2017年6月22日木曜日

富士上方と葛山氏その支配領域と被官吉野氏

富士上方は「≒現在の富士宮市域」である。この領域の領主は富士氏が知られているが、葛山氏の支配領域も存在していた。

沼津から小山町にかけては歴史的には「駿河郡」と呼称される

まず挙げなければならないのは、以下の葛山氏元判物である。


孫九郎(吉野氏、後述)の所領である「久日」「山本」「小泉」を吉野郷三郎に安堵するという内容である。これらの土地が従来通り吉野氏のものであるという認識を示す文書である。つまりこれらの地を葛山氏が支配していたのであり、葛山氏の支配領域の広さを示す一端であると言える。


また飛んで淀士(現在の富士宮市淀師)にも支配領域があることは興味深い。この文書が発給された永禄11年(1568)という時代は、葛山氏元が今川方から離反し武田方に寝返る間近の時期(または離反していた時期)である。葛山氏元は「新四郎名」を市川権右衛門に給付することを命じており、これはやはり葛山氏が淀師の地を支配していたためなのである。

ただ富士上方地域だけで見れば、富士氏の方が影響力を保持していた。例えば富士氏が寺社に対し諸役免除を行う古文書も存在するが、葛山氏が同時代富士上方地域に同様の性質を持つ文書を発給している様子はないのである(「駿河国富士郡領主としての富士氏」を参照)。他にもこの地域での多様性は富士氏で認められるように思えるのである。


しかし葛山氏は自前で朱印を用い文書を発給するような独立性の高い国衆であり、その支配力については疑いの余地はない。「駿河国駿東郡と葛山氏」(有光)でも朱印状を使えていたのは武田陣営では武田氏・穴山氏・小山田氏等、今川陣営でも今川氏・朝比奈氏等と限られた国主・国人のみであったことが指摘されている。富士上方の地は、富士氏の勢力と葛山氏の勢力がせめぎ合っていた地域なのである。

  • 富士大宮における富士氏と葛山氏

富士大宮は富士氏の本拠であるが、そこにも葛山氏の影響が認められることには葛山氏の力量を感じざるを得ない。富士大宮は交通の要所であり、交通路掌握に長けていた葛山氏が狙わないはずがないのである。「戦国大名今川氏と葛山氏」には以下のようにある。

西隣の富士郡には、富士信仰の道者坊として著名な村山三坊の一つ辻坊の所職を継承する葛山氏や「富士大宮司代官職」を有した葛山氏など、葛山姓のものが史料上散見する

村山にも葛山一族の勢力があったことは分かっているが、研究が大変少なくよく分かっていない。今回はこの大宮の「富士大宮司分代官職」の方を考えてみたい。「楽市論―初期信長の流通政策」には以下のようにある。

駿東郡の国人領主葛山氏は、富士郡にまで勢力を伸ばし、富士大宮の南「山本・久日・小泉」を領する吉野氏を自己の配下に収めた。おそらくこのことと関連してだろう、葛山氏は大宮城の城代に任ぜられ、神田川以東は葛山氏の支配下に置かれた。つまり富士大宮は、「社人町」を含む西側が浅間神社の支配地域だったのに対して、東側の「雑色町」は葛山氏の支配下となったのである。(中略)永禄4年7月、大宮城代葛山甚左衛門頼秀は改易され、「大宮城」城主は葛山氏から国人領主富士氏に替えられた

史料上からは「神田川以西=富士氏、神田川以東=葛山氏」とあるわけではなくこれは推測に過ぎないが、富士大宮に境界は確かにあったのかもしれない。橋を境にその精神性・地理的性格が変わることは多々ある。真に問題となってくるのは「富士大宮司分代官職」についてである。ここの部分は、読み手により文書の解釈に大きな差異が認められる部分である。

