今年刊行されたばかりの新『富士宮市史』に、富士市も関係する興味深い記述が確認される(富士宮市2026;p.191)。
今回の市史編さん事業の調査で、新出の富士山縁起を確認した。表5−2に「浅間大社(公文富士家)」系統としているものである。本書では、『富士山大縁起本社末社之次第』について紹介したい(表5−2③、写真5− 19)。
奥書の部分に「維時天正廿 年壬辰二月十七日戊申日前永平保寿現住之源凛乎写之」とあるが、以前に曹洞宗本山の永平寺におり、当時は保寿寺(富士市伝法)僧であった之源凛乎が書写したものと記されている。
保寿寺は文亀3年(1503)8月に曹洞宗に改宗し、天正14年(1586)に之源(芝源)凛乎が第二世住職になったとされる(駿河郷土史研究会 1989)。奥書には、さらにこの縁起のほか一一巻があり、天正9年(1581)全てを之源が書写し、大宮寺の士雲に渡したとある。大宮寺とは浅間大社の別当宝幢院のことであろうか。
さて之源凛乎といえば、三股淵の大蛇の調伏伝説であろう。しかしこの辺りの伝承は、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にあるように郷土史家によって荒れに荒らされたため、本来のものと逸脱した解釈が世に溢れてしまっている。
問題の1つである『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号「いけにえ淵」から、郷土史家オリジナル脚本の部分を抽出してみよう。
- 保寿寺伝承と阿字の伝承の融合
- 三島宿の登場
- 毘沙門天の登場
- 吉原宿東木戸の登場
- 茶屋のおかみさんの登場
- 問屋場の登場
- 沼津宿・根方街道の登場(これは物語の解像度を良くするための範疇とも言えるが、仮にそうであっても原宿が妥当)
- 宿場役人の登場と同人によるクジの強制
- 七曲がりの登場
この辺りはすべてオリジナル脚本である。もう完全に、別物といって良い。特に太字の部分が悪質である。しかし「阿字の伝承」と「保寿寺の伝承」は本来切り離されていたものである。例えば『田子の古道』には以下のようにある。
(阿字の伝承を記述)…「えきろの鈴」には説を乗せたり。(中略)この寺所替して伝法村の地へ上る。(『田子の古道』「野口脇本陣本」)
(阿字の伝承を記述)…「是駅路の鈴といふ書物に祝のを乗りたり(中略)蛇の鱗ハ厚原村保寿寺の什物となりて…」(『田子の古道』「森家蔵本」)
このように、明らかに阿字の伝承と保寿寺のものは切り離されている。「野口脇本陣本」は唐突に「この寺」とあるが、これは書写の中で保寿寺の箇所が抜け落ちたためである。従って「この寺」とは保寿寺のことである(「野口脇本陣本」は後に発見されたもので『広報ふじ』連載当時は認識されていない)。
また他の地誌においても明確に棲み分けされている。端的に言えば、もうこの郷土史家による著書類は参考にしないほうが良い。
こういう過去の産物の検分も必要であるが、富士市には既に材料があるため、それらを活用するのも良いことだろう。(辻本2026;p.37)は柳田國男の旅路に関連して、以下のように記している。
そして、最後は富士市の吉原で先ほどの山中共古さん、すなわち文通をしていた人に会っています。ということで、即東京に帰らずに沼津に戻ってきたのは、おそらく文通で情報交換をしていた山中さんに会うためだったということです。
- 新『富士宮市史』の現時点での評価
- 富士宮市を舞台とする芸能(詞章等を分析)
- 『曽我物語』特論(『小田原市史』がそうであったように)
- 富士宮市を題材とした大和絵の分析
- 人穴について(伝承の変移、題材とした大和絵)
- おわりに
- 参考文献
- 富士市(1967)『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号
- 辻本侑生(2026)「現代民俗学から考える静岡県東部の日常と文化」『静岡の言語と民俗~県東部にスポットをあてて考える~』(静岡大学公開講座ブックレット16) 、静岡大学地域創造教育センター、27-53
- 富士宮市(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』

0 件のコメント:
コメントを投稿