2026年10月26日月曜日

本当は存在していなかったはずの富士市、国から複数回拒否された「富士町」案

富士地区(富士市・富士宮市)の人間の中でやんわりと存在する、いや強く内在しているとも考えられる"ある感覚"がある。


富士宮市が"富士市"じゃないんだ…


このような意見はチラホラと聞こえたりするが、その理由は想像に難くない。富士宮市の領主は永きに渡り「富士氏」であったし、軍事的拠点として富士城(大宮城)が存在したし、北部には富士金山があり、名物として富士海苔が存在した。また曽我兄弟の仇討ちの地は「富士野」であった(このうち「大宮」は富士氏・富士城)。

ちなみに富士城も富士金山も富士海苔も富士野も、実際の呼称であり古文書等で確認できる名称である。つまり「富士」とは昵懇なのである。

対して現在の富士市域はというと、このような史料上確認されるようなものもあまり思い浮かばない。あまり思い浮かばないまでも、「富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは」等で富士山との関係性自体は模索する試みをしている。とはいってもこれも「吉原」ではあるのだが。吉原で「富士」との関係を見出すのは可能だが、旧富士市域は難義である。

このような、確かに土着しているだろう一連の感覚から考えるに、そもそも現在の富士市という地域が"富士市"という名称に至った理由は一体何であろうか、と考えるのも一興ではないだろうか。実はここに驚くべき真実が隠されている。

現在の「富士市」という自治体名のルーツは、旧加島村の町制施行で「富士町」となり、その後市制施行した「富士市」にある。つまり「富士町」となった経緯を知る必要性があるのである。

まず「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にあるような加島村の様相の変化から、当地では町制施行を望む声が高まっていった。これは当然のことであろう。(富士市1982;p.596)には"空前の繁栄"とあるが、その言葉に違わぬものと言える。

大正10年(1921)3月1日のこと、富士郡役所から加島村長に宛てて文書が送付された。内容は、加島村にて町制施行の機運が高まっているため、郡役所として状況を知りたいところである。9つの項目について知りたいので、それらを調査し、報告を求めるようにという旨であった。対して加島村は同15日には報告を行った。

(富士市1982;p,596-597)から引用する。


先にみたように、富士製紙、富士駅、身延線といった条件を部落内に有した平垣は、大正5年にはこれら優位であった部落を凌駕して断然1位におどりでたことが明らかであり、(中略)これによっても、先にみた諸条件の中でとりわけ駅周辺地区の発展、つまり都市化が急速であったかが理解できるわけである。


加島村の勢いは、物凄いものがあった。そして報告から郡役所も町制施行は妥当であるとし、更に議論は加速していったのである。しかしここで奇妙な現象が発生する。(富士市1982;p.605)より引用。


にわかに町制問題は活発化していったのである。ただ町制を施行するだけではなく、町名もこれまでの加島から富士と変え同時に変更したいという議もあったので、大正10年3月31日、加島村長松永正名は議第10号をもって「加島村ヲ富士町トナス」という案件を村議会に提出、この原議案は同日原案どおり可決したので、この議決謄本を付して、大正10年4月4日、村長は郡役所を通じて内務大臣床次竹次郎に対して、加島村庶甲第387号を以て「村ヲ町トナシ併セテ改称ノ儀許可申請」を提出したのである。


つまり加島村は同時に富士町への改称を望んだのである。「加島」という名称に相当愛着が無かったのか、議会に議案を提出し、同日可決している。つまり3月に富士郡役所より状況を知らせるよう伝達をうけ、同月には富士町への変更を議会で可決していることになる。あまりにも動きが早すぎる。

「加島」という名称は歴史的なものであり、『吾妻鏡』にも登場する古い地名である。初見でいえば、「吉原」よりもずっと古い。これを容易く変更することに戸惑った村民も居たことであろう。ここまで自らの地名に愛着が無い地域も珍しいのではないだろうか。(富士市1982;p.608)から引用する。


以上町名変更と町制施行の2つの許可を求める理由についてみると、その底流に脈々として流れているものは、第一に町制をしき、町名の変更を求めるのが、実に600人余りに達する梨生産者の一致した要請であったことであり、これら梨生産者が彼らの取り引き上の便宜から、村名では信用にかかわり、不利にもなるから、停車場名と町名を一致させ、しかもだれでも知っている富士山の富士であれば益々好都合であるとしていることであって、実に加島村民の大部分の一致した生活の次元の中からこの問題の提起され要求されたことに注目すべきであり、第2には明治末年まで何の変哲もない加島村が、明治末年以来大正期にかけての激しい変化、変動を意識した上に立っての、問題の提起であり、要求であったことに注目すべきであろう。


このようにとんでもなく美化した説明であるわけであるが、少し違和感がある。というのも、富士駅は元々は「加島停車場」と言っていた。しかし(おそらく)直ぐに変更されているので、詰まるところネームバリューであろう。停車場名と町名を一致させるのであれば、富士駅を加島駅とすれば良い話ではないか。