永禄4年7月「今川氏真判物」


「改易」の部分が少なくとも「富士大宮司分代官職之事」にかかるとして、「城代」(≒城主)にもかかるのか、という問題である。


「富士大宮司分」は富士大宮司領のことを指すと思われ、領するのは富士大宮司(富士氏)であったがその土地の代官職は葛山氏にあったのではないだろうか(このときも富士大宮司は富士氏です)。それをまず改易された、つまりこの土地における葛山氏の介入を完全に退く形としたのだと解釈したい。その上で大宮城の城代を富士氏とした、と言える。「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では『富士大宮神事帳』に祭礼役の負担者として記される「御代官」が「富士大宮司分代官」に相当すると仮説を立てており、興味深い。特にその論(葛山氏城代説)を許さないのが、富士宮市教育委員会の刊行物類である。『元富士大宮司館跡』には以下のようにある。

市立大宮小学校屋内運動場建設予定より、12世紀前半から16世紀前半まで連綿と営まれた居館跡が発見され、これが芙蓉館以前の元富士大宮司館跡であり終末期には史料に言う大宮城とも充分な関わりを持っていたことが判断されたのである。  ※執筆を一部担当している若林氏は「富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである」とも述べている

つまり「大宮城の前身は富士大宮司館である」と言っているのである。そもそも「富士大宮司館」という文言は元弘3年(1333)と建武元年(1334)「後醍醐天皇論旨」にしか見られない。

元弘3年(1333)「後醍醐天皇綸旨」

この2点の文書しかないという事実もそうであるが(その後「大宮司館」の文言は見当たらない)、個人的には14世紀中盤に「大宮司館」とあるだけで後の「大宮城」(15世紀後半から見られる)と同場所であるという論は普通成り立たないと考える。また発掘物を祭祀へ直接的に結びつけてよいものだろうか、とも思う。また「富士大宮司分代官職」が葛山氏にあったという事実は、疑いをより深くするばかりである。振り出しに戻ってしまうが、「代官職」を保持している人間が「大宮城」と呼ばれる場所に位置していたと考えることはおかしなことではない。芙蓉館跡を発掘して中世期成立の遺構が出る可能性も充分にあるし、発掘調査時に「元富士大宮司館跡」として刊行したことには違和感を覚える。それ以前に「大宮司館」が浅間大社そのもの、または境内を指している可能性も充分にある。例えば『絹本著色富士曼荼羅図』には浅間大社境内の館に神官が居る様子が描かれている。
『絹本著色富士曼荼羅図』より

このようなものを指して「富士大宮司館」と呼称していた可能性も十分あるのである。その特異的な用例から2点、もっと言えばごく短い期間のみしか確認できないと考えた方が良さそうである。そもそも土地の寄進であるのに宛に「居館」を宛てるというのは、おかしなことなのである。「大宮司館」はごく短期間しか確認されていない用例であるが、「大宮城」はもっと長きに渡り用いられていたのであり、それが最後の姿である。なので当然「大宮城跡」である(遺跡地名表では「大宮城跡」に包括)。補足であるが、『元富士大宮司館跡Ⅱ』では古遺物の出土や永楽通宝の出土を伝えている。ただここでは、葛山氏の影響力があったという事実は示しておきたい。

  • 吉野氏
まず吉野氏は葛山氏の被官である。富士宮市山本に勢力を持ち、同地には吉野屋敷が存在していた。ただ「中世城郭史の研究」によるとその規模は30mから40mといい、小規模である。吉野氏と葛山氏との関係は、葛山氏広の時には確認できる。「戦国大名今川氏と葛山氏」にて「氏広については、発給文書は天文初年時期の二通しか存在しない」とあるうちの一通である。つまりかなり早期から関係性が確認できるのである。


年欠であるが、天文4年(1535)に比定されている。このように、葛山氏広は「吉野郷九郎左衛門尉」に下遠島での戦功を賞して感状を与えた。そして以下は、氏広の次代の葛山氏元による天文14年(1545)の感状である。



この感状から、吉野氏が長久保城の戦いに参加していたことが分かる。これは「河東の乱」の一幕である。「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて

