2012年1月18日水曜日

大宮道者坊

右に連なる屋敷群が「大宮道者坊」(『絹本著色富士曼荼羅図』より)※
大宮道者坊とは
浅間大社に隣接する、または境内に位置する富士山の道者向けの宿坊である。浅間神社の社人により管理されていたとされる。『大宮道者坊記聞』に「大宮道者坊ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあるため、16世紀前半には存在していた。
大宮道者坊は大宮の登山口の起点としての性格を伺わせるだけでなく、浅間神社自身が道者相手の諸事を行っていたことが明確にわかる非常に重要な存在である。神社またはそれら社人が宿坊を保持していたということを認識することは重要であり、古来の富士登山の形態を探る重要なポイントである。

個人的には、このように考えられるのではないかと思っている。


地域管理宿坊
大宮浅間神社の社人大宮道者坊
村山村山修験の衆徒・山伏村山三坊
吉田御師住宅御師
川口御師住宅御師

ですから、これは(各地域と比較する際の)「大宮の特徴」でもあるのです。また以下の判物が注目されている。


「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」では以下のように説明している(以下、要約)。
三女坊は辻之坊の支配を離れ、池西坊の支配を受けていたものと思われる。「大宮西坊屋敷」とは表口のもう1つの拠点である本宮の西にあった宿坊(道者坊)であったと考えたい。また本宮周辺の道者坊は本宮社人衆の他に、村山修験からの進出も想定される。
村山修験からの進出があったとして、それが介入という性質なのか提携的なものなのかという点がある。

富士山麓周辺の道者坊の形として、特徴的である。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

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