過去約40年分を遡って調べてみても、そのようなものは確認できない。この事態を平たく換言すると、市立博物館の展示だけでは富士市の主な歴史すら見えてこないということになる。不思議なことである。
実は富士市における一連の生贄伝承を取り扱うとき、少し注意点が必要となってくる。というのも近代以降の歴史の中で、どうもこれらを強く忌避する動きがあったように思われるためである。その上でおそらく禁忌を犯してしまったのではないかと、私は捉えている。
この記事では富士市の生贄伝承の1つである「お菊田」を取り上げ(「怪異・妖怪伝承データベース」)、そこから富士市の刊行物を引用する形で近代以降の動きについて見ていきたい。
- お菊田の伝承
1918年の柳田國男の論考「農に関する土俗」の中で、富士市のお菊田について触れられている。
日本では田植に伴ふ儀式及び言ひ伝へに古いものが多い。其中でも不思議なのは、最も清かるべき田植の日に、女が死んだと言ふ言伝への各地にあることである。(中略)其最も普通の形式は斯うである。昔或長者があまり早乙女をひどく使ひ、大きな田を強ひて一日に植させようとした為に、其女は疲れて死んだ云々。其女は疲れて死んだ云々。駿州吉原庄須津村の「おきく田」などは其一例である。
この"女性と田植え"に関する柳田の論考は現在でも大きな影響力を持っており、各所で取り上げられている。例えば(関沢2022)などはその一例である。お菊田の伝承は広い意味では生贄に該当する。
そしてこの柳田の論考に当時触発されたのが、同じく民俗学の大家である中山太郎であった。中山は1925年の「人身御供の資料としての「おなり女」伝説」という論考でお菊田に言及した。
同國富士郡須戸村にお菊田と云ふがある。これも強欲の姑のために無理な田植を命ぜられ悶死した故地である(吉居雑話)。
民俗学者の巨塔らに語られたことで、現在に至るまでこのお菊田はよく知られた伝承となっている。
中山の記述には出典として『吉居雑話』とある。実は『吉居雑話』は柳田國男と交流のあった民俗学者「山中共古」による著である。同著は『諸国叢書』(No.1、1984年)に集録されており、興味深い内容であったため、私も後に蔵書とした。
ここには大宮(富士宮市)の事象も記されており、大宮や吉原の方言も集録されている。また『吉居雑話』自体の背景を論じたものに(広瀬1987)がある(『諸国叢書』No.4、1987年)。つまりこの伝承は、山中共古をはじめとして柳田國男・中山太郎といった面々が言及した有名な伝承であると言えるわけである。
さて、その『吉居雑話』には以下のようにある。
須津村比奈ノ学校より下ノ方二、御菊田ト称スル一町六反ノ田地アリ、此地二就テ伝説アリ、田ノ持主二強欲ノ者アリテ、田植女ヲムゴク使用シ、一日ニテ此田植ヲ為セト命ジタリ、苦シサヲ忍ビテ致セシガ夫ガ為二死セリ、其後此田ヲ作ルト不幸アリテ災害ツゝキ、持主モコレヲ人二渡セリ、此女ノ名ヲ菊トイフヨリ、おきく田ト称シ作ル者恐レ居ルトノコト
私が『吉居雑話』を読んだ際、触りとして分かり安く興味を引きやすいような記述にばかりに目がいってしまう傾向があった。しかし柳田は、このお菊田の伝承に強い関心を示した。普通に読んでいたら読み過ごしてしまうであろうこの短い文章に注目する辺りも、柳田の凄さを感じるところである。
柳田は山中がそうであったように手紙等を通じて全国から民俗学的な情報を得ていたようであり、それらの中からこの伝承との関連性を見出したのであった。この点1つだけとって見ても、柳田の凄まじさを感じる所である。柳田の有名な考察に「一つ目小僧」があるが、こういうものも背景に膨大な資料があり、民俗学者としての目を通したからこそ発生し得たものなのだろう。
お菊田については他に(田中1961;p.30)でも言及されるなどしている。このように引き継がれていったのも、後世に正しく伝承を残そうとした先人が居たからに他ならない。
しかしこの伝承は突如として変異した。その転機が昭和57年(1982)2月5日号の『広報ふじ』「菊さんと一町六反」である。そこには以下のようにある(後に平成9年(1997)5月5日号にも掲載)。