天文14年(1545)八月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。

と説明した。このとき北条方が今川方に明け渡した城こそが長久保城である。ただ問題はこのとき吉野氏が「今川・北条どちら方として戦っていたのか」ということである。また「777号・778号」であるが、文面・日時が同様であるのにも関わらず発給者が異なるのは違和感がある。「戦国大名今川氏と葛山氏」では上の感状(777号)だけでは今川・北条方のどちらかは分からないとしている。また脚注内にて「『駿河記』には、この氏元感状とほぼ同文の今川義元発給の感状が載せられている。これに対して『静岡県史料』の下註にて「(現品なし)今採らず」と記されている。本章でも、この『県史料』の判断に従っている」としている。氏は他史料を考察の上で「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」としている(ここは諸説あり)。『駿河記』の記述は検討を要する。

そして以下の天文15年(1546)の文書は特に知られている。


上述のように、葛山氏が富士上方地域を一定規模以上支配していたことが分かるのである。弘治3年(1557)の文書に「吉野采女」なる人物の名が見える。


「富士郡山本村吉野采女殿」とあるのでやはり山本の吉野氏なのであるが、この人物についてははっきりしていない。「本文書は検討の余地がある」とあるのは、この文書のみ唐突に後北条氏との接点が見出だせるためである。この文書の存在を考えると、上の「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」という解釈は是であるかもしれない。


また同文書も大変重要な示唆をしており、永禄元年(1558)葛山氏元が吉野郷三郎に「高原関」の管理と関銭の上納を命じているものである。つまり吉野氏は関所を管理していたのであり、また葛山氏は富士郡の交通を一部掌握していたのである。まず現在の富士宮市では「高原」という住所自体は存在しないものの、山本でも高台にあたる一帯は現在でも「高原」と呼称され、根強く呼称が残っている。高原は岩本に隣接する地で、富士下方地域と大宮を繋ぐ主要路の1つであった(「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」を参照)。関所があるのもその理由からなる。



遠州忩劇時に吉野氏は今川軍として参加しており、葛山氏元の指示を受けている。


「戦国大名今川氏と領国支配」では以下のように説明している。

また月日は不明ながら駿河富士郡より東三河に出陣していた吉野日向守は、葛山氏元の指示により遠江牛飼原(豊田郡森町)に転戦し、周智郡西楽寺(袋井市)には群生乱入があった。

永禄8年(1566)11月のことである。その後永禄9年(1567)に吉野日向守の名が見える。葛山氏元が富士浅間社の正月三ヶ日の祭礼に必要な負担分を吉野日向守領から受け取るよう命じたものである。


ここでいう富士浅間社は、駿河郡における浅間社(佐野郷か)を指すと考えられる。そして葛山氏元は後に謀反を起こすのであるが、やはり吉野氏は葛山氏に同調したであろう。その後の吉野氏の動向は少ないものの確認できる部分があるが、葛山氏と吉野氏の関係は不明である。葛山氏元は武田氏に帰順後の永禄12年(1569)、富士氏が守る大宮城(富士城)を攻撃している。この時、吉野氏も同様に大宮城を攻撃していた可能性が高い。


永禄13年(1570)、氏元が駿河国内房橋上・船役所に宛てた文書が残る。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物である(「戦国時代の富士川流域の役割と船方衆」を参照)。天正元年(1573)に葛山氏元は武田氏より謀反の疑いをかけられ、処刑されている。その後吉野氏がどのような過程を経たのかはよく分かっていない。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希,『戦国大名今川氏と領国支配』,吉川弘文館,2005
  2. 『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』
  3. 『裾野市史 第八巻 通史編Ⅰ』
  4. 有光友學,「駿河国駿東郡と葛山氏」『武田氏研究 第22』,2000
  5. 有光友學,『戦国大名今川氏と葛山氏』,吉川弘文館,2013
  6. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  7. 小和田哲男,『中世城郭史の研究』,清文堂出版,2002
  8. 大石泰史,「今川領国の宿と流通 : 宿と流通を語る「上」と「下」」『馬の博物館研究紀要 第18号』,2012
  9. 池上裕子,講演「今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994
  10.  合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」『武田氏研究 第30号』,2004
  11. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡』,2000
  12. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡2』,2014

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