2019年9月9日月曜日

富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか

まず、「静岡県富士山世界遺産センター」(静岡県富士宮市)の企画展のチラシを以下に掲げたいと思う。


ここに

しかし、ここ富士山周辺では、かぐや姫は月ではなく富士山に帰り、富士山の神様だった、というストーリーが伝承されています。この話は、「富士山縁起」という富士山信仰に関わる寺社の縁起書などに記され、特に富士南麓に位置する静岡県富士市・富士宮市を主な舞台としていることから、当地周辺にはいくつもの伝承地が残されています。

とあるように、富士宮市・富士市は「かぐや姫説話」の舞台の地である。しかしこれが拡大解釈され、「=竹取物語発祥の地」と一般には解釈されている節がある。また「≒(ほぼ等しい)」かと言われれば、とてもそうは言い難い。

同じ富士地区(富士宮市・富士市)でも明確な差異があり、富士市においては「竹取物語発祥の地である」と認識する人々がある一定数存在している。その一方で富士宮市においては「(富士宮市が)竹取物語発祥の地である」とする人は居ないように思われるのである。なので先ず「何故富士市でそのような風潮が生まれたのか」という点から説明していきたいと思います。

  • 富士市のイメージ戦略
例えば富士市の広報等では昔から盛んに「竹取物語発祥の地である」と宣伝され続けてきた事実があります。それは以下のようなものであり、何十年にも渡り宣伝され続けてきました。「行政」は市民からすれば圧倒的に「公式」なのであり、それを富士市の市民等は何十年にも渡り見続けてきたのです。以下はほんの一例です。

1987年10月

1991年10月




1996年10月

また富士市のHPが初めてできた際も「かぐや姫誕生の地」としていました。

広報ふじ No.694

しかし『竹取物語』の原型は平安時代には既に成立しているのであり、またそれは「都」で生まれたものであると言って良いはずです。もし仮に富士市が発祥であるのならば「富士市→都」と言っているということになり、最低限の史料的説得は必要となります。しかしそういうものは提示されないまま、行政が「発祥の地である」と言い続けてきたという長い歴史があります。このような背景かられっきとした差異が生まれているということを、まず理解しておく必要性があると思います。


  • 富士山縁起
富士山世界遺産センターの資料等で述べられているように、富士山麓には「富士山縁起」という史料が各寺社に伝わっており、そこには「かぐや姫説話」が含まれているものがあります(すべてではありません)。存在自体は古くから知られ、例えば『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)等にも散見されます(福田2016;p.249)。これは富士市に隣接する富士宮市の村山浅間神社に伝わるものを翻刻し発表したものです。これらを含む断続的報告により「富士山南麓にかぐや姫説話を含む富士山縁起が多く伝わっている」という認識は従来より持たれていたと言えます。ちなみにこの富士山縁起は文化9年の村山浅間神社に伝わる富士山縁起と同内容であることが、大高氏の労作により判明している(富士市,2010;p.57)。

富士山縁起のおおまかなあらすじを知りたい方は「富士山縁起の赫夜姫説話」(富士市立博物館)が参考になると思います。またもう少し詳しく知りたい場合は(大高,2013)が良いと思います。

そして20世紀末に富士山縁起の新出史料の発見があり、同縁起が再び注目されるようになった。「富士縁起(全海写)」と「浅間大菩薩縁起」(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)の発見である(金沢文庫1996;p.56)(西岡2004)。(西岡2006)には「それと前後して…」とあるため、両者はほぼ同時期に表に出てくる形となったのである。それに伴う金沢文庫の一連の報告、つまり西岡氏による報告は圧巻であり、「白眉」という言葉がふさわしい。その昔、これらを貪るように読み続けたことを記憶している。富士郡のかぐや姫説話に関しても「妙な境」(後述)を設けず、素晴らしき示唆を提示された。富士山縁起研究の1つの転換期が間違いなくここにあったと言える。

