2013年3月21日木曜日

富士山中にて発掘された懸仏について

以前「静岡県の富士山の神仏像」という記事を書きましたが(将来的に「山梨県の富士山の神仏像」も作成予定)、今回は「懸仏」についてです。懸仏で発見されているものは多々あるが、各登山道や年代から4つの懸仏に絞り紹介したいと思います(すべて山中から発見されたものである)。

  • 銅造 大日如来二尊像 懸仏(須走口六合目で発見、1384年)



古い時代の須走口を史料上にて詳しく示す記録は、実は限られている。その中で1911年に発見されたこの懸仏は、須走口の歴史を示してくれる。この懸仏は、登山道の考察をする際などはほぼ間違いなく名が出てくるほど知られたものである。この懸仏が注目される理由として、登山道中にて発見された奉納物としては最古例にあたり(一・二合目を除く)、至徳元年(1384年)という年代に既に須走口が開かれていたことを間接的に示すからである。多くで、上記のような考え方がなされている。六合目ということから登山道の中盤にあたり、須走口を用いた登拝の際に奉納されたことに疑いはないように思える。「どの登山道が古くから開かれていたのか」については、実は全く判明していない。村山口、須走口、船津口、吉田口それぞれに可能性がある。古記録では村山口に分があるとされることも多いが(事実村山が古くから開かれていたことを示す史料は多い)、その中においてもこの懸仏の存在は無視できないのである。


  • 銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(山頂三島ヶ岳付近で発見、1482年)



山頂三島ヶ岳で発見され、富士山本宮浅間大社に奉納されている。この懸仏については、『富士宮歴史散歩』(本)が参考になる。この著者が発見時に関わっていたため、詳しい記述がみられるのである。本には以下のようにある。

横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…

つまり筆者(氏)の本を読んでいた登山者が注意しながら歩いていたところ、なんと実際に見つかってしまったということなのである。「本願源春」とあり、願主が「源春」なる人物であることが分かる。



  • 銅造 不動明王像 懸仏(吉田口烏帽子岩付近で発見、1482年)



こちらの懸仏にも「本願源春」とあり、願主は「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏」と同様である。そのため、年代が一致しているのである。また双方の銘文に「八体内」とあり、「本願源春」の懸仏として他に6つの懸仏が存在していることも示している。1つは山頂にあり1つは吉田口烏帽子岩付近にあることから、それぞれを散らばって奉納されたと推測される。今も富士山中に存在している可能性が高い(もちろん山中から既に発掘されている可能性もある)。また双方で虚空蔵菩薩像・不動明王像と異なることから、それぞれの懸仏に意味があったと考えられる。この奉納例は独特であり、興味深い。


  • 銅造 薬師如来像 懸仏(大宮口登山道七合五勺で発見、15世紀頃)



薬師如来像の上部に墨で書かれた痕跡があるというが、かすれて判読ができないという。作風などから15世紀頃とされている(『富士の信仰遺跡 富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録』による)。ただ最新の技術でなら判別できそうな気もするので、その時を期待したい。15世紀頃というのはあまりにも広すぎる。


  • まとめ

これからも富士山中から奉納物が発見される可能性はまだまだある。「富士山の自然と社会」には以下のようにある。

また、傾斜は西側にやや急で、東側によりゆるい。これは噴出した火山灰の多くが、この地域に卓越する西南西の強い偏西風のため東側に運ばれるからである。東側でよく知られる'砂走り'などは西側では見られない

つまり、偏西風で火山灰が東に飛び東側で蓄積し、西側と東側で傾斜の差異を生み出すまでになっているということである。たしかに御殿場口には砂走りの区間があるが、富士宮口には無い。であったとしたら、その箇所は表に出にくいのであって、やはりこれから発掘される可能性は多いにあるのである。もちろん、最古例が覆される可能性もある。奉納物という存在は登山道の歴史を間接的に示し、多くの可能性を示すこととなる。奉納物の発見はこれからも多いに期待したい。また1482年の懸仏群がそれぞれに散らばっているとすると、他の登山道が開かれていた可能性を示唆するということになる。既に登山ルートの選択肢は多岐に渡っていたかもしれない。また6つの懸仏をどのようにして奉納したのかということもある。「八体」というのは仏教の「八葉」を意味するものであり、このとき既に峰を八葉とみなす概念が存在していたことを示している。「銅造 大日如来二尊像 懸仏」の例も、深く分析する必要がある。

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館編,『富士の信仰遺跡 富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録』P14-27,2002年
  2. 富士吉田市歴史民俗博物館,『図録 富士の神仏-吉田口登山道の彫像-』P58-59,2008年
  3. 遠藤秀男,『富士宮歴史散歩』,緑星社出版部,1980年
  4. 国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所,『富士山の自然と社会』3-4頁,2002

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