2025年9月19日金曜日

大田南畝が見た静岡県富士市とその周辺、忘れられた交通史を辿る

最近「紀行文」や「道中図」を十数点読む機会に恵まれたので、うち富士市の箇所について述べてみようと思う。今回は「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも登場する大田南畝による紀行文『改元紀行』を中心とし、補足として他史料を引用する形で説明していきたいと思う。

昨今の状況を見るに、例えば吉原などは完全に歴史を喪失してしまっているように思う。もっと分かりやすく言えば、地域史を理解している人が皆無となっている。吉原宿の歴史・性質なども、殆ど忘れ去られたように思う。相当な人材不足であることが察せられる。従って、紀行文や道中図から当時の認識を掘り起こし、何かしらの提起に繋げたいと考える。


大田南畝

享和元年(1801)『改元紀行』の富士郡の箇所(+田子の浦)を以下に引用する。これらはすべて南畝が実際に目にしたものである。


これまで駿東郡にして、富士郡江尾村のあたりは、富士山の正面ときくに、雲霧はれてあざやかにみゆ。あし鷹山の横たはれるも、いつしか右の方にみやられ、ふもとに野径の草むら木だちものふりしは、かのうき島が原にして、原といふ宿の名もこれによれるなるべし。男嶋・女島などありときけど、さだかにもみえわかず。 
白隠禅師のすみ給ふときく松隠寺は宿の中なれば、輿よりおりてあゆむ事あたはず、左のかたに見すぐしつ。柏木の立場は鰻鱺よしときて、ある家にたちいりて味ひみるに、江戸前の魚とはさまかはりて、わづかに一寸四方ばかりにきりて串にさし、つかねたる藁にさし置り。長くさきたる形とは大に異なり、味も又佳ならず。 
元吉原のあたり、松林のうちをゆくに、しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし。川合橋をわたりて吉原の宿にいる。宿の人家賑ひなし。これより富士をしりへにして、また右に見つゆく。 
元市場の立場あり。右に富士大宮の口の道あり。富南館と額かけし茶店あり。うかい川をわたりて、右に富士の白酒とてうる家多し。富士山の図もひさぐ。富士沼のほとりをゆくに、浦風高く松の梢にむせびて、 かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる。 
海道一の早き瀬なりと聞く富士川にのぞめば、右に水神の森あり。おり船役のもの舟を並べて、輿ながら舁き乗せつ。けに棹さしわぶる流れなれど、とかくして向の岸に著く、巫峽の水のやすき流れといひし人の心も空おそろし。 
ふけふそらそてつ岩淵の庄屋常盤屋彌兵衛といふ者は、もとより知れる者なり、庭に大きなる蘇鉄あり、立寄りて見給ひてよといふに任せて立寄り、かけまくもかしこき神の駿河に御在城の比よりありし樹也などかたる。此あたりの家々、栗の子もちをひさぐ。 
蒲原より由井までは家つきにして近し。みなあまの子の家にして、夜のやどなまぐさしといひけんたぐひなるべし。左は田子の浦つき、藻塩やく煙たちのぼるけしきなど、いふもさら也。


前半部分は直接的には関係しないため、元吉原の箇所から取り上げていく。

(①)元吉原のあたり、松林のうちをゆくに、しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし。川合橋をわたりて吉原の宿にいる。宿の人家賑ひなし

「しばらく富士を左にみるは、道の曲れる故なるべし」は「左富士」のことである。その後川合橋(河合橋)について述べる形ではあるが、実際の道順としては元吉原→河合橋→左富士→吉原宿である。

川合橋も紀行文によく登場する橋であるが、これは吉原宿へ至る場合は必ず通過する必要性があったためである。別名「柏橋」とも言い、『東海道名所記』(以下、『名所記』)には「もとよし原。かしは橋。ふじのすそ野 」とある。『東海道巡覧記』(以下、『巡覧記』)の河合橋の項には以下のようにある。