そして近年「六所家総合調査」が行われ富士山縁起に関する研究が更に深化し(六所家の史料に富士山縁起が含まれているため)、多数の報告がなされるようになったのである。かぐや姫説話に関する知見が従来に比して飛躍的に深まったことは間違いなく、ここで我々が「一連の研究で得た今現在の見解は概ねどのようなものなのか?」ということを知ることは重要であると思う。

私は「六所家総合調査報告書」および「六所家総合調査だより」をすべて確認してみたが、この調査により

改めて、富士市が竹取物語発祥の地とは現時点で到底言えないということが確認された

と言えるのではないかと思う。というより、そう言わざるを得ない。各史料を詳細に検討され、やはり「富士市→都」の流れは確認できなかったという帰結が確実に示されたのである。同調査では富士市とかぐや姫説話との関係性について、出来うる限り限界まで言及されているように思える。富士市の刊行物もかぐや姫説話に触れているものが多く、それらを汲み取った上で言えることである。これまで歴史学の論文等で「富士市が竹取物語の発祥に関わる」とするものは1つもなく、また当ブログでも現時点でそれを示すものは無いとしてきたが、この六所家総合調査はそれを支持する結果となったと言って良い

研究の深化は大変喜ばしいことであり、それら労作には感心以上のものを誰しもが感じる所であると思う。その過程で80点近くもあるとされる富士山縁起諸本が詳細に調べ上げられ、多角的に検討された。しかし行政としての富士市は上記のような"イメージ戦略としての展開"を何十年としてきたのであり、そこは聖域であって、「富士市が竹取物語発祥の地であることを示す史料は無い」とはどうしても明言できず、報告書内でもそこまでは言及はされてはいない。不文律に近いものがあるのである。

  • 富士山縁起の研究
ここでまず六所家総合調査の成果(富士山縁起に関わる部分)と総合調査以外の富士山縁起研究から導き出された概要を以下に簡易にまとめてみようと思う。まず富士山縁起とは

富士山および富士山信仰に関わったすべての寺社に関する由来や伝説などを記した縁起書の総称

であり、諸本が存在する。(富士市2014;p.21)によると、およそ80点以上は存在している。そしてその中で成立年の古いものは(『富士山記』を除く)


  1. 『浅間大菩薩縁起』(鎌倉時代、滝本往生寺所伝)
  2. 『浅間大菩薩縁起』(建長三年の奥書あり)
  3. 富士縁起(鎌倉時代、全海写)


が挙げられる。そして1の『浅間大菩薩縁起』の続きが2の『浅間大菩薩縁起』(参考文献1における「文献二」)であるとされ(富士市2010;p.15)(西岡2006)、1には「建長三年辛亥六月十四日於冨士滝本往生寺書写了」とあり、滝本往生寺で書写したとある(金沢文庫2003;p.38)(西岡2003)。この滝本往生寺は富士宮市村山に存在した寺社であるため、まずこれら古例の縁起が村山で伝えられてきたということが確認できるし、それは数多くの文献で指摘されている(福田2016;pp.243-256)(西岡2004)

そして現時点で「かぐや姫説話」を含む富士山縁起で最も成立が古いとされるのが3の「富士縁起」(鎌倉時代、全海写)である(西岡2006)。この縁起には村山で伝えられてきた末代上人の伝説等が記されている。特に縁起中の「往生寺の大日如来の御身中に納め奉る者なり 瀧本は悪王子の嶽の麓東南の角に在り」という部分は明らかに村山を指していると言える。ここでも村山の関与が先ず想定される状況である。そしてこの「富士縁起」は極楽寺(鎌倉)の全海という僧により記されたものである。

これら成立年が古いとされる富士山縁起を挙げていく中で、いまのところ富士市が直接的に関与している様子は無い。まずこの時点で富士山縁起を持ち出して「富士市が竹取物語発祥の地である」とするのは難しいのである。竹取物語の原型は平安時代には確認されているのであって、やはりそれを遡ることはできていない。つまり「竹取物語」どころか「富士山縁起の成立」と限局しても、富士市から発祥するとするのは現時点では難しいのである。末代上人の伝説等が説かれている点を見ても、村山から発生したと考える方が自然である。


