2019年7月12日金曜日

富士氏はいつ今川氏に従属するようになったのか

まず、甲斐側の記録である『勝山記』に

此年六月十一日、甲州乱ニ成リ始テ候也

と記す箇所がある。これは明応元年(1492)の武田氏の内訌を示しており、また同年9月9日には今川軍の甲斐侵攻すら許している状況であった(『年代記』)。つまりこの時代の武田家というのは甲斐統一すら成し遂げておらず、また他国からの介入を多く許す甲斐の一勢力でしかなかったのである。

この今川軍の侵攻は時の今川家当主「今川氏親」によるものであり、この際用いられた甲斐侵攻の経路については諸家で意見が示されている。小笠原春香『戦国大名武田氏の外交と戦争』には以下のようにある。

この点について秋山敬氏は、郡内(山梨県東部、富士五湖方面)のことを主として記録する『勝山記』に駿河勢の出張記事が見られないことから、今川軍は穴山氏の領域である河内路を利用したのではないかとしている 。黒田基樹氏は、信縄による河内攻めの報復として、信懸が今川氏に支援を要請し、今川氏もこれに応えたのではないかとしている。そして、信昌・信恵方が今川氏と結ぶことによって信縄に対抗したのではないかと述べている(中略)いずれにせよ、『年代記』に見られる今川氏による軍事介入は実際に行われたようで、その結果からか、明応二年(一四九三)になると信縄は敗戦を繰り返し、厳しい状況に追い込まれた。

「武田信縄」と「武田信懸・武田信昌(信縄父)・信恵父子」勢の対立により甲斐乱国を招き、また今川氏親は武田信懸側に付き甲斐へと侵攻しているのである。また黒田氏は「今川氏親の新研究」の中で以下のように述べている。

氏親はこの「甲州乱国」に、武田信昌・信恵父子、穴山武田信懸を支援したのであり、そこでの出兵が国外への最初の軍事行動であった。また、ここで甲斐に侵攻しているから、その経路にあった河東のうち富士郡北部も、すでに領国化していたとみなされ、それは同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる。富士家も、もとは国人であったが、義忠の時には家臣化していた存在であり、範満討滅後に、従属を遂げたものとみなされる。ちなみに富士家については、明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認されるが(「室町家御内書案」戦今103)、その一方で氏親に従属していたとみられるであろう。そしてこれが奉行衆としての終見になっている。

この記述から考えると、黒田氏は今川氏親による甲斐侵攻の際は「中道往還」を経由したと考えていると見る他ない。富士宮市域には他に甲斐に繋がる街道として「駿州往還」(河内路)が位置するが、該当する箇所は旧庵原郡の「内房」であり、また河東(富士川の東)ですらない。なので黒田氏は中道往還を用いたと考えていると言えるのである。

また黒田氏は「同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる」としている。当記事では「この時代の富士氏が今川氏に恭順していたか否か」という点について考えていきたい。実は「この時代の富士氏が今川氏に恭順していた」とするには、史料的説得が大分足りないのである。富士郡(富士上方)の領主が富士氏であったことは言うまでもないが、そう時期を違えていないこの頃、富士氏と室町幕府との関係に溝が生じていたことも考慮しなければならない。

黒田氏が言う「明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認される」としている文書は、以下のものである。



この「室町幕府奉行人奉書」の内容は、室町幕府の新将軍の就任における「御代始御礼」がなされていないと富士氏を非難する内容であり、場合によっては所領を没収するという強い姿勢を打ち出したものである。この新将軍とは「足利義澄」であり、就任は明応3年(1494)である。

もちろん富士氏は、今川氏が室町幕府と懇意であることは承知であったはずである。室町幕府に恭順しているとは言い難いこの史料を見ると「この時期氏親に従属していたのだろうか?」という疑念は出てくる。新将軍就任が明応3年(1494)であり、「御代始御礼」の無沙汰を非難するのが明応5年(1496)である。そして甲州乱国における氏親の甲斐侵入が明応元年(1492)であって、そう時期は違えていない。なので甲斐乱国時に氏親に恭順していたかどうかは疑わしいのである。

また富士氏のそれ以前の状況を見ても、今川氏に従属している様子は実は無いのである。今川氏が富士氏に発給した文書の初見は、「今川範氏判物」とされている。


この文書に対し大久保氏は『戦国期今川氏の領域と支配』の中で以下のように解説している。

大宮浅間神社と今川氏の関係が文書上で確認しえるのは、範氏の代、14世紀中期に遡る。以後、今川氏から多くの文書が発給されているが、氏親以前の文書は、社領や別当職の安堵などに関するものであり、それらは駿河守護としての権限を超えるものではなく、室町幕府の意向に沿ったものといえる。

としている。つまり「室町幕府の意向を今川氏を介して富士氏に伝えたのであって、今川氏との従属関係で富士氏に文書を発給しているわけではない」と言っているのである。氏親期に関しても同様のことが言える。また杉山一弥氏は『室町幕府の東国政策』の中で