川下三俣と云所有、池贄の謠に作りし所なり

河合橋は沼川に架かる橋で、その川下に三股淵があるとする。三股淵は沼川と和田川の合流地点である。そして池贄の謠(うたい)とあるように、能〈生贄〉の題材となった場所であるとする。富士市と言えば「生贄」であるが、はやり紀行文でも登場する。

また「宿の人家賑ひなし」と吉原宿の賑いの無さを述べているが、他の紀行文においても吉原の記述が異様にさっぱりしている例がある。貝原益軒『壬申紀行』(1692年成立)に「廿四日。吉原をいづ。此町はちかき世三たびたちかはる故に、もと吉原中吉原とてあり。十年あまり前、津波のたかくあふれあがりて民家をひたせる事あり」とある。『改元紀行』はここから100年以上後の記録であるが、はやり津波の影響は大きいということなのだろうか。

吉原宿から見て東の「原宿」においても、基本的には大宿とされることは無い。しかし吉原宿が原宿等と決定的に異なるのは、「脇街道」(中道往還)の起点であるという事実である。これは吉原宿が重要たり得る理由としては十分である。この部分が現在の人々に全く伝わっていないのは、寂しい話である。吉原宿の重要性は、東海道の宿であることとは別の所にこそあるのではないだろうか。


(②)これより富士をしりへにして、また右に見つ、ゆく。元市場の立場あり右に富士大宮の口の道あり。富南館と額かけし茶店あり。うかい川をわたりて、右に富士の白酒とてうる家多し。富士山の図もひさぐ。

ここも少し解釈が難しいのであるが、①吉原宿→本市場の道②吉原宿→大宮の道の説明をしているのではないだろうか。上の例からも分かるように、完全に道順に沿って著しているわけではない。例えば「うかい川(潤井川)」は本市場より手前に位置するはずである。

様々な道中図を見るに、吉原宿の箇所に「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」等とあることが確認される。(堀1997;p.46)は「大宮迄の道有」と翻刻しているが、これは誤りだろう。この定型文の初見について調べを進めているが、はっきりとしない。

例えば元禄3年(1690)の『東海道分間絵図』(以下『分間絵図』)には上の文言(宿の内…)は見られない。しかし同絵図を参考としたとされる『東海木曽両道中懐宝図鑑 』には上の文言が見られる。また宝暦2年(1752)の『東海道五十三次図』には上の文言が確認される。であるから、18世紀には少なくとも確認され、継承されていったように見える。どこまで遡れるのかは分からない。

そして"宿の内"とあることから、やはり吉原宿から大宮へ伸びる大道があることを示している。これは中道往還のことであると思われるが、『改元紀行』もそれを述べた形であると推察される。

  1. 吉原宿→うかい川(潤井川)→本市場
  2. 吉原宿→富士大宮 ※つまり中道往還

この二筋の説明をしていると理解したい。本市場は吉原宿と蒲原宿の「間宿」にあたる重要地で、その拠点性から後に身延線の駅も建設されたが、富士市の方針で廃された。

歴史的には「加島」(≒旧富士市)における中心地は本(元)市場であったのである。この辺りも今の人々には完全に忘れられているが、その移行期の様相を示した論稿に(関1958)があり、極めて興味深いものとなっている。

うかい川は『名所記』で「鵜かひ川」と見える。該当箇所を引用する。

鵜かひ川につく。こゝは渡しのふねあり。冬は、勧進橋をかくる也。川田郷。もと市場。又はかしまともいふ

かしま、つまり加島一帯の中心地が本市場であった。

(③)富士沼のほとりをゆくに、浦風高く松の梢にむせびて、 かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる。

富士沼ないしそのほとりは吉原宿より東なので、やはりここでも前後している。また「かの水鳥の羽音に驚きし平家の事と思ひ出でらる」であるが、これは源平合戦の「富士川の戦い」のことである。実はこの富士川の戦いも、実際は何処で起こったのかは不明とされるが、個人的には富士市域と考える。