東国の「お菊さん」は、若いころ遊ぶことが大好きで、毎日毎日遊びほうけていました。でも、ある晩死んだ父親の夢を見て、今迄のことを深く反省し働かなくてはいけないと決心しました。東海道を西に下って比奈村まで来たお菊さんは、景色のよいこの村が気に入り住むことにしました。百姓の手助けをして朝から晩まで村人が篤くほどよく働きました。いつしかお菊さんは、村人にかわいがられ、そのうち自分でも田を買って1町6反の田を作るようになりました。その日もお菊さんは、朝早くから田植えをしていました。もう少しで終ろうというとき、太陽が西の山に沈もうとしていました。「ああ!おてんとうさまが、もう少し待ってくれたらなあ。」するとどうでしょう。沈みかかっていた夕日は、西の山から顔を出したではありませんか。「ありがたや、ありがたや」田植えが終ったお菊さんはそのまま倒れて死んでしまいました。それからのち、この付近の田を、誰いうとなく1町6反というようになり、お菊塚が建てられました。
静岡県における災害伝承を概観したところ、災害伝承には災害への警告を発するハザード機能と安全を伝えるセーフティ機能とがあることが確認された。また、全国的に沼に関する伝承には、自然災害への警鐘機能だけでなく、水難事故を予防する啓発機能も認められた。また民俗学的な視点に立脚すると、災害伝承に登場する妖怪や神といったものは、人間社会に対して超越的な存在者として、人間の心性や社会のあり様を映し出す鏡としての役割を果たしている。したがって伝承が語り継がれることで、それぞれの時代の課題も投影され、伝承の価値変化が生み出されるところとなる。
- 他の連載から見える明らかな創作の跡
わたしたちのふるさとには、先人が残してくれた数多くの伝説があります。そこでこの号から1年間、鈴木富男さん(駿河郷土史研究会長)にお願いして、伝説の紹介をしていきます。
天正の頃、7人の巫女が上京する途中、毘沙門天前の茶屋に寄った。するとにわかに騒がしい。茶屋の者が申すところでは「ここから北側にある三ツ股には何年も前から大蛇が住んでいて、民衆が行事を行うことで鎮めている。しかし12年に1度の年は若い娘を生贄にすることになっている。今まさにその生贄を鬮で決めている」と。巫女らは青ざめ、引き返すことを考えるが、役人に鬮引きを強制される。すると巫女のうち7人目の「おあじ」がそれを引き当ててしまった(以下略、後半に「保寿寺」が登場する) 。
このような筋書きとなっているが、地誌等を確認しても一致するものが見当たらない。例えば、毘沙門天が登場するケースも見当たらない。そこで毘沙門天(妙法寺を指す)を調べてみることとした。『駿河記』には以下のようにある。
此院始め田嶋村にありしが(中略)元禄十年今井村の住民彦左衛門渡邉父法義と云もの開基して、香久山に移し…
つまり現在地に移転・建立されたのは元禄10年(1697)のことなのである。その前身すら寛永4年(1627)建立とされ、天正(1573-1592)の頃にはそもそも毘沙門天は存在すらしていないのである。また中世の古文書にも確認できない。したがって、この肉付けは明らかに創作の結果と言えるものである。
郷土史家は妙法寺の建立年までは調べず、物語の創作の中に入れ込んでしまったのだろう。ここに明確な創作の跡がある。また保寿寺住持による調伏譚自体には阿字は登場しないので、この点も理解が及ばず混ぜ合わせてしまったものと考えられる。
このように物語を分かりやすくするために表現を崩しているというよりは、完全に新しいものに改変してしまっている。こういうことが、かなりの昔から行われてきたのである。
同じ筋書きのものは『広報ふじ』昭和55年(1980)5月5日号「いけにえ渕の毒蛇」および昭和55年(1980)6月5日号「いけにえ渕の毒蛇②」に掲載されている。そしてこれらは同一人物によるものである。この創作話を詳しく読み進めてみると、なんとなく筆者の意図が見えてくる。以下に抜粋する。
この北側の三ッ股(また)渕には何年も前から大蛇(だいじゃ)が住んでいて、毎年6月28日の大祭日に村人は、小舟につんだ三俵分のお赤飯を渕のまん中に沈めて、大蛇(だいじゃ)の怒りを静める行事をやります。ところが、12年に1度の巳(み)の年には、若い娘をいけにえにすることになっていまして、もしそれをやらないと、大蛇(だいじゃ)は怒ってこの土地に大難を与えるというのです。そこで、いけにえになる娘をくじ引きで決めているのです。(中略)突然入ってきた宿場役人に問屋場の前まで連れていかれ、無理にくじを引かされました。(中略)吉原宿の人たちは、おあじの霊をなぐさめるため、鈴川の砂山に阿字(あじ)神社をたてました。
