2013年5月7日火曜日

浅間大菩薩縁起を考える

近年の富士山史関連の学術的見地において、最も大きな発見・動きは「新出の富士山縁起が発見されたこと」ではないかと思う。その中でも『浅間大菩薩縁起』の標題をもつ富士山縁起は注目されるものであり、現在「神奈川県立金沢文庫」に収蔵されている(富士縁起(全海書写)ではない方*1

浅間大菩薩縁起

「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」には以下のようにある。

たまたま金沢文庫の仕事のかかわりで『浅間大菩薩縁起』という、中世の富士山の縁起を記した写本が見つかりました。(中略)それはちょうど巻末にあたる部分で、奥書には底本が建長3年(1251)に写されたものであることが記されております。(中略)

これが『浅間大菩薩縁起』である。また以下のようにもあります。

それ(『富士浅間大菩薩の発見』)と前後して、(中略)雑多な古書の切れはしを集めた箱の中から、鎌倉時代の終わりに全海という鎌倉極楽寺系の律宗の学僧が書き写した富士山の縁起の1部を探しだしてきました。断簡ではありますが、これは明らかに今まで知られていた富士縁起の1番古い形を伝え、しかも「かぐや姫」伝説の部分が含まれていたのです

とある。これは富士縁起(全海書写)です。

富士縁起(全海書写)

『浅間大菩薩縁起』には末代上人以前に「金時(上人)」「覧薩(上人)」という人物が登山を行なっていたことが記されているのである。これは、これまでの(富士山史の)解明作業の限界点を広げる発見であり、興味深い。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

この縁起は、底本段階ですでに錯簡があったらしく、配列について若干の疑義はあるが、末代が登山する以前、年代も分からない往古に金時上人が初めて登山し、山頂い仏具などを埋納したという。次に覧薩上人が天元6年(983)6月28日に登山、さらに天喜5年(1057)に日代上人が登山したという。

このことから、末代上人が初登頂と考えるこれまでの傾向に終止符を打ちそうである。またこれらの人物の名前が伊豆走湯山の開祖とされる人物と共通する部分がみられるといい、関係性が指摘されている。

  • 富士山大縁起(東泉院所伝)について

富士山縁起には「富士山大縁起」(東泉院所伝)というものがあり、『浅間台菩薩縁起』との関連性を見出すことができる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

奥書によると、この縁起書は、年代は不明であるが「五社正別当妙行」と称する人物が相伝し、正和5年(1316)に「正別当頼尊」が書写したものが原本であるという。(中略)最初の3部は考元天皇元年に震旦から来訪した「金覧(言偏に覧)上人」が記したという体裁となっているため

とある。また「(東泉院の縁起が)それほど古いテキストとは思われない」(P120)としている。そしてその「金覧(言偏に覧)上人」について以下のように推測している。

東泉院本大縁起の「金覧上人」とは、末代以前のこの2人の登頂者の人名、ひいては走湯山開創の二仙人の名を合成したものと考えることも可能である。室町後期以降、村山修験は聖護院末に包含されたために、役行者を開創として崇めるようになるが、これと袂を分かった走湯山系の修験の一派が、下方地区に東泉院を建てて移動し、醍醐派の法灯と、古い伝承を伝えたのではないであろうか。

これらを鑑みると、東泉院は富士山信仰から離別してできた過程できた建造物とも捉えられるのである。この縁起について「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」では

富士山だけで完結しておらず、隣にある愛鷹山を含み込んでいたということがわかります。その中に「かぐや姫」の説話が含まれているのです。(中略)東海道筋に位置していた今泉東泉院に伝わる縁起は、富士山よりも愛鷹山を強調しています。

とあり、東泉院は富士山から離れた東海道を意識した建造物とみられている。また愛鷹山に重点を置いていたと見られている。「愛鷹山縁起」という見方ができるのである。

では『浅間大菩薩縁起』を考えていきたい。「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」には以下のようにある。

新出『縁起』は、巻末に建長3年(1251)「冨士滝本往生寺」において書写した旨の本奥書がある。滝本往生寺とは、富士山の村山登山口(廃道)の1合目、ちょうど森林限界にあたる地点に江戸中期まで存在した山岳寺院である。

つまり村山に伝わる富士山縁起である。一般に滝本往生寺(御室大日)は富士山興法寺(大日堂・浅間社・大棟梁権現)に含まず、別個として扱う。それは先にもあるように森林限界にあたる比較的標高の高い場所に位置するためである。

『浅間大菩薩縁起』によると、末代は本名を「有鑑」といい、駿河国の人物であるという。また以下のようにある。

末代の登頂は、山麓の「高下貴賎」の住人の支援を受け、下山後は山宮(大宮浅間社の末社)の宮司・神官らが歎讃したという。

また『地蔵菩薩霊験記』などと共通の内容がみられ、縁起以外の史料と共通した記述がみられる点はかなり大きい。「金時(上人)」「覧薩(上人)」については、以下のように説明している。

新出『縁起』が記す末代以前の金時・覧薩・日代、三名の富士登頂者は、いずれも従来全く知られていなかった人名である。(中略)新出『縁起』が引用する『金時上人記』なるものが、こうした記述の下敷きになった可能性はあり、伝説的な人名であるにしても、9世紀ごろに富士登頂に成功した人物がいた可能性は高い。しかし末代の直接の先蹤といえる日代の存在は、ある程度確実な記事によっていると考えられるのに対し金時・覧薩の二名は事跡も明瞭ではなく、実在性に疑問が残る。なぜならば、この2人の名前が走湯山の開創伝説に登頂する仙人の名前を模しているからである。

としている。しかし日代は少なくとも末代以前に登頂したと考えられるので、今後大きく影響を与えていくものであると思う。そしてこの縁起は、村山と伊豆走湯山との関係をいっそ裏付けるものとなっている。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文, 「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」,『史学 73(1), 1-14』,慶應義塾大学,2004
  2. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  3. 西岡芳文,「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』,2006
  4. 神奈川県立金沢文庫編,『金沢文庫の中世神道資料』,神奈川県立金沢文庫,1996
  5. 神奈川県立金沢文庫編,『寺社縁起と神仏霊験譚』,神奈川県立金沢文庫,2003
*1: この2つは両方とも「金沢文庫の富士山縁起」と説明されることがあるので、区別する必要はある

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