元亀-天正期(1570年-)の駿河国富士郡は、武田氏の手中にあった時代であった。富士郡最大の要害である大宮城(富士城)は開城し、富士氏の軍事力の行使は不可能となっていた。著名な文書に、以下のものがある(※原隼人佑→原昌胤)。
というように、元亀期に富士氏当主富士信忠は武田氏に帰順している。若林氏は以下のように説明している。
氏真とて往年の勢威を保っているならば、富士氏をその陣営にひきとめる手段もあったであろうが、後北条氏の保護の下に生きる身であって見ればひきとめることも出来ず、「無相違出上旨」と富士氏に暇を与えざるを得なかったのである。(中略)大宮司家富士兵部小輔、彼は蔵人の父であろうが、その兵部小輔が甲州に参上しているのを見れば、武田氏への傾斜を深め、やがてその被官となっていたのであった
としている。
『寛政重修諸家譜』巻一二四一に以下のようにある。
勝頼味方に属せば加恩すべきのむねをいひ贈る、氏助これに同心し志を変じて降参す、勝頼すなわち駿河国富士郡鸚鵡栖にをいて一万貫の地をあたふ
つまり氏助(=小笠原信興)に対し、武田氏当主である勝頼が「武田に味方すれば恩給を与える」と言い、氏助がこれに従ったことにより
富士郡の鸚鵡栖(=重須、現在の富士宮市)の地を得たとある。
また以下のような文書がある。
これによると、富士郡下方庄(=富士市)にて一万貫分が充てがわれることを約束されているとある。双方共に疑わしい記録であるが、どちらにせよ富士郡の地が武田氏の支配下に置かれているために成せるものであり、小笠原信興の転封を示すものである。他に『甲斐国志』(巻之九十八人物部第七)に〔小笠原与八郎長忠〕「
与八郎於富士郡重須授壱万貫ト云」とあり、こちらでも同様の記述が確認できる。
以下の文書は、信興の知行先として富士郡由野郷が充てがわれていることを示す文書である。
信興による朱印状なので、このとき富士郡由野郷が信興のものであったことは間違いない(「由野之内」とある)。信興の移転と共に家臣も移動するわけであるが、由野(=柚野、富士宮市)へと移った家臣の諸役免除を伝える内容となっている。
「高天神」とは遠江の高天神城のことで、信興は元々高天神城主であった。そこを相返(=城主返上)したわけである。よく勝頼の武功を引きたてるときに「勝頼は確かに武田家を滅亡させたが、父信玄でも落とせなかった高天神城を落としている」と説明される、その城である。つまり信興は高天神城主を退いた後、富士郡周辺へ拠点を移しているのである。
入ってくる者がいれば出ていく者もいる。その過程が文書で確認できる。
宛は「
篠原尾張守」であり、「小笠原殿衆屋敷」が篠原氏所有の土地に置かれるので代替地を用地するという内容である。
篠原氏は元来より富士郡由野郷の在地勢力であり、今でも柚野の地には篠原姓が多く居る。この2つの文書は互いに小笠原信興の富士郡周辺への転封を裏付ける形となっている。つまり小笠原衆が富士郡へ転封したことにより、由野の在地勢力である篠原氏が工面を強いられる形となったわけである。
元亀から天正にかけての富士郡は、武田氏による領国運営が進められた時期であった。富士信忠も小笠原信興も元城主であるが、その双方共に武田氏に帰順しており、武田氏は対徳川に備えるための時期であったと言える。
- 小笠原春香「武田氏の戦争と境目国衆-高天神城小笠原氏を中心に-」『戦国大名武田氏と地域社会』,2014
- 若林淳之「武田氏の領国形成-富士山麓地方を中心に見た-」『戦国大名論集10 武田氏の研究』,吉川弘文館,1984