「曽我兄弟の仇討ち」の地は、『吾妻鏡』によると富士野の神野とある。
曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)
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| 曽我十郎祐成(「伏木曽我」の場面) |
ではこの「神野」について、富士宮市はどこを比定地としているのであろうか。新『市史』である(富士宮市2026;p.79)には、以下のようにある。
江戸時代の村には名前は見えないが、中世の史料にみえる地名もたくさんある。(中略)「神野」は内野の字上野一帯、
このように「神野」=「上野」という解釈が示されているのであるが、そうだろうか。各史料を見るに、とてもそうは思えないのである。例えば『信長公記』には以下のようにある。
四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり
天正10年(1582)4月12日、織田信長一行は本栖を出て「かみのが原」「井出野」に至った。中道往還を南下してきた形である。つまりこの両地は隣接しているのである。本栖を過ぎた地点として記されていることから、国境付近と考えたほうが良い。
また当該地の地理の見通しをより良くしてくれる史料として『甲信紀行の歌』がある。『甲信紀行の歌』は天文15年(1546)ないし同16年(1547)、三条西実枝が甲斐国を訪れた際の歌を、供をした相玉長伝が書き留めた史料である。うち該当箇所を見ていきたい(山梨県2002;p.878-881)。
同廿一日、本栖の御宿を御立の朝、各御短冊進上、返事共、(中略)
本栖を御立ありての道にて、撫子の花をおりて奉るとて、(中略)
かみの原にて御落馬有し時、(中略)
本栖御宿にて、紅葉の枝を顔にあてゝ奉るとて、別路を思ふ涙のしくれにや かおのもみちをちらす秋風(以下略)
三条西実枝は天文16年(1547)8月21日に本栖を発つ際に歌を読み、その返歌を受けている。そしてその道中(本栖を御立ありての道)でも実枝は返歌するなどしている。その返歌の次に「かみの原にて御落馬有し時」の歌が記されている。
これはかみの原、つまり「神野原」が本栖に隣接するからこそ、ここに見えていると考えるべきではないだろうか。ここで急に「上野」が登場するのは極めて妙であるし、距離が離れすぎている。
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| 富士宮市内野 |
むしろ「神野」は上井出より更に北部に位置すると考える方が自然ではないだろうか。つまり「神野」=「上野」ではないのである。
- 参考文献
- 山梨県(2002)『山梨県史 資料編6 中世3下 県外記録』
- 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市


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