  • イメージ戦略の行く末
この富士市のイメージ戦略・展開は実際のところ多くの人を翻弄してきたことであろう。私もその1人であるし、例えば以下の大学生もそうだろう。このテーマを考えると、どうしても以下のやりとりを想起してしまう。どうあっても忘れられないのである。以下に以前私が運営していたメインブログにおけるコメントのやりとり示す(※コメントはブログ上で公開されていたものであってメール等ではない)。2013年のことである。

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2013-11-26T23:49:48.573+09:00
こんばんは。大学の卒業研究で富士市の竹取説話について研究している者です。確かに、図書館などで先行研究を探しても(先行研究自体が少ないのですが)、富士市の竹取説話(姫名郷の説話や富士縁起系の説話)をただ紹介している文献ばかりな気がします。なぜこの地に竹取説話が生まれたのか、(富士市を発祥の地とするなら、)それがどのようにして都に伝わったのか、そのあたりを論じたいと思っているのですがなかなか進みません・・・

ネットでこちらのブログを偶然見つけたので書き込ませて頂きました。
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とあります。そこで私は以下のように返信しました。といいますより、当時の私はそのように返信したようです(5年以上前のことです)。

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2013-11-27T00:33:33.450+09:00
この富士市という地が『竹取物語』との接点を求めるようになったのは、実際のところは歴史的経緯とは全く無関係な、観光的な理由が大きいと思います。現実的に考えると、「富士市→都」という流れはまずあり得ないと思います。もし有り得るのならば、もっと多くの研究者が着目しているはずです。そういうものが、全く確認できません。圧倒的に観光・イメージ戦略からきていると思います。(中略)「富士山縁起」はそことは無関係の部分から由来する、しかし当地でかぐや姫との接点が認められる要素の1つです。現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います。これらと上の伝説をゴッチャにしてしまい、なんだか「本当に関係性がある」となってしまっている状況が実際のところだと思います。

ですから、このテーマは卒論には不向きだと思います。富士山縁起なら富士山縁起に絞られた方が賢明かもしれません。
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そして以下のような返信を頂きました。

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2013-11-27T01:43:28.533+09:00
貴重なご意見ありがとうございます。
不向きと言われてしまいましたが、今更テーマを変えることもできませんし、何よりかぐや姫関連の地名が昔から残っているということは、観光目的のために作りだされた話、というわけだけではないと思いますので、なんとかこのまま書きすすめたいと思います。富士市→都という流れですが、吉永郷土研究会から出されている『かぐや姫伝説と富士山』という本に興味深い意見が載っていますのでぜひ読んでみて下さい。

もし富士市と竹の関係についてご存知でしたら教えて頂きたいです。(良い文献が見つからないので...)
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つまり富士市による「竹取物語発祥の地」という行政による宣伝を信じ、このコメント主は卒論テーマに選んだのである。無論「大学生なのだから誇張した宣伝であることを疑うべき」であるとか、「卒論の作成には下準備が必要であり準備がなされていれば予めテーマから除外できたはず」といった指摘は出てくるのかもしれない。しかし私には翻弄された人々の中の1人として映ってしまうし、現在もそう思える。私は「富士山縁起に焦点を絞らないと成立しない」と勧めることしかできなかった。行政による被害者と言っても良い。富士市では教育委員会が機能していないのだろうか?これは氷山の一角であろう。

コメントで私は

現在の風潮と私の独断と偏見を入れて説明しますと、おそらく富士山とかぐや姫を結びつける考え方は、富士山信仰の拠点の1つである村山で発生し、後々に拠点から少し離れた現在の富士市に伝わったのだと思います

としているが、この部分については上の説明で十分に補完できていると考えている。ただこのコメント時は2013年であり、あくまでも「私の独断と偏見である」ということは明記しておきたい。以下で詳細を示しているので、興味がある方はご覧になって下さい。