筆者は人身御供が里人・土民等によって行われてきたとする筋書きをおもしろくないと捉えたのであろう。大蛇の怒りを鎮める行事自体は「村人」とするが、生贄の話となると「宿場役人」なるものを登場させ悪人とし、その上で吉原宿の人たちの善意と取れる文面を前面に押し出した筋書きを採用した。明らかに、生贄を行う主体を地域の人から遠ざけようとする試みが認められる。
勿論「宿場役人」などというものは伝承では登場せず、創作の結果である。どの史料にも出てこないのである。実際は以下のような伝承である。
史料 | 内容 |
---|---|
謡曲〈生贄〉 | ワキ(神主)「今夜此の宿に旅人の三人泊りて候ふが、夜の中に立ちたる由申し候。急いで留め候へ」トモ(神主の従者)「畏まつて候。如何にあれなる旅人、御留り候へ」(つまり当地の神主らが生贄を主導) |
『駿河記』 | 里人これを捕え生贄に備むとす |
『駿国雑志』 | 此宿に泊りけるを、土民捕へて牲にせんとす(巻之廿四上「毒龍受牲」) |
『田子の古道』(野口脇本陣本) | 広き淵となりて悪れい住み、年々所の祭として、人身御供を供えて |
『田子の古道』(森家所蔵本) | 爰に悪レイ往年々所の祭りとして人御殻(供) |
一地方の伝承などはその地の出版機関や郷土史家が取り上げることはあっても、大きな媒体で取り上げられるのは難しい。しかしそのような中でもお菊田はよく取り上げられてきており、知名度も高かった。しかしそのような中でも、案内板はそれとは異にする内容で記している。教育委員会の姿勢についても疑問符をつけざるを得ない。普通の感覚でいえば、『吉居雑話』のものを取り上げるべきなのである。こうなると歴史の復元作業は容易ではない。
私はこのような恒常的姿勢が、後々までに富士市の歴史を巡る環境を著しく汚染させたのではないかと考えている。それら事象についても、以下で述べていきたい。
- 富士市の風潮
そもそも富士市の刊行物はこの伝承に関わらず、歴史叙述は酷いものとなっている。そこに現代的プロセス、つまり史料実証的な姿勢は無い。とてつもなく遅れているのである。例えば以下はその一例である(『広報ふじ』平成4年6月20日)。
この、田子の浦で詠んだ富士山の歌を石に刻み、多くの人に愛誦されて、後世に伝えたいという声があり、それら市民の願いを結集して、昭和59年8月、歌碑建立の陳情書が市民団体から市当局に提出された。(中略)文化財審議会は「郷土の貴重な歴史文化遺産を理解させ、広く市民に文化を顕彰、普及させるもの」との答申を提出した。そこで昭和60年度当初予算に計上されたのである。
リース以来の実証主義歴史学が日本の主流になったことは、アーカイブズ制度にとって幸いでした。国威発揚を目的とした民族主義の歴史学は戦前の日本にも外国にも存在しましたが、それらは史実に根拠を置きませんから、歴史史料の収集や保存を重要とは考えません。しかも戦前の歴史史料収集の対象には、庶民史料などは含まれませんでした。この限界を改め幅広い史料収集を訴えたのは当初は歴史研究者たちで、文部省史料館や国立公文書館の設立に結実し、都道府県立の文書館による歴史史料収集につながりました。
- 歴史学の敗北
学芸員は,博物館資料の収集,保管,展示及び調査研究その他これと関連する事業を行う「博物館法」に定められた,博物館におかれる専門的職員です。(中略)学芸員になるための資格は,1.大学・短大で単位を履修することや,2.文部科学省で行う資格認定に合格すれば得ることができます。
つまり専門性を持った調査研究が基本的役割に組み込まれ、また「展示」といったアウトプットの部分も求められていることになる。
自らが所属する組織が作り出したものが歴史学的観点からみて疑義があるのにも関わらず、それを専門性を持った学芸員が何の抑止行動もしないのであれば、それは明らかに「歴史学の敗北」ではないか
このように私は考えるところであるが、一方で医学研究でいうところの「利益相反(COI)」のような事態に晒されやすいという背景も否定できない。「利益相反」とは、ある研究において営利団体等から資金提供などがあり、そのために公平な判断に影響をもたらすことが懸念され得る状態を言う(COIが全て悪いわけではない)。従って、発表の冒頭でわざわざ「COIはありません」と言及される例も多い。つまり営利団体から資金提供があれば、やはりその団体の思惑に沿った研究結果を発表してしまう潜在性があるのである。
