。無論、犠牲となったお菊を鎮めるために建てられたものであろう。そして現在は昭和幼稚園の園内に位置している。その背景を考えると、園関係者が意図的に改変した可能性もある。郷土史家でなくともその可能性を容易に感知できるはずであるが、感知して動いた様子もない。やはりここには何かあると考えるのが自然だろう。



しかも平成3年(1991)には案内板まで設置され、最終的にはこの女性は「おばあさん」ということになってしまっている。この数年でまたまた話が変わるのもおかしいのであるが、内容を見ていこう。

案内板によると、お菊さんは百姓の手伝いだけで一町六反という広大な田んぼを手に入れたようである。一町六反といえば、およそ4,800坪である。そしてなんとこの広大な土地をおばあさんは一人で切り盛りしてきたという。そして死後、働き者であったという理由で塚まで建立されたとある。この地はそんなにも働き者が少なかったのであろうか。このように筋書きが見るからに破綻してしまっているのである。

初見(『吉居雑話』)の伝承と比べた際明らかに異なるのは、"犠牲の要素"がごっそりと削ぎ取られているということである。"強欲な地権者(一町六反の田んぼの持ち主)が田植えを1日で終わらせるよう命じ、お菊はその犠牲となり死に至った"という部分を完全に削ぎ取っている。これが改変であった場、犠牲の要素を忌避する意図が考えられる。

(小川・藤井2024)は静岡県内の伝承を見ていく中で、以下のような帰結を示している。

静岡県における災害伝承を概観したところ、災害伝承には災害への警告を発するハザード機能と安全を伝えるセーフティ機能とがあることが確認された。また、全国的に沼に関する伝承には、自然災害への警鐘機能だけでなく、水難事故を予防する啓発機能も認められた。また民俗学的な視点に立脚すると、災害伝承に登場する妖怪や神といったものは、人間社会に対して超越的な存在者として、人間の心性や社会のあり様を映し出す鏡としての役割を果たしている。したがって伝承が語り継がれることで、それぞれの時代の課題も投影され、伝承の価値変化が生み出されるところとなる。

このようにあるわけであるが、お菊田の伝承は本来ならば"人に無理難題を強いてはならない、結果不利益を被ることになるだろう"という教訓の意味があったはずなのである(この場合の不利益とは田んぼが使用できなくなったことにある)。しかし富士市の案内板をそのまま読み取ると"頑張ると死にます"という意味となる。何故そんなメッセージを伝えようとするのか、私には理解できない。

私は官公系のコンテンツというものは、専門家自身ないしその監修下の元で世の中に公開されるべきであると考えている。つまり学問的な教育を経た者がコンテンツを作成すべきであると考えている。そうすることで倫理性が担保される面もある。

富士市の広報を見るとかなり郷土史家ないし愛好家が幅を利かせてきた歴史があり、狭いコミュニティでの見識が公式で謳われるようになってしまっていたことが見て取れる。比較検討のため、以下では他の連載も見ていこうと思う。

  • 他の連載から見える明らかな創作の跡

念の為『広報ふじ』の他の生贄関係の連載も確認してみよう。『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号に「いけにえ淵」が紹介されている。そこには以下のようにある。

わたしたちのふるさとには、先人が残してくれた数多くの伝説があります。そこでこの号から1年間、鈴木富男さん(駿河郷土史研究会長)にお願いして、伝説の紹介をしていきます。

ここから、郷土史家による監修であるということが分かる。その内容の要約を以下に記してみる。

天正の頃、7人の巫女が上京する途中、毘沙門天前の茶屋に寄った。するとにわかに騒がしい。茶屋の者が申すところでは「ここから北側にある三ツ股には何年も前から大蛇が住んでいて、民衆が行事を行うことで鎮めている。しかし12年に1度の年は若い娘を生贄にすることになっている。今まさにその生贄を鬮で決めている」と。巫女らは青ざめ、引き返すことを考えるが、役人に鬮引きを強制される。すると巫女のうち7人目の「おあじ」がそれを引き当ててしまった(以下略、後半に「保寿寺」が登場する) 。