  • 富士市・富士宮市におけるかぐや姫説話舞台の地
仮に富士市が「竹取物語発祥の地」である根拠や相補的材料として「富士山縁起」を担ぎ出す場合、成立年が古いもので富士市と直接的関わりがないと苦しいと言える。また富士山縁起がそもそも「富士市に限局したものではない」ので、どうあっても難しいのである。例えば縁起中に見える「中宮」は村山の中宮を指していると考えられ、かぐや姫説話の舞台の地である。(井上 2013)には以下のようにある。

村山興法寺を発った道者は「ヨコ子」(横根ヵ)、「駒立」と記載された場所を経由し、「中宮」(中宮八幡堂)へと到着する(註:富士山禅定図の説明である)。(中略)また、現在当館において総合調査を実施している六所家旧蔵の『富士山大縁起』という資料に所収されているかぐや姫の説話では、この中宮が富士山の岩窟へと入るかぐや姫と翁の最後の別れの場所であったとされている

「中宮」は富士山縁起諸本でも大抵記されており、物語の鍵となる箇所である。

富士山禅定図に見える「往生寺」「中宮」「冠石」等

また富士縁起(鎌倉時代、全海写)に「王冠ハ石ト成テ今二在リ」とある。帝が姫を追い富士山(般若山)に行き、その際に脱いだ冠が石となったとされるものである(金沢文庫2003;p.37)(福田2016;pp.241-242)。この伝承を基とした石は実在したと考えられる。「富士山禅定図」には冠石が描かれており、他の建築物等が当時実在するものであることを考えても、冠石は村山に実在したと考えるべきである。これまで数多くの文献で「富士山禅定図」が持ち出され、そして場所の比定等が行われてきたのはその証左である(井上卓哉,「登山記と登山案内図に見る富士登山の習俗-大宮・村山登山道を中心に-」『環境考古学と富士山 3』)や(井上 2013)が詳しい)。

「駿河国富士山絵図」(村山三坊版)

またかぐや姫は最終的に富士山へ登り穴へ籠もるのであるが、この導線をみると乗馬の里(おおつなの里)から北上し村山を経て富士山頂へと至っているのである。その導線すべてがかぐや姫説話の舞台の地と言えるのである。一方富士郡におけるかぐや姫説話を説明する際に、下の一部分のみ(≒富士市域)を切り取って伝えている例が明らかに多い。ここに「妙な境」があるのである。これには『修験道史料集 1 (東日本篇)』(名著出版, 1983)でかぐや姫説話を紹介した故・遠藤氏も驚かれているのではないだろうか。

また「乗馬の里」については諸本により「富士郡」とあったり「駿州」とあったりするが(福田2016;pp.246-260)、具体的地名は縁起中には示されていない。また「おおつなの里」についても、それを示す地名もない(西岡 2003)。ただ「麓」であることが強調されており、かなり山体に近い箇所であったと考えられる。そういう意味では「今泉」等が候補として挙げられていることには違和感は無い。また「比奈」を比定地とする説は有名である(福田2016;pp.313-321)。(竹谷 2005)では比奈が乗馬の里であることを懐疑的に見てどちらかといえば今泉・原田に比定しているようにも思われるが、里が村山より下であるということは諸家で少なくとも一致している。


  • 富士山縁起と地名
富士山縁起も霊験譚やストーリーの型だけでは構成できない。やはり舞台となる「地名」が必要となる。しかし富士山縁起に見える「地名」「建造物」で、書写当時または原本が作成されたと推定される時代に実在したものは、実はかなり限られるのではないか。寺社縁起の性質上そうであるが、特にかぐや姫説話に限局した場合同説話中にて「実在する地名・建造物」が出てくることは稀であり、逆に「そういえるもの」は大変重要になってくるはずである

「富士郡」を筆頭に「中宮」(「瀧本」)「往生寺」「岩屋不動」「憂涙川(潤井川)」「凡夫川」等が浮かぶが、あまり挙げられるものではない(※「岩屋不動」に関しては(井上 2013)が特に示唆に富む)。現在の「潤井川」は当時「宇流井川」等と表記されることが多かったが、それを「憂涙川」としているのはいかにも縁起の演出と言えるだろう。

