2011年10月21日金曜日

駿河国富士郡について

律令期の駿河国の郡は7郡ある。志太郡・益頭郡・有度郡・安倍郡・庵原郡・富士郡・駿河郡である。

富士郡の名称の由来は、直接的に示すものがないので不明である。しかし例えば「富士山」という名称は富士郡から由来すると言われる。『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあるのがそれである。「フジ」の由来については多々指摘されているが、山の名称が「富士」となった由来を直接的に説明する文言は『富士山記』のみである。

富士郡の初見は『平城京二条大路木簡』である。天平7年(735年)の木簡3点に

  • 「駿河国富士郡古家郷
  • 富士郡久弐郷
  • 「駿河国富士郡嶋田郷

とある。「富士郡久弐郷」は「富士郡久弐郷野上里大伴部若足調荒堅魚…」と続く。これはおそらく「富士郡/久弐郷/野上里/大伴部若足/調/荒堅魚」と切れる。「荒堅魚」は「カツオ」のことであり、都に納めていたと推測される。「若足」は平城京役人とされる「車持朝臣若足」や「阿部朝臣若足」「江沼若足」「八多朝臣若足」などの人名として古来の資料から見えるといい、「名代」であったと推測されている。

他に古い例として、『東大寺要録巻八』の天平19年(747年)条には「駿河国富士郡五十戸」とある。

この富士郡を支配する一族の富士郡家の所在地については、大きく2つの説があったという。それは「富士宮市大宮説」と「富士市今泉説」である。しかし近年の考古資料などから「富士市伝法付近」であるとされている。これは非常に重要である。そして郡家に関わる土器類は特に注目される。


その中に「布自」とみられる土器がある。「布自」はつまりは「富士」である。富士郡を支配する者が「布自」と書かれた土器を所持していたと考えられる。土器の存在や遺跡の規模などから、富士郡家は9世紀後半までは経営されていたと推定されている。

しかしこの富士郡家は考古学的知見によると10世紀頃に移動をしたと考えられている。その移動先が富士郡大宮である。つまり富士郡の拠点の移動であり、それは浅間神社の祭祀を意識した「祭政一致」であると考えられている。その浅間神社の祭祀を務めたのが富士氏である(そもそも富士郡家を富士氏とする考えもあるようだ、個人的には懐疑的である)。

これはまさに「本格的な富士信仰の始まり」と捉えていいと思う。大きな転機であったと言える。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡-大宮城跡にかかわる埋蔵文化財発掘調査報告書-』P155-182,2000年
  2. 渡井英誉,「富士山の開発と信仰-富士浅間宮の考古学-」,考古学ジャーナル,2000年1月号,P10-15
  3. 告井幸男,「名代について」『史窓 (71)』,京都女子大学史学会,2014

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