このような筋書きとなっているが、地誌等を確認しても一致するものが見当たらない。例えば、毘沙門天が登場するケースも見当たらない。そこで毘沙門天(妙法寺を指す)を調べてみることとした。『駿河記』には以下のようにある。


此院始め田嶋村にありしが(中略)元禄十年今井村の住民彦左衛門渡邉父法義と云もの開基して、香久山に移し


つまり現在地に移転・建立されたのは元禄10年(1697)のことなのである。その前身すら寛永4年(1627)建立とされ、天正(1573-1592)の頃にはそもそも毘沙門天は存在すらしていないのである。また中世の古文書にも確認できない。したがって、この肉付けは明らかに創作の結果と言えるものである

郷土史家は妙法寺の建立年までは調べず、物語の創作の中に入れ込んでしまったのだろう。ここに明確な創作の跡がある。また保寿寺住持による調伏譚自体には阿字は登場しないので、この点も理解が及ばず混ぜ合わせてしまったものと考えられる。

このように物語を分かりやすくするために表現を崩しているというよりは、完全に新しいものに改変してしまっている。こういうことが、かなりの昔から行われてきたのである。

同じ筋書きのものは『広報ふじ』昭和55年(1980)5月5日号「いけにえ渕の毒蛇」および昭和55年(1980)6月5日号「いけにえ渕の毒蛇②」に掲載されている。そしてこれらは同一人物によるものである。この創作話を詳しく読み進めてみると、なんとなく筆者の意図が見えてくる。以下に抜粋する。


この北側の三ッ股(また)渕には何年も前から大蛇(だいじゃ)が住んでいて、毎年6月28日の大祭日に村人は、小舟につんだ三俵分のお赤飯を渕のまん中に沈めて、大蛇(だいじゃ)の怒りを静める行事をやります。ところが、12年に1度の巳(み)の年には、若い娘をいけにえにすることになっていまして、もしそれをやらないと、大蛇(だいじゃ)は怒ってこの土地に大難を与えるというのです。そこで、いけにえになる娘をくじ引きで決めているのです。(中略)突然入ってきた宿場役人に問屋場の前まで連れていかれ、無理にくじを引かされました。(中略)吉原宿の人たちは、おあじの霊をなぐさめるため、鈴川の砂山に阿字(あじ)神社をたてました。


筆者は人身御供が里人・土民等によって行われてきたとする筋書きをおもしろくないと捉えたのであろう。大蛇の怒りを鎮める行事自体は「村人」とするが、生贄の話となると「宿場役人」なるものを登場させ悪人とし、その上で吉原宿の人たちの善意と取れる文面を前面に押し出した筋書きを採用した。明らかに、生贄を行う主体を地域の人から遠ざけようとする試みが認められる。

勿論「宿場役人」などというものは伝承では登場せず、創作の結果である。どの史料にも出てこないのである。実際は以下のような伝承である。

史料内容
謡曲〈生贄〉ワキ(神主)「今夜此の宿に旅人の三人泊りて候ふが、夜の中に立ちたる由申し候。急いで留め候へ」トモ(神主の従者)「畏まつて候。如何にあれなる旅人、御留り候へ」(つまり当地の神主らが生贄を主導)
『駿河記』里人これを捕え生贄に備むとす
『駿国雑志』此宿に泊りけるを、土民捕へて牲にせんとす(巻之廿四上「毒龍受牲」)
『田子の古道』(野口脇本陣本)広き淵となりて悪れい住み、年々所の祭として、人身御供を供えて
『田子の古道』(森家所蔵本)爰に悪レイ往年々所の祭りとして人御殻(供)

