2023年7月5日水曜日

織田信長の富士遊覧、中道往還の富士の巻狩の地を巡った信長と接待役の徳川家康

今回は織田信長の富士遊覧について解説していきたいと思います。この「富士遊覧」を調べてみると、『どうする家康』と『鎌倉殿の13人』をミックスさせたような感覚となる。それがどういうことかを含め、見て頂きたいと思います。 

【はじめに】

織田信長

"織田信長による富士遊覧"は、『信長公記』という史料に詳細に記されている。また詳細は記されないまでも『家忠日記』にも動向が確認される。織田信長は甲州征伐で武田氏を滅ぼした後、その帰路で中道往還を縦断する。中道往還を下(駿河国方面)に降る場合、富士山の全景が見える格好となる。以下は、『信長公記』の該当箇所の冒頭部分である。


富士の根方 神野ヶ原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ 高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


信長は甲斐国の「本栖」を過ぎ駿河国の「神野ヶ原」「井出野」に入ると、富士遊覧を行っている。ここは現在の静岡県富士宮市である。安全圏の駿河国に入ったことで信長一行は完全に休憩モードとなっており、小姓らに至っては馬に乗りはしゃいでいる。※この「神野」と「井出」という地名を覚えておいて下さい。非常に重要な部分となります


静岡県富士宮市一帯(図1)※この時代「村山道」はありません

その一連の記述(『信長公記』天正10年4月12日)を以下に掲載する。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり

同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。

此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。

四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ、富士川乗りこさせられ、神原に、御茶屋構へ、一献進上候なり。


分かりやすくするために、ルートを書き出してみる。


本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原(※)→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原


『家忠日記』の天正10年4月12日条を見ると「十二日庚子 上様大宮まで御成候」とある(上様:織田信長)。従って、『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していることになる。

以下では、これらについて詳細に解説をしていきたいと思う(※は誤記と思しき箇所)。

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  • 織田信長の富士遊覧の地は「曽我兄弟の仇討ち」の地でもある


あまり知られていないようですが、実は

「織田信長の富士遊覧の地」=「曽我兄弟の仇討ちの地」


です。少し懐かしいですが、「鎌倉殿の13人」のHP資料を一部見ていきましょう。




NHKが「駿河」とすべきところを誤って「駿府」と書いてしまっていますが、曽我兄弟の仇討ちは「駿河国富士野」で起こったことです。


こちらは「駿河富士野」と正確に書いていますね。そしてこの「富士野」ですが『吾妻鏡』に

曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)

とあります。…気づかれた方もいることでしょう。織田信長が富士遊覧を行った地として記される「神野ヶ原」の「神野」が出てきています。また『曽我物語』には

駿河の国富士野の裾、伊出の屋形(真名本『曽我物語』)

と「伊出」(井出)が登場します。もうお気づきのことでしょう、『信長公記』に出てくる「井出野」のことです

真名本『曽我物語』巻第七(妙本寺本)にみえる「伊出の屋形」


つまり織田信長の富士遊覧の地は、曽我兄弟の仇討ちの地と同じなのです。この地は『吾妻鏡』『信長公記』の他、『曽我物語』『富士野往来』といった多くの史料に登場します。


仮名本『曽我物語』(太山寺本巻第五)より

つまり大河ドラマ2作連続で同じ地域が、しかも大河ドラマ1話分に相当する規模で登場していることになります(「どうする家康」の方はどこまで出てくるかは分かりませんが)。もう上井出・神野は大河ドラマの常連地域のような勢いですが、これは偶然のようで偶然ではないように思います。富士の巻狩について(木村2018;p.19)は

では、なぜ、頼朝はわざわざ富士山麓の2箇所で巻狩りを行ったのだろうか。これは、近年、海老沼真治がそのルートを含めて詳細に検討しているように、藍沢と神野が甲斐国から駿河国・東海道へ出る2本の主要な交通路の出口であったからである。(中略)まさに甲斐源氏の甲斐国への封じ込めである。


としている。そして戦国時代も主要な交通路であることは変わりなく、だからこそ信長はこの街道を用いたのであり、そして駿河国を領することになった家康が対応しているわけです。なので2作連続で上井出・神野が登場したのは、偶然のようで偶然ではない。歴史の逸話がそもそも多い地域というわけです。徳川家臣団による「富士山木引」も、上井出の地ですね。


源頼朝(『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」より)

そして『信長公記』に「昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり」とあるように、富士の巻狩の際に源頼朝が狩倉の屋形を立てた「上井出の丸山」があったとしています。

  • 信長一行が休んだ「人穴」とは


「人穴」は世界文化遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」にある洞穴のこと(図1の23)。中道往還沿いに所在し、ここに御茶屋が立てられ、信長一行は休憩した。


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子


人穴も『吾妻鏡』に登場しており、良く知られている。その箇所を記す。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)


「是浅間大菩薩御在所」の箇所は特によく知られているが、つまりは源頼家の富士の狩倉で登場する地である。

人穴(『文武ニ道万石通』より)


こう考えると織田信長は、意図的に「富士の巻狩り/狩倉」の史跡巡りをしているようにも思える。つまり織田信長の富士遊覧というのは、「富士の巻狩」(建久4年(1193)・源頼朝)「富士の狩倉」(建仁3年(1203)・源頼家)の史跡巡りが主軸であった可能性がある。

