2013年5月1日水曜日

紙本彩色富士曼荼羅図を考える

以下「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)である。


江戸時代初期(17世紀始め)辺りの作例とされており、富士山本宮浅間大社を大きく描いている。この富士曼荼羅図で特筆すべきは、中央に描かれる浅間大社のその建築であろう。浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。そして、当曼荼羅図の社殿も「浅間造」でありため、「江戸時代以降の作例だろう」と解釈できるわけである。

またこの「浅間造」は、徳川家康が造営したものと云われている。それは以下の文言が該当するであろう。「幕府裁許状」(1779年)というものがあり、ここには大宮と須走の論争に関する経緯とその裁許(結果)が記されている。そこに以下のようにある。

慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残御再建被為成、其後散銭等は修理に可致旨、…

つまり慶長5年の関ヶ原の戦いでの勝利が成就したことから、家康は浅間大社の本社末社残らず再建して、それだけでなく富士山の散銭までも寄進したのである。その記録が「幕府裁許状」という正式な文書で盛り込まれていることから、信ぴょう性はかなり高い(これ以外にも記録はあったかもしれません)。多くで、その際「浅間造」となったと考えられている。


  • 湧玉池


湧玉池と水屋神社が描かれている。道者の姿もみられるが、池内には見られない。


  • 社殿


二重楼であり、いわゆる浅間造である。現在の富士山本宮浅間大社に近い形態である。境内に女性の姿も見られる。

境内周辺の馬に乗る者たち
服装からは社人というより、在地の一般民衆のように捉えられる。


川に跨るようにして位置する建造物である。社頭絵図の写(下部に掲載)にも同様の部分に建造物がみられる。

三重の塔
神仏習合を象徴するかのように存在する「三重の塔」である。浅間大社の境内に古来は三重の塔が存在したことは明白で、寛文10年(1670)の社頭絵図にも「三重の塔」がみられる。


護摩堂などもみられるが、例えば1560年の「今川氏真判物」には以下のようにある。

富士大宮司別当領之事(中略)然者社中護摩堂年来断絶之上、…

また位置もほとんど同様であることを考えると、当図を参考にして描いた可能性もある。他、各建造物も比較できるものと思える。

  • 村山周辺



村山周辺はほとんど詳細な描かれ方はされていない。


ここには白衣を纏った道者が数人見て取れる。また緑色?に着色されたような箇所があり、これは水場であろうか。ただこれは大日堂(上の建造物)と捉えるのがすんなり理解がいくように思える。


  • 山頂



阿弥陀三尊である。


全体的には明らかに本宮を主体とした富士曼荼羅図である。また浅間大社の神仏習合を裏付ける史料として、また当時の建築を考える上でも参考となる富士曼荼羅図であると思う。
  • 参考文献
  1. 富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議編 ,『富士山 信仰と芸術の源』,小学館,2009年
  2. 富士市立博物館編,『富士山信仰と富士塚』,2000

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