すべての史料で「地域の祭り・慣例」として記されている。また地誌においては生贄を捕らえるのは「里人」「土民」等と記される(地域の人々)。

筆者は上のような伝承に沿った筋書きを意図的に避けたわけである。そして部外者的な人物を創作し、その者が1人で酷い行いを進めようとしたという筋書きを作るに至った。これらの材料等から考えるに、同じく"おもしろくない"と捉えられてしまったお菊田の伝承は、何の配慮もなく改変を断行されてしまった可能性が高い。

一地方の伝承などはその地の出版機関や郷土史家が取り上げることはあっても、大きな媒体で取り上げられるのは難しい。しかしそのような中でもお菊田はよく取り上げられてきており、知名度も高かった。しかしそのような中でも、案内板はそれとは異にする内容で記している。教育委員会の姿勢についても疑問符をつけざるを得ない。普通の感覚でいえば、『吉居雑話』のものを取り上げるべきなのである。こうなると歴史の復元作業は容易ではない。

私はこのような恒常的姿勢が、後々までに富士市の歴史を巡る環境を著しく汚染させたのではないかと考えている。それら事象についても、以下で述べていきたい。


  • 富士市の風潮

そもそも富士市の刊行物はこの伝承に関わらず、歴史叙述は酷いものとなっている。そこに現代的プロセス、つまり史料実証的な姿勢は無い。とてつもなく遅れているのである。例えば以下はその一例である(『広報ふじ』平成4年6月20日)。




ご存知の通り富士市説の方がよっぽど異説なのであるが(誤認万葉歌碑についてはこちら)、感情だけで事を述べており、実証主義的アプローチを間接的に否定している。「唯一残る地名」という文言も、意味が不明である。田子の浦という地名があったわけでもないし、自治体名として「田子の浦村」というものが後に形成されたに過ぎない。このような言説が広報で繰り広げられてきた事実はおぞましくすらある。

石碑建立の背景については(富士市1986;p.843)にて言及されている。

この、田子の浦で詠んだ富士山の歌を石に刻み、多くの人に愛誦されて、後世に伝えたいという声があり、それら市民の願いを結集して、昭和59年8月、歌碑建立の陳情書が市民団体から市当局に提出された。(中略)文化財審議会は「郷土の貴重な歴史文化遺産を理解させ、広く市民に文化を顕彰、普及させるもの」との答申を提出した。そこで昭和60年度当初予算に計上されたのである。

本来ならこのとき、詠地ではないとされることを伝え、留保しなければならないのである。しかしながら富士市は極端に人材に恵まれず、建立への運びとなってしまったという背景がある。私はこの市民団体の動きにも郷土史家の関与があったのではないかと考えている。

(高埜2017)には以下のような文章がある。

リース以来の実証主義歴史学が日本の主流になったことは、アーカイブズ制度にとって幸いでした。国威発揚を目的とした民族主義の歴史学は戦前の日本にも外国にも存在しましたが、それらは史実に根拠を置きませんから、歴史史料の収集や保存を重要とは考えません。しかも戦前の歴史史料収集の対象には、庶民史料などは含まれませんでした。この限界を改め幅広い史料収集を訴えたのは当初は歴史研究者たちで、文部省史料館や国立公文書館の設立に結実し、都道府県立の文書館による歴史史料収集につながりました。


これを地方に落とし込んだ上で換言すれば、富士市は"地元顕彰と歪んだ地元愛により実証主義が二の次となってしまった"と言えるだろう。

長い歴史の中、これら(広報といった公式資料が酷く感覚的であること)に異を唱える人が居なかったとは到底思えない。しかしとてつもない同調圧力がそれを無にしたのではないだろうか。そもそも万葉歌碑も、疑義を唱える人が皆無であったはずがない。

このようなスタンスを何十年と続けてきた結果、完全に腐敗しきってしまったのである。私は歴史の復元作業を進めているが、富士市のそれは手に負えないものであると感じている。

  • 歴史学の敗北

文化庁委託事業「博物館ネットワークによる 未来へのレガシー継承・発信事業」における 「博物館の機能強化に関する調査」 の報告書が公開されている。有識者を対象としたアンケートであるが、やはり「文化課」と「それ以外」とで生じる認識の相違は問題となるようである。