  • 富士山本宮浅間大社の社人の登場

信長が富士遊覧を行っているこの「富士上方」の地で最も有力な存在というのは、駿河国一宮の富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)であり(図1の2)、その上位神職を務める富士氏である。

この時点での富士氏当主は富士信通であるが、先代の富士信忠は大宮城(富士城)の城主であった。

富士山本宮浅間大社(『絹本著色富士曼荼羅図』)


「大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる」の部分は、富士浅間宮の社人が道を掃除するなどして受け入れの準備をし、そして信長一行を出迎えたことを示す。甲斐の武田氏も滅び、織田信長の台頭が確実視されたことで、富士浅間宮の社人らは迎合する姿勢を見せているわけである。

  • 名所「白糸の滝」



名瀑である「白糸の滝」。世界文化遺産富士山の構成資産でもある(図1の24)。この時代から名所として知られていたことが伺えます。ただ書き方からすると、実際は訪問していないように思う。

  • 頻出する「大宮」について

『信長公記』によると12日の日程として「うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ」とあり、浮島ヶ原から大宮へ移ったとしているが、これは疑わしい。

何故なら「四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ」とあり、翌13日に大宮を発ち浮島ヶ原へ向かっているためである。これでは

神野ヶ原・井出野→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

という、行ったり来たりの相当な無駄足になってしまう。足高山(愛鷹山)は浮島ヶ原から見える山であるから、13日に浮島ヶ原へ向かったのは肯定できる。従って、人穴の後は浮島ヶ原には移動していないであろう。この箇所は誤記であると考えられる。

もう少しこの誤記の背景について考えてみたいが、ここは浮島ヶ原ではなく「万野原」ではないだろうか。というのも羽倉簡堂『東游日歴』に

萬乃原、天正中、織田公甲南下令親兵試馬處

とあり、織田信長が富士遊覧の際に自身の兵に訓練を命じた場所として記されているためである(井上2017;p.69)。羽倉簡堂は書物等からこの知見を得ていたのではないだろうか。であるとすると、以下の道順となる。

神野ヶ原・井出野→人穴→万野原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

この場合、何の違和感もない。

そしてここで、別のややこしい問題がある。「大宮」が何を指しているのか定かでない部分がある。大宮は、以下の2つの意味がある。

  1. 地名としての大宮(富士大宮)
  2. 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)

大宮が頻出するので、以下で一覧化した。

「大宮」の箇所
大宮の社人、杜僧罷り出で(①)
大宮に至りて御座を移され侯ひキ(②)
身方地、大宮の諸伽藍を初めとして(③)
大宮は要害然るべきにつきて(④)
四月十三日、大宮を払暁に立たせられ(⑤)

私は、これらすべてが「富士浅間宮」を指すとは思えない。『信長公記』は「本栖を未明に出でさせられ」「田中を未明に出でさせられ」といった書き方をしているが、⑤の「大宮を払暁に立たせられ」の場合も地名としての「大宮」を指しているように思われる。

④の「大宮は要害然るべきにつきて」も、「富士大宮の地は要害であるので」という意味で解釈したほうが自然であると考える。

  • 北条氏の動向

北条氏政

織田信長による甲州征伐に呼応した北条氏の動向も『信長公記』は記している。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

興国寺城・鐘突免(共に静岡県沼津市)に陣を張った後出陣し、中道往還や駿州往還を進んで味方地の富士大宮の伽藍等をはじめとして本栖まで火を放ったとある。

「中道」とあるのが、今回信長一行が通ってきた中道往還のことである。「駿河路」とあるのは、武田信玄の駿河侵攻時に武田軍が用いた「駿州往還」のことである。富士上方はこの2つの街道が通る。

  • 接待に奔走する徳川家康

家康が並々ならぬ姿勢で接待をしていたことが分かる箇所が、以下の部分である。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず

家康は富士山本宮浅間大社の社内に「御座所」を設けたわけであるが、わずか一夜の滞在にも関わらず、装飾すらも怠らない念の入れようであった。

徳川家康


御座所には金銀をちりばめ、御陣宿も抜かりなく建て、その四方に小屋を懸けおき、食事も豪華なものを用意したわけである。家康渾身の接待であっただろう。信長による安土での饗応の「対」をなすものと言って良いかもしれない。

  • 信長による礼

家康による渾身の饗しに対し、信長は返礼品を与えた。

品物詳細
脇指作吉光
長刀作一文字
黒駮


「何れも御秘蔵の御道具なり」とあり、相当な名品であることは間違いないだろう。この品々が現存するかどうかは私の方ではよくわからないが、家康の饗応はとりあえず成功と言えそうである。

翌日の13日には信長一行は富士大宮を出立している。その後は浮島ヶ原に向かい愛鷹山を見た後(これが東端となった)、富士川を渡河して蒲原へと移動している。

  • 参考文献
  1. 『改訂 信長公記』(1965),新人物往来社
  2. 木村茂光(2018)「頼朝政権と甲斐源氏」,『武田氏研究』58号
  3. 海老沼真治(2015)「甲斐源氏の軍事行動と交通路」,『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,戎光祥出版
  4. 井上卓哉(2017)「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報』32号,

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