(④)海道一の早き瀬なりと聞く富士川にのぞめば、右に水神の森あり。おり船役のもの舟を並べて、輿ながら舁き乗せつ。けに棹さしわぶる流れなれど、とかくして向の岸に著く、巫峽の水のやすき流れといひし人の心も空おそろし。


水神森は『巡覧記』の富士川の項に「東川岸に水神森あり」とあるように、富士川東岸にある。また『分間絵図』にもやはり東岸に「水神森」とあり、『東海道木曽海道之図』も東岸に「水神」とある。頻繁に目にすることから、ランドマークであったのだろう。

(⑤)ふけふそらそてつ岩淵の庄屋常盤屋彌兵衛といふ者は、もとより知れる者なり、庭に大きなる蘇鐵あり、立寄りて見給ひてよ、といふに任せて立寄る。かけまくもかしこき神の駿河に御在城の比よりありし樹也などかたる。此あたりの家々、栗の子もちをひさぐ。

南畝は岩淵まで至る。『名所記』に「吉原の町はづれより、左の方へ行道あり。岩淵といふ所に出ぬれば…」とあるから、このような道を用いたのだろう。そして庄屋常盤屋彌兵衛について記す。

(⑥)蒲原より由井までは家つきにして近し。みなあまの子の家にして、夜のやどなまぐさしといひけんたぐひなるべし。左は田子の浦つ、藻塩やく煙たちのぼるけしきなど、いふもさら也。

蒲原-由比間の説明を簡素にしており、またその海沿いを「田子の浦」としている。歴史的に田子の浦は庵原郡とされてきたことは周知の事実であるが、ここでもその例に漏れずである。

田子の浦が蒲原・由比のどちらか、またはどちらも含めるのかといった議論もあるが、結局のところ庵原郡ということは変わらない。ただ「寺尾村」の存在は注目される。例えば『巡覧記』をみると「興津-由比間」において「西倉澤」「東倉沢」「寺尾村」と続く箇所がある。この寺尾村の項には以下のようにある(興津→由比と移動)。

右田子の浦ふじの山左手に見ゆる

(今井1966;p.204)では「右田子の浦」「ふしの山右手」と翻刻しているが、確認した限りでは逆であると思われる。実際の地理としてもそうだろう。つまり以下の浮世絵のような風景を言っているわけである。




この西倉澤や東倉沢が属するのが寺尾村と思われ(要確認)、ここを田子の浦とする史料が多い。寺尾村は広義では「由比」であるから、田子の浦は由比を含める認識が広くあったと考えられる。勿論蒲原も一般に田子の浦とされた地であり、赤人祠が存在したことでも知られている(井上2017;p.11)。

  • まとめ

紀行文や道中図から、富士市の交通史の重要な性質を以下のようにまとめることができる。


  1. 東海道の吉原宿が位置したが、ただの通過宿ではなく、中道往還の起点/終点でもあった
  2. 「生贄」伝承の地/能〈生贄〉舞台の地として知られていた
  3. 東海道の間宿として本市場宿があった
  4. 「田子の浦」は庵原郡を指すことが多かった(近年「クリストファー・コロンブス」が良い例であるように再評価やその過程までもが取り沙汰される傾向にある。それと同じように、過去の展開の仕方などが等閑視されない時期に到達してきていると見られ、姿勢を見直すべき時が来ているように思われるのである。つまり史料実証的で、それに伴った動きに切り替えていく現代性・文明性があっても良いと思うところである。)

これが富士市のスタンダートな歴史的側面であり忘れられた交通史であるが、この部分に素直に着目した展開を期待したい。

  • 参考文献

  1. 関英二「兼業と農家の機械化」『農林統計調査 1958年4月号』、1958、10-17
  2. 今井金吾『東海道五十三次-今と昔-』(現代教養文庫561)、社会思想社、1966
  3. 堀晃明『広重の東海道五拾三次旅景色』(古地図ライブラリー⑤)、1997
  4. 井上卓哉「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報 第32号』、2017

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