またここに「比奈」をいれるかどうかは判断が分かれるところだろう。ただ数少ない、実在すると明言できる地名・建造物がかぐや姫説話の中で語られている場合、そこは間違いなく注目されるべきである。それこそが代表的な「かぐや姫説話舞台の地」ではないだろうか。これさえも「妙な境」によって霞められているのである。

  • 「妙な境」を生んだ結果

これまで「妙な境」を持って語られることの多かった富士郡におけるかぐや姫説話であるが、それを如実に示した例が以下のようなものである。以下の質疑応答は、富士宮市役所で新聞記者が富士宮市長に対して行ったものである。


この奇想天外で奇異な質問の意図が分かる人間も少ないことだろう。ここでは質問の意味というよりは「その背景」に着目した方が分かりやすいので以下で説明したいと思う。

まず富士宮市にはコノハナノサクヤヒメから採った「さくやちゃん」というゆるキャラが居る。対して隣接する富士市は上記で示したように「竹取物語発祥の地」として展開しており、また「ミスかぐや姫コンテスト」などを行い「かぐや姫」をマスコットキャラクターのようにしているのである。なので記者は「富士宮市=コノハナノサクヤビメ、富士市=かぐや姫」としているのである。これは「イメージ展開上」での話である

ここからは歴史の話をしたい。大雑把に言えば「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という流れが歴史的にはあるとされている(富士市2014;pp.24-25)。例えば中世に成立したとされる富士山縁起には、全くコノハナノサクヤビメは登場しないのである(大高(2013))。

でも「富士山とかぐや姫説話」の舞台は富士郡に広く分布しているのであって、当たり前であるが富士市も富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地である。繰り返しますが、これは歴史の話である

かぐや姫説話を含む富士山縁起諸本の一例(南麓における)を以下に示す。


富士山縁起成立年備考
富士山大縁起1560年東泉院資料。1546年に五社別当代「頼秀」と別当「頼恵」が発見し書写したと記す。現存する写本の筆写年は実際はかなり後世であると推察されている。「赫夜妃」と記載。
富士大縁起公文富士氏本。富士山大縁起(六所家旧蔵、1697年)と内容は同一。「赫夜姫」と記載。
富士山大縁起1848年杉田安養寺本、原本には1639年に「書之」されたことを注記(植松 2013)。「赫夜姫」と記載。
富士山略縁起寛政年間村山浅間神社所蔵。「爀夜姫」と記載。
富士山縁起17世紀(書写)村山三坊池西坊本、諄榮筆。「赫夜姫」と記載。


東泉院は現在の富士市であり、杉田安養寺や村山浅間神社は現在の富士宮市である。まず「かぐや姫説話を含む富士山縁起が富士山南麓に広く分布している」という事実は、これだけを見ても理解できる。

永禄3年(1560)「富士山大縁起」

ちなみに、この富士山縁起は中世年号を有するものである。村山出身の「雪山」が編纂したとされる(富士市2016;p.10)(富士市2015;p.17)。しかし「富」の文字に点が指摘され、明治期かそれ以降に筆写された可能性が指摘されている(富士市2014;p.21)。当ブログでは「富」の文字の変移について取り上げたことがあるが、おそらく筆写年はかなり下るものと推察される。

この「富士山大縁起」には「五社記」と題した箇所があり、当該箇所に滝川神社を指して「愛鷹 赫夜妃誕生之処」とある(富士市2015;pp.27-28)(福田2016;pp.293-295)。この記述には富士市域とかぐや姫説話の密接性を強く感じるところである。

また興味深いことに本宮(富士山本宮浅間大社)とかぐや姫の関係も指摘され(富士市2018;pp.27-28・66)(福田2016;pp.267-274)、六所浅間宮の赫夜姫の御神躰を本宮に御幸する神事等があった。その宿は「富士民部」が務めているが、これを富士下方の者とするかどうかは判断が分かれるところであろう(本宮か)。また本宮は富士山噴火の際に幕府より祈祷を命じられ富士大宮司らがそれを務めているが、六所浅間宮をはじめとする富士下方五社の別当である「東泉院」にも同じくその命が下っているのである(富士市2015;p.31)。これはやはり東泉院が富士山との関係において無であるとは捉えられていなかったと言えるのであり、重要な事実である。