また梨業者の意見=「加島村民の大部分」としているが、勿論そんなはずもない。むしろ梨業者こそ"加島五千石"の恩恵に預かった身ではないのか。加島五千石のその"加島"に、誇りはないのか?と問いたい。




つまりこの加島村の一連の主張は、ひとえに「ネームバリューがあるから」というものであった。

そして加島村はまだ国より正式な決定が下されていないにも関わらず先走ってしまい、祝賀会の日程や記念碑建立の話まで進めていた。(富士市1982;p.609)には以下のようにある。


町制施行の祝賀会の日程を定め、また富士駅開発功労者の記念碑を立てること、および祝賀会当日招待する人員を、(中略)…の代表を招くということで、その人選まで完了していた。ところが、実際許可の方は町制施行の準備がすべて完了しても音さたなかった。ここに至って関係者はにわかにあわてだし、中でも村長松永正名は、東京麻布に住む政友会議士岩崎勲にあて、「廃願の上御願いしたい事があるので、在京の有無を御知らせ願い度い」としたためて面会を求めていた。(中略)実に7月6日のことであった。


なんだか寄合処の感覚で町制施行を進めているような感じであるが、ここでやっと異常事態に気がついたのである。おそらく村長と梨業者だけで殆ど話を進めていたのであろう。

村長は実際に面会が叶ったようで、14日には書状で執り成しを要請している。その答えも『富士市史』に記載されている。(富士市1982;p.610)より引用。


つまり村名を変更し、新町名が富士市(註:富士町の誤り)と議決町名変更を申請したけれども、あのままでは絶対に許可されないとの様であるから、書類は一応返すので受取って欲しいという内々の連絡があった。


雲行きがだいぶ怪しいことに気づいたわけである。その詳細な理由は、富士郡役所から加島村長宛の文書より明らかとなる。(富士市1982;p.610)より引用する。

議第一一三号

大正十年八月五日 加島村長殿

村ヲ町トシ其名称変更ノ件照会

標記ノ件ニ付 曩ニ稟請書御差出ノ処 改称セントスル町名ハ 隣郡富士川町ト類似シ 其ノ結果種々不都合ヲ来スノ處有之候様被認候ニ付(以下略)


つまり富士川町が隣接しており、紛らわしいという内容である。従って、詮議の対象にすらならないという回答であった。つまり国より拒否されたわけである。

それを見て加島村は再度国に町制施行を申請し、今度は「加島村ヲ富士町ト改称ノ理由書」を申請書に添付した。(富士市1982;p.611-612)より引用する。


この理由書には、明治41年鉄道停車場が富士駅という名称であり、これは富士山に因ったものである。そうした事実に加えて、加島村で生産の盛んである梨果は富士梨と唱えて全国に移出されていて、富士の名称は全国に知られ、すでに富士駅の名称は手紙の裏側にもかかれて、実際につかわれていること。しかもこの地に所在する会社、工場はいずれも富士の名称をつかっていることから、富士町と改称するのが最適であるとして、再考どころかいよいよその確信を深めながら申請を提出していた。


それをいうのなら、加島停車場は実際に使われていた名称であったが変更したものなのである。それはいいとして、これらは殆ど近代以降のものであるから、弱い。これは大宮町の例と比べると如何にも弱い。近代以降ということは、当時からすれば最近といえば最近なのだから。ただもう、引けに引けなくなってしまったのであろう。

そして大正13年8月のこと、国から伝達が届いた。つまり「加島村ヲ富士町ト改称ノ理由書」を含む申請書に対する正式な見解が判明したのである。その結末について(富士市1982;p.612)より引用する。


結果は大正10年のそれと同様、富士川町と富士町では紛らわしいので再考してほしいという事であった。


つまり、再度拒否されたのである。しかし加島村はまだ折れなかった。"加島という名を捨てる努力を惜しまなかった"という言い方は少々辛辣かもしれないが、なんだかサバサバしている印象は拭えない。次の一手として、加島村は静岡県知事に働きかけるという手段を取った。(富士市1982;p.612-613)より引用する。


昭和4年7月9日、富士郡加島村々長時田弘太郎は、庶甲第668号をもって、静岡県知事白根竹介にあて、次のような申請書を提出した。すなわち

村ヲ町トナシ併セ改称ノ義許可願

一、村ヲ町トナシ併セテ富士町ト改称。

本村ヲ町トナシ併セテ前記ノ通リ改称ノ義 別紙理由ニ依リ 村民一般ノ熱望ニ付キ御許可相所度 村会議決書謄本及参考書相添ヘ此段申請候也

昭和4年7月9日                   富士郡加島村長 時田弘太郎 印

  静岡県知事

    白根竹介殿

というものである。


時代の移り変わりによって、町制施行関連の認可は大臣処理事項ではなくなり、知事に移管されていたようである。(富士市1982;p.613-614)より引用する。


松永、吉沢両村長時代と、時田村長の時と異なる点は、前者においては内務大臣に対してであり、時田の場合は知事に対してということである。つまり昭和になると間もなく、こうした案件の処理は大臣処理事項から、知事の処理事項に移管された機をみて以上の申請が提出されたものである。


