2013年1月1日火曜日

浅間大社と富知神社

「富知神社」は富士宮市朝日町に位置する神社である。この神社の特筆すべきはその「名称」と「伝承」である。まず「名称」についてであるが、「富知」という名称は「富士」との関連性を考えなければならない。大きく2つのパターンが考えられ、①「富士」の元の表記・呼称②「富士」の派生の2つが考えられる。どちらかは不明であるが、どちらかであろう。

「富知神社」の伝承を間接的に示す資料はいくつかあるが、まず『古史伝』を挙げてみたい。『古史伝』は国学者として著明な平田篤胤が記したものであるが、そこに「フクチ」への考察が記載されている。



ここでは富士と「フクシ(ジ)」との関係について細かく記している。その流れの中で「富知神社」が出てくる。


「福地権現」と言われる所以として、富士氏に伝わる古記に「福地明神」とあるからだとしている。富士氏はもちろん浅間大社の富士氏のことである。その富士氏の「富士民済」が書いた『富士本宮浅間社記』の記述は重要である。富士民済は第四十一代富士氏当主であり、時期的には江戸時代中期である。「安永の論争」に関わる人物であり、富士山本宮浅間大社の富士山頂の管理・支配はこのとき揺るぎないものとなった。

『古史伝』にある「富士氏の家なる古記」と『富士本宮浅間社記』は同一、または『富士本宮浅間社記』の記述の元となる史料と同一と思われる。双方とも江戸時代によるものなので、そこで「古記」と記すということは、その記述の元となる史料はあったと考えるのが自然である。



『富士本宮浅間社記』では「福地神社の位置した場所に浅間神社が遷宮した」としている。この記述に従えば、元は現在の浅間大社の位置(富士宮市宮町)に富知神社(富士宮市朝日町)が位置していたことになる。たしかに距離的には隣接していると言える。しかしながらあまりに異なる時代の話であるので伝承の域は出ず、真偽は全く不明である。ただしこの記述は、浅間大社の成立を考える上で大変興味深いものである。

追記:
富士山本宮浅間大社の建立を伝える史料として『富士本宮浅間社記』があり、また大同元年(806)に坂上田村麻呂が建立したと記されている。この記述は同社記が初出であると思われていたが、そうではないようである。

元禄10年(1697)の富士山大縁起(富士市立博物館企画展図録『富士山縁起の世界―赫夜姫・愛鷹・犬飼―』のうちNo.41)に

平城天王御宇大同元年丙戌年、樓金銀、建立社頭、奉請浅間、今大宮是也

とある。これは大同元年の富士山本宮浅間大社の建立を指す。そして同記録が成立したのは元禄10年(1697)であるので、それより遡ることができると言うことが出来る。

  • 参考文献
  1. 遠藤秀男,「富士山信仰の発生と浅間信仰の成立」『富士浅間信仰 』P7-11,雄山閣出版,1987年
  2. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(1973年版)P609,名著出版
  3. 平田篤胤 ,『古史伝』三十一
  4. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2012年12月11日火曜日

社家町としての駿河大宮

「大宮」は旧駿河国富士大宮のことであり、現在の富士宮市中心部を指す。大宮は浅間大社を核とする富士信仰の中心地であり、その経緯から浅間大社の門前町として拓かれた。神社付近である門前には社家が家を構えており、この事実から大宮を別の言葉で表すと「社家町」とも言える。

春長坊(宮崎氏)付近の石碑 「社人町中」とある
神社の神職が社人であり、それら多くの社人が門前に住み着いていたからである(代々社人の家柄が社家)。現在は社家町としての光景はほとんど垣間見れないが、大宮は紛れもなく社家町であった。今回は、その部分について着目していきたい。

  • 社人の居住地について
社人はどの辺りに集合していたのであろうか。時代によって変移はあるとは思うが、浅間大社を取り囲む「宮町」辺りであるということは言えるだろう。しかしその中でも以下の通りは注目される。