この「イメージ展開」と「歴史の話」の区別がこの記者は出来ていないのである。ただ記者の肩を持つわけではないが、このように「違いがわからない」理由として富士地区(富士市・富士宮市)にて「妙な境」を持って語られたことの弊害があると言え、また富士市によるイメージ展開の先行が原因とも考えられる。

私は富士市域の特徴というのは、「中世=かぐや姫」「近世=コノハナノサクヤビメ」という歴史の流れがあった中で、より富士市域でそれ(中世)が残ったということにあるのではないかと考える。間違いなく、これこそが富士市域の特徴なのではないかと。この点を取り上げたのが実は「六所家総合調査」なのである。これが六所家総合調査の素晴らしさなのである。

(大高 2013)には以下のようにある。

浅間大菩薩は、さらに赫夜姫と結びついていくが、それが中世に生まれた富士山縁起である。富士山の祭神である浅間大菩薩は浅間神社の祭神でもあり、赫夜姫は富士山の祭神と考えられるようになった。近世の江戸時代に入ると、赫夜姫にかわって富士山の祭神として木花開耶姫命が定着してくるが、必ずしも一様に変えられたという訳ではない。江戸時代の長い年月の間に、富士山の祭神は赫夜姫へと徐々に塗り替えられていったものと思われる。

まさにこの「塗り替える」の部分が、富士市域の富士山信仰の密度といった背景もあってか(流動性の少なさ)、「残った部分がある」ことに意義があるのである。

  • まとめ

まとめとして、以下の3点に要約することとしたい。

  1. 現時点で竹取物語の原型に関与していない(富士山麓の史料が)
  2. かぐや姫説話を含む富士山縁起は南麓に広く分布している
  3. 上記における成立年の古いものが、富士市と直接的には結びつかない

この3点から考えても富士市は「竹取物語の発祥の地」ではないはずである。逆説的に言えば

富士宮市もかぐや姫説話の舞台の地であるが、富士宮市は竹取物語発祥の地とは言っていない

という言い方もできるだろう。根拠もないのに「発祥の地」として宣伝しているのはお世辞にも「文明的ではない」という声も無論あるだろう。実際多くの人を困惑させているわけである。ただこの富士市・富士宮市には独自のかぐや姫説話が残り、その舞台の地であるという事実は変わらないのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館(2010)『富士山縁起の世界 : 赫夜姫・愛鷹・犬飼』
  2. 富士市教育委員会(2014)『六所家総合調査報告書 古文書①』
  3. 富士市教育委員会(2015)『六所家総合調査報告書 聖教』
  4. 富士市教育委員会(2016)『六所家総合調査報告書 古文書②』
  5. 富士市教育委員会(2018)『六所家総合調査報告書 古文書③』
  6. 神奈川県立金沢文庫編(2003)『寺社縁起と神仏霊験譚』
  7. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  8. 井上卓哉(2013)「収蔵品紹介 木版手彩色「冨士山禅定圖」にみる富士山南麓の信仰空間 」 『静岡県博物館協会研究紀要』第37号
  9. 西岡芳文(2006)「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』
  10. 西岡芳文(2004)「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」『史学』73巻1号
  11. 西岡芳文(2003)「中世の富士山 : 「富士縁起」の古層をさぐる」『日本中世史の再発見』, 吉川弘文館
  12. 神奈川県立金沢文庫(1996),『金沢文庫の中世神道資料』
  13. 竹谷靱負(2005)「古伝の「富士山縁起」に見る富士山祭神の諸相--地主神・不動明王と垂迹神・天照大神の幸魂千眼大天女を中心に」『富士山文化研究』第6号
  14. 大高康正(2013)「富士山縁起と「浅間御本地」」『中世の寺社縁起と参詣』,竹林舎
  15. 植松章八(2013)「杉田安養寺本『冨土山大縁紀』翻刻・解題」『富士山文化研究』

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