事の本質は、将軍足利義澄が堀越公方足利政知の子息であるため、葛山氏が堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていただろうこととの関係を考慮しなければならないといえよう。明応年間の政治的動向をみると、明応2年(1493)、京都における明応の政変に加担して足利義澄の異母弟堀越公方足利茶々丸をねらい伊豆国に襲撃した伊勢宗瑞(北条早雲)は、なおも生き延びた足利茶々丸との抗争を明応7年まで繰り広げていたことが知られる。(中略)つまり室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給されたこの明応5年という年は、伊勢宗瑞らにとって軍事的緊張がもっとも高まった時期だったのである。そして伊勢宗瑞らの一連の行動は、異母弟足利茶々丸によって自身の実母円満院と同母弟潤童子を殺害された将軍足利義澄の支持を得ていた可能性が高い。それゆえ明応5年の将軍足利義澄による葛山氏への室町幕府奉書の発給は、伊勢宗瑞らとは若干の距離をおく葛山氏に対して将軍みずから政治的圧力を加えるとともに、言外に伊勢・今川両氏への協力を葛山氏に要請するものであった可能性が考えられるのである。

としている。ここで「室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給された」とある文書が「富士中務大輔」に向けても発給されている。ここで葛山氏を例として示されているように、葛山氏と同様に富士氏も「堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていた」存在であったのだろう。そしてそれが「御代始御礼に対する無沙汰」という形で現れたのではないだろうか?この文書が葛山氏と富士氏にそれぞれ発給されていることを考えると、葛山氏と富士氏は行動を同じくしていたのであろう。でなければこの現象は説明できない。ここでまず

富士氏は堀越公方に加担しようとしていたきらいがあり、堀越公方と対峙する伊勢宗瑞と懇意である今川氏親に恭順していたと言える状況には無い。また、それまでも恭順していたことを示す史料は無い

ということは確認しておきたい。

またその後の今川氏による甲斐侵攻の動向はどうであっただろうか。この甲州乱国の翌年の明応2年(1493)から伊勢宗瑞は伊豆侵攻を開始しており、今川氏親は甲斐乱国時における甲斐侵攻以後、武田家との抗争は生涯を通して行っている。一方甲斐国内では、武田信縄の子である信虎が武田氏当主となると、ようやく甲斐統一がなされることとなった。

武田信虎

この甲斐統一は永正7年(1510)に小山田氏を従属化し、永正17年(1520)に大井家を従属化し、大永元年(1521)に穴山氏を従属化できたことが大きい。特に穴山氏のそれは大きいものであった。穴山氏の従属化を知った氏親は、穴山氏の本拠である「河内」を攻撃した。ここで注目すべき記録が確認されるのである。同年の『勝山記』の記録に

河内へ八月廿八日惣勢立テヤリツキ其ノ日有之富士勢負玉フ也

とあり、大永元年8月に富士氏は今川方として戦に参戦しているのである。『勝山記』では福島正成らを「福島勢」と表記するなどしており、同記における「〇〇勢」という表記は人物を指すと考えられる。したがって「富士勢負玉フ」は「富士氏の勢力」と理解すべきである。この富士氏の出兵はどう理解するべきだろうか。

まず堀越公方の足利茶々丸は、伊勢宗瑞による伊豆侵攻後の明応7年(1498年)、追い詰められた末に自害している。この動向が今川氏従属に大きく動いた可能性が大きい。他に付く勢力がないのだから当然とも言える。しかし今川氏は武田氏と対峙しており、おそらく今川氏側から参戦を促される立場になっていたのだと思われる。

その後も今川氏と武田氏は諸戦を繰り返し、大永元年11月には上条河原にて信虎軍は大勝している。これらの背景があって、穴山氏の従属化は完全になされたのである。その後は今川勢を駿河まで追い出すことに成功している。

また大永2年(1522)に信虎は身延山久遠寺および富士山に参詣している。富士登山は『勝山記』に

武田殿富士参詣有之、八要メサルル也

とあるのがそれである。八要(=八葉)ということから、お鉢巡りを行ったのであろう。これは自らの甲斐統一を周辺に知らしめる意図があったとされ、大永2年(1522)およびその前年に甲斐統一をなしたと解釈されることが多い

とりあえず、富士氏の今川氏への従属化は堀越公方滅亡後の段階で初めてなされ、少なくとも大永元年時点で今川氏傘下として定着していたと考えたい。

  • 参考文献
  1. 小笠原春香,『戦国大名武田氏の外交と戦争』,岩田書院 ,2019
  2. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」『今川氏親(シリーズ・中世関東武士の研究 第26巻 )』,戎光祥出版,2019
  3. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,思文閣出版,2014
  4. 大久保俊昭,『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院、2008年
  5. 小林雄次郎,「武田信虎の富士登山 -大永二年の登頂をめぐって-」,『武田氏研究」第56号,2017

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