村長は上の申請書を提出する前に「加島村々会」を招集し、意見の一致を確認するなどしている。そしてそれを基に「議決謄本」を作成、これに議事録、理由書、参考資料を附したものを県知事に提出した。

その理由書には「駅名ニ倣ヒ富士町ト改称スルヲ適当ナリト思考ス」とある。(富士市1982;p.615)より引用する。


まず「村ヲ町トナス」の理由書によると、(中略)つまり加島村の実態からして、どの角度から検討しても町としての資格を十分備えているから、町制を布きこれによって一般生産物の増加と、商工業者の取引上の有利性を確立したいとしていた。また町名の変更については、富士山麓の門戸であることから、これによって富士と駅名が付せられると、以来ここに建設される会社、工場の名称はすべて富士の名を用い、またこの村の生産者たる梨も富士梨として全国に知られている。


つまり「富士駅」「富士製紙(といった工場名)」「富士梨」の三点セットである。富士駅を富士山麓の門戸としているが、これは「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」で記したように交通結節点であることを誇示したものであろう。つまり往古(以下の「宿」とは「吉原宿」)は


  • 「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」宝暦2年(1752)『東海道五十三次図』
  • 「宿の内右に富士参詣大宮口への道有」明和2年(1765)『東海木曽両道中懐宝図鑑』
  • 「此宿に富士参詣大宮へ道あり」寛政7年(1795)高力猿猴庵『東街便覧図略』


とあるそれらが吉原町→大宮町と引き継がれていったものが、加島村→大宮町へと変移したことを示すものと思われる。これは大宮町側から見てもそのような認識になっていたことだろう。また以下のように続く(富士市1982;p.616)。


このような事実もあって(中略)富士町はも早大方の常識であって、改称しないにもかかわらず、あらゆる分野で公的にも私的にも通用していることを指摘し、加島村の名称についても触れ、「由来本村ノ名称ハ 昔富士川ノ東岸ニハ完全ナル防備ナク増水ノ場合河身縦横ニ変転シ 各所ニ瀬ヲ築キ 島ヲナシタルガ故ニ 加島ト称セシが如くニシテ特ニ深遠ナル謂アルニアラズ」と加島の名称にこだわる気持ちの毛頭ないことを述べ、ひたすらに富士町への変更を希望していた。


このようにあるが、これは全部デタラメである。加島という名は『吾妻鏡』にも登場する、古くから継承された地名である。であるからむしろ"深遠なる謂れあり"なのだ。こんなことを地域の人間が言うとは、なんとも情けない。"空前の繁栄"の中でも、文化性は置いてけぼりだったのである。


「武衛令到駿河国賀嶋給」(『吾妻鏡』治承4年(1180)10月20日条)


武衛は「源頼朝」のことである。また『家忠日記』などにも登場するから、旧富士市域を代表する地名と言える。


これが何と書いてあるかおわかりであろうか?「かしまの舟て」である。つまり「加島の舟手」で、松平家忠一行の渡しを手伝ったわけである。本当に永い間、用いられてきた地名なのだろう。

教養が無いといったようなことは言いたくはない。しかしこの時代から既に、この地は地名を大切にしないのだな…と思わされるエピソードである。むしろ『吾妻鏡』の記録を誇って欲しいくらいのものである。

そして事態は大きく変化する。ついに富士町への改称が許可されたのだ。(富士市1982;p.617)より引用。


以上のような加島村長の申請をうけた静岡県知事、白根竹介は慎重に検討した結果、昭和4年7月30日静岡県指令地第2258号をもって、富士郡加島村に対して加島村を富士町と改称することを許可する旨の指令を送ってきた。


つまり大臣処理事項の時代に富士町の路線を諦め町制施行していたら、富士町は存在していなかったということになる。加島町となっていたのだ。加島村の粘り勝ちと言ったところであろうか。元々富士郡役所に資料を提出したのが大正10年(1921)3月のこと、そこから昭和4年(1929)7月であるから8年以上経過してのことであった。

つまり"本当は存在していなかったはずの富士町"なのであって、転じて"本当は存在していなかったはずの富士市"と言えるわけである。これらの動向は、以下のようにまとめることができる。


主に「富士梨」を旗印とし、「富士町」を擁する

↓

国より拒否される

↓

再度願い出る

↓

却下される

↓

時代の変移で町制施行案件が県知事に移管されたため、静岡県知事に請願

↓

許可される


そして最終的に「富士市」「吉原市」「鷹岡町」とで新市の名称が検討され「富士市」で決したというわけである。つまり以下のように言うことも出来る。


富士町と改称されていなかったら、今現在「吉原市」は健在であった可能性は高い


そして富士宮市との関係でいえば以下のように推測できる。


現在の富士宮市が「富士市」であった可能性もそれなりにある


この「富士町誕生」はかなりの影響を与えた動向であったと言えるわけである。


  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

25:「本当は存在していなかったはずの富士市、国から複数回拒否された「富士町」案」

  • 参考文献
  1. 富士市史編纂委員会編『富士市史 下巻』、1982

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