ここでは博物館を軸とした話となっているが、ミクロな視点を持てば「文化課」と「文化課以外」という軸で見ることも可能ではないだろうか。

富士市にも文化課に該当するものはある。しかし専門家たる文化課が機能していなかった場合、それによってどういう顛末を迎えるだろうか。私は「非文明化」だと思う。富士市は民話の舞台の地も安易に拡大解釈する姿勢が認められ、また各所で裏付けもなく「発祥」という言葉を用いている。例えば『竹取物語』がそうである。そうやって既成事実のようにして人々を惑わして良い結果が生まれるのだろうか?…よくよく考えなければならないと思う。

そしてこれらの状況が等閑視され野放しにされている状況そのものが「歴史学の敗北」と言えるのではないか、と思うのである。

富士市には市立博物館もある。私は、学芸員の役割の1つに「(歴史学で言えば)歴史学的観点から望ましくないことがあればそれを抑止・是正する」という役割もあるのではないかと考えている。これは「史学」であろうと「考古学」であろうと「民俗学」であろうと同じである。文化庁のHPによると、学芸員は以下のように定義されている。

学芸員は,博物館資料の収集,保管,展示及び調査研究その他これと関連する事業を行う「博物館法」に定められた,博物館におかれる専門的職員です。(中略)学芸員になるための資格は,1.大学・短大で単位を履修することや,2.文部科学省で行う資格認定に合格すれば得ることができます。


つまり専門性を持った調査研究が基本的役割に組み込まれ、また「展示」といったアウトプットの部分も求められていることになる。

自らが所属する組織が作り出したものが歴史学的観点からみて疑義があるのにも関わらず、それを専門性を持った学芸員が何の抑止行動もしないのであれば、それは明らかに「歴史学の敗北」ではないか

このように私は考えるところであるが、一方で医学研究でいうところの「利益相反(COI)」のような事態に晒されやすいという背景も否定できない。「利益相反」とは、ある研究において営利団体等から資金提供などがあり、そのために公平な判断に影響をもたらすことが懸念され得る状態を言う(COIが全て悪いわけではない)。従って、発表の冒頭でわざわざ「COIはありません」と言及される例も多い。つまり営利団体から資金提供があれば、やはりその団体の思惑に沿った研究結果を発表してしまう潜在性があるのである。

これを自治体職員にあてはめて考えた場合、自治体から与えられた給与で生活を営んでいる職員は、それが倫理的に問題があったとしても、やはり自治体の意見に沿ったものにしてしまうことは否定し難いということなのである。一方でその自治体に縁もゆかりもない人間であれば、専門家として素直な意見が表出できるというわけである。ここに利益相反との近似性がある。ここには仕方がない力学もあるように思う。

また「大学における学芸員養成課程の科目のねらいと内容について」(令和6年3月25日 文化審議会第5期博物館部会)には以下のようにある。




「多様な主体との連携等」とあるように、より活動範囲の拡大が模索されている中、内側を是正できないようでは話にならないと言える。またこれらの問題は「地域課題への対応」とも捉えられる。学芸員が地域の水道の問題を考える必要性はなくとも、「歴史学の敗北」を地域課題として捉えれば、それは学芸員の役割に含まれるだろう。

例えば富士宮市の観光課、つまり学芸員が属さない課が「富士宮市は『竹取物語』発祥の地である」という喧伝を公式HPのページ等で行っていたとする(富士宮市は行っていません)。それを見て専門家たる学芸員が「歴史学に関係することだけれども、他の課のことだから感知するところではありません」というスタンスを取り続けて良いのだろうか、という話なのである。立派な地域課題と言えるわけである。

そういうスタンスを取ると、容易に以下のような状況が生まれ得る。以下、『甲斐路』創立三十周年記念論文集より引用する。

ただ一言、信州諏訪湖畔の小坂観音院にある武田勝頼生母由布姫の墓が、もはや真実の如くに一般的にみられ、その名も由布姫で通用していることを考えると、小説、映画の影響力がいかに大きいものであるかが痛感される。十数年前、小説『風林火山』が世に出たとき、地元観光関係者が”観光用”に建立したというのに…。