そういうスタンスを取ると、容易に以下のような状況が生まれ得る。以下、『甲斐路』創立三十周年記念論文集より引用する。
ただ一言、信州諏訪湖畔の小坂観音院にある武田勝頼生母由布姫の墓が、もはや真実の如くに一般的にみられ、その名も由布姫で通用していることを考えると、小説、映画の影響力がいかに大きいものであるかが痛感される。十数年前、小説『風林火山』が世に出たとき、地元観光関係者が”観光用”に建立したというのに…。
地元観光関係者が行政と全く関係を持ち合わせていないということもないだろう。また建立の過程で行政が全く感知しないということもないだろう。倫理観を持つ人間がいれば、どこかで止める動きも生じ得よう。しかしあったとしても、何かしらの強大な引力がそれを無にすることもある。形は少々違うとはいえ、「山部赤人万葉歌碑」も同様である。"行動力のある無知"は、後世に遺恨を残す可能性に気づくことすら難しいのである。
こういうものは大抵伝搬の過程で"語るには足りない者"が介入することで異変を生じさせるのである。例えばネットで天子ヶ岳の名前の由来を「天守閣」とするものが複数以上散見される。その出典元を探ると、環境省の関東地方環境事務所であることが分かり、"「少し離れたところから見ると、山の形が天守閣に似ているから」ということが由来のようです(原文ママ)"と説明している。
しかし何故同事務所はこのような説明を行ったのか。その答えとして、武田久吉氏の1948年の論考が関係するように思う。同氏の論考「天子ヶ嶽の瓔珞躑躅」には「如何にも城の天守閣に似てゐる。それで元来は天守ヶ嶽と命名せられたのが、いつか天子と訛り、やがては皇女埋葬説が生れたのではあるまいか」とある(武田1948;p.131)。おそらくこれを読んだ結果の産物だろう。
これらの材料が揃った上で言えるのは、武田氏の論考が問題なのではなくて、それを見た人物が一個人の見解に留まっていたものを"山の形が天守閣に似ているからということが由来のようです"という文言で出典も無しに説明してしまうこと自体が問題ということである。これが駄目だということが分からない人間は、書き物をしてはいけないのである。この場合影響は最低限で留まるが、もっと大きな媒体で且つ数カ年に渡るものであったとしたら、それは迷惑極まりない。
この事例では「武田氏の論考→読み手の問題→天守閣説の流布」という過程が判明し、日蓮遺文から説自体を否定する形となった。富士市は歴史の復元作業が1つ1つの事柄で必要な状況となっており、それは混迷を極めると見受けられる。作為的改変があったことによって、(小川・藤井2024)にあるような防災教育としての活用も円滑にはいかないだろうし、企画展を行うにしてもまずは復元作業を要するだろう。私はこの事態に警鐘を鳴らしてきたが、その地域自身が変わろうとしない限り、未来は見えてこないだろう。
- 参考文献
- 武田久吉(1948)『民俗と植物』、 山岡書店
- 田中清(1961)「長柄橋(人柱伝説雑考)」『土木学会誌 46号』、土木学会、27-33
- 『諸国叢書』(1984)、成城大学民俗学研究所
- 富士市(1986),『富士市二十年史』
- 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244
- 高埜利彦(2017)「日本のアーカイブズ制度を回顧する」『アーカイブズ学研究 No.27』
- みずほ総合研究所株式会社(2020)、令和元年度「博物館ネットワークによる 未来へのレガシー継承・発信事業」における 「博物館の機能強化に関する調査」 事業報告書
- 関沢まゆみ(2022)「田植えと女性 民俗学からの一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』25、国立歴史民俗博物館、508
- 小川日南・藤井基貴(2024)「災害伝承と防災教育(1) 静岡市における民話「沼のばあさん」を事例として」『静岡大学教育実践総合センター紀要 34巻』,56-64