2019年6月10日月曜日

北条早雲と富士市

まず現在の富士市域というのは中世以降「富士下方」と呼ばれていた地域であり、古文書でも多く目にする。しかしこの富士下方の地というのは、統治者が明確でないことでも知られている。特に伊勢宗瑞(北条早雲)との関わりについての部分が不明瞭で、関係があるのか否かがはっきりしていない。このページでは「富士市域(富士下方)と伊勢宗瑞」というテーマで取り上げたいと思う。

北条早雲
まず伊勢宗瑞は今川氏と関係が蜜であったことが知られている。しかし史料的説得という意味では意外にも薄い。例えば黒田基樹氏は「今川氏親の新研究」の中で

家中は、後継をめぐって氏親を推す派と、義忠従兄弟の小鹿今川範満を推す派とに分裂し、内乱が展開されることになる。ただしその状況は軍記物によるにすぎない。(中略)氏親と範満の抗争の具体的状況は明確ではなく、わずかに「今川家譜」が、伊勢盛時が今川家臣を率いて、駿府館を攻撃し、範満とその甥小鹿孫五郎を討ち取ったことが記されているにすぎないといえる。

としている。しかしこの「今川家譜」に富士市域と伊勢盛時(後の伊勢宗瑞、北条早雲)との関係を記す記述が見える。以下も黒田氏文献による。

「今川家譜」などによれば、宗瑞は、範満討滅の功績によって、河東富士郡下方地域に所領を与えられたことがみえているが、これについても、同地域はいまだ今川家の領国に編成されておらず、その征服を示すものであったという想定も可能である。(中略)また盛時は、範満討滅の功績によって、河東下方地域で三〇〇貫文の所領を与えられたとされる。ここから氏親は、少なくとも下方地域までの領国化を果たしたことがうかがえる。

伊勢宗瑞の軍事行動により河東地域を制圧でき、宗瑞と関係の深い今川氏は晴れて河東地域を手にすることができたという旨の内容である。また今川氏親は長享元年(1487)に今川小鹿範満を討ち、今川家当主となった。その背景に宗瑞の活躍があったため、三〇〇貫文の所領を与えられたという内容である。この三〇〇貫の所領についての部分は「今川記」で記され、また類似する内容が他史料でも見出されている(「伊勢盛時と足利政知」)。

「今川記」(玉川図書館所蔵本、加越能文庫本とも):氏親大いに感し、高国寺に富士郡依田橋せこひんなと云所を三百貫新九郎に給わる
「今川記」:「下方庄」(具体的所領の記載なし)
「異本小田原本」:「下方庄依田橋柏原吉原

せこは「勢子・瀬古」であり、ひんなは「比奈」である。依田橋は共通しているが、他は記録により差異が大きい。しかし共通して「富士下方」であり、やはり実際に伊勢宗瑞は富士下方に何らかの所領を得ていたと考えてもよいと思える。しかもこの一帯は富士下方でも比較的東部であることが共通している。富士下方から見て東側から赴いている宗瑞が東側に所領を得ていることは、何らおかしなことではない。

黒田氏はこの所領の偏移について、以下のような見解を示している。

河東富士下方地域に、依田橋・せこ・比奈(「加越能文庫本「今川記」)、あるいは依田郷・原・柏原・吉原郷などを所領としていたと伝えられる(「異本小田原本」)。しかし伊豆侵攻後において、それらの領有を示す史料はみられない。可能性としては、伊豆侵攻にともなって氏親に返上されたか、宗瑞の死去まで所領として存続したか、いずれも考えられる。(注:黒田氏の各文献で各々表記が異なることに注意)

としている。どちらかといえば、伊豆侵攻後は所領ではなかったという可能性を暗に示す形となっている。宗瑞は明応2年(1493)に堀越公方足利茶々丸に敵対する形で伊豆に侵攻し、明応7年(1498)には足利茶々丸を自害に追い込んでいる。その辺りでは富士下方は所領でなかったという可能性を提示している。


  • 参考文献

  1. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」,『今川氏親 (中世関東武士の研究26)』,2019
  2. 黒田基樹,「伊勢盛時と足利政知」,『戦国史研究』第71号,2016

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