「富士曼荼羅図」より |
「近世日本における信仰・参詣と地域社会」、またその論文内容の要旨に以下のようにある。
駿州富士郡大宮(現、静岡県富士宮市)の富士本宮は17世紀初頭に幕府から富士山頂での諸権益所持についての保証と、当時の領主(徳川忠長)から山頂付近は「大宮しはい」との認可を取り付けることに成功していた。そしてこれら裁定を背景に、富士本宮は「山名主」を要として山頂付近一 帯の小屋経 営者の統制を実施し、その支配を確立していたのである。山名主は本来は須走村など山麓村々の住民 であるが、富士山頂での経営活動に従事するにあたっては、近世初頭以来伝統的に富士本宮との支配・被支配関係の下に置かれていた。
この説明は非常に分かりやすい。このように伝統的に(江戸時代以降より)山頂部分は富士山本宮浅間大社が支配を確立する地であった。これは江戸期を通して不変の状態であり、これを把握するとなぜ現在浅間大社が山頂部分を保持しているか理解ができる(ここらへんの話は『富岳旅百景―観光地域史の試み』に詳しいです)。
この話(奥宮に至る経緯)をするには、山頂信仰遺跡の話をしなければなりません。
- 富士山頂には古来より信仰遺跡があった
富士山は山頂に近づくほど強い神聖性を持つと認識されてきました。そのため山頂には宗教的施設が存在していました。例えば噴火口(内院という)も神聖視されていました。弘化4年(1847)の『富士山真景之図』には「空洞ナル内院ヲ仙元大菩薩ト観シテ拝スルナリト云」とあり、内院を浅間大菩薩の御在所とする考えがあったことが伺えます。万延元年(1860)の『富士山道知留辺』には「内院 不二山中央にある所の空坎をいふ 径り十三町深さ一合五勺 是より忽ち雲を生じ忽風を生ず 又是を浅間大菩薩と称して拝する 諸人賽銭を坎中に投入るゝ」とあります。散銭が浅間大菩薩を拝する上での行為であったことがわかります。散銭は中世からの習慣であり、それが江戸時代まで続いていたのです。天保 5 年(1834)の『駿河国新風土記』には「頂上ナル八葉内院ト称セル洞穴、コレ富士浅間大神ノ御座所」とあり、「浅間大菩薩の御在所」とはっきりと明記されています。
建造物としては12世紀に末代(富士上人)により建立された大日堂が初めと考えられ、その後経典や仏像などが山頂に奉納なり埋納なりされてきました。「古代山岳信仰遺跡の研究―日光山地を中心とする山頂遺跡の一考察」によると、以下のようにある。
ここに雪消えとともに消えてしまうコノシロ池があり、池の西側に接して大日堂跡とされている場所がある。狭い範囲に堂の礎石らしい石が散っている。
とある。これが大日堂跡地に比定されるとして、薬師堂は現在の久須志神社である。(元々の)末代が建立した大日堂、またはそれを受け継ぐ施設があったのがこの場所かもしれない(要検討)。
- 山頂信仰施設が神社化した
- なぜ富士山の8合目以上は浅間大社の土地なのか
徳川家康 |
例えば「推薦書原案」にも…
推薦書原案(途中から) |
1609 年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779 年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基づき、2004 年浅間大社に譲渡(返還)された。
とあり、返還という認識が見て取れます。 ここを間違えて理解している人があまりにも多いと思います。
- 参考文献
- 青柳周一,「近世日本における信仰・参詣と地域社会」,1998年
- 瀬川光行編,『日本之名勝』,史伝編纂所,1900年
- 大和久震平,『古代山岳信仰遺跡の研究―日光山地を中心とする山頂遺跡の一考察』,名著出版 ,1990年
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