黒の通り
この通りは現在も直接浅間大社の鳥居と繋がっている通りで、社人町の通りとして注目される。また明治初年の配置は以下のようであったという。



これらの資料から、この通りが社人町の通りとして注目される。この通りに位置した社人として代表的な存在に「宮崎氏」がいる。

  • 宮崎氏
まず以下の御影(御札)を見て頂きたい。
御影(牛玉札の類),「富士の信仰」P322より、江戸期のものと推察される

ここには「宮崎春長坊」とある。これは「宮崎氏が管理する春長坊」と解釈できるのだが、「大宮社中」などとあることから浅間大社の坊であることを明確に意味する。浅間大社の坊というのは「道者坊」であり、道者の宿泊施設であった。それを管理していたのが宮崎氏であり、その道者坊の名称が「春長坊」なのである(少なくとも江戸時代はそう)。いわゆる「大宮道者坊」の1つである。以下で挙げる複数の文書から、古い時代の春長坊の存在が確認ができる。

『戦国遺文今川氏編第二巻』一三六四号文書

これは春長宛てで、弘治三年(1557)のものである。朱印状中の「宇流井河」は今も存在する「潤井川」のことですね。

『戦国遺文今川氏編第二巻』一五六七号文書、「今川氏真判物」春長宛、≈以後省略

こちらも春長宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文言から「春長坊」の存在が確認できる。つまり少なくとも16世紀中盤には春長坊は存在していることになる。「四和尚」は神職のことである。このことから「四和尚」=「春長坊」ということになる(坊の担当神職という感覚)。

『戦国遺文今川氏編』一五七一号文書

こちらは神職「一和尚」の「清長」宛ての文書であり、永禄三年(1560年)のものである。文中に「春長清長両人」とあることや、「一和尚」という神職である事実、人名などから同族のように思える。同じ時代に「春長」「清長」がおり、それぞれ「四和尚」「一和尚」であった。同族で異なる神職であったと考えられる。

時代が下り江戸期の神職の区別においては、「一和尚」・「四和尚」は「総社家」の中の1つとなっている。またそれぞれ「一宮仕」「四宮仕」という名称となっている。「戦国時代-江戸時代」の記録を鑑みると、やはり春長坊の宮崎氏が最も大きいように思える。春長坊の宮崎氏は、伝承では本来「井出氏」であったという。その井出氏の井出長閑が宮崎氏を名乗ったとされる(伝承の域を出ない)。ちなみに春長坊の宮崎氏は、現在の「宮崎ふとん店」(富士宮市宮町)である

米之宮浅間神社
幕末期の春長坊の当主は「宮崎隆三」といい、「駿州赤心隊」に参加したという。その駿州赤心隊の隊長が富士氏の「富士重本」である。富士重本は浅間大社の大宮司である。その後の宮崎家の当主は富士市に転出し、米之宮浅間神社の神職を務めているという。ここでも、富士宮市からの流れが確認できる(一五七一号文書の「富士市本市場」とはそういうこと)。富士市の富士信仰関連は、大変にそういうものが多い。神職を務めている人物に着目することも重要で、例えば「北口本宮冨士浅間神社」(山梨県富士吉田市)の現在の宮司は吉田御師の家系だったりします。また雲見浅間神社の宮司は高橋家の世襲であるという(羽衣出版 『山と森のフォークロア』P96-97)。このように現在の浅間神社の神職が、比較的由緒がある家系の色が強いことを考えると、富士氏が浅間大社の大宮司に復帰しても良いように思える(富士氏は続いているので)。

  • 鈴木氏
「祝子」・「七之宮禰宜」に鈴木氏がいる。鈴木氏の当主「鈴木右京」も駿州赤心隊に参加している。この系譜を引く鈴木氏は、現在も富士宮市に在地しているという。

他も社人は多くいるが、ここでは表記しない。

  • 参考文献
  1. 堀内眞,「富士山麓の近代-宿泊施設を中心に-」,『甲斐』No113,2007年
  2. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第二巻』,東京堂出版,2011年
  3. 浅間神社編,井野辺茂雄「富士の信仰」(富士の研究第3巻),古今書院,1928年
  4. 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,地方史静岡刊行会編