地元観光関係者が行政と全く関係を持ち合わせていないということもないだろう。また建立の過程で行政が全く感知しないということもないだろう。倫理観を持つ人間がいれば、どこかで止める動きも生じ得よう。しかしあったとしても、何かしらの強大な引力がそれを無にすることもある。形は少々違うとはいえ、「山部赤人万葉歌碑」も同様である。"行動力のある無知"は、後世に遺恨を残す可能性に気づくことすら難しいのである。

こういうものは大抵伝搬の過程で"語るには足りない者"が介入することで異変を生じさせるのである。例えばネットで天子ヶ岳の名前の由来を「天守閣」とするものが複数以上散見される。その出典元を探ると、環境省の関東地方環境事務所であることが分かり、"「少し離れたところから見ると、山の形が天守閣に似ているから」ということが由来のようです(原文ママ)"と説明している。

しかし少し考えてみると分かるのであるが、天守閣の形に似ていることが由来であるのならば天守閣成立以後ということになり、どんなに早くとも16世紀後半ということになる。16世紀後半に山の名称が定められたと言っているのに等しく、考えづらい。そもそも鎌倉時代の日蓮の文書などに既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来であるはずがないのである。

しかし何故同事務所はこのような説明を行ったのか。その答えとして、武田久吉氏の1948年の論考が関係するように思う。同氏の論考「天子ヶ嶽の瓔珞躑躅」には「如何にも城の天守閣に似てゐる。それで元来は天守ヶ嶽と命名せられたのが、いつか天子と訛り、やがては皇女埋葬説が生れたのではあるまいか」とある(武田1948;p.131)。おそらくこれを読んだ結果の産物だろう。

これらの材料が揃った上で言えるのは、武田氏の論考が問題なのではなくて、それを見た人物が一個人の見解に留まっていたものを"山の形が天守閣に似ているからということが由来のようです"という文言で出典も無しに説明してしまうこと自体が問題ということである。これが駄目だということが分からない人間は、書き物をしてはいけないのである。この場合影響は最低限で留まるが、もっと大きな媒体で且つ数カ年に渡るものであったとしたら、それは迷惑極まりない。

この事例では「武田氏の論考→読み手の問題→天守閣説の流布」という過程が判明し、日蓮遺文から説自体を否定する形となった。富士市は歴史の復元作業が1つ1つの事柄で必要な状況となっており、それは混迷を極めると見受けられる。作為的改変があったことによって、(小川・藤井2024)にあるような防災教育としての活用も円滑にはいかないだろうし、企画展を行うにしてもまずは復元作業を要するだろう。私はこの事態に警鐘を鳴らしてきたが、その地域自身が変わろうとしない限り、未来は見えてこないだろう。

  • 参考文献
  1. 武田久吉(1948)『民俗と植物』、 山岡書店
  2. 田中清(1961)「長柄橋(人柱伝説雑考)」『土木学会誌 46号』、土木学会、27-33
  3. 『諸国叢書』(1984)、成城大学民俗学研究所
  4. 富士市(1986),『富士市二十年史』
  5. 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244
  6. 高埜利彦(2017)「日本のアーカイブズ制度を回顧する」『アーカイブズ学研究 No.27』
  7. みずほ総合研究所株式会社(2020)、令和元年度「博物館ネットワークによる 未来へのレガシー継承・発信事業」における 「博物館の機能強化に関する調査」 事業報告書
  8. 関沢まゆみ(2022)「田植えと女性 民俗学からの一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』25、国立歴史民俗博物館、508
  9. 小川日南・藤井基貴(2024)「災害伝承と防災教育(1) 静岡市における民話「沼のばあさん」を事例として」『静岡大学教育実践総合センター紀要 34巻』,56-64